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華の会

日本文化を考える

十五夜と十三夜

2005年09月17日 | 文学
9月17日の夕方の空には明日の十五夜に
負けない位きれいな月が出ていました。
暑さ寒さも彼岸までの言葉のとおり、
この二・三日、東京も涼しくなり、
毎日、クーラーを点けていたのが嘘のよう、
彼岸花もまだ赤い花は開いていないけれども、
薄緑色の筆のような姿の蕾を何本も見る事が出来ます。

ここで河竹黙阿弥作「三人吉三」のお嬢吉三のセリフから

  月もおぼろに 塵まみれ、ネオンも霞む 秋の空
  つめてえ風も ほろ酔いに、心持ちよく うかうかと
  浮かれ烏がただ一人、ねぐらへ帰る 道すがら
  ちょと立ち寄り 生ビール、こいつがあるから生きられる

  ほんに明日は十五夜か

  西の空より 闇のなか、落ちた夕日は厄落とし
  泡のしぼんだ生ビール,グイと一杯 飲むうちに

  これで,明日は縁起がいいわえ、

河竹登志夫先生、ごめんなさい

『十五夜』というのは旧暦8月15日の満月の日で
その28日後の旧暦9月13日の名月の日を『十三夜』と言います。
今年の十五夜は9月18日(日曜日)で、
十三夜は10月15日(土曜日)、満月の日は10月17日です。
今年の10月17日の満月の晩には夜8時半頃から始まり、
9時頃には欠ける部分が最大6.8%という部分月食があります。
8月15日の十五夜の満月にたいして、
十三夜の名月は「後の月」「豆名月」「栗名月」と呼ばれます。

十五夜の月を見て祝う習慣は中国から来たそうですが、
 『十三夜』は菅原道真を重用した宇多天皇(867~931)が
旧暦9月13日の晩に見ていた月に感激して、「無双」と賞し、
「名月の夜」を定めたと藤原宗忠の日記『中右記』に書いてあります。
十五夜の満月よりも、十三夜という少し欠けた月に美を見出した所に
「わびさび」に通じる日本の美意識の原型を見るような気がします。

ももしきの大宮ながら八十島をみる心地する秋の夜の月 『躬恒集』

 宇多天皇の息子 醍醐天皇(885~930)の作った歌が
 日本で十三夜を歌った一番最初の歌と言われています。

江戸時代頃から、庶民の間にも
旧暦の9月の名月を祝う習慣が出来ました。
しかも、十五夜を祝った時は十三夜も祝わないと
『片月見」といって縁起が悪いそうです。

樋口一葉の『十三夜』にもこの事が書いてあります。

ふとした縁で、高級官僚に見初められて、
望まれて嫁に行った娘が亭主の浮気癖に耐えかね、
ひとり息子を家に置いたまま、旧暦の9月13日の晩に
実家に帰って来た所から,小説は始まります。
両親は十五夜・十三夜の晩に団子を作り、
ささやかなお祝いをしていました。
この団子を嫁に行った娘が好きだった事を思い出し、
娘の家に届けたいと思っている所に娘が帰ってきます。

『今宵は舊暦の十三夜、舊弊なれどお月見の眞似事に
 團子をこしらへてお月樣にお備へ申せし、
 これはお前も好物なれば少々なりとも
 亥之助に持たせて上やうと思ふたれど、
 亥之助も何か極りを惡るがつて其樣な物はお止なされと言ふし、
 十五夜にあげなんだから片月見に成つても惡るし、
 喰べさせたいと思ひながら思ふばかりで上る事が出來なんだに、
 今夜來て呉れるとは夢の樣な、
 ほんに心が屆いたのであらう。』と両親は喜びます。
樋口一葉『十三夜』から

「十三夜」は新派の芝居にもなりました。
この後、帰りたがたらない娘は「もう、戻らない決心だ」と打ち明けます。
父親は 『女がいつたん嫁に行き、実家に戻ってくれば、
     自分の生んだ子供には一生会わない覚悟がいる。
     我が子と呼べず泣くよりも、
     そばにいて不幸に泣いた方がましではないか』と諭します。

思い直して実家をあとにする娘は月がほのかに照らす道で、
人力車をひろい、今の鶯谷から駿河台の家に向います。
丁度、上野新坂上まで乗って来た時、
突然、車夫は「気が進まないから、降りてくれ」と言い出します。
十三夜の月明りで見た車夫は幼馴染の変わりはてた姿でした。

樋口一葉の小説は京都大学の電子図書で読む事が出来ます。
画面が横文字なので読みにくいのですが
HTML と PDFファイル と二つの方式です。
PDFファイルのほうがルビ付きで読みやすいです。

http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/BB00000022/Contents/hi_cont.html

『十五夜』の月を見て思い出した歌

木のまより もりくる月の影見れば 心づくしの秋は来にけり
               「古今集」 読み人知らず

花と言えば桜、桜と言えば西行ですが、
西行は月の歌を沢山詠んだのでも有名です。
秋の風を聞くとしばらく、ブラームスが聞きたくなり、
西行の「山家集」を読みたくなります。
西行の月の歌は失恋や追憶の歌もありますが
孤独の中に心の平安を求めた歌が多いです。

玉にぬく露はこぼれてむさしのの草の葉むすぶ秋のはつかぜ
わづかなる庭の小草の白露をもとめて宿る秋の夜の月
行くへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん
            「山家集」  西行(1118~1190) 

この歌を読んでいると3年ほど前、立松和平作「道元の月」を
歌舞伎座で、坂東三津五郎が演じた芝居を思い出します。

『十三夜』の歌から

さらしなや姨捨山に旅寝して今宵の月を昔みしかな 「能因集」
                 能因法師(998~1050?)

こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
雲消えし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける
              「山家集」  西行(1118~1190) 

名月や銭金いはぬ世が恋し  永井荷風

粋なお姉さんのブログに載っていた「十三夜の歌」
http://blog.k-office.org/?day=20050808

河岸の柳の 行きずりに
ふと見合せる 顔と顔
立止まり 懐しいやら 嬉しやら
青い月夜の 十三夜

夢の昔よ 別れては
面影ばかり 遠い人
話すにも 何から話す 振袖を 
抱いて泣きたい 十三夜

空を千鳥が 飛んでいる
今更泣いて なんとしょう
さよならと こよない言葉 かけました 
青い月夜の 十三夜
以上


樋口一葉 日記「塵の中」序文

2005年06月13日 | 文学
一葉と桜5 桜の花との決別
第一章 日記「塵の中」の序文
 明治26年初夏、一葉は22歳 、父が亡くなってから、まる4年が経ち、
裁縫等の賃仕事だけで、一家三人が食べてゆくには収入が足りなかった。
樋口家の貧困から脱出する方法として、一葉は職業作家になるという,
たぶん、日本で最初の無謀な決意をした女性となった。
雑誌に一葉の小説は掲載されたが、期待するほどのお金にならなかった。

明治26年7月から書き始めた日記「塵の中」の序文に一葉は書いている。
「人 常の産なければ常の心なし。
手をふところにして月花に憧れぬとも、
塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。
思ひの馳するまゝ、心の趣くまゝにこそ筆は取らめ。
いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、
浮世を算盤の玉の汗に商ひといふ事始めばや。
 もとより桜かざして遊びたる大宮人のまどゐなどは、
昨日の春の夢と忘れて、
志賀の都のふりにし事を言はず、
さざなみならぬ波銭小銭、厘が毛なる利をもとめんとす。」
と「塵の中」日記に書いた。

