神の経営(救い)の働きは天地創造の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためであると言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、瞬時に行われるものではなく、一、二年で行なわれるものでもないので、神は人間が生きて行くために必要なもの、すなわち太陽や月、あらゆる種類の生き物や食物、生きるための環境などを数多く創る必要があった。これが神の経営の始まりであった。
神は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。神は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。神は人類に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは神である。神の業はあらゆるところにある。その力はいたるところにある。その知恵はいたるところにある。その権威はいたるところにある。その法則や規則の一つひとつは神の業の具現であり、その一つひとつが神の知恵と権威とを明らかにしている。誰が神の支配を免れることができようか。また、誰が神の意図から逃れることができようか。万物は神の眼差しの下にあり、さらに、神の支配の下で生きている。神の業と力の前に人類は、神が実際に存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人類に施すこともできない。神の業を認識できるかどうか、神の存在を信じているかどうかにかかわらず、あなたの運命は神の定めるところであって、神が永遠にあらゆるものの支配権を持ち続けることに疑いはない。神の存在と権威とは、人間に認められ理解され得るかどうかによって左右されるものではない。神だけが人間の過去・現在・未来を知り、神だけが人類の運命を定めることができる。この事実を受け入れられるかどうかに関りなく、人類は近い将来、これらのことすべてをその目で見ることになる。そして、これは神が間もなく実現する事実である。人類は神の目の下で生き、死ぬ。人類は神の経営のために生きているのであり、その目が最期に閉じる時もまた、神の経営のためなのである。人間は何度も何度も来ては去り、行き来を繰り返す。例外なく、これはすべて神の支配し、定めていることである。神の経営は常に前進しており、やむことがない。神は人類に自身の存在を知らせ、神の支配を信じさせ、神の業を見させ、神の国に戻らせる。これが神の計画であり、何千年にもわたって神が行なってきた働きなのである。
全能神の発表「神の経営の中でのみ人は救われる」抜粋5
広大な宇宙に、どれほどの生ける物が、一つの不変の規則にしたがって生き、いのちの法則に何度も何度もしたがって、生き、再生しているのか。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲劇的な歴史を繰り返す。そこで、人類は自問せずにはいられない。なぜわたしたちは生きるのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰がこの人類を創ったのか。人類はほんとうに大自然の生み出したものなのか。人類はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。…数千年にわたり、人類はこうした問を何度も何度も発している。残念ながら、人類がこうした問に頭を悩ませれば悩ませるほど、ますます科学への渇望が強くなった。科学はささやかな欲求充足と一時的な肉の楽しみを与えはするが、人類を魂の奥底にある孤独や寂しさ、かろうじて隠している恐怖と無力感から解放することなど到底できない。人類は単に肉眼で見、脳で理解できる科学的知識を用いて心を麻痺させている。しかし、そうした科学的知識は人類が奥義を探ることを止めることはできない。人類は、宇宙万物の支配者が誰であるかを知らないし、まして、人類の始まりも未来も知らない。人間はこの法則の中で、ただ生きている、否応なしに。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけだからである。それは、かつて人間が見たことがないお方、人類が知ることもないお方、その存在を人類は信じたこともない。しかし、それは人類の祖先に息を吹き込み、人類にいのちを与えたお方である。人間の生存のために施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人類が生き残るために依存する唯一のお方なのである。
人類の神への信仰の最も悲しい点は、神の働きの只中に人間が自分なりの経営を行い、神の経営そのものには無関心なことである。人間の最大の失敗は、神に服従し神を礼拝することを求めると同時に、人間は自分なりの理想の終着点を打ち立て、どうしたら最大の祝福を得て最高の終着点に行けるかを計算しているところにある。たとえ自分がいかに憐れむべき、憎しみに満ちた哀れな存在かを理解したとしても、自分の理想や希望を簡単に捨て去ることのできる人がどれだけいるだろうか。また、誰が途中で足を止め、自分の事だけを考えるのをやめられるだろうか。神と密接に協力して、その経営を成就する者を神は必要としている。神に服従するために、神の経営の働きに身も心も捧げる人を神は必要としている。神は毎日手を伸ばして神に物乞いする者は必要ではない。まして、わずかばかりを差し出して、その報酬を受けようと待っているような者は、無用である。わずかばかり貢献して自分の栄冠に満足するような者を神は嫌う。神の経営の働きを嫌がり、天国に行って祝福を得ることだけを話したがる心無い人々を神は憎む。それにもまして、神が人類を救うために行なう働きがもたらす機会を通じて利を得ようとする人々を、神は嫌う。そうした人は、神が経営の働きで成し遂げ、獲得しようとしていることにはまったく無関心だからである。そういう人々は、神の働きがもたらす機会を利用していかに祝福を受けるかということだけに気をもんでいる。彼らは、神の心には無関心で、自分たちの未来と運命のことだけに没頭している。神の経営の働きを嫌い、神がどのように人類を救うかとか、神の心についてはまるで関心がない人々は皆、神の経営(救い)の働きと無関係に好き勝手をしている。彼らの行動は、神によって褒められず、認められず、まして神に喜ばれることなどない。
