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俳句雑記帳

俳句についてのあれこれ。特に現代俳句の鑑賞。

春の水(はるのみず)

2011年02月27日 | 俳句
 春は雪解によって山々から豊かな水が流れ出し、川や湖や池を潤す。春は雨も多い。冬に涸れた水は一気に豊かになるのである。これが本来の「春の水」であるが、このごろは水であればどんな水でも「春の水」と言うことが多いようだ。たとえば水道水などは人工の濾過過程を経ているのだから季節には関係しない。それも「春の水」としてしまうのはいかがなものであろう。それは(春の)水であって、本来の「春の水」ではない。これを混同することは季語が崩れることになるので注意が必要であろう。春水とも言う。

     一つ根に離れ浮く葉や春の水  高浜虚子(たかはま・きょし)

 引用されることの多い句だからご存知の方も多いだろう。「一つ根に離れ浮く葉」というのだから、これは蓮の浮葉であろう。睡蓮などでも同じことが言えるだろうが、要するに蓮浮葉を説明しているだけである。つづめて言えば「浮葉や春の水」となる。
 この句の季語は「春の水」であるが浮葉は夏になる。季語を並べただけのような句になる、虚子はここで何が言いたかったのだろう。この句を写生句の見本のように言う人もいるが、私にはそうは思えない。「一つ根に離れ浮く」という表現は非常に巧みである。作者の主観を表すような言葉は入っていないが、言葉の選択は極めて主観的である。
 実はこの句を眺めながら10日ほどが過ぎた。今月に入ってから一度もブログを書いていないことにも気がついた。何というサボり方だろう。申し訳ない。
 調べてみたら、この句は大正2年に作られているようだ。大正2年と言えば、
     春風や闘志いだきて丘に立つ
が発表された年である。虚子が小説を離れて俳句に復帰した年である。そのきっかけは河東碧梧桐一派の新傾向俳句の台頭にあった。このまま行けば俳句は滅びるという思いが虚子を突き動かしたのだ。そういう背景があって上記の句が発表された。この背景を知らない者には、大学受験生の句かと思われることであろう。
 「春風」の句と考え合わせると「一つ根」の句がわかるような気がする。「一つ根」とは正岡子規から学んだ俳句である。虚子と碧梧桐は無二の親友であったのだから、たとえ意見を異にしようとも、闘いはあくまでも立場の違いにあったはずだ。「離れ浮く葉」とは二人の象徴であろう。
 お互いに立場は違っても、所詮は春の水の上の出来事である。せっかく栄養豊富な春の水の上に浮いているのに、という思いがあったのではないか。往々にして論争というものは相手の人間性にまで及ぶことはないものである。
 どの程度まで憎み合ったのかは知らないが、文芸論争で人間性までが壊れたという例は聞いたことがない。虚子と碧梧桐の友情は続いていたと思う。お互いに交流することはなかったとしてもである。「春の水」はひょっとしたら友情の象徴かもしれない。ただ、以上に述べたことは私の想像にすぎない。この句には何か寓意があるに違いないと思っていたものだから書いてしまった。それは間違いだと思われる方はぜひご意見を。     

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