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<経産大臣指定伝統的工芸品> 福岡 上野焼

2021-08-23 08:23:55 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「上野焼-あがのやき」

 Description / 特徴・産地

 上野焼とは?
 上野焼(あがのやき)は、福岡県田川郡福智町周辺で作られている陶器です。
 上野焼の特徴は、茶の道具である「茶陶」として発展したため、軽量で薄作りの格調高い風合いを持つ点です。底にある高台(こうだい)が高く、裾広がりになった撥高台(ばちこうだい)の形をしています。また、緑青釉(ろくしょうゆう)、鉄釉、藁白釉、透明釉など使用する釉薬の種類が多く、一つ一つの器が色彩や肌合い、光沢、模様など多種多様である点も上野焼の特徴の一つと言えます。
 上野焼の代表的な釉薬は、酸化銅を使った緑青釉で鮮やかな青色が魅力です。鉄釉を使った陶磁器は赤茶色の光沢のない仕上がりになり、虫喰釉では素地に虫喰のような粒が一様に並んだ個性的な風合いに仕上がります。
それぞれの器が千差万別ながら、入れるものの素晴らしさを引き立てる共通の趣と気高さを誇っています。

 History / 歴史
 1602年(慶長7年)、千利休に茶道を学び茶人として名高い小倉藩主・細川忠興が、李朝から陶工の尊楷(そんかい、のちに上野喜蔵高国と改名)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まりと言われています。
 細川家の30年という短い統治の間に、上野焼の基礎は確立されました。1632年(寛永9年)、尊楷は細川家の国替えに従い肥後熊本へ移るものの、子の十時孫左衛門らが上野に留まり次の藩主・小笠原家のもと上野焼を継承しています。
 江戸時代中期には尊楷が築いた登り窯は、徳川家茶道指南役である小堀遠州(こぼりえんしゅう)に「遠州七窯」のと一つとして称賛されるほどとなり、世に広く知られるようになりました。その後も、尊楷の登り窯は小笠原家が統治する幕末まで歴代藩主の御用窯として重用され続けました。
 明治時代に入ると、廃藩置県により藩が消滅し一時、上野焼は衰退したかと思われましたが、1902年(明治35年)、熊谷九八郎らにより田川郡の補助を受け復興されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/aganoyaki/ より

 匠の技と炎の芸術、上野焼
 上野(あがの)の陶器は、職人の匠の技で土と釉薬(ゆうやく)が一体となり、窯の中で炎(ほのお)に命を与えられる。静かに座る器は、見る人を品と侘(わび)、寂(さび)の世界へ誘う。

 
 上野焼は茶道から
 上野焼の伝統工芸士、高田湖山(たかた こざん)さんの高田窯(たかたがま)は、福智山麓ののどかな山あいにある。豊前小倉藩三十七万石、細川忠興(ほそかわただおき)候に始まり、小笠原宗家(おがさわらそうけ)の礼法を受け継いできた上野焼窯元の中でも、高田窯は、小笠原宗家の御指定を受け、一年を通して茶人が訪れる。
 茶通でなくとも、高田さんの座敷をひとたび訪れた人は、まず、湯呑みを手に取り、そのしっかりした土の質感に比べ、器がとても軽いことに気づく。作品にこめられた作家の一念は、見る人を茶道と礼法の世界に誘(いざな)う。大小の器を見ながらひととき過ごした後には、上野焼の魅力から離れられなくなるに違いない。


 土と釉薬(ゆうやく)
 大正12年生まれの高田さんは、戦後、復員して上野焼の世界に入った。最初は「少しの間、職が決まるまで、3年手伝うだけ」と思っていたのが、10年になり、昭和30年に独立。作品が評判をよび、現在は上野焼伝統工芸士会長をつとめる。
 陶器の基本は「土さがし」といわれる。釉薬の調合を変えることで、上野焼のバリエーションができる。良質の粘土と、釉薬に使われる鉄釉、銅釉、わらを燃やしてできた灰釉が、匠の技により上野焼の美しさを作り出す素になる。
高田さんは、よい粘土と釉薬の素になる鉄を見つけるために、労を惜しまずあちこち歩いて回る。「粘土のすき間に、酸化鉄の黒い層を見つけたときは胸が踊ります。思いもよらない拾い物をすることもあるし、焼いてみたら意外につまらなかったりすることもあります。すべては自然の恵みです」と高田さんは話す。


