全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神の発表「将来の使命にどのように取り組むべきか」

2017-07-31 23:02:01 | 全能神の発表


 

 

 あなたは年代ごとのの性質を時代の特徴を踏まえて表現できるだろうか。神の働きに関するあなたの経験を通して、神の性質を詳しく述べることができるだろうか。あなたはそれをどのようにして適切且つ的確に述べることができるだろうか。もし述べることが出来るなら、他の人たちがあなたの体験から学ぶことができる。あなたの見たもの、経験したものを、義に飢え渇き、守り導いてくれる羊飼いを待っている哀れでかわいそうな宗教熱心な信者たちにどのようにして伝えるだろうか。どんな「人物」があなたに羊飼いとなってもらおうと待っているのだろうか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、使命、責任などを理解しているだろうか。あなたは歴史上での自分の使命感を持っているだろうか。次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたは主人としての意識を強く持っているだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それは本当に世界の全ての生き物と全ての物体の主人であるのだろうか。次にすべき事を、どのような計画で進めるだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたに任された任務は重くないか。彼らはみじめで、哀れで、盲目で、途方に暮れ、そして暗闇の中で泣き叫んでいる。「どっちに行ったらいいのか」と。光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の力をまき散らしてくれることをどれほど彼らが待ち望んでいることか。どんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているか、誰が知ることができるだろうか。深く耐え忍んでいる人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光がひらめく日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日がいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのないこれらのもろい霊はまことにそのような不幸をこうむっている。彼らは長い間無情なロープと凍ったままの歴史で封印をされてきた。誰が彼らの叫び声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな顔つきを見たことがあるだろうか。神の心はどれほど深く悲しみ、心配しているかを考えたことがあるだろうか。神は自身の手で創った罪のない人類がそのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。何といっても、人類は毒された不幸な人たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者に長い間毒を盛られていたと誰が思っただろうか。あなたは自分も犠牲者であることを忘れてしまったのか。あなたの神への愛で、生き残った人たちを救うために喜んで努力しようと思わないだろうか。自分の肉と血のように人類を愛する神に恩返しするために全力で取り組みたいと思わないだろうか。神に用いられて並外れた人生を生きることをどのように理解しているだろうか。あなたは「敬虔で神に仕える人」の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。



東方閃電 全能神教会御言葉を分かち合います。全能神は真理です


                                          


 

 


全能神の発表「終着点への準備をするために、十分な善行をしなければならない」

2017-07-30 22:59:07 | 全能神の発表

 

 わたしはあなたがたの間で多くの仕事を成し遂げ、もちろん、語って来た。しかし、わたしの言葉や働きは終わりの日のわたしの働きの目的を完全に達成していないと感じる。終わりの日には、わたしの働きはある人や人々のためではなく、わたしの本来の性質を現わすためにある。しかし、無数の理由から―おそらく、時間が足りず、多忙を極めた仕事のスケジュールなどの理由で―わたしの性質により人がわたしのことを少しでも知るようにさせるには至らなかった。ゆえに、わたしの新しい計画、わたしの最後の働きへと前進して新しいページを開き、その結果、わたしを見る者たちはみな、わたしの存在のために胸をたたいて、とめどなく泣くだろう。わたしはこの世に人類の最後をもたらし、その後、わたしの性質をすべて人類に公布するからだ。そうして、わたしを知っている人たちもわたしを知らない人たちもすべて「喜んで見つめ」る。そして、確かに、わたしが人々の中に現れ、全てのものが増える地上に来たことを知るのである。これはわたしの計画であり、わたしの人類の創造以来、たったひとつの「告白」である。あなたがたにわたしの一挙一動を心から見つめて欲しいと願う。わたしの杖はもう一度、人類へと向けられ、わたしに敵対する者たちすべてに向けられるからだ。