簡単な意訳?
人は一定の収入がなければ、平常心ではいられない、
働かないで、月よ花よという暮らしに憧れていても、
食べ物がなければ、まともな一生を終える事はできない。
又、文学は「糊口(糊=かゆ=生計)のために書くものではない、
自分の書きたい事をそのまま書くのが本当の姿ではないだろうか。
さあー これからは職業作家を目指していた道を捨て、
算盤を片手に、商いという事を始めよう。
もう,桜を見て、歌を詠む雲上人の真似のような事は春の夢と忘れて、
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」 とも歌わず、
           千載和歌集. 読み人知らず(平忠度)
さざ浪ではないが浪銭小銭の一厘という、わずかな儲けを求めていこう。
と「塵まみれ」日記に書いた。

第二章 桜の花との決別
日記「塵の中」の序文から、当時の一葉の気持ちが読み取る事が出来る。
1、歌塾「萩の舎」の世界との決別
①一葉は古文や和歌を学ぶ事が好きで、萩の舎では優秀な生徒であった。
 萩の舎という限られた世界で、一葉は精神的な優位性を持つことが出来た。
②一葉は将来、歌や書道の先生になろうと考えていた。
③一葉は父が亡くなってから,5ヶ月程、萩の舎に住み込み、
 師の中島歌子の内弟子兼女中のような生活をしていた。
 中島歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで、
 上流階級の家の裏側を見てしまうとその贅沢な暮らしぶりに憧れる反面、
 妻妾同居のような乱れた家庭生活に違和感を憶えた。(注1)
 又、中島歌子の私生活を見て、歌塾の実態を知り幻滅してしまう。
④萩の舎は上流階級のお嬢様におべんちゃらを使い機嫌を取る世界だった。
 和歌の勉強方法も,あらかじめ歌の題を決め、古歌を真似る方法だった。
 一葉は萩の舎の花鳥風月的な作風に疑問を持ち、批判を持つようになった。
⑤半井桃水との交際を中島歌子や親友の伊東夏子に反対されてしまう。
  桃水との事で、萩の舎の仲間達の棘のある噂話に一葉は傷ついた。
⑥一葉は生涯に渡り、「萩の舎」を心のよりどころにしていたと思われるが
 この時は「萩の舎」の世界から離れようと考えた。
(注1)後に、一葉は23歳の時、小説「十三夜」で上流階級に嫁いだ女姓が
    必ずしも、幸せになるとは限らないという物語を書いた。

2、半井桃水が教えてくれた「売れる小説」への疑問
①明治時代,男でも職業作家として,生きてゆくことは難しかった。
②半井桃水は一葉に「売れる小説」の書き方を教えた。
  読者は物語の筋に関心を寄せるから、筋の展開を面白くしろと言う。
③桃水の指導方法は萩の舎の和歌の勉強方法と同じように
  先ず、売れる小説を書くために小説の趣向、組み立てプランを考える。
  そのプランについて桃水に相談し、それから作文という方法である。
  学生が卒業論文を書く時のような指導方法だった。
④一葉は桃水の読者に媚びる小説の書き方に疑問を持つた。

3、一葉の考える文学の目的
①一葉は桃水から売れる小説を書く訓練を受けている内に、
 売れる小説を書くために、小説の筋や趣向を凝らす事よりも、
 文章の中に自分の気持ちを吐露して、自分の悩み、人生の問題を
 取り上げる事が、文学にとって大切なことだと考えるようになった。
②一葉が19歳の時に書いた最初の小説「闇桜」は片思いの女性、
 すなわち一葉の桃水に対する気持ちを反映する小説を書いた。

現在、台東区の一葉博物館にある「闇桜」の一葉自筆の原稿を
桃水は「字があまりにもきれいだったから」と大切に保管していた。

4、戸主として、母や妹を養う責任・金銭問題
①一葉は上野の図書館に通い、桃水のもとで、小説書きの勉強をした。
②桃水の創刊した「武蔵野」に最初の小説「闇桜」を発表してから
  萩の舎の先輩三宅花圃の紹介で「都の花」に、又「文学界」にも執筆したが
 当時の原稿料システムでは多額の収入に結びつく事は難しかった。 
③半井桃水はその頃、神田三崎町で葉茶屋「松涛軒」という店を開いた。
④一葉もどこかで商売を始めよう。そして、生活が落ち着いたら、  
 商売の合間に自分の本当に書きたい文章・文学を書いて行こうと
 今までの職業作家を目指す生活と決別する事を決意する。

第三章 作家一葉の誕生
Ⅰ下谷竜泉町に小間物屋開店まで
明治26年6月29日の日記で
家、ますます困窮し、遂に借金をするあてもなくなるような貧乏生活から、
脱出する為、母と妹三人で「此夜一同熱議 実業につかん事に決す」と
小商いの小間物屋を開く事を決意した。
そうと決まれば一葉と妹の邦子は素早く行動する
早速、物件探し、二人で牛込,神楽坂,飯田橋,御茶ノ水まで探すが
家賃が安くて、しかも知り合いの居ない所は中々無かった。
最後にたどり着いた場所は遊郭吉原の裏にある二軒長屋の店だった。
内容は、下谷龍泉町(現住所:台東区竜泉3-15-2)
間口3間、奥行き6間の二軒長屋の片方、
店は6畳、他に5畳、3畳、敷金3円 家賃1円50銭

明治26年7月20日、一家は本郷菊坂の家から、竜泉の家に引越した。
萩の舎の親友、伊東夏子には「竜泉の家に来たら、絶交よ。」と知らせ、
明治26年8月6日、荒物や駄菓子を売る小間物屋を開いた。
店を開いた直後は物珍しさも手伝って,お客も来た。
1日40銭から60銭の売上で、一ヶ月5円くらいの利益しかならなかった。
年が明けると、近所に同業者の店が出来,店の売上は減ってしまう、
竜泉の店は開店から10ヶ月で閉店してしまう事になる。

Ⅱ 作家一葉の誕生
1、異文化体験
 一葉がそれまで住んでいた上野、高輪、本郷は住宅地である。
 家には門があり、庭のある生活で外から家庭を覗く事は出来難い。
 竜泉の家は一日中、車や人通りが途切れない町のなかで、
 壁一つ隔てて、隣の生活を伺うことが出来る生活であった。
 人間の素顔が丸出し、丸見えの生活環境に変わる事となった。

2、主客の立場が逆転する。
それまで、一葉一家は客として、商人に接していた。
竜泉では立場が変わり、どのような人でも、店に来る人は客となった。
彼らの機嫌を損ねないようにしなければならなくなった。
今まで、接する機会のなかつたかも知れない人に客として接する体験は
個人の立場からだけでなく、相手の立場から人を見る事になった。

3、様々な階層の人々の生活実態を知る。
①一葉は僅かな期間にいろいろな階層の生活実態を見る機会が出来た。
1.一葉は萩の舎の内弟子時代、上流階級の家庭を覗く機会があつた。
2.竜泉で商いをしているうちに働いても働いても楽にならない
 庶民の生活を実際に肌で感じるようになった。
3.遊郭は祭りの日に女子供でも門の中に入る事が出来、遊郭内を見学出来た。
 遊郭の洗張り裁縫の賃仕事を得るために遊郭内(苦界)に入る体験をする。
 遊女という最下層の人間の惨めさを実際に知る事が出来た。

吉原遊郭の裏町に住む人々の開けっぴろげな生活を見ているうちに、
一葉は社会の底辺に住む人にも目をむけるようになり、
そこから、人間の本質を見つめることができるようになった。

