【上代・古代のあいさつ(1)】
≪卑弥呼時代のあいさつ≫ ~魏志倭人伝より~
――下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、
辞を伝へ事を説くには、或は蹲(つくば)り或は跪(ひざまづ)き、
両手は地に拠り之が恭敬を為す。対応の声を噫と曰ふ。
比するに然諾の如し。――
(意味)
支配者である大人に対し、奴隷者である下戸が道で逢えば、
下戸は戸惑い恐縮して道脇の草むらに入り、ものを言うときは、
蹲るかあるいは跪き、両手を地に着いて敬意を表している。
そして、下戸の大人に対する答えはいつも「アイ」である、と
いっているのである。
「あいさつ」・・・大人に対しては「跪伏の礼」
「言葉のやりとり」・・・尋ねられたときのみ「アイ」と答える。
尋ねられなければものを言うことは無い。
中国では、周末から秦・漢時代(紀元前)の儒者の礼儀に関する
説を集めた礼記の中の記載。
――先生に遭うときは、趨りて進み、正しく立ちて手を拱く。
先生之と言うときは即ち対う、之と言わざるときは、即ち趨りて退く。――
当時、中国では「直立拱手の礼」が貴人に対する最高の義礼
だったが、倭人がもっと丁重な「跪伏の礼」をするのを見て驚き、
魏志倭人伝にも記録されたと思われる。
≪飛鳥・奈良時代のあいさつ≫ ~日本書紀より~
『魏志倭人伝』の「跪伏の礼」が伝承して行われていたらしい。
『日本書紀』第廿九巻・天武天皇十一年九月辛卯朔壬辰の、
勅令が出さたという記載。
――勅すらく、跪礼(※ひざまづくゐや)、匍匐(はふゐや)礼(ゐや)は並びに止めて、
更に難波朝廷の立礼(たつゐや)を用イゐよ。――
天武天皇は古来の「跪伏」「匍匐礼」を廃止して、中国風の「立礼」
に改めることを命じた。
『続日本紀』巻三・文武天皇慶雲元年正月辛亥の項
――始めて百官跪伏の礼を停む。――
12年前の跪伏の礼の禁止令を出したにもかかわらず、守られ
なかったため、再び中国の様式による立礼を命じたものらしい。
ところが、その3年後の記。
『続日本紀』巻四・元明天皇慶雲四年一二月辛卯の項
――詔して曰く、凡そ政を為すの道は礼を以先となす。礼無(ゐやなし)ければ
事乱る。事乱るれば、旨を失す。往年、詔ありて跪伏の礼を停む。
今聞く、内外の庁前、皆厳粛ならず。進退礼なく、陳答度を失すと。
これ所在の管司その次を恪(つつしま)ず、自ら礼節を忘るるが
致すところなり、宜しく今より以後、厳かに糾弾を加へ、その
弊俗を革め醇風を靡かしむべし。――
「跪礼を禁止したところ、役所において厳粛にせず、進退に礼が
なくなり、事を述べたり答えたりするのに節度が失われている」
これを正すように命じている。
※ 「ゐやまふ」=礼を尽くすこと
「ゐややか」=礼儀正しいさま
「ゐやなし」=無礼のこと
万葉集(巻第十・三二五三)に「瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国」
とも歌われたように、うかつにものを言えば大きな災いを招くとして、
葬式や誓言などの厳粛な儀式の場所以外では、ものを言うことを
極力慎むという風習があった。
≪平安時代のあいさつ≫
「言」「事」は同じという言霊信仰は急に影をひそめる。
↓
「事」と区別するために、「言」=「言の葉」と表現されるようになる。
かな文字が発明される。
女流作家による文学作品・・・『枕草子』『更級日記』『源氏物語』など
この時代の文学物語に「挨拶」ということばが全く出てこない。
つまり、この時代には「あいさつ」ことばを交わす習慣がなかった
ものと考えられるほかはないという。
戸をたたいて「誰ぞ」と問われて初めて名のるのが、この時代の
他家を訪れた時の儀礼であったようである。
『ごきげんよう 挨拶ことばの起源と変遷』 小林多計士著:参照
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