 天と共に、わたしは自分がしなければならない仕事を始める。そのため、わたしは人々の流れの中を旅し、天と地の間を動いて行く。だれもわたしの動きに注目する者はおらず、わたしの言葉に気づく者はいない。ゆえに、わたしの計画は依然として順調に進んでいる。あなたがたの感覚があまりにも鈍ってしまったため、わたしの仕事の段取りがあなたがたには少しも分からないだけである。しかし、ある日あなたがたはわたしの意図を理解するだろう。今日、わたしはあなたがたの中で生き、共に苦しんでいる。わたしは人間がわたしに抱く態度を長い間理解して来た。よりはっきりと伝えることを望まず、ましてやあなたがたを辱しめるために、さらに事例を挙げてあえて痛みを感じるようなことはしたくない。わたしの唯一の願いは、あなたがたが行ったことすべてを心の内に留め、再会した日にはそのひとつひとつをわたしの前で数え上げることができるようにすることである。わたしはあなたがたの誰にも濡れ衣を着せたくない。わたしは常に正しく、公正に、また責められるところがなく行動して来たからである。わたしはあなたがたも高潔であって欲しいと願っており、天と地、またあなたがたの良心に逆らうようなことをしないようにと願っている。これこそ、あなたがたに対する唯一の要求である。多くの人たちは自分たちが犯した甚だしい過ちに心穏やかではない。また多くの人たちはたった一つの良い行いすらしてこなかったことを恥じている。しかし、自分たちの罪を恥ずかしいとも思わず、それどころかますます悪くなる者たちも存在し、自分たちの醜い顔―まだ完全には暴露されていなかったが―を、わたしの性質を試そうと完全に引き剝がしている。わたしは、誰かの行動を気にすることも注目することもない。むしろ、わたしはわたしがしなければならないことをし、何らかの情報を得、地上を歩き回り、わたしが興味のあることをする。大切な時には、一瞬も遅れることはなく、計画通りに人々の中でわたしの働きを再開し、それは楽々とまた簡潔に行われる。しかし、わたしの仕事のあらゆる段階で捨て去られる人たちもいる。わたしは彼らのお世辞や見せかけのへつらいを軽蔑するからである。わたしが忌み嫌う者たちは意図的であろうがなかろうが確実に捨てられる。つまり、わたしはわたしが軽蔑する全ての者が離れていくことを望んでいる。言うまでもなく、わたしの家に留まっている悪い者たちを見逃すことはしない。人を懲罰する日が近づいているため、いやらしいやつを全て投げ捨てたいとは思わない。なぜなら、わたし自身の計画があるからだ。

 今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にそれぞれの言葉や行動、わたしに従う者としての彼らの道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。このように、どのような人であってもわたしの手から逃れられなく、あらゆる人たちはわたしが定めるように同類の人たちと共にいるだろう。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功序列、苦しみの量、とりわけ不幸の度合いではなく、彼らが真理を持っているかどうかに基づいて決める。これ以外に他の選択肢はない。神の心に従わない人たちはすべて懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者たちすべては神の義ゆえに懲罰されるのであって、彼らの邪悪な行為の報いである。わたしは初めから、わたしの計画を全く変更していない。人には、わたしが話す対象も、わたしが本当に認めている人たちも減ってきているように感じるだけである。しかし、わたしの計画が決して変わらないようにしている。むしろ、常に変わったり、弱くなったりするのは人の信仰と愛である。人はわたしにへつらうことから、わたしに冷たくなったり、あるいはわたしを捨てたりすることさえ可能になるほどである。あなたがたに対するわたしの態度は、初めは熱くも冷たくもなく、それから嫌悪感を抱くようになり、最終的に懲罰を定める。しかし、懲罰の日、わたしは依然としてあなたがたを見るが、あなたがたはもはやわたしを見ることはできない。あなたがたの中での生活は退屈でつまらないとわたしはすでに感じているため、言うまでもなく、わたしはあなたがたの悪意に満ちた言葉による痛みを避け、あなたがたの卑劣な行為を避けて生きる違った環境を選んできた。そうすれば、あなたがたがわたしをいい加減に扱い、馬鹿にすることがないからだ。あなたがたから去る前に、わたしは真理に沿わないことをしないようにと依然として熱心に勧める。むしろ、あなたがたはすべての人が喜ぶようなことをし、すべての人やあなたがた自身の終着点に益があるようなことをするべきである。さもなければ、災いに苦しむ者は、他ならぬあなたがたとなるだろう。

 わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分たちを否定する者たちにある。そして、悪い者たちにもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明であり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者たちすべてに飢饉や疫病が降りかかり、彼らは涙を流す。わたしに従う者として、長年あらゆる種類の悪事を犯してきた者たちは罪を免れることはできない。彼らも代々、ほとんど目にしたことのない災いのただ中で、絶えず恐怖と不安を抱き生きるだろう。そして、わたし以外の誰にも忠実に従ってこなかった人たちは、すべてわたしの力を喜び、拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのない喜びの中で生活する。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからだ。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと同じ心を持った人たちの集まりが存在することを望んできた。そして、わたしは同じ心を持っていない人たちを決して忘れることはなく、それら悪事を働く人たちに報いをもたらし、それを味わう機会だけを待ち望みながら、彼らを心の中で憎んできた。遂にその日を迎え、もはや待つ必要はなくなった!