②遊郭(苦界)の中に入り、女性の惨めな生活の実態を知る。
1.遊女という社会の底辺で暮らす女性たちと話をするようになる。
2.正義感の強い一葉は逃げ出した遊女を助けたいと巡査に相談した事もあった。
 
一葉は吉原の遊郭の遊女の話を聞き、彼女たちの姿から女の生き方を考え、
一葉の関心が個人の問題から社会問題へと向う事になった。

③子供の目線でものが見られるようになる。
一葉は店先に立ちながら、子供の会話や一人ひとりの気性を観察した。
店に来る子供を相手にしている内に,子供の世界に興味を覚えた。
やがて、自分の子供の頃の事を思い出していた。

④明治27年2月23日に天啓顕真術会本部を尋ね、久佐賀義孝に相談に行く。
 占い師久佐賀義孝に借金の申込に行った事について、様々な説がある。
 一葉は「相場の予想が必ず当り、金が儲かる」と言う新聞の広告を見て、
 彼から元金を借り、相場を貼り、儲けで、遊女達の一時避難所を作る資金に、
 又、先輩の田辺花圃が歌塾を開く事を聞き、自分の歌塾を作るための資金が
 出来るのではないか言うと甘い夢を持って尋ねたのではないだろうか?
 久佐賀義孝にしても、若い娘が真面目な顔で金を借りにきたのだから、
 「まあ、話を聞こうではないか」となるだろう、しかし,詳細は今だに不明。

素人商法は開店から10ヶ月で、店を閉めてしまうような事になった。
商いの為に投資した元手はほとんど回収できなかつたが、
竜泉町での商いの経験は、名作「たけくらべ」が生まれるきっかけになった。
作家一葉から見れば、大きな利益を得る事が出来たのである。

第四章 「塵の中」から,見つけだした「宝石」

「たけくらべの世界」
美登利:子供仲間の女王で吉原一の売れっ子遊女の妹。
長吉 :横町組のがき大将で鳶職の息子、
正太 :表町組のがき大将で質屋の孫、
真如 :寺の跡取り息子の真如
三五郎:貧しい車引きの子 

小学校で机を並べている級友が学校から一歩出ると、
横町組と表町組とに分れ、子供同士のけんか仲間として対立している。
吉原遊郭の裏町の子供達の日常生活の一断面を鮮やかに切り取り、
美登利に思いを寄せる少年たちの心の動きを中心に、
少年少女の個性を一人ひとり実に豊に、生き生きと描き、
子供から大人への微妙な心の変化を筆の力で表現する事が出来た。

「たけくらべ」は吉原の裏町の子供達の日常の世界を描いている。
誰でも、このような子供の頃の懐かしく美しい思い出を持っている、
自分だけの思い出として心の奥に大切に保管している。
時々、取り出す事はあつても、ほとんど誰にも見せないでいる。
一葉はこの誰もが持っている子供の頃の思い出という原石を
擬古文という日本語で磨いて、読む者に共感を与える事が出来る、
「たけくらべ」という宝石に磨き上げる事が出来た。
「たけくらべ」は源氏物語などの古典文学の最終点であり、
日本近代文学の出発点となる小説となった。

明治27年5月1日一家はたけくらべの舞台になった下谷龍泉寺町から
一葉終焉の地、本郷丸山福山町(文京区西片1-17)に転居した。
以上




太宰治 「桜桃忌」

2005年06月08日 | 文学
太宰治 「桜桃忌」
太宰治は昭和23年6月13日深夜、
山崎富栄と三鷹市の山本有三の家の近くの玉川上水に入水した。
二人の遺体は6月19日に、
入水場所から1キロ程下った所の橋げたに絡んでいたのが発見された。
二人の遺体が発見されたのが6月19日なので、
彼のお墓のある東京・三鷹の禅林寺では
毎年、法要が催され、沢山の太宰ファンが訪れる。
この日を「桜桃忌」というのは
死の直前に発表された彼の短編「桜桃」による。
尚、太宰治の生誕地、青森県金木町では
太宰の誕生日が奇しくも遺体発見日と同じ、
6月19日であった事から、
最近、桜桃忌から、「生誕記念祭」と名前を変えて開かれている。

東京・三鷹の禅林寺の太宰治の墓の斜め前には明治の文豪森鴎外のお墓がある。
又、瀬戸内寂聴が昭和20年代、
夫と別れて、一人で暮らしていた下宿も禅林寺の近所である。

5年程前、二人が入水したと推定される場所に自然石の記念碑が建てられた。
20年程前までは二人に縁のある建物が三鷹市に残っていたが今はほとんどない。
山崎富栄が下宿していた葬儀屋も建て直され、
太宰がよく訪ねたという「美登利寿司」も一昨年、春に閉店した。
以上

宇野千代と桜模様

2005年06月03日 | 文学
「宇野千代展ー書いた、恋した、生きた。」
 「書いた、恋した、生きた」はスタンダールの墓碑銘です。

会期:平成17年4月29日~6月12日
場所:東京・世田谷文学館
年譜:明治31年(1897)11月28日 山口県岩国市生まれ
    平成8年(1996)6月10日 98歳で永眠


世田谷文学館HP宇野千代のページ
http://www.setabun.or.jp/unochiyo.htm
世田谷文学館見学者の感想
http://www.setabun.or.jp/chiyo_report1.htm
宇野千代さんの生家のHP
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/mac/040114-unochiyo-seika.htm

宇野さんというと晩年の着物姿を思い浮かべますが
昭和11年6月 39歳の時に、スタイル社を設立して、
日本最初のファツション雑誌「スタイル」を創刊しました。
当時は珍しい、お洒落に関する記事が評判となり、人気がありました。
宇野さん自身もモデルとして雑誌に登場しています。
スタイル社は昭和34年(1959)4月に倒産。
若い頃の洋装の宇野さんも素敵です。
女優の藤真利子さんに面影が似ています。

会場には宇野千代さんが大好きだった
桜模様の和服が沢山展示されていました。

桜に対する宇野さんの文章から、

1、書いた  いくつもの恋
     モデル    作品
   ①父親    「おはん」「風の音」
   ②尾崎士郎 瀬戸内寂聴に「尾崎さんが一番好き」と告白
   ③東郷青児 「色ざんげ」
   ④北原武夫 「刺す」「雨の音」
   ⑤自叙伝  「或る一人の女の話」「生きてゆく私」

「私は夢を見るのが上手」から
いくつもの恋をした。そしてそれと同じ数だけ失恋したのであつた。
いつの場合も経緯は同じであつた。
私の恋は、考へる隙のないほど素早く始まり、そして終はるのであつた。
 好きな人が目の前に現はれると,私は忽ちにして、その人のとりこになり、
前後もなく考へずに行動を開始するのだった。
何を逡巡する事があらう,私はその人の目を真つすぐみて、
「私はあなたが好きです。」と言った。
好きだと言はれて不愉快に思ふ人はゐなかつた。恋は成就した。
             平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」

ファツション雑誌「スタイル」の協力者、北原武夫との出会いから
別れまでの日々をもとに小説「刺す」「雨の音」を書きました。

「雨の音」から
 或るとき、私の作った着物が、世にも美しく染め上ったと思われ、
思わず私はそれを、吉村のいる所へ持って行って、見せないではいられなかった。
「ね、同じ花びらだけを,繰り返して置いたものなのよ。」と説明した。
私が美しいと思ったものが、そのまま吉村にも伝わらない筈がない、
と思ってでもいたのだろうか。
「きれいだね。配色が美しい。」吉村はちらと見て、
さう言ったが、それはただ、隣人の批評でしかなかった。
私はすぐに、そのことを了解した。
                昭和49年(1974)「雨の音」
「刺す」
 私たちの別離は、極く自然に行われた。
秋になって、木の葉がその枝から落ちるのと同じように。
そのことに苦悩があったとしても、それは木の葉の枝から離れる瞬間の、
あの、微かな痛みに似たものであった。
             昭和41年(1966)「刺す」より

