全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神教会御言葉讃美歌「神は東方へその栄光をもたらした」

2017-11-30 14:28:21 | 全能神教会御言葉讃美歌

は東方へその栄光をもたらした


神はイスラエルに神の栄光を与えた後
それをそこから取り去り
イスラエル人とすべての人々を東方へ連れてきた
神は彼らをみな光へと導いた
彼らが再びひとつとなり、光と交わるために
これからはもう光を探し求めなくてもいいように
神は求める人すべてに再び光と
イスラエルの栄光を見せるだろう 
見よ、神が人々のところへ白い雲に乗って来るのを 
見よ、白色の雲を 見よ、たわわなる実を 
見よ、イスラエルの神ヤーウェを イスラエルの神を
見よ、ユダヤ人たちの主を 見よ、待ち望んでいたメシアを
いつの時代にも王たちに迫害されてきた神の完全なる現れを
神は全宇宙に働きかけ、偉大な業を為すだろう
終わりの日に、神のすべての栄光とすべての働きを人に示して
神はその顔の栄光の全てを現すだろう
何年も神を待っていた人々に
神が白い雲に乗って来るのを待ち焦がれていた人々に
神が再び現れるのを切望していたイスラエルに
神を迫害する全人類に
そしてすべての人々は知るだろう
神がずっと昔にその栄光を取り去り
それを東方へもたらしたことを
神の栄光はユダヤの地にはない
何故なら、終わりの日がやって来たからだ
『言葉は肉において現れる』より



東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の発表「神を知る者だけが、神の証人となることができる」

2017-11-29 07:58:19 | 全能神の発表

 

 を信じること、そして神を知ることは、天の掟であり地上の原則である。だから、受肉した神が自身の働きをする今こそ、神を知るのに特別相応しい時なのだ。神を満足させるのは神の心を理解する基礎の基にして適えられる。神の心を理解するためには神を知らなくてはならない。神に関する認識とは、神を信じる者が心に持つべきビジョンである。これが神に対する人々の信仰の基礎である。神に関する認識を持っていなければ、その人間の信仰は曖昧で、そこには空疎な理論があるだけである。このように神に従うような決心をしたとしても、手に入る物は何もない。この流れの中で何物をも手に入れることができない者は排除され、単に最小限のことしかできない者たちである。あなたが、神の働きのどの段階を経験するにせよ、力強いビジョンを伴っていなくてはならない。力強いビジョンがなければ、神からの新しい働きの各段階を受け入れることは困難である。というのは人には神の新しい働きを想像することができない。神の働きは人の考えを超えるものだからだ。それだから、面倒をみてくれる羊飼いがいなければ、ビジョンに関して語ってくれる羊飼いがいなければ、人は新しい働きを受け入れることはできない。人がビジョンを受けることができなければ、神の新しい働きを受けることはできない。人が神からの新しい働きに従うことができなければ、神の心を理解することができない。そうなれば、神に関する認識は何の役にも立たなくなってしまう。神の言葉を実行する前に、神の言葉を知らなければならない。つまり神の心を理解しなければならない。理解してはじめて、神の言葉を正確に実行でき、神の心にかなうことができるのだ。真理を求める者全てによって、このことを会得しなければならず、神を知ろうとする者全てによってこうした過程を経なければならない。神の言葉を知る過程は、神を知る過程にほかならず、神の働きを知る過程でもある。だから、ビジョンを知ることは、受肉した神の人性を知るだけではなく、神の言葉と神の働きを知ることでもある。神の言葉から人々は神の心を理解するようになり、神の働きから神の性質を知り、神であるものを知るようになる。神を信じることは神を知ることへの第一歩である。この初めの段階からもっとも深い信仰へと前進する過程は、神を知ることであり、神の働きを経験するという過程である。単に神を信じるという目的だけで信仰を持ち、神を知るために信じるのでないのであれば、あなたの信仰には現実性がなく、純粋な信仰とはなり得ない。これは、疑いのないことである。神を経験する過程の中で次第に神を知るようになると、人の性質は次第に変化していき、その信仰が次第に真実のものになっていく。こうして、神への信仰が持てるようになれば、完全に神を得ることになる。神はこのように長い時間をかけて再び肉となり、人が神を知り神を見ることができるように、人への働きを直接行なった。人が神を知ること[a]ができるのは、神の働きの最後の段階である。神を知ることは、神から人間への最終的な要求である。これは、神が自身の最終的な証として行なうもので、人が遂に完全に神に心を向けるために成されるものだ。人は、神を知ることによって、はじめて神を愛することができる。神を愛するためには神を知らなければならない。どのように求めても、何を得ようと求めても、人は神の認識に到達しなければならない。こうして、はじめて人は神の心を満足させることができる。神を知ることによってはじめて本当に神を信じることができる。そして、神を知ることによってのみ、真に神を畏れ神に従うことができる。神を知らない人々は決して真に神に従い、神を畏れることはできない。神を知ることは神の性質を知り、神の心を理解し、神であるものを理解することを含む。とはいえ、神を知るためのどのような側面にしても、人が代価を払わなければならず、従う意思を持たねばならない。そうでなければ誰も最後まで付き従うことはできない。神の働きは、人の観念とはまったく異なったものであり、神の性質も、神であるものを知ることも、人には難し過ぎる。神が言うことも、行う事柄も、人の理解を超えるものである。神に付き従うことを望みながら神に従おうとしない者は、何も得ることはできない。天地創造の時から今日に至るまで、神は人には理解できず、受け入れ難い多くのことを行ってきた。そして、人は神が言った言葉の多くを理解できず、受け入れることもできない。それでも、神は自身の働きをやめようとはしない。なぜなら、人にはあまりにも多くの困難があるからだ。神は働きをやめず、語りかけもやめようとはしない。多くの「戦士たち」が道端に倒れてしまっても、神は自身の働きを続け、神の新しい働きに喜んで従う人々の群れを次々と選び続ける。神は、これらの倒れた「英雄たち」を憐れむことなく、神の新しい働きと言葉を受け入れる者たちを大事にする。ではこの段階を踏んだ神の働きはどこで終わるのだろうか。なぜ、神は人々を選りわけ、選別するのだろうか。なぜ、神はそうした手段を取るのだろうか。神の働きの目的は、人が神を知り神のものとされることである。神の働きの原則は、現在の神の業に従うことのできる人々に働くことであり、過去の神の業に従っても現在の業には従わない人々に働くことではないからだ。こういうわけで、神は多くの人々を排除するのであるのだ。