 わたしの最後の仕事は人を懲罰することだけではなく、人の終着点を決めることでもある。さらに、わたしが行ってきたすべてのことに対して、あらゆる人たちから承認を受けることである。わたしはすべての人にわたしが行ってきたことは正しく、わたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人ではなく、とりわけ大自然の行いではない。それどころか、すべてのものの中で、あらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅び、災害に苦しむだけであろう。だれも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはできないだろう。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけだろう。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は大災害に苦しみ、あらゆる種類の霊に踏みつけられるだろう。わたしは、人が善行で報いてくれることだけを望みながら、誰もできない働きをしてきた。ほとんどの人たちはわたしに報いてくれないが、わたしはこの世での旅を終え、次にやって来る仕事を始める。わたしが長年人々の間で続けてきた旅は実を結び、わたしはそれを非常に喜ばしく思っているからである。わたしは人の数は気にせず、むしろ善行を気づかっている。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分たちの終着点に備えて、十分な善行をするよう望んでいる。それから、わたしは満足する。さもなければ、あなたがたの誰も災いを免れないだろう。災いはわたしがもたらし、もちろんわたしが采配を振るものである。もしあなたがたがわたしの前で良い働きができないなら、災いの苦しみから免れることはないだろう。患難の時代には、あなたがたの行動と行いの全てが適切なわけではなかった。あなたがたの信仰と愛は、うわべだけのもので、あなたがたは恐れか意志の強さしか示してこなかったからだ。これに関しては、わたしは良いものと悪しきものとの評価のみをする。わたしの関心は引き続きすべてあなたがたの行動とふるまいについてであり、それに基づいてあなたがたの終着点が決められる。しかし、患難の時代に、わたしに全く不義であった者たちに、もはや憐れみは与えられないことを明白にしなければならない。わたしの憐れみはこれ以上延長されないからである。さらに、わたしは、かつてわたしを裏切った者は誰も好まず、ましてや友の利害を裏切る者たちと係ることを望まない。その人が誰であっても、これがわたしの性質である。あなたがたに伝えなければならない。わたしを悲しませる者は誰であっても、再び憐れみの対象となることはなく、これまで忠実であった者はとこしえにわたしの心に留まるだろうことを。


東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の発表「贖いの時代における働きについての真実」

2017-07-28 23:57:05 | 全能神の発表

 

 六千年にわたるわたしの経営(救いの)計画全体は、三つの段階、あるいは時代から成る。まず律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして最後に神の国の時代である。これら三つの時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階で人の必要性に対応している、というよりむしろ、わたしに対する戦いでサタンが用いるその策略に応じて異なっている。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことで、その支配下に生きるすべての人間を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示すと同時に、サタンのおぞましさを明らかにするものである。それに加えてわたしの創造物が善悪を区別し、わたしこそがすべての物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵、下の下、悪い者であることがはっきり分かるよう教え、善悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを紛れもなく明白にすることである。それにより無知な人間が、人間を堕落させるのはわたしではないこと、創造主であるわたしだけが人間を救うことができ、楽しみとなる物事を授けることができることを、わたしに対して証しし、わたしこそがすべての物を治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと彼らは知ることができる。わたしの六千年の経営(救いの)計画は、次の効果を得るために三つの段階に分けられている。わたしの創造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であるのを知ることである。したがって、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画における最初の働きの期間、わたしは人々を導くヤーウェの働きである律法の働きをした。第二の段階は、ユダヤの村々で恵みの時代の働きを始めることだった。イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表し、受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上におけるその働きでの拠点、発祥地を定め、戒めを発したが、これらは律法の時代を代表する彼の二つの働きであった。イエスの働きは戒めを発行することではなくそれらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることだった。イエスは恵みの時代をもたらす先駆者だったが、贖いはその働きの中心であり続けた。よってイエスの仕事もまた二つの部分からなる。それらは新しい時代を切り開くこと、そして自身が十字架にかけられることを通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。その時点で律法の時代は終わりを告げ、人類は恵みの時代に入った。

 イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、そのすべての性質は謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみのどれかであった。イエスは人間を豊かに祝福し、あふれんばかりの恵みと、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった、楽しむためのすべての物事をもたらした。その当時、人が直面したのはすべてあふれんばかりの楽しむことがらであり、人の心は平安で安心し、その霊は慰められ、救い主イエスによって支えられた。これらのものが得られたのは、人の生きた時代の結果によるものであった。恵みの時代、人はサタンによって堕落させられており、すべての人間を贖う働きには満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに多くの、人間の罪を贖うのにふさわしい捧げ物が必要だった。恵みの時代に人々が見たのは、ただ人間に対するわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。そして彼らは、神は憐れみ深く寛容であり得ることだけを知っており、イエスの慈しみと憐れみだけを見た。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、彼らは贖われる前にイエスが授ける多くの恵みを楽しまなければならなかった。それだけが彼らにとって有益なことであった。そうすることで、彼らは恵みを楽しむことを通してその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を楽しむことを通して贖われる機会を持つことができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、彼らは赦しを得ることができ、イエスによって授けられるあふれる恵みを楽しむことができたが、それはイエスが「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、そして人間の過ちに耐えられない性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深い状態で、六千年の経営(救いの)計画は律法の時代から前に進むことはなかったことだろう。律法の時代は六千年続き、人の罪は数が増し加わってよりひどいものとなり人間の創造は無価値なものとなっていただろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていただろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類は救われることができ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれることができた。イエスは従う者たちをあたかも母親が愛するその子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは彼らに対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちており、彼らの間で怒り狂ったりすることは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに彼らの罪を耐え忍び、彼らの愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を作り変え、この方法で人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

