大分発のブログ

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仏を観るための経典

2020-09-07 18:28:00 | 仏教の大意
 仏を観るための経典
 (観無量寿経
   
 あなたは知っているだろうか。アミダ仏のおられるその国が、ここから遠くないということを。あなたは精神を集中し、その国を観想しなさい。そうすればやがてあなたは鏡に自分の顔を映して見るようにその清らかな国を見ることができるであろう。

国宝「日想観図」平等院鳳凰堂

 日想観 

 生まれつきの盲目でないかぎり、すべての人は西に沈む太陽を見ることができる。さあ、西に向かってすわりなさい。西を見てやがて沈む太陽が太鼓のように空にかかっているのをしっかりと見すえなさい。

 そして太陽を見たあとでその映像が眼を閉じていても眼を開けていてもありありと想い浮かべることができるようになさい。これが最初の瞑想[日想観]である。

 水想観

 日没の太陽のイメージをしっかり固定できたなら、つぎは水に心を集中させなさい。

千住博「浄土の滝」

 水の澄みきった透き通ったさま、その清らかさをはっきりと眼の前に見ることができるようになさい。これが第ニの瞑想「水想観]である。

 地想観

 このようにして水を見た後、あなたはその水を氷のイメージに変化させなさい。氷が輝き、透き通っていて瑠璃色をしている・・・そのイメージのまま大地を見れば、大地は瑠璃からできていて、内も外も透明で光り輝いて見えるであろう。


 その大地の下では宝石が光を放ちその光が大地に反射してまるで百億もの太陽が輝いているようだ。そして瑠璃の大地の表面には、黄金が帯のように張りめぐらされ美しく明瞭に区画されている。このようなイメージがつくりだされたら、その一つ一つをさらにくわしく瞑想しなさい。


 そして、その映像が、眼を閉じていても眼を開けていても、決してなくならないように気をつけてなさい。眠っている時以外は、いつでもこのイメージを、ありありと想い浮かべることができるようにするのである。これができるようになれば、この人は西方浄土をおぼろに見た人と呼ばれる。ところがさらに進んで「サマーディ」の状態に達した人は、この浄土をさらにはっきりと見るのだが、これは、とても説明しつくせない。これが第三の瞑想[地想観]である。

 樹想観

 あの国の大地をイメージできたらつづいて美しい樹木をイメージしなさい。


 この花は淡い光を発したがいにふれあい、連なっている。風に吹かれると優雅にクルクルと回り黄金の光の輪をつくる。それはまるで旋火輪のようである。


 他にもさまざな樹木があるがとても言い尽くせない。あなたは幹、茎、枝、葉、花、果実を観想し、それぞれの映像をはっきりと想い浮かべることができる。これが第四の瞑想[樹想]である。

 八功徳水想

 つぎに広い池をイメージしなさい。その国には多くの美しい池があり池の中にはハスの花が咲いている。

 国宝平等院鳳凰堂とモネのスイレン

 そして花の間には水が流れていて、心地よいメロディを奏でている。それらはすべて仏の教えを伝えそのすばらしさを讃えているのだ。このようにイメージすること、これが第五の瞑想[八功徳水想]である。

 総観想

 水の奏でるメロディに重なって、天上からも美しい音色が聞こえてくる。


 
 天人の楽器が空中に浮かび自然に鳴るのだ。このようなイメージに達したらほぼあの国のすべてを見たと言えるであろう。これが第六の瞑想[総観想]である。

 さて、ここまで来たあなたは仏のお姿を見なければならない。その仏のお姿を見たいと思うなら、次のようにしなさい。
 
 花座想

 まず美しく輝くハスの花をイメージしなさい。


 そのハスは花びらの一つ一つが微妙な色彩を持っている。その花びらには多くの脈があり、まるで天の絵のように美しい。またその脈から、さまざまな光が出ていて、その光の一筋一筋まではっきりと見ることができる。ハスの花一つ一つが光明を発しているのである。



 このハスの台はまるで天の宮殿のようである。その宝石のような光はいたるところであたりを輝かしている。このようにハス花をイメージすることができれば、これが第七の瞑想[花座想]である。