2、恋した   桜模様

「私は夢を見るのが上手」
 私は桜が大好きである。その単純明快な形が好きである。
いつのまにか私の本はさくらの装丁が多くなった。
又,私のデザインする着物,ハンカチ,陶器も、桜の模様が特徴になつてゐる。
 さくらの単純明快な形が、その組み合わせによって、
さまざまな表情を生み出す面白さ、その美しさ、
そこに私は尽きることのない魅力を感じるのである。
              平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」

3、生きた  「根尾村の薄墨桜」
http://www.mirai.ne.jp/~hasegawa/usuzumi/

宇野さんは昭和42年、小林秀雄の紹介で
岐阜県根尾村に「薄墨の桜」を見に行きました。
その頃の薄墨桜は枝が二つに裂け、見るも無残な姿でした。
それを見た宇野さんは何とかして、桜を助けたいと、
桜の惨めな姿を本に書いたり、色々な人に相談しました。
やがて、沢山の人々で桜を守るための協力体制ができ、
薄墨桜は再び美しい姿に生まれ変わりました。
その後、映画監督の羽田澄子さんが「薄墨桜」の
記録映画を撮りました。

「薄墨の桜」
 春の日には珍しく、雲ひとつない青空の下でした。
私たちは思わずそこに立停まりました。枝はのびのびと拡がっていました。
どの小枝の先にもぎっしりと、薄墨色の花がもぶれついて、
二反歩の空間を埋め尽くしている壮観は,見事でした。
それはあの、老婆の非業の死によって、
私たちの念願が勝利をしめした事の、その結果だと言えましょうか。
        昭和50年(1975) 「薄墨の桜」

 おまけ 
① 恋愛するにも「練習」が必要です。

②今、あなたの上にあらわれている能力は
 氷山の一角 真の能力は、水中深く深く隠されている。

③幸福は、遠くにあるものでも、
 人が運んでくるものでもない
 自分の心の中にある

④能力というものは
  天与のものではなく
  自分で作るものである

⑤自分の幸福も 人の幸福も 同じように
 念願する境地まで歩いて行きたい

⑥好奇心は人間を生き生きさせる。

⑦一握りの仕合せを求めて、生きるのが人間である。

⑧人生はいつだって、今が最高のときなのです。

⑨この頃、思うんですけどね、
  何だか私 死なないやうな気がするんですよ  
   は は は は は
           宇野千代 95歳

番外 「私は過去を振り返らない、反省するけど、後悔はしない」
        テレビ番組のインタビューで

以上



永井陽子と桜・アンサンブル・ゼフィロ

2005年05月06日 | 文学
歌人 永井陽子と桜 アンサンブル・ゼフィロ

海のむこうにさくらは咲くや 春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ

むかしむかしの木のこゑ風のこゑ ひそとしづけし木管四重奏曲        
                             永井陽子

4月8日(金)の日は朝早く、車で都心に出かけた。
お堀端は満開の桜で道路には花びらが舞っていた。

病院に入院中の知り合いの老人を迎えに行くためである。
病室から老人を車に乗せるため、初めて「車椅子」を押した。
病院の前の道には段差があり、神経を使う。
老人を乗せてから、車椅子を車のトランクに載せる時、
車椅子が以外と重く、しかも大きく、トランクにのせるのに苦労した。
こういう事は実際にやってみないとわからない事だ。
もう一度「福祉住環境コデネーター1級」の試験を受けるために
基礎から勉強し直そうかとも思った。

その老人の50歳の息子が老人の同意を得ずに勝手に印鑑証明を取って、
老人所有のアパートを売却しようとしているという、それを阻止する為に、
印鑑証明書が発行される前の朝一番に老人の住んでいる町の区役所に行き、
印鑑証明書の発行を停止するための手続きをする事になった。

区役所に残っている息子が提出した印鑑証明書発行の委任状の筆跡が
老人が書いたものでない事を証明して、息子が印鑑証明書を取りに来ても、
発行をして貰わないようにお願いしようというのである。

区役所の計らいで印鑑証明書の発行を阻止する事は出来そうだが、
今後の対策を取るために鮨屋で昼食を食べながら老人から話を聞いた。
老人はこれから息子を警察に訴えたいという。
無駄な事だと判っていたが老人の気持ちを考え、
午後は老人の住む町の警察署にも行った。

親子の対立で財産が絡んでいると複雑で
他人にはわからない事情もあり、
あまり、深入りすると最後はこっちが恨まれてしまう場合もある。
警察は相手にしてくれなかったが嫌な話だ。

老人を病院に送ってから、時間はあったが
真っ直ぐ、家に帰る気がしない、
皇居や都内の公園の桜を眺めて時間を潰した。

道路は金曜日の夕方で混んでいた。
丁度、飯田橋付近で外堀通りを新宿に向けて運転していた。
外堀の土手の桜並木は満開で
土手の桜並木の奥に時々中央線の橙色の電車が通過した。

カーラジオで夜の7時のニュースが終わると、音楽番組で、
この1月の演奏会で聞いた「アンサンブル・ゼフィロ」の
来日演奏会の録音放送になった。

曲目はモーツァルト作曲の「フイガロの結婚」からと
      セレナード変ロ長調K.361(グラン・パルティータ)

グラン・パルティータは映画「アマデウス」の中で
サリエリがこの曲を聴き、モーツァルトの天才を感じる場面に使われた。

アンサンブル・ゼフィロはイタリアの演奏団体で古楽器で演奏する。
音の柔かさ、自由闊達な演奏、聞いていて楽しくて仕方がなかった。
演奏している人たちはその何倍も楽しそうに見える演奏会だった。

アンサンブル・ゼフィロについてのHP
http://www.allegromusic.co.jp/ENSEMBLEZEFIRO.htm

http://www.arkas.or.jp/event/zefiro-fry.html

カーラジオから「フイガロの結婚」の序曲が聞こえてくると
もうだめ、車の中はたった一人の演奏会場になった。
音量を最大に上げ、どっぷりと音楽の底に沈んでゆくと、
軽快に花びらが風に舞うようなメロディの流れの中で
薄白くなったお堀の桜並木の花が
時々,対抗車のライトに照らされて白く浮かび上がった。
今日一日の出来事のすべてを忘れられるような美しさだった。

8時過ぎに家に着いたのでグラン・パルティータを
最後まで聞く事は出来なかったが
夕飯を食べる前の犬との散歩は近所の団地の桜並木を歩いた。
春の暗い闇のなかに桜が白く浮かんでいた。
永井陽子の短歌のことを思い出した。