 受肉したイエスは全く感情がなかったけれども常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、恵みの時代に「愛すべき救い主イエス」と親しみを込めて知られたように、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。当時のすべての人々にとってイエスが持っているすべてとイエスであるすべては、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、その過ちゆえに人々への接し方を変えるようなことはしなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく十分な食事と飲み物を人々に与え、彼らが満腹になるようにした。イエスは従う者たちすべてに優しく接し、病気をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは彼らの間で静かに耐え忍び、その贖いの働きをした。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となった。イエスは十字架につけられる前から、人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架の働きのために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々を耐え忍ぶことにこだわり、決して復讐を求めず、むしろ人々の罪を赦し、人々が悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹に対する愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、人々をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためだった。どこへ行っても、イエスは従ってくる者たちすべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、中風の人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、最もしいたげられた乏しい者たちや罪人らを共にする食事に招くことさえし、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強くあり、「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう。」と言うことすらあった。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、従ってくる者たちを愛した。イエスの目に彼らは愚かしく無知であり、罪人で、さらには社会で最もしいたげられた者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこうした罪人らを自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスはあたかも祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らの間ではしもべのようにふるまい、利用されるがままにし、なぶり殺されるにまかせ、無条件に彼らに服従した。従ってくる者たちにとってイエスは愛されし救い主だったが、上座から人々に教えるパリサイ人に対してイエスは慈しみと憐れみを示すことはなく、むしろ彼らを忌み嫌い、嫌悪した。パリサイ人らの間で多くの働きをすることはなく、ごくまれに彼らに教えをなし叱責したが、彼らを贖うことはなく、彼らの間でしるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを、従ってくる者たちのためにとっておき、こうした罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる恥を負い、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働き全体の要約である。

 イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子で、悪魔の子孫となる。もしそれが続けば、サタンは地上に住み家を得て、地上全体がその住まいとなるだろう。しかしこの贖いの働きは人類に対する慈しみと憐れみを必要とし、それを通してのみ人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営(救いの)計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ人々をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかった。イエスが地上で働きをなした三年半は、その贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の様と等しくなり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の終着点を掌握した。イエスがサタンの手に引き渡された後、ようやく人類は贖われた。三十三年半の間イエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえなく放置され、その後十字架につけられた。完全で罪のない体であるその存在全体が十字架で釘づけにされ、あらゆる類の苦しみの中を通った。支配と権威の者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐くことさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にまでも無条件に従い、そこですべての人間を贖い、それによって安息することができた。このイエスの働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、終わりの時代の働きに代わるものでもない。これが人類にとって第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

 

東方閃電 全能神教会の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。

全能神は真理です。


全能神の発表「神の現れによる新時代の到来」

2017-07-26 22:19:37 | 全能神の発表

 

  

 六千年間にわたるの経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求める人々にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。ああ、神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことがいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をしなくてはならないのだろうか。神の足跡をたどるには何をしなければならないのだろうか。神の現れを求める人であれば、だれでもそのような疑問を持つものである。あなたがたもそのような疑問を抱いたのは一度や二度ではないと思うが、その結果はどうだったか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこで見つかるのか。そうした疑問に対する答えは見つかっただろうか。そうした問いに対して、次のように答える人が多い。「神は自分に聞き従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。そんなに難しいことではない。」決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神が仕事を行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質は保ったままで、また神自身の方法で、神は時代を始め、時代を終わらせるために人間世界に下ってきた。このような神の現れは儀式のようなものではない。それは何かのしるしでも、絵画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な儀式でもない。それは、実際に手で触れ、見ることのできる動かしがたい事実である。このような神の現れは何かの手順を踏むためのものでも、短期間の仕事のためのものでもない。それは、神の経営(救いの)計画の中にある一つの段階を実現するためのものである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営(救いの)計画と関係している。ここで言う現れは、神が人を導き、先導し、啓くときの現れとは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる業の一つの段階を実行に移すのである。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、新しい、一歩進んだ、人類を救う働きである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。神の現れが持つ意義はそこにある。

 神の現れについて理解するとともに、神の足跡をどのように探し求めるべきなのだろうか。この問いに答えるのはさほど難しくはない。神の現れがあるところで神の足跡も見つかるからだ。そう言うと単純に聞こえるが、実際に見つけるのは単純なことではない。多くの人は、神がどこで自分を現すか、ましてや神がどこで自分を現したいか、現すべきかを知らないからである。ある人々は、聖霊の働きがあるところには神が現れると何の考えもなく思っている。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、人々の知名度が高いところに神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちなのです」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちだろうか。神の現れは人が思うようなかたちで来ることはない。ましてや神が人の言うままに現れるようなことはない。神は、自分の判断で動き、自分の計画に従って働く。さらに、神には神自身の目的と方法がある。神は自分のしようとすることを人に相談したり話し合ったりする必要はない。ましてや一人一人に自分がしようとすることを知らせるようなことはない。これが神の性質であり、それはすべての人が認めるべきことである。もし神の現れをその目で見たいと思うなら、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念というものを超越しなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じることは許されない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を持っているわけでもない。人の本分は、探し求め、受け入れ、従うことである。