今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目的のために関心のありどころを変え、人生観を変え、求めるものの方向を変えさえする。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分なりの理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に出遭おうと、死をも恐れず目標達成に努力する。どんな力がそのような献身を続けさせるのだろうか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しする信仰心だろうか。神の心を実現させるためにすべてを捨てようとする忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的な欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを知らない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただ驚くべき奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げているかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの行動は分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人々がそれほどまでに神に捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。
神の経営は人間には深遠に思えるだろうが、人間に理解不可能なものではない。神の働きはすべて神の経営に連結しており、人間の救いの働きに関係しており、人類のいのち、生活、終着点に関わっているからである。神が人間の間で、そして人間に対して行なう働きは、まことに実際的で意義深いものだと言える。それは人間が目で見、経験できるものであり、抽象的なものではまったくない。神のする働きすべてを人間が受け入れることができないなら、この働きにどんな意味があるというのか。また、どうしてそうした経営が人間の救いにつながり得るのか。神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。神の働きと神の経営と聞くと、彼らは口を閉ざし、興味を失う。彼らはそうした退屈な問題について知っていても、いのちに成長を与えるわけでも、これといった役に立つものでもないと思い込んでいるため、神の経営についての言葉を聞いてはいても、いい加減に扱うのである。そして、受け入れるべき大切なことだとは思わず、まして、自分たちのいのちの一部として受け取ることもない。そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。
誰もが神による経営(救い)を未知のものだと感じる。なぜなら、神の経営は完全に人間と無関係だと人々は考えるからである。人々はこの経営は神だけの働き、神独自の用事だと考えるので、神の経営の働きに無関心である。こうして、人類の救いは漠然とした不明瞭なものとなり、今では空虚な言葉にすぎないものとなっている。人間は救われて美しい終着点に達するために神に付き従うのだが、神がどのように働きを行なうのかについて無関心である。人間は、神が何を行なおうとしているか、救われるために自分が果たすべき役割については考えていない。なんと悲しいことか。人間の救いは神の経営と不可分であり、まして、神の計画と切り離すことなどできない。それなのに、人間は神の経営について何も考えず、ますます神と離れて行く。そのため、ますます多くの人々が創造とは何か、神を信じるとはどういうことか、神をどう礼拝するか等、人間の救いに密接に関係のある事柄を知らずに神に付き従うようになっている。だからここでは神の経営の働きについて話し、信者の一人一人が神に付き従うこと、神を信じることの意義について明らかに知るようにしなければいけない。そうすれば、ただ祝福を得ようとして、あるいは災いを避けようとして、あるいは成功するために神に付き従うのではなく、歩むべき道をもっと正確に選べるようになる。
あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。真の霊的生活とは祈りの生活であり、それは聖霊に触れられる生活である。聖霊に触れられる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に触れられることのない生活は霊的生活ではなく、依然として宗教儀式である。聖霊により頻繁に触れられ、啓き照らされる者だけが、霊的生活に入った人々である。人の性質は、その人が祈るにつれて継続して変化し、聖霊に触れられれば触れられるほど、その人は一層積極的かつ従順になる。また、その人の心も次第に清められ、その後その人の性質は次第に変化するであろう。これこそが真の祈りの効果である。
あなたが祈りを始める時は、現実的でありなさい。無理をし過ぎてはならない。口を開けばすぐに聖霊により触れられ、啓き照らされ、大きな恵みを授かることを願うような大それた要求をしてはならない。それは不可能なことである。神は超自然的なことは行わない。神は、自分の時に応じて人の祈りを成就する。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。あなたが祈る時には、信仰、根気、決意を備えている必要がある。ほとんどの人が自分で祈りの訓練を始める時、聖霊に触れられたと感じず、失望してしまう。それではいけない。あなたは粘り強さを持たなければならない。聖霊に触れられるのを感じること、また追い求め探究することに集中しなさい。時にはあなたの行動する道が間違っていたり、あなたの動機と観念が神の前で揺るぎなく立脚できないこともある。そのために神の霊があなたを動かさない場合もある。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、あなたは自己訓練に一層努める必要がある。あなたが行動すべき道から逸脱していることが分かった場合は、祈り方を変えればよい。あなたが真に求め、切実に望んでいるかぎり、聖霊はあなたを必ずその現実の中へと導くだろう。時に真の心で祈るが、特に心が触れられたと感じないこともある。そうした場合、あなたは自分の信仰に依り頼み、神は、あなたが祈るのを見ていることを信頼しなければならない。あなたは、祈ることにおいて不屈の忍耐を持たねばならぬ。
神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。祈りの最低基準として、あなたは自分の心を神の前で平静に保つことが出来なければならない。また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間、あなたは新しい、もしくはより高い観点を得ていないかも知れないが、あなたは祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りすることは許されない。これこそがあなたが果たさなければならない最小限である。それすら実現出来ないならば、それはあなたの霊的生活が正しい道に入っていない証拠である。その結果、あなたは元来のビジョンを持ち続けることが出来ず、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は消失するであろう。あなたが霊的生活に入ることは、あなたの祈りが正しい道に入ったかどうかにより特徴付けられる。全ての人がこの現実に対して真摯に取り組み、祈りにおいて自らを意識的に訓練しなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に触れられることを求めなければならない。そうして初めて、彼らは真に神を求める人となるであろう。