永井陽子は1951年昭和26年愛知県生まれ、
惜しい事に2年ほど前に亡くなられた。

10年ほど前、「モーツァルトの電話帳」という題名に引かれて
永井陽子の短歌集を買った。

永井陽子の「モーツァルトの電話帳」から

海のむこうにさくらは咲くや 春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ

ゆふさりのひかりのやうな電話帳 たづさへ来たりモーツァルトは

るるるる・・・・・・と呼べども いづれかの国へ出かけてモーツァルトは不在

東洋のれんげあかりの夕暮れに モーツァルトは疲れてゐたり

むかしむかしの木のこゑ風のこゑ ひそとしづけし木管四重奏曲

以上は「モーツァルトの電話帳」から

洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる

警報機鳴るやもしれぬうつし世の さくらのやみのにほふばかりを

あはれしづかな東洋の春 ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ

もうすぐ青空があの青空が落ちてくる そんなまばゆき終焉よ来たれ

永井陽子

桜守

一葉の誕生日

2005年05月02日 | 文学
5月2日は樋口一葉の133回目の誕生日です。
昨年、暮れから、一葉の日記を読み、
一葉の事を考えていたので
一葉さんが昔のクラスメートのような気がします。

4月17日のメールで私は下記のように書きました。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)
    樋口一葉は東京府構内砲地の武家長屋で生まれた。
    現在の「千代田区内幸町 現日比谷シテイ辺り」
    (昔、NHK放送会館.三井物産があった辺り)
    父41歳、母37歳新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。

この記述は間違いでした。
今年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
一葉の生誕地は東京府構内の武家長屋で
現在の千代田区内幸町1-5-2とあります。

http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
わたしの持っている多くの本が一葉の生誕地について、
日比谷公園の近く、日比谷シティあたりと書いてあります。
それで良く調べずに記述してしまいました。
まだ、実際に今年できた一葉の記念碑を見ていないのですが
内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。

去年の秋、新5000円札は新渡戸稲造から一葉に変わりました。
5000円札の一葉の肖像を見た時、
普段見慣れている一葉の顔に比べて、
一葉の顔があまりにも痩せていてびっくりしました。
田中優子さんが去年出された本の題名のように、
「お金の肖像だけでも嫌なのに、私ではない いやだ」と
天国でさけんでいるような気がしました。

去年の秋、新5000円札が発行された時、
メールや雑誌で話題になったのは
第一は樋口一葉の肖像の事でした。
第二は一葉の男女関係でした。

①一葉の肖像については
半井桃水や一葉の家に遊びに行っていた「文学界」の仲間の人たちは
追悼文で一葉よりも、妹の邦子さんのほうがきれいだったと書いています。
皆様、家庭を持つ男の身ですから、何となく、わかりますが、
これでは一葉がかわいそうです。
一葉の写真は現在、10枚くらい残っています。
どれも、それほど不美人とは思えません。

医者で歌人の太田正雄(木下杢太郎)のお姉さん太田たけ子と一緒に撮った
おさげ髪に袴の女学生スタイルの一葉が一番現実の一葉に近いと思います。

新5000円札の肖像画は下記の写真3枚の合成のようです。
樋口一葉の肖像
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyou_2photos.html

下村為山「一葉像 落花」明治30年
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/10.html

今でも5000円札の一葉の肖像画になじめません。
私は下村為山が書いた「一葉像」を
そのまま、お札の肖像画にすればよかったと思います。

一万円札の福澤諭吉先生の肖像画は素敵なのですが
私にあまりいついてくれません。
先生にはどうも見捨てられたようです。

②一葉の男女関係について、
これについて、メールや雑誌でいろいろ書かれているのを読みました。
ひどいのは一葉が売春に近い事までしていたという記述もありました。
それまで読んでいた本でつぎのような意見があるのも知っていました。
1、多くの学者は男女の関係はなかった。
2、瀬戸内寂聴さんはあったという、
3、森まゆみさんはあつたかなかったかわからないがあったらよかったのに、
4、田中優子さんはそれが女性に対する偏見であり、女性蔑視、差別だ。
5、田辺聖子さんはそれには触れずにそこまでの過程を上品に詳しく書いています。

瀬戸内寂聴さんの本を読んだ時の印象は強烈でした。

前から一葉に感心があつたので
昨年、暮れから一葉の日記を読み始めました。
私の結論は男女関係はなかったように思います。、
一葉の日記を読んでいると男性や世間に対する評価が
あまりにも原則的できびしいように思うからです。
異性を愛する経験をすればもう少し心に余裕が生まれ
他人に優しくなるのではないかと思うからです。
以上

一葉と桜 半井桃水

2005年04月30日 | 文学
一葉と桜4:上野車坂・半井桃水

山櫻今年も匂う花影に散りて帰らぬ君をこそ思へ

この歌は明治24年4月、19歳の一葉が詠んだ歌である。
一葉はこの年から本格的に日記を書き始め、
その日記の最初の日に書かれた歌でもある。

この頃の一葉は
①明治20年一葉の兄泉太郎が24歳で死去
 二番目の兄寅之助は染付けの職人の修行中の身、
 その上徴兵逃れのために別の家の戸籍になっていた。
 一葉の父は頭が良く、しっかりしている一葉に期待したのだろう、
 樋口家では一葉を樋口家の相続戸主にした。

 戸主として母や妹の面倒を見なければならないという
 責任感が後に一葉が文学を書き始める原動力になった。

②明治22(1889)年父の事業の失敗と死 父享年58歳
 樋口家に多額の負債を残したという。

 一葉の家が貧しくなった第一の原因である。

③阪本(渋谷)三郎との婚約破棄事件
 渋谷三郎は一葉の父が江戸に出てから世話になった郷里の先輩
 真下専之丞の孫で早稲田大学に通っていた頃、一葉は婚約をしていたが
 父の死後、樋口家にお金がない事を理由に渋谷家から、婚約を解消された。
渋谷三郎は後に検事や早稲田大学の法学部長に出世した。

 この事は一葉の心を傷つけ男性への不信感が生まれたが
 一葉の結婚への願望は生涯消える事はなかった。
 一葉の初期の作品「闇桜」等身分違いの片思い文学が多い。

④萩の舎での住み込みの助手への幻滅
 一葉は父が死んでから5ヶ月ほど歌塾「萩の舎」に住み込み、 
 内弟子生活をした。
 あまり家事が得意でない一葉には辛かったようだ。
 師匠の中島歌子は女学校の教師の口を紹介してくれる 
 約束であつたが学歴のない一葉には無理な話である。
 住み込んでいれば歌塾や中島歌子の実像がみえてしまい、
 その花鳥風月的な歌に疑問をもち批判や幻滅が生まれた。
 又、歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで
 上流階級の家の裏側を見てしまう。

 小説「おおつごもり」は萩の舎の住み込み体験談。
 一葉はその後,社会の底辺に住む人にも目をむけ
 人間の本質を見つめることができるようになり
 一葉の文学は花開くことになったが
 一葉の上流階級への憧れは消えなかったと思われる。

⑤父親の死後母親と妹邦子は染付け職人の修行中で
 高輪に住んでいた次男寅之助と同居するが母親の気性と
 芸術家肌の寅之助と折り合いが悪く同居がうまく行かない。

 一葉の小説「うもれ木」のモデルとなった。

明治23年9月本郷菊坂70番地(現在の本郷4丁目32番地1)に
母の滝、一葉それに妹の邦子の3人は家を借りる。
現在の東大の赤門と後楽園との中間地点で
菊坂から中程の一段下がったうなぎの寝床のように谷間である。
現在も一葉も使ったという井戸がそのまま残っている。
菊坂の中程には樋口家が通った『伊勢屋質店』の建物がある。

本郷菊坂周辺地図
http://homepage3.nifty.com/namm/index2.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/1203.html