 このようなすばらしい花は、もともと自然の力によってできたものではない。これは仏の力によるものである。だからもし仏を見ようとするなら、まずこのハスの台座に注意をそそぐのである。ただしこの瞑想を行うときには、これ以外の雑多な瞑想をしてはならない。その花びらの一枚一枚、光の一筋一筋、台座の一つ一つを正しく想い描いて、鏡の中の自分の顔を見るようにそれらをみなはっきりと見なければならない。この瞑想を成しとげたなら、長い間の迷いのもとである生死の罪が消えて、必ず極楽世界に生れることができる。これが正しい瞑想であり、そうでないならすべてあやまった瞑想である 。花の座の瞑想が終わったなら、つぎには仏そのものを瞑想しなさい。

 像想観

 仏を見ようとすれば仏は現れ見ようとしなければどこにもいない。だからこの心が仏なのである。この心が仏を生じるのだ。仏の美しいお姿があなたの心にいっぱいになればあなたの心はそのまま仏の美しさで満たされるのだ。その時、その心が仏となり、その心がそのまま仏なのである。

  国宝阿弥陀三尊像
 
 だからひたすら一心に、目覚めた方、聖なる方、仏を瞑想しなさい。仏を見るにはまずその身体を瞑想するのである。目を閉じていても開いていても、紫金色に輝く仏が、ハスの花に座っているようすを常に想い浮べなさい。

 こうして仏がハスの花に座っておられるのをイメージできたなら、心の目が開いて、あなたはあの仏の国土の美しいようすをはっきりと見ることができるだろう。これが第八の瞑想[像想観]である。

 一切色身想

 以上のような瞑想を通じて心の眼が開いたら、あなたは仏の心も見るだろう。仏の身体と仏の心とは別々ではないからだ。仏の心とは大いなる慈悲の心である。全世界を自分自身とし、すべてを包みすべてをはぐくむ心である。

 
 この瞑想に達したなら、あなたは顔と顔とを合わせて仏を見るであろう。これが第九の瞑想[一切色身想]である。

 仏を観る者は
 本来の自己を観る者、

 本来の自己を観る者は
 仏を観る者である。 
     「観無量寿経」より



二種の知識/鈴木大拙

2019-08-03 22:49:16 | 仏教の大意
 二種の知識

 われわれが真実を知る仕方に二つの種類がある。その一つはそれについての知識であり、も一つは真実そのものから出てくるものである。「知識」を広義に用いれば、前者を可知的知識、後者を不可知的知識ということができると思う。

 知識が主体と客体との関係であるとき、これは可知的であるが、ここでは、主体が知るもの、客体が知られるものとなる。この両立が存するかぎり、これに根拠を置く一切の知識は公共の所有であり、誰でもこれをもつことができるから可知的である。

 逆に、知識が公共的でなく、他に分け与えることができないという意味において厳密に個人的となる場合、これは不知的または不可知的となる。不知の知識は内的経験の産物である。ゆえにそれは全く個人的でありしかも主観的である。

 しかしこの種の知識の妙な点は、この知識をもった者は、その個人的性質にもかかわらず、その普遍性を絶対に確信しているということである。彼は、誰しもこれを具有しているが、しかし誰もがこれに気づかぬということを知っている。


 相対的と絶対的

 可知的知識は相対的であるが、不可知的知識は絶対的であり超越的であって、そして理念の媒介というものを以てしてはこれを伝えることができない。

 絶対的知識とは主体者が自己と知識との間になんら介入物を挿しはさまずに己れ自ら掴むという知識である。主体者は自己を知るために主と客といったものに自己を二分しない。これを内的自覚の状態といってよかろう。この自覚は奇妙にも人間の心を不安と怖れから解放する力をもっているのである。


 般若直感

 不可知的知識は直感的知識である。しかし般若直感は知覚作用としての直感とは全然違うものである。知覚としての直感の場合には、見るものと見られるものとがあって、それらは分けられるもので、事実分かれていて、一方が他に対立している。この対立した二つのものは相対性と差別の領域に属するものである。般若直感は単一性と同一性のところにある。それは倫理的直感でもなく数学的直感でもない。

 般若直感の一般的性格付けをするならば次のようにいいえる。即ち、般若直感は派生的でなく原始的である。推理しうるものでも合理的でも、媒介によるものでもなく、直接で、無媒介で、非分析的で、最も完全なものである。

 認識によるものでなく、象徴的でもなく、目的的でもなく、単にただ現れて出るものだ。抽象でなく具体に、過程・目的としてではなく、事実として究極的で、これ以上のものはなく、還元することのできぬもの、永遠に無に帰するものでなく、無限に含んでゆくものなどである。

 鈴木大拙全集第12卷 「胡適博士に答う」より