 アメリカ人でも、イギリス人でも、どこの国の人でも、自分という枠を乗り越え、自分という存在を超越し、神の創造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはないだろう。それは、特定の国や民族に神が現れることはないだろうと考えている人が多いからである。ああ、神の働きの意義はなんと深く、神の現れはなんと重要か。それは人の観念や考えで測ることなどできるのだろうか。そのため、神の現れを探し求める際には、みずからの国籍や民族性という枠を突き抜けるべきである。そうすれば、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを喜び迎えることができる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

 神は全人類の神である。神が自分を一つの国や民族の所有物とすることはない。神が自分の計画にある働きを、形式や国、民族といった制限を受けることなく行う。これまであなたはこのような形式を考えたこともなかったかもしれないし、そのような形式があることを否定するかもしれない。神が現れる国や民族は差別されている最貧国かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神は、自分の力によって、また自分の真理と性質を通して、自分と心が一つになっている人々をすでに得ている。それは神が求めていた人々で、神に征服され、苦しい試練とあらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる人々である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、神が自分の計画どおりに働きを完成できるようにするためにである。たとえば、神がユダヤの地で肉となったとき、その目的は十字架の働きを完成させ、人類をあがなうためだった。しかし、ユダヤ人は神にそのようなことができるわけがないと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとって現れることなどありえないと考えたのである。この「ありえない」という思いが、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対してしまう原因となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日も、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れるかもしれないと当てもなく言いながらも、神の現れを罪に定める。その「ありえない」という思いが再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めてしまっているのである。わたしは、神の言葉に出会って、それを一笑に付した人々を数多く見てきた。このような態度は、神を罪に定め、冒涜したユダヤ人と何ら変わりがないではないか。真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。神が現れるところでは、真理の現れと神の声がある。真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。まずは、自分の観念を脇に置きなさい。立ち止まって、次の言葉をよく読みなさい。あなたが真理を慕い求めるなら、神はあなたの知性を明るくし、神の心と言葉を理解できるようにしてくれる。「ありえない」という思いを脇に置いておきなさい。人が不可能だと思えば思うほど、実際に可能になる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の思いや観念をはるかに超越するものだからである。不可能であればあるほど、そこには探し求めるべき真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心が詰まっている。どこで自分を現そうとも、神は神だからである。神の本質が現れる場所や方法で変わることはない。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。たとえば、主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもある。さらに言えば、全宇宙で唯一無二の神である。だから、神の語る言葉から神の心を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは共存する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。ここに記した言葉に神の現れを見てとってほしい。そして、新しい時代に向かって神の足跡をたどってゆき、神の現れを待ち望む人々に用意された新天新地にたどりついてほしいのである。


東方閃電 全能神教会の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。

全能神は創造主の現れです。

 


全能神の発表「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」

2017-07-23 23:08:03 | 全能神の発表
 
 
 何人もイエスの真の姿を見、イエスと共にありたいと願っている。兄弟姉妹の中で、イエスの姿を見たい、またはイエスと共にありたいと願わない者はない、とわたしは信じている。あなたがたがイエスをまだ見ていない時、すなわち、あなたがたが受肉した神をまだ見ていない時、あなたがたは、例えば、イエスの姿やイエスの話し方、イエスの生き方などについてよく考えることだろう。しかし、あなたがたが実際にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わるだろう。なぜそう言えるのか。知りたいか。実際、人間の考えは無視できないが、キリストの本質を変えることはもっと許しがたいものだ。あなたがたは、キリストは神仙であり、賢人だと考えているが、キリストが神性な本質を持った人間だと考えている者はいない。それゆえ、朝から晩まで神に会いたいと切望している者の多くは、実際には神の敵であり、神に味方しない者なのだ。これは人間側の誤りではないのか。今でもあなたがたが自分の信念と忠誠心がとても強いゆえにキリストの姿を見るに値すると考えているが、わたしはあなたがたに対して、もっとも確実なものを身につけるように強く説きたい。というのも、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う者の多くは失敗したからだ。そのような者たちは皆、パリサイ人の役割を担っているのだ。あなたがたの失敗の理由とは何なのか。それは、あなたがたの観念の中に非常に大きくて立派な神がいるからだ。しかし、実際は人間が望んでいるようなものではない。キリストは特に大きくも立派でもないだけでなく、特に小柄である。キリストは人間であるというだけではなく、それも普通の人間なのだ。キリストは天に上ることができないだけではなく、地上を自由に移動することもできないのだ。それゆえ、人々はキリストを普通の人間として扱うのだ。人々はキリストと共にいる時は好き勝手に振る舞い、キリストに気軽に言葉をかけるが、それでも「真のキリスト」の到来を待望しているのだ。あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、キリストの言葉を普通の人間の言葉とみなしている。それゆえ、あなたがたはキリストからまだ何も受け取ってはいない代わりに、自らの醜さを光にさらしているのだ。

