「プッチンプリン」
プッチンプリン(英: Putchin Pudding)は、江崎グリコが製造・販売するチルドカップのプリンである。1972年(昭和47年)にグリコ協同乳業(のちグリコ乳業)から発売された『グリコプリン』を前身とする。1974年(昭和49年)にリニューアルとともに『プッチンプリン』の商品名に変更し、テレビCMの効果もあって大ヒットした。
容器の底にある「プッチン棒」と呼ばれるツマミを折ることでプリンが皿の上に滑り落ちる仕組みが最大の特徴であり、その楽しさが魅力となっている。発売50年を超えるロングセラー商品であり、2022年(令和4年)現在もトップシェア、日本のプリンを代表するブランドである。
なお、2015年(平成27年)10月1日にグリコ乳業は江崎グリコと合併し、江崎グリコが存続会社となったため、以降は江崎グリコから製造・販売されている]。『カフェオーレ』『朝食ヨーグルト』『ドロリッチ』とともに、旧グリコ乳業の主要ブランドの一つであった。
特徴
底のツマミを折って中身を皿に出すことができることが最大の特徴である。これによって喫茶店などで提供されているプリンと同様カラメルソースが上になり、ひと口目からプリンとカラメルを同時に食べることができる。同業他社の商品にはないプリンが「プルルン」と皿に滑り落ちる楽しさが子どもの人気を集め、一躍トップブランドになった。容器に充填する際は、液体のままのプリン液をまず注ぎ、そのあとカラメルを注ぐ。カラメル液の比重が重いため下にたまる。練乳も加えられ、蒸さずに冷やして作られる。
味は、シュークリームを手本に再現したカスタードクリームのコクと味わい、練乳とバニラの風味が特徴とされる。食感は、それまでの通常のプリンより柔らかく「プルルン」としたのど越しのよい食感となっている。味の基本は1974年(昭和49年)のリニューアル以来維持しているものの、時代にあわせて甘さやコクなどを調整している。2022年(令和4年)のリニューアルでは、以前から使用していなかった保存料と人工甘味料に加えて、着色料も不使用としている。『植物生まれのプッチンプリン』では、それらに加えて乳化剤とカラメル色素も不使用とした。
ツマミを折ってプリンを容器から出す構造がネーミングにも反映されているものの、江崎グリコが2022年(令和4年)に行ったキャンペーン「プッチンプリン国民投票」では「プッチンする派」の43.5 %に対し「プッチンしない派」が56.5 %と上回った。2003年(平成15年)にはグリコ乳業商品開発第1特別グループの阪本健二が「いまではお皿にあけて食べる人が10人に1人しかいない」とも述べている。しかし「わくわく」感を演出するためには必要な構造と考え、コストがかかっても続けているという。グリコの研究員による官能検査で両方の食べ方の比較がなされており、ここでは「プッチンするのがおすすめ」と報告されている。
ラインナップは、ひと口サイズの『ちょこっとプッチンプリン』から380グラム (g) の『Happyプッチンプリン』など幅広く展開されている。2020年(令和2年)には、卵や乳を使わない、植物由来の原料のみを使用した『植物生まれのプッチンプリン』を発売している。これらのほかにも、2006年(平成18年)の『Happyプッチンプリン』の発売以降、グリコ乳業では、『プッチンプリン』の楽しさと驚きを提供するための「ブランド全体の活性化」施策として、定期的に話題性の高い商品を投入してきた。
なお、最終的には保安検査場の検査員の判断となるが、プリンは液体物とされているため100ミリリットルを超える『Bigプッチンプリン』は国際線の航空機内には持ち込めない。
歴史
背景
プディングの発祥
日本でプリンと呼ばれることになるプディングの発祥については、一説では1588年の英西戦争後に覇権を握ったイギリス海軍の艦上であったと言われている。航海中の限られた食糧を無駄にしないために、余りもののパン屑や小麦粉・肉片・脂身・ナッツ類などを卵とともに味付けしてナプキンで包み蒸し焼きにしたのが始まりとされる。16世紀後半から17世紀初頭に、船員たちが家庭に持ち込んでイギリス中に広まったとされる。