本郷の菊坂に越して借家住まいの始めたが
針仕事,洗濯の仕事和服の仕立てや洗い張りで
生計を立てる状況で、樋口家の生活は苦しかった。
 当時の仕立賃は、袷(あわせ)1枚、15ー20銭、
3人で収入は月5円から6円程度と計算される。
そのうち家賃が2円50銭必要であつた。
一葉は博覧会の売り子にも応募したがうまく行かなかった。
自分で歌塾を開けるほどの資金はなかったし、
一葉が歌塾を開くことは中島歌子に反対された。

参考
明治23年、漱石、子規は東大の英文科に進む、
       漱石は奨学金を年額85円貸与された。
       子規は松山藩の給費生として月額7円が給付されていた。
明治21年9月鴎外、ドイツから帰国、
明治23年鴎外「舞姫・うたかたの記」を発表

その頃、萩の舎の先輩田辺花圃が「藪の鶯」という小説を書き
原稿料33円を貰ったことを聞く、一葉は花圃が書けたなら、
自分も小説を書いて、親子3人の生活費を稼ごうと考えた。

一葉の家では妹邦子の女友達の野々宮きくの紹介で
東京朝日新聞の小説記者:半井桃水の家の洗い張りの仕事を頼まれていた。
一葉は花圃が坪内逍遥を師として、小説を書いたように
自分も桃水を師として小説を書こうと考えた。
野々宮きくを通して、半井桃水に弟子入りの希望を伝えると
桃水から、「今、東京朝日新聞に「月黄昏」という連載小説を書いていて、
4月12日に連載が終わるから、4月15日にお会いしたい」という連絡を受けた。

半井桃水の写真
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/09.html
朝日新聞で売れている小説を書いている桃水に弟子入りできれば、
自分も小説が書けるに違いない、
桃水は5代目歌右衛門に良く似た美男子だという。
一葉の心には不安よりも、期待のほうが大きく膨らんでいった。
一葉にも心のゆとりが生まれたのだろう。

4月11日「萩の舎」の同僚、吉田かとり子の向島の隅田川のほとりの家で
開かれる花見の宴に出かける余裕がうまれた。

一葉が本格的に書き始めた最初の日記「若葉かげ」は
明治24年4月11日
「花にあくがれ月にうかぶ折々の心をかしきもまれにはあり、」
という書き出しで始まる。

その日、向島の吉田かとり子の家に行く前に、一葉は
久しぶりに妹を連れ出して、二人で上野の山に桜見物に出かける。

樋口家は父の在世時代、下谷御徒町(現在の御徒町駅付近)や
下谷黒門町(現在の上野駅付近)に住んでいた事がある。
明治24年の9月には上野~青森間全線が開通するので
上野駅の周りも父と住んでいた数年前と比べて大きく変化した。

上野の山の桜を見てから、向島に行くため、車坂に通りかかる。
(車坂は上野駅の公園口からアメ横の入口までの坂道)
父と住んでいた数年前の面影は上野駅のまわりには残っていない、
あの頃、父と一緒に櫻の花を良くながめたねと妹の邦子が語る、
一葉は日記を続け、一首を詠む

「 むかしの春もおもかげにうかぶ心地して、

山櫻ことしもにほふ花かげにちりてかへらぬ君をこそ思へ

心細しやなどいふま々に、朝露ならねど二人のそではぬれ渡りぬ」

福岡哲司さんの詳細な上野浅草散歩レポートです。
2005年4月11日の一葉と同じ散歩コースが楽しめます。
http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/ichiyounikkisanposumidagawa.html


日記は続く、
一葉は4日後の4月15日、
雨が少し降る、昼過ぎ、半井桃水の家に
小説書きの弟子入り願いのために
芝の南佐久間町の家まで一人で行く。
(現在の山の手線新橋駅の近く)
一葉は桃水の前で完全に上がってしまう、日記には
 「耳ほてり唇かわきて、いふべき言もおぼへず」と
述べるべき挨拶の言葉も出てこない、
状態になってしまった、と書く。
さらに、一葉は日記に桃水の印象を書く。
 「色いと白く面おだやかに少し笑み給へば
  誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆる」

一葉は桃水に対して,憧れ以上の感情を持ってしまった。
これは一葉の父離れの瞬間であり、
少女から、恋する乙女へと変化する動きを
一葉が自らの日記のなかに書きとめた事になる。

半井桃水は一葉が生涯忘れられない恋人となった。
一葉の小説家としての才能を最初に見つけた人である。
一葉に対して,小説の書き方を直接指導し、
翌年、3月には桃水が発行した同人誌「武蔵野」に
一葉の最初の小説「闇桜」が掲載される事になる。
小説家「樋口一葉」誕生の第一歩に
大きな力を貸した人となる。

以上


一葉の父樋口則義 桜木の宿

2005年04月17日 | 文学
一葉と桜3 「桜木の宿」

一葉の父大吉と母あやめの山梨の故郷の村を出てきてからの
江戸での軌跡を書いてみる。

「私の力不足から、一葉の父の評価が纏まりませんでした、
 面倒かもわかりませんが簡単な略歴を読んで見てください。
 江戸から明治という変革の時代に生きた一人の男の姿が浮かび上がります。
 江戸末期の1両は現在の10万円位と考えられます。
 一両と一円は同じといいますが当時の一円は現在の3万円位でしょうか。」

安政4年(1857)6月 母あやめは長女ふじを出産後、娘を里子に出して、
             旗本 稲葉大膳(2500石)の娘鉱の乳母にあがる。
            乳母の給金は月3両・仕着料1両・里扶ち+小遣だった。
       同年7月 26歳の大吉は同郷の先輩 真下専之丞の世話で
             蕃所調所(幕府の西洋学問所)の小遣に採用される。
             大吉はABC(英語)を勉強していると日記に付けた。
             (現在の感覚なら臨時採用のアルバイト)
安政5年(1858)8月 大番組与力 田辺太郎に従い大阪に行く。 
             大阪城の警備の仕事に就く。
             (一年契約の臨時雇い契約社員)
安政6年(1859)10月 御勘定組頭 菊地大助の中小姓になる。
              この時、給料は月4両一人扶ち(私設秘書)
文久2年(1862)    主人の菊池大助が勘定吟味役役料300俵に出世する。
文久3年(1863)   さらに、大目付に昇進,表高壱千石の外国奉行を兼任する。
            それに伴い大吉も出世、公用人(本採用)となった。

 大吉は勤めを替えるたびに出自を偽るためか何度も名前や履歴を変えた。
 しかし、頭も良く、故郷の父への詳細な報告や日記、家計簿が残っているのでも
 判るように筆まめで字もきれい、勤務態度も、誠実で真面目だったのだろう。
 酒色に近づかず、役得の金をコツコツ貯めて武士になる機会を狙っていた。
       
慶応3年(1867)5月、村を出てから10年、36歳の大吉は
 南町奉行配下八丁掘同心浅井竹蔵(30俵2人扶持)の株を入手する。
 同心株100両+浅井家の負債肩代り金300両の合計400両を支払う。
(内250両は50年の分割払い)
(現在の金額に換算すると約4000万円位だという)
八丁堀同心として坪100坪、建坪8坪の大縄組町屋敷に住む。

陸軍奉行並にまで大出世した同郷の先輩真下専之丞の後ろ盾で、
 現在なら4000万円という金の力を借りて農民から武士になれた事になる。

慶応3年(1867)10月徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府は瓦解
慶応4年(1868)5月21日官軍の命令で南町奉行所は廃止

  大吉が武士でいられたのは1年足らずだったが、
  明治維新後、横滑りのような形で東京府庁記録方に勤務できた。
  東京府庁、警視庁での大吉の官位は最後まで九等官で終わった。 
  最初の月給は10円、明治20年の警視庁退職時は25円だったという。