 キリストと触れ合う前に、あなたは自分の性質が完全に変わったと考えるかもしれないし、あなたは自分がキリストの忠実な信奉者だと信じるかもしれないし、あなたは自分こそ最もキリストの祝福を受けるに値すると考えるかもしれない。あなたは多くの道を通り、多くの働きをし、多くの実を結んできたのだから、あなたは最後に栄冠を手にする者のはずだと。しかし、あなたが知らない事実が一つある。それは、人間の堕落した性質と反抗、抵抗が、人間がキリストを見た時に露わになり、そこで露わになった反抗や抵抗はそれ以外の場合よりも絶対的で完全なものだということだ。キリストが人の子であり、正常な人間性を備えているため、人がキリストを崇めることも尊敬することもないのだ。神は肉の中に生きているので、人間の反抗が徹底的に、またはっきりと明らかにされたのだ。それゆえに、キリストの到来が人間の反抗を全て明るみに出し、人間の本性を際立たせた、とわたしは言っているのだ。これを、「山から虎をおびき出す」、「洞窟から狼をおびき出す」と言う。あなたは、自分が神に忠実だと言えるか。あなたは、自分が神に絶対的に従順だと言えるか。あなたは、自分が反抗的ではないと言えるか。次のように言う者がいるだろう。「神が私を取り巻く環境をお創りになるたびに、私は常に従順で、決して不平は言いません。また、私は神に対して全く観念を持っていません」。また、次のように言う者もいるだろう。「神が私に課された働きに対して、私は全力を尽くして取り組んでおり、決して怠けてなどいません」。それでは、わたしはあなたがたに以下のように問いたい。あなたがたはキリストと共に生きる時、キリストに味方することができるだろうか。あなたがたはいつまでキリストに味方できるだろうか。一日だろうか。二日だろうか。一時間だろうか。二時間だろうか。あなたがたの信心は実際、称賛すべきものではあるが、あなたがたの信心は確固たるものではない。あなたが本当にキリストと共に生きている時、あなたの独りよがりとうぬぼれがあなたの言葉と行動によってゆっくりと明らかになっていき、あなたの行き過ぎた欲望や反抗、不満が自然と露わになるのだ。そして、ついに、あなたの傲慢さはより一層激しさを増していき、あなたがまるで水と火の関係のようにキリストに味方しなくなると、あなたの本性が完全に露わになるのだ。そうなると、あなたの観念を隠しとおすことはできなくなる。あなたの不満も自然と明らかになり、あなたのいやしい人間性が完全に露わになるのだ。しかし、あなたはそれでも自らの反抗心を否定し続ける。そして、あなたは、このようなキリストは受け入れ難く、キリストは人間にあまりにも厳し過ぎて、もっと優しいキリストになれば完全に服従する、と考えるのだ。あなたがたは、自らの反抗には理由があり、キリストがある段階まであなたがたを駆り立てた時にのみキリストに反抗する、と考えるのだ。あなたがたはキリストを神とみなしてはいないことに全く気づいておらず、またキリストに従うつもりもないのだ。むしろ、あなたがたはあなたがたの考えに従ってキリストが働きを行うように断固として主張し、そのようなやり方で行われなかったいかなる働きについても、あなたは、キリストは神ではなく、人間だと考えるのだ。あなたがたの中には、このようにキリストと争ったことがある者は多くいないだろうか。あなたがたが信じるのは誰なのか。また、あなたがたはどのように追い求めているのか。

 あなたがたは常にキリストの姿を見たいと思っているが、あなたがたは自分を過大評価しないように勧める。何人もキリストの姿を見ることができるが、キリストの姿を見るにふさわしい者はただ一人としていない。人間の本性は悪、傲慢、反抗に満ちているため、あなたがキリストの姿を見た時、あなたの本性があなたを破滅させ、死へと追いやる。兄弟(または姉妹)とのあなたのつながりは、あなたについて多くを示すことはないかもしれないが、キリストとつながる時には、そういう単純な話ではない。あなたの観念はいつなんどき根付き、あなたの傲慢は芽を出し、あなたの反抗はイチジクの実をつけるかもしれない。そのような人間性を持ったあなたがいかにしてキリストとつながるにふさわしいと言えるだろうか。あなたは本当に毎日、一日中、キリストを神として見ることができるだろうか。あなたは本当に神に従うことができるだろうか。あなたがたは心の中で非常に大きくて立派な神をヤーウェとして崇めるが、目に見えるキリストは人間とみなしている。あなたがたの理知はあまりに低劣で、あなたがたの人間性はあまりに卑しい。あなたがたはキリストを永遠に神とみなすことはできない。あなたがたはただ好きな時にキリストを呼び、神として礼拝するのだ。それゆえ、あなたがたは神を信じる者ではなく、キリストと戦う者たちの共犯者だ、とわたしは言うのだ。他者に対して親切心を示す者でさえ報われるが、あなたがたの中でそのような働きをするキリストは、人に愛されることも報われることもなく、人間からの従順を受けることもない。これは最も悲しいことではないのか。

 あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと手入れを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの普通の人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。気まぐれな幻想にふけ、キリストの姿を見たいなどと考えるのはやめるのだ。というのも、あなたがたは背丈があまりにも小さく、キリストの姿を見るには値しないからだ。あなたが完全に反抗心を拭い去り、キリストと平和な関係を持てるようになった時に、神が自然とあなたの前に現れるだろう。あなたが手入れ、または裁きを経験せずに神の姿を見にいったとしたら、あなたは確実に神の敵になり、破滅する運命にある。全ての人はサタンによって徹底的に堕落しているので、人間の本性は本質的に神に敵対する。堕落した人間が神とつながっても、良いものはひとつとして生まれてこない。人間のあらゆる行いと言葉は、その堕落ぶりを確実に露わにするだろう。人間が神とつながる時、その反抗心があらゆる面で明らかになるだろう。そうなると、人間は知らず知らずのうちにキリストに反対し、キリストを欺き、キリストを拒絶するようになる。そうすると、人間はますます危険な状態になるだろう。その状態が続けば、人間は懲罰を受けることになるだろう。

 神とのつながりがそんなに危険というならば、神に近寄らないのが賢明ではないかと考える者もいるかもしれない。それならそのような人は何を得るのだろうか。そのような人は神に忠実になることができるだろうか。実際、神とのつながりはたいへん難しいが、それは、人間が堕落しているからであり、神が人間とつながることができないからではない。あなたがたにとって、己を知るという真理にもっと努力を捧げるのが最善だろう。あなたがたはなぜ神に気に入られないのか。あなたがたの性質はなぜ神に嫌われるのか。あなたがたの言葉はなぜ神にとっていまわしいのだろうか。あなたがたはわずかな忠誠心を持っているからと言って、自分を褒め、わずかな犠牲に対して報われたいと望んでいる。あなたがたは少しの従順を示す時、他者を見下し、つまらない働きしかしないと言って神を軽蔑する。あなたがたは神をもてなすことで富や贈り物、称賛を得ようとする。あなたがたは硬貨を一枚か二枚与えると、心が痛む。あなたがたは硬貨を十枚与えると、恩恵を欲しがり、他者と区別されたいと思う。あなたがたのそのような人間性は、本当に話すのも聞くのも不快なものだ。あなたがたの言葉と行いのどこが称賛に価するのだろうか。本分を尽くす者とそうでない者、導く者と従う者、神をもてなす者とそうでない者、与える者とそうでない者、伝道する者と言葉を受け取る者など、このような者たちは皆、自分を褒める。これは笑いものにされるようなことだと思わないか。あなたがたは、確かに自分が神を信じているとわかっているが、あなたがたは神に味方することはできない。あなたがたは確かに自分には価値がないと分かっているが、それでもあなたがたの自慢は変わらない。あなたがたは、自分の理知が既に自制心を失うほどになったと感じはしないのか。そのような理知を持つあなたがたはいかにして神とつながるにふさわしい状態になれるだろうか。自分自身のことを心配してはいないだろうか。あなたがたの性質は既に神に味方することができないほどになってしまったのだ。あなたがたの信仰は、笑いものになるほどではないだろうか。あなたがたの信仰はばかげていないだろうか。あなたは未来をいかにして扱うだろうか。あなたは進むべき道をいかにして選ぶだろうか。



東方閃電 全能神教会の御言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。
全能神は創造主の現れです


全能神の発表「二十二番目の言葉」

2017-07-22 22:15:40 | 全能神の発表

 

 人間は光の中に生きていながら、光の貴さには気づいていない。人間は光の本質、光の源、さらに、光が誰のものであるかについては、無知である。わたしが人間たちに光を与えたとき、直ちに人間たちの状態を調べた。光があるので、人々はみな変わりつつあり、成長し、闇を去っている。わたしは全宇宙の隅々まで見渡す。山々が霧に包まれ、水が冷気の中で凍り、光が到来したため、人々は何かもっと貴重なものを見つけようと、東を見ている──しかし、霧の中では、はっきりと方向を見定めることができないでいる。全世界が霧に包まれているので、わたしが雲の中から見ていると、わたしの存在は人間には絶対にわからない。人間は地上で何かを探している。あちこちあさっているようだ。どうやら、人間はわたしの到着を待っているらしい──しかし、人間はわたしの日を知らないから、何度も東方の微かな輝きを見やるしかない。すべての人々の中に、わたしは、ほんとうにわたしの心にかなう者を探す。わたしはすべての人々の間を歩き、すべての人々の間に生きるが、人間は地上にいて安全で健やかであり、それで、ほんとうにわたしの心にかなう者はいないのだ。人々は、わたしの心をどう気にかけたらよいか、わからない。彼らには、わたしの行いは見えない。そこで、光の中を動き回って、光に照らされることができない。人間はいつもわたしの言葉を大事にしているが、サタンの欺きに満ちた策略を見通すことができない。人間は背丈が足りないので、心で願うことが実行できないからだ。人間はわたしを心から愛したことがない。わたしが人間の地位を高めると、人間は自分がふさわしくないと感じるが、だからといって、わたしを満足させようと努力するわけではない。ただわたしの与えた地位を手にして、それをじっくり調べる。わたしの素晴らしさには気付かず、置かれた地位の恵みを貪ることに熱中する。これが人間の欠点ではないか。山々が動くとき、あなたの地位を考慮して迂回するものだろうか。水が流れるとき、あなたに地位があるからといって、止まるだろうか。天と地は、人間の地位次第で入れ替わるだろうか。わたしは、かつて人間に憐みをかけた、何度も何度も──しかし、誰一人、それを胸に抱き宝ともしなかった。ただ、それを作り話として聞くか、小説として読むだけなのだ。わたしの言葉は本当に人間の心に触れないのだろうか。わたしの言葉は、ほんとうに何の効果もないのか。これは、誰一人わたしの存在を信じていないということだろうか。人間は自分自身を愛さない。かえって、サタンと組んで、わたしを攻撃し、サタンをわたしに仕えるための「資産」として用いる。わたしはサタンの欺きに満ちた策略全部を見通し、サタンの存在ゆえにわたしに敵対しないよう、地上の人々がサタンの欺きを受け入れるのを止める。