一方で、プディングの発祥は古代にまで遡れるともいわれる。古くはホメロスの『オデュッセイア』に、豚の胃袋を用いたプディングが登場する。これはソーセージのようなもので、当時は、解体された動物の肉や脂身などをパンや米などと混ぜ合わせ、その他のさまざまな食材やハーブ、香辛料などとともに胃袋や腸に詰めたものが、茹でたり焼いたりして食べられた。こうしたプディングは、血液を含むブラッドプディングや含まないホワイトプディングなどとして伝わっている。
いずれにしても、今日のプリンにつながる菓子としての甘いプディングは、イギリスにおいて隆盛した。ジョージ1世が好んだことで広まったとも言われている。米、パン、プラムなどさまざまなフィリング(具材)を用いたプディングが考案され、ドライフルーツやナッツをふんだんに使いラム酒を加えるクリスマスプディングは、イギリスではクリスマスに欠かせないデザートとして今日まで受け継がれている。
イギリスからフランスに伝わったプディングは、菓子の本場でもデザートとして定着する。1828年にはアントナン・カレームが著書の中でプディングのレシピを紹介している。そして、フィリングを徹底して排除した卵液のみで作るカスタードプディングが考案されたのも、このころのフランスであったと考えられている。これはのちに味覚を補うためにカラメルソースをかけて供されるようになった。
日本伝来
プディングが日本に伝来した時期については、江戸時代初期とする説がある。平戸のオランダ商館で食べられていた可能性が指摘されているほか、元禄2年(1689年)に完成した唐人屋敷の中国人経由で伝わったとも言われている。卓袱料理のうちの茶碗蒸しがそれであるという。これには異論もあり、茶碗蒸しはプディングとは関係なく日本で独自に生まれた料理であるとする見解もある。卵のタンパク質の加熱凝固作用を利用した茶碗蒸しは、プディングの一種である。また、天明5年(1785年)に刊行された『万宝料理秘密箱』で「冷し卵羊羹」が紹介されるなど、日本では江戸時代から卵を使ったプリン様の料理が食べられていた。
一般的にはプディングが日本に伝来したのは江戸時代後期から明治初めと言われている。文久2年(1862年)に「クラブホテル」、翌文久3年(1863年)には「アングロサクソンホテル」というイギリス人経営のホテルが、1860年代にはフランス人サムエル・ペール(サミュエル・ピエールか?)による洋菓子店が、ともに横浜に開業しており、これらでプディングが提供されていた可能性は高い。なお、サムエル・ペールの洋菓子店には、明治3年(1870年)に大膳職にあった村上光保が派遣されて西洋料理を学んでいるため、日本人として初めてプディングを作った可能性がある。
プディングが日本語の文献に最初に現れるのは、明治5年(1872年)発行の『西洋料理通』においてである。ここでは「ポッディング」と表記され、干柿・生姜・米などを用いたメニューが紹介されている。『西洋料理通』の後はしばらくプディングを取り上げた文献は現れず、1889年(明治22年)になって『和洋菓子製法独案内』で、パンとバターを使った「パンバタプリン」、「ライスプリン」など複数のメニューが掲載されている。これが、Puddingにプリンの読みをあてた初出とされる。
その後、プディングは急速に普及し、多くの文献に記述が見られるようになる。夏目漱石のロンドン留学時(1900年から1902年)の日記に「プッヂング」「プヂング」として[45]、「江戸甘味處つくし」に残る1901年(明治34年)のレシピに「西洋風茶碗蒸菓子」として、1903年(明治36年)のベストセラー『食道楽』に「プデン」として、同じく1903年(明治36年)の『洋食のおけいこ』では「プッジング」として取り上げられている。また、1908年(明治41年)発行の『海軍割烹術参考書』でもワッフルなどとともに掲載されている。