 匠の技と炎が芸術品を生み出す
 上野焼は、型ものを作らない。長年の修練に裏打ちされた匠の技が、蹴ろくろで形をつくり、釉薬と焼成により品と侘(わび)、寂(さび)を生み出す。
窯焚きの季節は、冬。11月から12月の寒いときのほうが、温度の上昇があり、火の力が激しい。夏は温度が思うように上がらないことがある。冬のほうが失敗が少ないのだそうだ。
 窯焚きが始まると、高田さんは、丸2日間、窯のそばを離れない。窯の傍まで運んでもらったおにぎりをほおばり、仮眠を取り、熱気を体で感じながら、具合を見る。熱気で顔に火ぶくれができると追い込みをかける。

 窯変(ようへん)の魔術
 焼成の方法には、炎のあるうちに薪を追いくべする還元焚き(かんげんだき)と、熾(おき)の力を利用し時間をかけて焚く酸化焚き(さんかだき)の2種類がある。
 還元焚きは難しく、高田さんほどの作家でも、失敗することのほうが多い。わざわざ山口から運んできたトラック1台分の薪を使い、失敗する危険を冒しても、なおこの方法で焚くのは、時に、釉薬と炎が想像もつかないような美しい色と模様を描くことがあるからだ。
 偶然ともいえる窯変を求めて、以前は年に3~4回、窯を焚いた。今は年に1回。丹精こめた器が会心の作品として焼きあがってきたとき、高田さんはそれを「火の神様がやってきた」と表現する。


 近年の上野焼の変遷
 高田さんが修行に入った昭和21年ごろは、戦後の貧しい時代。世の中は食べ物優先で、ぜいたく品とされる焼き物の出番はなかった。昭和45年~55年ごろには、高度経済成長に伴い、状況が一転、どの客も競って器を買っていった。釉薬や土が簡単に手に入るようになり、三軒しかなかった豊前・上野(あがの)の窯元は、今では28軒にまで増えた。上野(あがの)の名前がつけば客が買うようになった。
 しかし高田さんは、現在の状況に、あえて苦言を呈する。伝統の技を習得するには、修行は少なくとも3年。修行の間に人間ができる。親方に見初められ、10年経って看板を上げさせてもらう許しが出て、やっと一人前。そうして作家は、生涯をかけて上野焼400年の心を器に表現していく。「窯元の看板はそう簡単には上がってはならんのです。今は、ある程度できれば窯元になれる。若い人は仕入れたものを使う。これでは伝統とはいえない。世間がもっと厳しゅうならんと」。苦労して一流作家となった高田さんのことばに、上野焼の凛とした美しさが重なった。


 こぼれ話

 茶道、礼法と上野焼(あがのやき)

 豊前小倉藩三十七万石・茶道の細川候に始まった上野焼は、藩窯として栄えました。茶人・小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、17世紀の王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という、幽玄・有心の茶道を作り上げました。上野(あがの)をはじめ、丹波、信楽、高取など「国焼」の茶陶の指導に偉大な足跡を残し、遠州ゆかりの茶陶産地は「遠州七窯(えんしゅうななかま)」とよばれるようになりました。細川候が熊本へ移封、小笠原忠真候の入封後も、「小笠原といえば礼法」といわれる小笠原宗家の礼法を大切に受け継ぎながら、上野焼は、作家の丹精こめた作品によって和のこころを伝えています。

*https://kougeihin.jp/craft/0423/ より


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