 神を知るという訓練の成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、困難に耐え、そして真の服従心を持たなければならない。まず、神の働きと神の言葉から始めることだ。神を知るとはどのようなことを含むのか、神の認識にどのようにして到達できるのか、自分の経験において神をどのように見るかを知らねばならない。神を知ろうとする者は、これらのことが必ず必要になる。神の働きと言葉とをただちに把握できる人はいない。短い期間に完全なる神の認識に到達することは誰にもできない。必要な経験を積み重ねることが求められ、それがなければ誰も、神を知ることも神に心から従うこともできない。神が多くの働きをすればするほど、人は神についてより多くを知ることになる。神の働きが人の考えと異なれば異なるほど、人は神について新しく知り、深く知るようになる。神の働きがいつまでも変わらなければ、人は神について少ししか知ることができないだろう。天地創造の時から今日に至るまで、神が律法の時代に何を行ったのか、恵みの時代に何を行ったのか、神の国の時代に何を行うのかをはっきりと知らなければならない。あなたがたは神の働きを知らなければならない。ペテロは、イエスに従ってはじめて、霊がイエスの中でなされたことを知るようになった。ペテロはこう言っている。「神の全き認識に到達するには、人の経験に頼るだけでは不十分である。神の働きにより多くの新しいものを受け、私たちが神を知るような助けが必要だ。ペテロは初め、イエスが使徒達同様、神から遣わされたと信じており、イエスをキリストとして見てはいなかった。ペテロがイエスに従うように啓示を受けた時、イエスはペテロにこう尋ねた。「バルヨナ・シモンよ。わたしについてくるか。」。ペテロは答えて言った。「私は天の父から遣わされたお方に従わなくてはなりません。私は聖霊によって選ばれたお方を認めなければなりません。私はあなたに従います。」ペテロの言葉から、ペテロがイエスに関して何も知らなかったことが分かる。ペテロは神の言葉を経験し、自らと向き合い、神のために苦難を受けたことがあった。それでもペテロは神の働きを知らなかった。一定の経験を積んだのちに、ペテロはイエスの中に神の業を見、神の愛すべきことと神であるものを見た。そしてイエスの言葉は人が話すことのできないものだと知り、イエスの働きは人にはできないものだと知った。さらに、イエスの言葉と働きの中に、神の知恵と神性の働きが多く含まれていることもペテロは知った。ペテロはこの自身の経験の中で、自らを知るに至っただけでなく、イエスの行うことを見ることに焦点を当て、新しい事柄を数多く学んだ。つまり、イエスを通して神が行った働きの中に、実際の神が多く表現されており、イエスの言葉や行い、教会の牧養の仕方やその働き方が、普通の人とは異なっているということを学んだ。こうして、ペテロはイエスから学ぶべきことを数多く学び、イエスが十字架に架かる時までに、イエスに関してある程度の認識を得ていた。こうした認識によって、ペテロは生涯イエスに忠実に仕え、イエスのために逆十字の刑を受けたのだ。ペテロは誤った考えにとりつかれ、最初はイエスをはっきり知ることができなかった。だが、これは、堕落した人間にとっては無理からぬことである。イエスは別れの時、ペテロに向かって、自身がやって来たのは十字架にかけられるためだと言った。この時代によって見捨てられなくてはならない、この汚れた古い時代によって釘付けにされなくてはならないと言った。そのようにして贖いの業を完成させることによって自身の職分が終わるのだと。ペテロはこれを聞いて悲しみに満ち、ますますイエスに忠実に従おうと思った。イエスが十字架に架けられた時、ペテロは一人で激しく泣いた。ペテロは以前、イエスに訊ねたことがあった。「主よ。あなたは、ご自分が十字架に架けられるとおっしゃいます。あなたが去られた後、私たちはいつあなたに再会できるのですか。」ペテロの言葉は混じりけがないだろうか。ペテロの言葉は彼自身の観念ではなかったのだろうか。ペテロは心の中で、イエスが地上にやって来たのは神の働きを完成させるためであり、イエスが地上から去った後、霊が自分と共にあることを知っていた。つまり、イエスが十字架に架けられ天に昇っても、神の霊がペテロと共にあるということを知っていた。当時ペテロはイエスに関する認識をある程度持っており、イエスが神の霊によってこの世に遣わされ、神の霊がイエスの中に存在すること、イエスが神自身であり、キリストであることを知っていた。だが、ペテロがイエスを慕っていたために、そして、人間の弱さを持っていたために、ペテロはこのようなことを言ったのだ。あなたが、神の段階ごとの働きに対して、細かい部分まで注意して見ることができ、経験することができれば、神の愛すべきことを次第に理解できるだろう。一方、パウロのビジョンはどのようなものだったのだろう。イエスがパウロに現れた時、パウロはこう言った。「主よ、あなたはどなたですか。」イエスは答えて言った。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。これがパウロの抱いたビジョンだった。ペテロは、イエスの復活と地上での40日間、そしてイエスの生涯での教えに基づいて、その旅路を終えるまでビジョンを持ち続けた。