明治時代まではPuddingはさまざまに表記されていたが、しだいに呼びやすい「プリン」表記に収斂されていったと考えられている。また、さまざまなプディングが紹介されていたが、大正以降は『趣味と実用の西洋料理』で「ベイクドカスタード」、『欧米の菓子と料理』で「ボイルドカスタード」と「キャラメルカスタード」、『お菓子の作り方百卅種』では「カスター・プリン」としてカスタードプディングが紹介されるなど、いつしか日本ではプリンと言えばカスタードプディングを指す語として広まっていった。
開発
開発当時の状況
1952年(昭和27年)、砂糖の統制が撤廃され日本の菓子業界は活性化したが、1950年代ごろまでプリンは外食のデザートとして供されるか町のケーキ店での販売、あるいは一部の家庭で楽しまれるにとどまっていた。
1960年代になると、一般家庭でも気軽にプリンが作れる即席プリン(「プリンの素」)が発売された。1960年(昭和35年)に明治製菓が発売した即席プリンは半年で発売中止となったが、1963年(昭和38年)にゼネラルフーヅが粉末プリンの『バニラ・プディー』を発売し、翌1964年(昭和39年)にはハウス食品工業が、家庭でもプリンが手軽に作れる“プリンの素”である『プリンミクス』を発売。この商品が家庭で食べるプリンの普及の契機となった。同年には、ライオンからも『ママプリン』が発売されている。
この間、プリンを提供する洋菓子店や喫茶店も増え、1962年(昭和37年)にはモロゾフが持ち帰り用のプリンを発売。陶器製の容器から皿に移すことでカラメルが上になるプリンが家庭で楽しめるようになった。ただし皿に移すことなく食べられているケースも多かった。1968年(昭和43年)には、それまで職人の手作業で作っていたプリンを、工場で生産するようになった。
そして、1971年(昭和46年)に日本初のチルドカップのプリンとして、森永乳業から『森永プリン』が発売された。これらによって1970年代にプリンは、家庭で手軽に食べられるおやつとなり、日本の国民食とも、ショートケーキとシュークリームに並ぶ日本の洋菓子の御三家とも呼ばれる地位を築きつつあった。
開発の経過
グリコ協同乳業では1970年代に入り、プリンの素がよく売れていること、自社にはデザート商品としてのプリンがないことなどから、プリンの商品化を企画したが、当時は小売デザート商品としてヨーグルトに力を入れていたこと、すでにプリンの商品が他社から出ていたことなどから、社長は開発に反対した。同業他社が参入しているジャンルにわざわざ乗り込んでリスクを冒すより、主力商品のヨーグルトに専念した方が良いという判断であった。それでも開発チームはあきらめず、グリコらしい他社にはないプリンを開発して経営陣を説得しようと開発を続けた。
喫茶店などで提供されるプリンは皿に乗せられて提供されており、消費者にも「プリンは皿にのせて食べるもの」という意識が定着していることが調査で明らかになっていた。開発チームは、なじみのある形で食べてもらおうと、簡単に取り出せる容器の開発を模索した。洋菓子店でゼリーを型から外す際にアイスピックで穴を開けているところを見たのがヒントになり、底に穴を開ければ空気が入って皿に落ちることに気付いた。しかし、家庭でアイスピックを使えというのは現実的ではなかった。そんな折、底のツマミを折ると穴が開く仕組みの容器が倉庫で発見される。過去に、海外に出張した社員が持ち帰っていたものだった。早速、それを基に試作品を作ってみたものの、ツマミが折れても穴が開かないなど、なかなか思い通りの容器にならなかった。試行錯誤を繰り返す中で、偶然穴を開けるための底のくぼみとツマミの位置がずれた不良品が発生したが、むしろずれていた方がツマミが簡単に折れ、きれいに穴が開いた。
こうして、プラスチック製の容器の底のツマミを折ることにより空気を入れ、中身を容易に皿に落とせる形の容器が開発された。社長が当初反対したことで先行の他社製品との違いを明確にすることができた。経営陣からも商品化が認められ、グリコ協同乳業では1億円以上をかけて充填機を新たに購入。1972年(昭和47年)7月に『グリコプリン』として発売された。価格は100 g入りで50円であった。
*Wikipedia より
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます