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<大阪-観光> 大阪市立東洋陶磁美術館

2023-10-28 06:29:41 | 観光

 「大阪市立東洋陶磁美術館」

 大阪市立東洋陶磁美術館は、大阪市北区中之島一丁目にある美術館。住友グループから寄贈された安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核として1982年(昭和57年)に設立。

 高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝2件、国の重要文化財13件を含む約4000点が収蔵されている。この珠玉のコレクションは、安宅コレクションを中心に、他のコレクションからの寄贈や購入を加えて、徐々にその数を増していったものである。

 安宅コレクションは、大手総合商社の安宅産業および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものである。発端は、近代日本画の速水御舟の作品を収集していた演出家で文芸評論家の武智鉄二が、戦後、武智歌舞伎を立ち上げそれを運営するに当たって、費用を捻出するために自身の所有する御舟の作品を売却し始めたことをかねてから親交のあった英一が知り、作品の散逸を恐れて個人での資金負担が難しいため、安宅産業の役員に相談して、御舟の作品購入のために会社が乗り出す仕組みを考案。1951年(昭和26年)の同社取締役会で、企業利益の社会還元と社員教養の向上のため、美術品収集を会社事業の一環として行うことを正式に決議。以後、御舟の代表作である「炎舞」、「翠苔緑芝」、「名樹散椿」がコレクションに加わり、最終的には日本画30点、素描76点、計106点に上る日本最大のコレクションに成長していく。

 英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、他のコレクターの名品も次々と安宅コレクションに加えていった。その総額は二十数年間で七十数億円にも上る。そのため特に初期には、世間から金にあかせて買いまくっているという批判も強かったが、実際には異なる。あくまで会社のコレクションのため、購入には月々の購入限度額が決まっており、会社の了解を取らねばならなかった。名品が出てきた時には資金を1年先、2年先まで先食いしていたのが実際の所で、これが改善されたのは会社の景気が良くなった昭和40年代後半頃だという。

 安宅産業は1975年(昭和50年)に経営危機が発覚。1977年(昭和52年)10月1日に伊藤忠商事に吸収合併された。

 伊藤忠商事が引き受けない残存財産のうち、2000億円余りを主力銀行の住友銀行(現:三井住友銀行)を含め、取引16行が合併前日に一斉償却した。また残る約3000億円に関しては、合併に先立って、受け皿会社のエーシー産業を1977年4月に設立。この折に鑑定評価額が当時で152億円にもなった約1000点の東洋陶磁コレクションも、ひとまず同社が引き継いだ。なお速水御舟の作品106点は、合併の前年9月に、一括して山種美術館を運営する山種美術財団に購入してもらっている[注 2]。この東洋陶磁コレクションの帰趨については、文化庁をはじめとする関係各方面から、貴重で体系的なコレクションを散逸させることなく、保存に善処を望む要望が数多く寄せられていた。

 そうした要望を踏まえ、1980年(昭和55年)3月に住銀頭取だった磯田一郎は、公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断、大阪市への寄贈を決めた。また市の負担を回避するために、住銀を中心とした住友グループ21社の協力の下、1982年(昭和57年)3月までの2年間に、総額152億円を市の文化振興基金に寄付。市はその寄付金で965件、約1000点のコレクションを買い取ることにした。またコレクションを収蔵・展示するため、市は中之島公園内に美術館の建設を決定するが、その建築資金18億円は、基金への寄付金の積み立てに伴う運用利息で賄った。

 英一の側近の伊藤郁太郎(初代館長)は『美の猟犬 安宅コレクション余聞』で、詳しい経緯を回想している。伊藤によると、英一は経営危機でコレクションへの発言権を失っていく最中に、「会社のためなら、安宅コレクション一切を投げ出してもよいのですよ。それで会社が救われさえすれば…」と漏らしていたという。また、美術館開館後に訪れた英一に、伊藤が「あれほど一生懸命お集めになったコレクションが、人出に渡ってしまって、さぞお口惜しいことでしょう。お気落としになっておられるでしょうね、と慰めて下さる方が多いです。」と言うと、英一は「コレクションは、誰が持っていても同じでしょう」と答え、コレクションがどのような結末を迎えようが、コレクションとして続く限りその価値は変わらないという、英一のコレクターとしての境地を示している。

 寄贈された安宅コレクションは965件で、その内訳は以下の通りであった。

 中国陶磁 144件(後漢2、六朝1、唐23、五代3、宋47、元18、明50)
 朝鮮陶磁 793件(統一新羅時代4、高麗304、朝鮮時代485)
 その他 28件(ベトナム陶磁5、日本陶磁2、中国工芸5、朝鮮工芸10、日本工芸その他6)
 朝鮮陶磁は数も多い上に作風も多様で、今日成し得るコレクションとしては歴史的変遷、陶芸技法による分類の上でもほぼ完全で、私的なコレクションとしては世界第一と言ってよい。一方、中国陶磁については名品主義的で質は極めて高いが、清代陶磁が1点もないなど陶磁史的には不完全である。また、展示公開は厳選主義で行っているため、安宅コレクションは名品ばかりと思われている面もあるが、実際にはあまり人に見せたくない作品も混じっているという。

 1982年(昭和57年)に美術館の開館した後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、特に1999年(平成11年)には在日韓国人実業家李秉昌からの寄贈で、多くの朝鮮陶磁の名品が所蔵された。

*Wikipedia より

 「安宅産業破綻」は「安宅産業事件」とも呼ばれ、世紀の大事件の1つである。

 安宅産業破綻とは、1975年に発覚したカナダにおける石油精製プロジェクトの失敗に端を発する、当時日本の十大総合商社の一角を占めていた安宅産業の事実上の経営破綻と、それに伴う安宅産業の破綻処理である。

 最終的には、1977年に安宅産業が伊藤忠商事に吸収合併されることで解決を見た。第一次オイルショックによる景気後退の只中に経営危機が発覚したため、恐慌を防ぐために政府や日本銀行までが事態収拾に乗り出した。そのため、安宅の破綻処理は「“日本株式会社”の総力戦」「安宅産業の生体解剖」とも呼ばれた。

*Wikipedia より

 「当時日本の十大総合商社」

 戦後、鉄鋼系専門商社と関西系の繊維専門商社が事業領域を拡大する一方、GHQによる財閥解体で解散させられていた三菱商事と三井物産がそれぞれ大合同を果たし、さらに住友商事が新規参入した結果、1960年前後にはいわゆる10大総合商社体制がほぼ成立した。1970年代前半までは三菱商事、三井物産、住友商事、伊藤忠商事、丸紅(丸紅飯田)、日商岩井(日商)、トーメン、ニチメン、兼松江商(兼松)、安宅産業の10社を「総合商社」「十大商社」と呼ぶことがほぼ一般的であった。その後、1977年の安宅産業の破綻と伊藤忠商事への吸収合併や日商岩井・ニチメンの合併(現・双日)といった企業統合が進んだ。また、この間に、大手専門商社であった豊田通商がトーメンを吸収することによって名実ともに総合商社化した。その反面、兼松はバブル崩壊後の経営が悪化し、業容を絞り込むことでその後再建を果たしたが、その代償として事業規模は大幅に縮小することとなった。

*Wikipedia より

 このような数奇な運命を辿った「コレクション」などで構成される展示品たち。

 そういう意味での歴史的付加価値も見どころでは?

 現在、長期休館中。リニューアルは来春予定です。

 


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