 人は神を経験し、自らを知り、自分の堕落した性質を捨て、神を知るためにいのちの成長を求める。もしあなたが、自らを知り、堕落した性質に取り扱うことだけを追い求め、神の人に対する働きが何であるかを全く知らず、神の救いがどれほど偉大なものかを知らず、神をどのように経験し、神の業の証人となるにはどうしたらよいかを知らないのであれば、あなたの経験は虚しいものである。あなたが、真理を実践でき、忍耐できればいのちが成長したと考えるのであれば、いのちの意味を理解できていないのであり、神の人間に対する働きの目的を理解していない。あなたが教会に参加したり、「悔い改めの教会」や「命の教会」に参加したりするようなことがあれば、多くの敬虔な人々に出会うだろう。彼らの祈りにはビジョンが含まれ、いのちを求める中で人々を導く言葉を有する。さらに、彼らは多くの物事を耐えることができ、己を捨て、肉体的なものにつられることもない。その時あなたには違いが分からないだろう。あなたは、彼らの行ないが正しいと思い、それがいのちの自然な表現だと思うだろう。だが、残念ながら、彼らの信じる名前は間違っている。そのような考えは愚かなものではないか。多くの人々がいのちを持っていないとどうして言われるのだろうか。彼らは神を知らず、それゆえ彼らは神を持たず、いのちを持たないと言われる。あなたの神に対する信仰がある地点まで高められ、神の業と神の現実性と神の働きの各段階を十分に知ることができれば、あなたは真理を自分のものにすることができる。あなたが神の働きと性質を知らなければ、あなたの経験は十分なものではない。イエスがどのようにその段階の働きを行ったのか、今の段階の働きがどのように行なわれているか、そして神がどのように恵みの時代の働きを行い何を行ったのか、この段階では何を行っているのか―これらの認識を十分に持っていなければ、あなたは決して確信を得ることはなく、安心することもない。一定の経験を積んだのちに神による働きと神の働きの各段階を知ることができ、神の言葉の目的に対する十分な認識を得ることができれば、それとなぜ言葉の多くが、いまだに成し遂げられていないのかを理解できれば、あなたの心は穏やかになり、心配も精錬もなく、大胆に目の前の道を進んでいくことができる。あなたがたは、神が何を用いてそれほど多くの働きを成就するのかを知らなければならない。神は自身が語る言葉を用い、さまざまな言葉を通して人を練り、人の観念を変える。あなたがたが耐えてきた苦難、経験してきた心の鍛錬、心に受け入れてきた神からの取り扱い、経験した啓き、それらはすべて神が語る言葉によって成就されたのだ。人は何故に神に付き従うのだろうか。それは、神の言葉故である。神の言葉は神秘的で、人の心を動かし、その心の奥深くに明らかにされ、過去の出来事を教え、未来を見ることを可能にさせる。こうして、人は神の言葉によって苦難に耐えることができ、神の言葉によって完全なものとされる。そうなってはじめて、人は神に付き従うようになる。この段階で人がすべきことは、神の言葉を受け入れることである。自分が完全なものとされているか、練られているかどうかにかかわらず、鍵となるのは神の言葉である。これが神の働きであり、人が今日知るべきビジョンである。