漱石の父 夏目直克は大吉よりも15歳年上で警視庁では上司であった。
漱石の家は代々名主の家であつた。
江戸時代の名主は村の行政、治安業務の役目をになっていた。
明治政府は名主の仕事を継続する為、維新後も警視庁で雇ったのである。
夏目直克は警視庁で6等級、月給30円という記録がある。

明治5年(1872)3月25日(新暦では5月2日)に
樋口一葉は江戸から東京になったばかりの東京で生まれた。
幸橋内東京府庁砲地旧郡山藩柳澤邸長屋
東京府第二大区一小区内幸町御門内一番屋敷
(現在の千代田区内幸町1-5-2)
大吉41歳、母37歳次女として、生まれました。
新緑の美しい頃で「なつ」と名付けられた。
二人の間には長女ふじをはじめ、長兄泉太郎、次兄虎之助、
次女奈津(一葉)、三女邦子の計5人の子供に恵まれました。

平成17年、旧暦で一葉の誕生日に当たる3月25日に
樋口一葉の生誕地である内幸町に記念碑が建てられました。
千代田区内幸町1丁目5番地2は山の手線の新橋駅の近く、
第一ホテルと東京電力本社の間にある、
T&Dファイナンシャル生命本社ビルのあたりのようです。
隣の千代田区内幸町区民会館に記念碑があります。
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/news/release/20050325/0325_2.htm
http://www.city.chiyoda.tokyo.jp/tokusyu/chiiki/koujimachi/20050414/0414.htm
 現代風に考えれば大吉は37歳で会社が倒産、運良く、別会社に就職できたが
それまで何かと後ろ楯になってくれた郷土の先輩は幕府の瓦解で隠居をした。
これで出世の望みも絶たれたと大吉は考えた。

 そればかりかそれまでの漢字が中心の社会から、
欧米に追いつこうと英語が重要視される時代になっていた。
大吉は明治という大変革の時代についていけなくなった。

出世の望みのなくなった大吉はそれまで以上に副業に精を出すようになった。
又、自分の出来なくなった夢を子供にかけるようになり、
子供の教育を熱心に行った。

一葉の父は明治になってから、則義と改名届を出している。
これからは一葉の父は則義と書く

第一、一葉の父則義の副業

明治になってから東京府の下級官吏として樋口則義は
戸籍係や屋敷取調係、社寺取調係を歴任していた。
これらの職務には裏収入があったようだ。
①屋敷取調係で得た知識でその頃,藩々置県で
 郷里に帰った武士の屋敷を払下げてもらい
 土地売買をして利益をあげた記録が残っている
②社寺取調係の時に知り合った社寺の借地を管理して、
 借地料や貸家料の1割を管理料として収入を得ていた。
③郷里の知り合いなどにお金を貸し、年3割という、
 現在のサラ金なみの利息を取っていた。
 多い時には月300円も貸していたという。

高利貸しをしていれば今のサラ金のようなトラブルもあつた。
「明治20年5月31日 関根孝助に貸金取立訴訟に勝つ」という記録がある。
父親の貸し借りによるトラブルを小さい頃から、一葉は見ていた。
後年の一葉が「お金を浅ましいものと」考えた、金銭感覚の育成に
父則義の高利貸しをした事の影響がないわけはないと思われる。

明治初期の日本は江戸から明治への変革期であった。
廃藩置県で江戸を離れた、武士の藩邸が沢山余り、
不動産売買は量も多く、インフレで利ざやが稼げた。
現代のバブル景気の成金のように、
明治初期に土地売買を副業にしていた一葉の父も景気が良く、
その頃、一葉の家に訪ねて来た山梨の郷里の者に、
則義が金の延べ棒を見せて自慢していたという記録がある。

明治14年の政変 
     明治政府は近代国家への社会経済施設の整備
     武士への多額の退職金の支払などで貨幣の発行が急増していた。
     そのため明治初期の経済社会は急激なインフレ経済になった。
     この頃、大蔵大臣になった松方正義はデフレ政策に変更した。
   
明治17年頃の日本は不況が激しくなり、会社や銀行の倒産が多くなった。
   現在のバブル経済の破綻と同じような経済社会になった。

樋口家が貧しくなった理由①この頃から、父の副業もうまく行かなくなった。

明治20年  57歳の則義は警視庁を退職
明治21年6月59歳の則義は自ら荷馬車運送の組合設立に取り組む
  当時,開業した鉄道駅の近くに運送会社を作るという発想は悪くはないが
  当時のデフレ政策の影響を受けた経済情勢と
  一緒に事業を立ち上げた仲間が悪かったようだ。
明治22年2月59歳 荷馬車運送の組合設立事業は失敗に終わる。
明治22年7月    一葉の父則義は病没する。

樋口家が貧しくなった理由② 父の事業の失敗で多額の借金が残ったという。

第二、一葉の父の子供たちへの教育
    一葉の父は子供たちの教育に熱心だった。

①一葉の9歳年上の兄泉太郎の経歴
   樋口家では長男で頭の良かった泉太郎に期待する所は大きかった。
   しかし、病弱で明治17年1月結核療養のため熱海に出掛けた。
明治18年明治法律学校(現明大)に入学した。
   当時、大学進学は珍しいことである。
明治20年6月明治法律学校を中退して、大蔵省に勤める
同年9月 外出先で喀血
同年12月27日 死去 享年24歳

その頃、漱石の父夏目直克は警視庁で一葉の父の上司であった。
明治20年、夏目家でも漱石の二人の兄大助と栄之助を失った。

 漱石の兄・大助 安政3年(1856)~明治20年の経歴
明治12年  肺を病んで東京開成学校(東大)を中退
   同年2月 警視庁翻訳係に勤める       月給40円
明治14年(1881)1月 警視庁から陸軍省に転職 月給45円          
明治20年(1887)3月21日死去 享年31歳

夏目大助が警視庁の翻訳係に勤めていた頃、一葉の父も同じ職場にいた。
その頃、一葉には大助或は漱石との婚約話もあったという話がある。
兄樋口泉太郎の葬儀では夏目直克から香典50銭、という記録がある。

樋口家が貧しくなった理由③兄泉太郎の治療費が家計を圧迫した。

②一葉の教育
一葉は小さい頃から、本を読むのが好きな子だった。
一葉の父は一葉に沢山の読み物を買い与えた。
歌の才能もあったようだ。

ほそけれど人の杖とも柱とも
思はれにけり筆のいのち毛

一葉が小学校の頃に詠んだ歌だと妹邦子が書いている。
あまりにも出来すぎた歌であるが後に社会の底辺を見つめた
一葉の文学の萌芽が感じられなくもない。

一葉は母の反対で小学校を途中退学した。
女には学問はいらないと考えられた時代である。
学校を途中で止めたことはそれほど非難される事ではない。
一葉は家事の手伝いをしながら、
当時の花嫁修業である裁縫などを習ったが裁縫はあまり得意ではなかった。
そのような一葉を見ていた父は古典文学の素養をつけて、
将来、書や歌の先生として生計を立てさせようと考えるようになった。

当時の上流階級の令嬢達が通った「萩の舎」に和歌の勉強に行かせた。
14歳の一葉は源氏物語などの古典文学と和歌を勉強する機会が与えられた。
ここから、後に和文擬古文のような一葉の文体が生れる事になる。
又、萩の舎の同僚は一葉が作家になるための女性応援団になった。

