大分発のブログ

由布・鶴見やくじゅうをメインにした野鳥や山野草、県内四季折々の風景などアウトドア写真のブログです。 

トリカブト

2019-09-16 20:54:30 | 季節の花と山野草
由布岳山麓


エゾビタキがいました。


森を歩けば、フシグロセンノウ、ヤマホトトギス、キバナアキギリ


ミズヒキ、ゲンノショウコ、ヤマホトトギス


シギンカラマツ


レイジンソウ


タンナトリカブト








帰りに寄り道して大分川の彼岸花。鳥はキセキレイがいただけ。



2019.9.15

昨年の記事から、登山道のサイヨウシャジン、キリシマヒゴタイ、イヨフウロ、シラヤマギク


タンナトリカブト


ホソバノヤマハハコ、フクオウソウ

2018.9.18

再び山麓でエゾビタキ


オオバショウマ、キバナアキギリ、フシグロセンノウ


レイジンソウ


タンナトリカブト

2018.9.22
























サワギキョウほか

2019-09-16 09:18:52 | 季節の花と山野草

カワミドリとツリフネソウ


湿原でミミカキグサ


ホザキノミミカキグサ


シラヒゲソウとチョウセンスイラン


サワギキョウとミゾソバとシロワレモコウ


サワギキョウ


この場所では初見のヤマドリとホオアカ

2019.9-15

サワギキョウ、シラヒゲソウ、カワミドリとヒメシロネ


コケオトギリ、ミミカキグサ、ホザキノミミカキグサ、サワトウガラシ

2018.9.8

チョウセンスイラン、サワトウガラシ、モウセンゴケ

ミヤマウズラ
2017.9.13














心身問題と縁起の法

2019-09-12 19:34:12 | 心の哲学・心身問題
 仏教といえば「悟り」の宗教ですが、その悟りの内容を簡潔に説いたとされるのが縁起の法です。難しい命題ではないので覚えていれば役に立つものです。経典によれば、ブッダは縁起について次のように語っています。
   

 縁起の法

“私の悟った縁起の法は、深くして微妙であり一般の人々の知り難く悟り難いものである。” 
 (南伝大蔵経12巻、234頁)

 またこの縁起の法は、

“これは私の作ったものでも、また誰かの作ったものでもない。私が世に出る出ないに関わらずにこれはこの世界の真理なのである。私はこの法を自ら悟ったのであり、正しく理解したのであなたたちにも“見よ”と示すのである。

 縁起を表現する有名な詩句として、「自説経」では、 

“此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。”と説かれています。
 (自説経1, 1-3菩提品)

この縁起の法を心身問題に応用すれば次のようになります。

 身体があれば心があり、
 身体がなければ心がない。
 身体が生じれば心が生じ
 身体が滅すれば心が滅す。

 「心身一如」という言葉がありますが、これは身と心は一つであり、互いに分けてはならない、との意味です。

 二つは盾の両面で、その表は、裏から引き離せない。逆もまた真で、どちらかを片方から切り離すと、盾は消えてしまいます。じつにこれは不可能です。この不可能は観念的には可能にできても、現実にはそれは不可能です。身と心は観念化されたイメージなのです。

 なお、縁起における「心身」は有ると無いだけではなく生じたり滅したりするものなので西洋の「実体」の概念とはまた違ったものです。




心は実在しない

2019-09-08 22:12:07 | 心の哲学・心身問題

 鈴木大拙は日本の禅を世界に広く普及させた仏教学者です。その鈴木大拙の「禅選集」から心身問題に関する記述を3つ選びました。
   
 鈴木大拙

 心は実在しない

 禅は実在としての心の存在を強く否定する。しかし、この否定は、知的判断の結果ではなくして、実際の経験にもとづくのである。

 精神や思想や物質の二元論的観念は、人間意識を毒して、自己をほんとうに理解することを妨げてきた。

 このために、禅は「無心」を主張することきわめて強い。これを論理的に主張するのでなく、事実として主張するのである。「心」という観念に執着する意識の痕跡をぬぐい去ってしまうために、禅は種々な実践的な方法をもちいる。
  禅選集3「悟り」より


 身と心は抽象

 私たちは身体と精神というようなものを区別して、それが別々の個在であるかのように語るが、事実の上では心も身も一種の抽象で、そんなものが個として別在するわけではない。

 ただ、一般的に実用向きに話して便利がよいので、昔からそんな風に見てきただけのことである。これが心で、あれが身だといって、別個の実体を認めるのは、まだ深く考えない結果である。われわれはいずれも無始劫来といってよいほどその迷夢からさめないでいる。

 われらの経験事実そのものには身も心もない、主観も客観もない、我も非我もない。これらはいずれも反省の結果である、再構成である。分極化である

 身と心は概念上、分別上においてこそ、二つの個在と見られるが、経験事実の上では何と区別すべきではないのである。

 話の上で身と心とを分けると、はなはだ便利なので、俗世間のみならず、少し理屈をいうときでも、身といい心というのである。が、これがため、起こさなくてもよい疑問が起こって、かえってそれに迷わされることが多いのである。

 たとえば死んだらどうだとか、身は腐朽するが、心はどこへ行くかというような疑問、これらは最初の第一歩を踏み出し損ねたので次から次へ疑いの雲は重なるばかりで、なかなか晴れないのである。  
  禅選集5「禅百題」より

 未分化の場所

 人間の世界は合理性によってつくりかえられていて、そこには事物がつねに対立し、この対立によって人は考え、その考えが逆に投影されて一切の経験界となり、したがって、両断されたこの世界は無限に倍加していく。禅の方法は論理的ないし哲学的方法に正反対の全く異なったコースをとる。すなわち一切のものが分起する以前の内的自己に還れというのだ。

 普通、人は究極の安息所をもとめるために自己自身から遠ざかってゆくものだ。歩き続けてついに神に到着するが、禅の道は逆に進む。つまり前に進まず、後方に進む。

 その道は混沌とした未分化の場に到達する、禅は一切の二分作用というものがまだ萌芽せぬ以前の世界を見るのである。
    禅選集3「悟り」より