 神はどのようにして人を完全にするのだろうか。神の性質とはどのようなものだろうか。そして神の性質には何が含まれるのだろうか。それはすべて理解されなくてはならない事柄だ。理解することは神の名を広めることであり、神を証すことであり、神を讃えることである。神を知る基礎を築くことで、人は最終的にいのちの性質を変えることができる。多く取り扱われたり練られたりすればするほど、人は力を得ることになり、神の働きの段階が多ければ多いほど、人はより完全にされる。今日、人が経験を積む中で、神の各段階の働きは人の観念と反する。どの段階も、人の知性の及ばないものであり、人の予想を超えるものである。神は、人にとって必要なものをすべて与えてくれて、それは人の観念とあらゆる面で一致しない。人が弱っている時に神は言葉を発する。こうすることでのみ、神はあなたにいのちを与える。自分の観念に反発することで、神からの取り扱いを受け入れるようになり、そうすることでのみ、あなたの堕落を排除できる。今日、神は受肉して、神性において働くが、また普通の人性を通しても働く。神のどの働きも否定すべきでなく、神が普通の人性において言うことと行う事全てに従うべきである。たとえどれほど普通であっても、あなたは従い、理解すべきである。ひとたび実際に経験すれば、この方が神であることを確信することができ、自分勝手に解釈することなく、最後まで神に付き従うことができる。神の働きには知恵がある。どうすれば、人が神の証人となれるかを神は知っている。神は、人の重大な弱点を知っており、あなたの重大な弱点を、その言葉によって突いてくる。だが一方で、神は威厳があり知恵に満ちた言葉を通して、あなたを神の証人として立たせてる。これは神の不思議な業だ。神によってなされる働きは、人の知性では測り知ることができない。神の裁きは、肉である堕落した人間が持つものとその本質を明らかにすることで、人が己の恥から隠れる場所はなくなる。

 神が裁きと刑罰の働きを行うのは、それによって人が神を知り、神を証すためである。人の堕落した性質を神が裁くことがなければ、人が犯すことのできない神の義なる性質を、人が知ることはできず、神に関する古い認識を捨てて新しい認識を得ることもない。神が証すため、そして自身の経営(救い)のために、神はそのすべてを明らかにし、そうすることで人は、神が公に顕われることにより、神の認識に到達することができ、その性質においても変えられ、人が力強い証し人となれるようにした。神のさまざまな働きを通して、人の性質が変化する。そうした変化なしには、人は神への証人とはなれず、神の心にかなうこともできない。人の性質が変化するということは、人がサタンの束縛から自由になり、闇の影響を脱し、真に神の働きの雛形や見本となることを意味しており、真に神の証人となり、神の心に沿うものとなったことを意味する。今日、肉となった神が地上での働きをするためにやって来た。神は、人が神の認識に到達し、神に従い、神への証しとなることを要求する。神の実際の働きと普通の働きを知り、人の考えには沿わない神の言葉と働きすべてに従い、人を救う神のすべての働きと、人を征服する神のすべての行いに対して証しとなることを要求する。神を証すものは神の認識を持たなければならない。そのような証しだけが正確であり、本物であり、そのような証しだけがサタンを恥じ入りさせることができる。神は、裁きと刑罰を経験し、取り扱われ、刈り込まれることを経験し、それによって神を知ることになる者を、自身の証人として用いる。神はサタンにより堕落させられた者を自身の証人として用い、また、その性質が変わり、それにより神の祝福を得る者を、自身の証人として用いる。神は人の口先だけの賞賛を必要とせず、サタンのやからで救いを得ていない者たちによる賞賛も証しも必要としない。神を知る者だけが、神への証しとなる資格がある。性質を変えられた者だけが、神への証しとなることができる。神は人が意図的に自身の名を辱めることを許すことはない。

脚注:

a. 原文は「神を知る働き」となっている。


私たちについて:全能神教会の紹介

もっと知る:  [東方閃電全能神教会はどうやって創られたでしょうか 



全能神御言葉カード

2017-11-27 15:10:39 | 全能神御言葉カード

 

は言われた。「本物の被造物は創造主が誰か、人間はなぜ創造されたか、被造物としてどう責任を果たすか、万物の創造主をどう礼拝するかを知り、創造主の心、望み、要求を理解し、把握し、知り、大切に扱わなければならない。」

 

 

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神御言葉讃美歌「全てのものに及ぶ神の完全なる配慮」主の愛も、主の救いも確かなものだ