最後に樋口一葉の生涯で一番裕福で幸福であったと思われる
時期と場所について書いておく。
それは一葉が4歳から9歳(明治9年4月から明治14年7月)までの5年間
本郷の東大赤門と道を隔てた法真寺の隣地に住んでいた時代である。

一葉の父は明治7年8月45歳の時
東京府知事から士族であつた代償として476円を受け取った。
内訳は家禄13石の6年分で米78石(右代金220円現金、250円公債証書)
その金とそれまでの蓄えとを加えて、本郷の法真寺の隣で
宅地230坪、建坪45坪の屋敷を当時の金550円で買った。

一葉が住んだ場所、現在の東京都文京区本郷5丁目26
法真寺の玄関前の、現在、駐車場になっている所である。
法真寺の境内には一葉記念館があり、
毎年、一葉の命日には「一葉祭」が開かれている。
http://homepage3.nifty.com/namm/index1.htm
http://www.kitada.com/keiko/ichiyou.html

一葉が住んだ本郷のお屋敷には大きな桜の木があったという。
晩年の一葉は、本郷の家を懐かしみ
自ら「桜木の宿」と命名して随筆に書いている。

「かりに桜木の宿といはばや、
忘れがたき昔しの家にはいと大いなるその木ありき,
狭うもあらぬ庭のおもを春はさながら打おほふばかり咲きみだれて、
落花の頃はたたきの池にうく緋鯉の雪をかづけるけしきもをかしく
松楓のよきもありしかど、これをば庭の光りにぞしける。」
    晩年の手記から  雑記「詞がきの歌」より

法真寺は関東大震災にも、東京大空襲にも焼け残ったという。
一葉が見たままの山門が現在も残り、
一葉が小説「行く雲」の中で
「腰ごろもの観音さま、濡れ仏にておはします御肩あたり、
膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて、
前に供えしシキミの枝につもれるもおかしく」と書いた。

腰ごろもの観音さまは現在、本堂の左脇に置いてある。
本堂の前の桜は里桜(普賢象)なので4月中旬、花開いている事であろう。
花びらが観音様の膝のあたりに、はらはらとこぼれている事であろう。
                            以上


塩山市「慈雲寺の垂れ桜」

2005年04月15日 | 文学
一葉と桜1塩山市「慈雲寺のシダレザクラ」

 大菩薩峠に近い、山梨県塩山市の「慈雲寺」には
樹齢300年以上の見事な枝垂桜がある。
 今から、160年前、小説家樋口一葉の両親は
この寺で農閑期に開かれていた寺子屋で学んでいた。
 160年前、この枝垂れ桜は樹齢150年を超えていたから、
二人が出会った頃も、江戸への駆け落ちに悩んでいた時も
現在と同じように美しく花開いていたに違いない。
そして、東京に住んでいた一葉の両親は折に触れ、
故郷の枝垂れ桜の美しさを子供に語ったのではないだろうか。
 大正5年(1916)一葉の妹邦子が先祖の墓参りをした時、
邦子と故郷の人の間で、一葉の記念碑を建てる話が出た、
樋口家の菩提寺は同じ村の法正寺なのに、
大正11年(1922)10月、慈雲寺境内に、一葉の記念碑が建てられた。
昨年、慈雲寺境内に又新しく記念碑が建てられた。

山梨県塩山市「慈雲寺」の枝垂れ桜
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jiunji/index.htm

 樋口一葉の父(大吉)は山梨郡中萩村(現塩山市)の
重郎原の農家樋口八左衛門の長男として、
天保元年(1830)年11月28日に生まれた。
 一葉の母(あやめ)は同じ中萩村の青南組で地主格の農家
古屋安兵衛の長女として、天保5年(1834)5月14日に生まれた。
(江戸時代、農民は原則として姓を名乗らなかったが記録は残っている)
 
 その頃の日本の出来事
嘉永6年(1853)6月3日 ペリー提督が浦賀沖に来航
安政元年(1854)4月   日米和親条約12か条を調印
安政2年(1855)11月   江戸は安政の大地震
安政3年(1856)3月   それまでの洋学所を蕃所調所と改称した。
           蕃所調所は幕府直轄の西洋学術学校で、
           幕臣の子弟を集めて外国語を学ばせていた。
           萩の舎の一葉のライバル田辺花圃の父が勤めていた。
           勝海舟、村田蔵六(大村益次郎)、西周等が籍を置き、
           福澤諭吉も蔵書の閲覧のため一日在籍した事がある。
           後に江戸に来たハリス一行と会議する場所にもなった。
           同郷の先輩真下専之丞が蕃所取調役として勤めていた。
           一年後、江戸に出てきた一葉の父大吉が真下の世話で、
           小使として、最初に勤めた所でもある。
           大吉が勤めた頃、ハリス一行が江戸に来ていた。

    同年   9月    米総領事ハリスが伊豆下田着任した。

 今から150年前、安政4年(1857)旧暦4月6日
村一番の秀才であった一葉の父大吉(26歳)は
自らの蔵書150冊を売り3両の金を工面,
村一番の器量良しと言われた、妊娠8ヶ月のあやめ(23歳)を連れて、
両親に無断で故郷の村を棄てた。
 二人は追手を逃れて、通常の青梅街道で江戸に出る事を避け、
御坂峠を越え、川口吉田から小田原に抜けた。東海道を東に、
藤沢の遊行寺、鎌倉、川崎大師、羽田弁天にお参りしながら、
村を出てから7日目の4月13日に
郷里の先輩真下専之丞を頼って、江戸に着いた。

 一葉の両親が村を捨て、江戸に駆け落ちをした理由について、
つぎのような事が考えられる。

理由1、母方の親が二人の結婚に反対した。
 ①母方の家は地主格の農家で両家の家格が違っていと考えた。
 ②両親はあやめが村一番の器量良しであるから、大吉の家より
   もっと良い家に嫁に行けると考えていた。
 ③樋口家は代々、らい病や結核の家系であったという。
 ②一葉の祖父八左衛門は嘉永4年(1851)村で水争いが起きた時、
   百姓惣代として、江戸に行き、老中阿部正弘に駕籠訴し、捕まった。
   その為、半年間、江戸、小伝馬町の牢に投獄された後に無罪になる。
   理由が如何であれ、大吉は投獄された人の長男であった。
 ③ 大吉は江戸に出る時、蔵書150冊を売り、3両の金を工面している。
   大吉は生来農を好まず、寺子屋では秀才で読書好きであった。 
   投獄された祖父も、学問好きで漢詩や俳句を嗜んでいた。
    母方は畑仕事に熱心でない父方の家風を嫌ったのではないか?
    これは明治になってからの話であるが
    一葉は学校の成績が良かったのに11歳、高等科4級で退学した。
   父親は一葉を進級させようとしたし、一葉も進級を希望していたが、
   母の「女に学問はいらない」という強硬な反対で進級できず、
   学業を途中で止めさせられた。
    (後に小学校中退という学歴は一葉を苦しませた。)

理由2.父方は大吉の江戸行きをそれほど反対ではなかったのではないか?
   一葉の祖父八左衛門は同郷の同輩益田藤助(真下専之丞)が
   江戸に出て、幕府直参にまで出世したのがうらやましかった。
   その夢を寺子屋で成績の良かった長男大吉に託したのではないか。
   小さい時から、江戸に出て、侍になれと父に言われていた。

理由3.一葉の母あやめが妊娠してしまった。
     村に居ずらくなったあやめが大吉に江戸行きをけしかけた。

    (両親の駆け落ちという苦い思い出は一葉の結婚観にも影響している。)