2017-11-26 14:54:40 | 全能神教会御言葉讃美歌

全てのものに及ぶの完全なる配慮

神の偉大さ 神の聖さ 至高の権威 そして愛
神の本質と 性質の詳細は
神が自らの働きを 行う度に 明らかにされる
それらは全ての 人に対する
神の意志の中に 見受けられ
全ての人の 生命(いのち)の中で 成し遂げられる

人生の中で 人々が 感じていても いなくても
神はいつでも あらゆる方法で
一人ひとりのことを 思いやりまた 心配している
神は真心と 知恵をたずさえ
様々なやり方を 用いて
心温め その魂を 揺り動かす
これらの事は 今日も 明日も 永遠に
変わる事ない 真実である

神の偉大さ 神の聖さ 至高の権威 そして愛
神の本質と 性質の詳細は
神が自らの働きを 行う度に 明らかにされる
それらは全ての 人に対する
神の意志の中に 見受けられ
全ての人の 生命(いのち)の中で 成し遂げられる
これらの事は 今日も 明日も 永遠に
変わる事ない 真実である
『言葉は肉において現れる』より



 

私たちについて:全能神教会の紹介

 

世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう




全能神の発表「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」

2017-11-25 13:46:15 | 全能神の発表

 

 大抵の人のへの信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を畏れるのは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから崇めている―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことができず、神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

 神は現実と事実を用いて、人々を完全にする。神の言葉は、人間を完全にするための働きの一部であり、これは導きの働き、道を開かれるということなのだ。いわば、神の言葉によって人は実践の道を見出し、ビジョンに対する認識を見出さなければいけないのだ。これらのことを理解していれば、実践の中に道とビジョンを得、神の言葉によって啓くことができよう。これらのことは神から出たものであると理解し、多くを識別できる。理解した後、ただちにこの現実に入り、神の言葉によって、現実の生活において神を満足させなければならない。神は、あらゆることであなたを導き、実践の道を示し、神のすばらしさを感じさせ、神の働きのあらゆるもの全ては、あなたを完全にするためのものであることが理解できるようにしてくれる。もし神の愛を知りたいのなら、もし神の愛を真に体験したいのなら、現実に深く入らなければならず、現実の生活に深く入らなければならない。そして、神のすることはみな愛であり、救いであり、人間が汚れたものを捨て去り、内にある神の心を満たすことのできないものを練られるようにするためだということを理解しなければならない。神は、人間にいのちを供給するために言葉を用いる。また、人間が体験できるよう、現実の環境を創る。そして、もし人間が神の言葉を多く飲食するならば、それを実践したとき、神の言葉を用いれば、現実の問題をみな解決できる。つまり、現実を深く入るには、神の言葉を身につけていなければいけないということなのだ。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の働きがなければ、生きるうえでの道を見いだすことがない。神の言葉を飲み食いすることがなければ、何か起こった時に惑うことになる。神を愛することだけを知り、識別することを知らなければ、また、実践の道を知らなければ、あなたは惑い、混乱して、時には肉の欲求を満たすことが神の心にかなうことだと思い込む。こうしたことはみな、神の言葉を飲み食いしていないから起こることなのだ。つまり、神の言葉を助けにすることなく、現実の中で手探りしているだけでは、根本的に実践の道を見出すことができないのだ。こうした人は、神を信じるということがどういうことなのかを全く知らず、まして、神を愛するということがどういうことかを理解していない。もし神の言葉の啓きと導きとに従ってしばしば祈り、探り、求め、それによって実践すべき事柄を見いだし、聖霊の働きの機会をみつけ、真に神と協力し、惑い混乱することがないなら、現実の生活に道を見出し、本当に神を満足させることになる。神を満足させれば、あなたの心の内に神の導きがあり、神から格別の祝福を受ける。すると、喜びを覚える。あなたは神を満足させたことを特に光栄に感じ、特に内に光を感じ、心は明瞭で安らかである。意識は穏やかで、責められることがない。また、兄弟姉妹を見ると、心楽しい。これが神の愛を享受するということであり、これだけが真に神を喜ぶということなのだ。神の愛を享受するということは経験によって得られる。苦難を経験し、真理を実践し、神の祝福を受ける。神が本当に愛してくれると神は人々に重い代価を払い、神は忍耐強く、やさしく多くの言葉を話し、いつでも人々を救ってくれると口にするだけなら、あなたが言うこれらの言葉は神にある喜びの一面に過ぎない。もっと現実的な喜びは、真理を現実の生活で実践することだ。そうすると、心は安らかで明晰になり、内に深い感動を覚えるだろう。そして、神はほんとうにすばらしいお方で、自分の払った代価は十分に価値あるものだと感じるだろう。大きな代償を払って努力したあなたは、とりわけ明るい気持ちになるだろう。自分が真に神の愛を受けていて、神が人々に救いの働きをし、神が人々を練るのは清めるためであり、神が人々を試すのは、本当に神自身を愛しているかどうかを調べるためだということがわかるのだ。もしあなたがいつでもこのように真理を実践するなら、徐々に神の働きについての明確な認識を身につけ、そうしたときいつでも、神の言葉が水晶のように明瞭であると感じるようになる。多くの真理を明確に理解できるなら、すべてのことは容易に実践でき、問題を乗り越え、誘惑に打ち勝てると感じ、また、困難なことは何もないとわかる。そうすると、ほんとうに解放され、自由な状態になる。そのとき、あなたは神の愛を享受し、神の真の愛があなたのものになる。神はビジョンを持つ者、真理を得、認識を得、心から神を愛する者を祝福する。神の愛を得たいのなら、日々の生活の中で真理を実践しなければいけない。進んで苦痛に耐え、愛するものを捨てて神を満足させ、たとえ涙することがあっても、神の心を満足させるのでなければいけない。そうすれば、神は必ずあなたを祝福する。そして、もしそうした困難を耐え忍ぶなら、聖霊の働きが行われるだろう。現実の生活の中で神の言葉を経験することで、人々は神の愛すべきことがわかるのであり、神の愛を経験してはじめて、人は真に神を愛せるのだ。

 真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でいなさい。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造したことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

 人々はよく、神が自分のいのちだと言うが、まだそうなるところまで経験していない。人々は単に神が自分のいのちであり、毎日自分を導いてくれる。自分たちは毎日神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになってきていると言う。こうしたことを言う人々の認識は表面的なものに過ぎない。多くの人々は基礎ができていない。神の言葉は植えつけられたが、まだ芽を出しておらず、まして実を結んでなどいない。今日、どの程度まで経験しているだろうか。ここまで神が強引に連れてきてやっと、神と離れることはできないと感じているのだろうか。いつか、一定のところまで経験したところで、神があなたを去らせようとするなら、あなたは立ち去ることができなくなるだろう。あなたはいつでも、神がいなければ生きていられないと心の中に感じるだろう。夫や妻、子供、家族、父母、肉の喜びはなくとも生きることはできるだろう、しかし、神なしでは、いられない。神なしでいるのは命を失うようなもので、神なしでは生きていられない。こういう状態になるまで経験を積むと、神への信仰の到達点の一つに至ったと言える。そして、このようにして神はその人のいのちとなり、存在の基礎となると、決して二度と神と離れることができない。こうしたところに至った人は、真に神の愛を喜んでいる。神との関係は真に密接になり、神があなたのいのち、愛となり、あなたはこう祈る。おお、神よ。あなたから離れることができません。あなたはわたしのいのちです。他のすべてがなくともやっていけます。でも、神なしでは、生きていけません。これが人々の真の姿、これがまことのいのちである。中には、今日まで、強制されてきた人々もいる。その人たちは望むと望まざるとに関わらず進まなければいけない。その人たちは、いつでも苦難の板挟みなっていると感じる。神が自分のいのちであること、神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

 人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。ビジョンを基礎とし、進歩を求める人々は、神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかで、神に敵対したり、神を怒らせたり、あるいは、神の内なる働きを無にしたり、それまでに経てきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望まない。そうした人々には、進んでそれまで以上の努力を注ぎ、もっと神を愛そうという気持ちを持っている。

 もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。人々は、他人からそうするように駆り立てられて神を愛するのではない。また、一時的な感情の衝動に動かされて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべきことを見たからであり、神には人々が愛するに値するものが数多くあること、神の救いと知恵、驚くべき業を見、その結果、心から神を讃え、心から神を求め慕い、神を自分のものとしなければ生きて行けないほどの掻き立てられた情熱が芽生えるのだ。真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。



東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます


御言葉讃美歌「洗い清められた者だけが最後の安息に入れるだろう」世の終わり、クリスチャンは神に清められ、天国へ引き上げられる

2017-11-23 13:20:22 | 全能神教会御言葉讃美歌

洗い清められた者だけが最後の安息に入れるだろう

I
未来の人は アダムとエバの子孫でありながら
もはやサタンの 支配下にない
救われ、洗われ 清められた人だ
裁かれ罰せられ聖められた人類
創めの人類アダムとエバとは
全く別の人類なのだ
サタンに堕落させられた者たち
その中から選ばれた人たち
最後の審判の中でもしっかと立ち
残ったこの人たちだけが
と共に 最後の安息に入れるのだ

II
神と一緒に 最後の安息に入れるのは
最後の裁き 懲らしめの日に
きよめの業にも 揺るがない人のみ
裁かれ罰せられ聖められた人類
創めの人類アダムとエバとは
全く別の人類なのだ
サタンに堕落させられた者たち
その中から選ばれた人たち
最後の審判の中でも しっかと立ち
残ったこの人たちだけが
神と共に 最後の安息に入れるのだ


裁かれ罰せられ聖められた人類
創めの人類アダムとエバとは
全く別の人類なのだ
安息に入るに足る者たちは
最後の清めの業を受け
サタンの力から放たれ 神によって
勝ち取られ、最後の安息に入る 
最後の安息に入れるのだ
『言葉は肉において現れる』より



東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。



全能神の発表「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」

2017-11-22 14:04:09 | 全能神教会のアプリ

 

 あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語った言葉を聞きたいか。もしそうであれば、イエスの再臨をどのように歓迎するのか。あなたは完全に再臨への備えができているか。どのようにしてイエスの再臨を歓迎するだろうか。イエスに付き従う兄弟姉妹ならだれでもイエスを歓迎したいだろう。しかし、イエスが再び来る時、あなたがイエスを本当に知っているかどうか、考えてみたことはあるだろうか。あなたがたはイエスの語る全てを心から理解するだろうか。イエスの働きの全てを、無条件に心から受け入れるだろうか。聖書を読んだことのある者なら誰でもイエスの再臨を知っており、聖書を読んだことのある者なら誰でも一心にイエスの再臨を待ち望む。あなたがたはその瞬間の訪れにひたすら執着しており、その誠意は賞賛すべきものであり、あなたがたの信仰は羨望に値する。しかし、あなたがたが重大な間違いを起こしていることに気づいているか。イエスはどのように来るのか。あなたがたはイエスが白い雲の上に再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。もしイエスが、最初にあなたがたのところへ再臨するとしたら、他の人達はこのことをあまりに不公平と考えないだろうか。わたしは、あなたがたが非常に誠意のある、イエスに忠実な人であることを知っているが、あなたがたはイエスに会ったことがあるのか。あなたがたはイエスの性質を知っているのか。あなたがたはイエスと共に生活したことがあるのか。あなたがたはどれだけ本当にイエスのことを理解しているのか。わたしが語る言葉は人泣かせなものだと言う者もあるだろう。彼はこう言うのだ。「私は聖書を隅から隅まで何回も読んだのだ。イエスを理解できないことなどあるだろうか。イエスの性質は言うまでもなく、わたしはイエスが何色の服を好むかさえ知っている。あなたは私がイエスを知らないと言うが、あなたは私を見くびっているのではないか。」このような問題については、争わないようあなたに提案したい。落ち着いて、次のような質問をしたい。一つ目は、何が実際で何が理論かを、あなたは知っているか。二つ目は、何が観念で何が真理かを知っているか。そして三つ目は、何が人間の想像で、何が現実かを知っているか。

 自分がイエスを理解していないという事実を認めない人達もいる。それでも尚わたしは、あなたがたがイエスを少しも理解しておらず、イエスの言葉をひとつも理解していないと言おう。それは、あなたがたはみな聖書により付き従っており、他の誰かが言ったことにより付き従っているからである。あなたがたはイエスに会ったことがないし、ましてや一緒に住んだこともなければ、わずかな時間を共に過ごしたことさえない。そうであれば、イエスに対するあなたの理解は理論だけではないか。現実味が欠けているのではないか。イエスの肖像画を見たことのある人もいるだろうし、イエスが住まった家を訪れたことのある人もいるだろう。イエスの着た服を触ったことがある人もいるだろう。たとえあなたがイエスの食したものと同じものを食べたとしても、あなたのイエスに対する理解は現実的なものではなく理論上のものでしかない。いずれにせよ、あなたはイエスに会ったこともなく、肉となったイエスとともに過ごしたことは一度もないのだから、あなたのイエスに対する理解はどこまでも現実味の欠けた空論でしかない。おそらくわたしの言葉はあなたにとってほとんど興味のないものだろう。だがあなたに聞きたい。例えば、あなたが自分の大好きな作家の作品を何冊も読んだとする。あなたはその作者と一度も一緒に時間を過ごしたこともないのに、本当にその作者を理解できるだろうか。その人の性格がどのようなものか分かるだろうか。その作家がどのような人生を送っているか、あなたに分かるだろうか。その作家の感情が理解できるだろうか。あなたは自分が尊敬する人すら完全に理解することができないのに、どうしてイエス・キリストを理解できるだろうか。イエスに対するあなたの理解は想像と観念に満ちており、真理と現実性の欠片もない。どうしようもなく粗末で、肉的なもので満ちている。そのような理解しかないのに、どうしてイエスの再臨を喜ぶに相応しい者となり得よう。肉的な空想と観念にみちたものを、イエスは受け入れない。イエスを理解しない人々がどのようにイエスを信じる者となり得ようか。

 あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからだ。これほど愚かで頑固で無知な彼らが、神の祝福を得られるだろうか、とあなたがたが言ってみよ。彼らがメシアに会うことなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きのめざすものを知らなかったためにイエスに敵対した。イエスの語った真理の道を知らなかったために、イエスに敵対し、さらにはメシアを理解できなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従うことはなかった。彼らが神を信じる原則は、「どれほどあなたの説教が奥深く、どれほどあなたに権威があろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしいものではないのか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったならば、最初のパリサイ人たちと同じ過ちを簡単に犯してしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことはできるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死のふちに生きているとわたしは言おう。メシアを理解しない人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができる。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。さらに、彼らはイエスの再臨をサタンの偽りとして見ることができ、より多くの人が受肉による再来したイエスを非難するはずだ。このこと全てがあなたがたを恐れさせないだろうか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが語った言葉の全てをはねつけることとなる。あなたがたがそれほど混乱しているなら、あなたがたはイエスから何を得るのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気がつくのを拒絶した場合、イエスが白い雲に乗って肉に戻る時にあなたがたはイエスの働きをどのようにして理解できるのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅びる民族である。あなたがたはイエスの恵みを単に望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、イエスが肉に戻る時イエスが表明した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯し、繰り返しその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスに対しあなたがたは捧げ物として何を差し出すことができるのか。自らを称賛する、長年の仕事で築いてきた労働という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

 あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は知性と観念のみであり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないか。今日なお、あなたがたはありとあらゆる真理の言葉に対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。あなたがたはキリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どうすれば聖霊の働きに入ることができるのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の策略の間の区別の仕方を知らない。あなたがたはただ、あなたがたの思いに沿わない、神が表明した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、必ず滅ぼされる部類に属する。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の跡継ぎであり、天使長の子孫であり、永遠の破滅を逃れることのできない輩である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。その時あなたは大きな興奮に包まれるだろう。だが、あなたがイエスが天から降臨することの証人となる時は、あなたが地獄へ送られ、懲罰される時でもあることを、あなたは知るべきだ。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽のキリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を差し出すイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に対処するしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、あまりに傲慢だ。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大きな救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりすべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしはあなたがたに、注意深く信仰の道を歩むよう助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたはうわべだけ神を信じたり、気楽に信じたりしてはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだあなたはおそらく、自分の信念と聖書に沿っている言葉は1万語にひとつだと信じているだろう。あなたはその1万分の1の言葉の中で求め続けなければならない。わたしは更にあなたに助言する。謙虚であり、自身過剰にならず、思い上がらないようにと。あなたの中の神に対するわずかな畏敬の念からより大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるだろう。これらの言葉をほんの数行読んだだけで、「これは聖霊の示しのほんの一部でしかない」とか、「人々を欺く偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるだろう。そのようなことを言える人たちはあまりに無知だ。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日に偽キリストが現れることにより、神の言葉を盲目的に非難してはならない。策略を恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないのか。もし良く調べた上で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと信じるなら、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないか。あなたは神の玉座の前に戻る幸いに与ることができないということではないのか。そのことを考えてみなさい。軽はずみで衝動的な人であってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のことを考え、前途を考え、そしてあなたのいのちのことを考え、自らをいい加減に扱わないようにしなさい。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるだろうか。



私たちについて:全能神教会の紹介

世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう


 


全能神御言葉カード

2017-11-21 14:15:09 | 全能神御言葉カード

 

は言われた。「信仰とは信じと信頼を意味する。あいとは、崇め、称賛し、決して離れないことである。」

 

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神教会御言葉御言葉讃美歌「神はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する 」キリストの人間に対する真の愛

2017-11-19 14:19:09 | 全能神教会のアプリ

 

はただサタンを打ち負かし、全人類を救うために受肉する


神が肉体として地上にいる間
人々の間で神の業を行なう
全ての業にはたった一つの目的がある
それは悪魔サタンを打ち倒すこと
神は人を征服することでサタンを倒す
また人々を完全な存在にすることで
世界に鳴り響くような証しとするならば
これもサタンの敗北のしるし
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった


悪魔のサタンを打ち倒すためには
まず人を征服し完全なものにする
本質的にサタンを打ち破ると同時に
神は人を苦悩の世界から救う
この業を為すのが中国でも全宇宙でも
すべてサタンを倒し人々を救うために
人々が安息の地へ入ることができるように
神は人類を救おうとする
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
神が普通の肉体に宿たのは
サタンを打ち倒すためである
この受肉の神の業は
天の下で神を愛する全ての者を救うこと
人類を征服して サタンを打ち破るため
人類を救うためにサタンを倒すことは
神の業全ての真髄から切り離せない
神は全人類を救うため
神はサタンを打ち倒して人類を救うため肉体となった
『言葉は肉において現れる』より



 

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