 の国では、わたしは王だ──しかし、人間は、わたしを王として扱う代わりに、わたしを天から降りてきた救い主として扱う。そのため、人間はわたしから施しをもらうことを期待し、わたしを知ることを追求しない。まことに大勢が、わたしの前で乞食のように叫んだ。まことに大勢が「袋」を開いて、生きるための食物をくれるよう願った。まことに大勢が、飢えた狼のように、わたしを食べ尽くし、腹を膨らませようと、貪欲な目で見つめた。まことに大勢が、自分たちの罪のために恥じて、黙って頭を垂れ、寛容を祈り、あるいはわたしの刑罰を受けようとした。わたしが話すと、さまざまな人間の愚行が不合理に思われる。そして、人間の真の姿が光の中に明かされると、輝く光の中で人間は自分を「許す」ことができない。そこで、急いでわたしの前に来てひれ伏し、罪を告白する。人間の「正直さ」のため、わたしはもう一度救いの車に載せる。人間はわたしに感謝し、わたしを愛情のこもった目で見る。しかし、それでも人間は、まだほんとうにわたしの内に逃げ込むつもりはなく、完全にわたしに心を捧げてはいない。人間はただわたしのことを誇るが、ほんとうにわたしを愛しているのではない。心をわたしに向けていないからだ。その人の体はわたしの前にあるが、その心はわたしの後ろにある。規則に関して、人間の理解はあまりに不十分であり、また、わたしの前に来ることには関心がないので、わたしは適切な「助け」を与え、頑固な無知の状態を改めさせようとする。これがまさに、わたしが人間に与える憐みであり、わたしが人間を救うために奮闘する方法である。

 全宇宙の人々は、わたしの日の到来を祝い、天使たちが民たちの間を歩く。サタンが問題を起こすと、天使たちが天での仕えにより、いつでもわが民を助ける。彼らは人間の弱さのせいで悪魔に欺かれることがなく、闇の勢力の攻撃の結果、霧に包まれた人間の生活で多くの経験を得る。民たちはみな、わたしの名の下に従い、誰もけっして公然とわたしに敵対しようと立ち上がらない。天使たちの働きにより、人間はわたしの名を受け入れ、みな、わたしの働きの流れの中にいる。世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。宗教的世界──どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。わたしは赤い大きな竜のすみかのある国に住んでいる。しかし、わたしはそれで恐れに震えたり、逃げたりはしない。その民がみな、すでに赤い大きな竜を嫌い始めているからだ。竜の前で何か「義務」が果たされたことはない。その代わり、みな自分の都合で動き回り、それぞれが最適と思う道を選んでいる。どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。これが人間の働きだろうか。これが人の手のしていることだろうか。わたしは人間に生存する基盤を与え、物質的なものを与えた。しかし、人間は現在の状況に不満で、わたしの国に入りたがる。しかし、代価を払うことなく、また、無私の仕えをささげることを望まないで、どうしてそう容易にわたしの国に入れるだろう。人間から何かを取り立てる代わりに、わたしは人間に条件を出し、地上のわたしの国が栄光に満ちるようにする。人間はこの時代までわたしが導いてきた。人間はこのような状態にあり、わたしの光の導きの中にいる。そうでなければ、地上の人々の誰が、自分たちの前途を知るだろう。誰がわたしの心を理解するだろう。わたしは人間の要求にわたしの条項を加える。これは、自然の法則に適うことではないのか。

 昨日、あなたがたは、雨風の中で暮らしていた。今日、あなたがたは、わたしの国に入り、その民になった。明日、あなたがたは、わたしの恵みを享受する。誰が、こうしたことを想像したろう。生涯にどれほどの苦難と困難を経験するか、あなたがたには、わかっているだろうか。わたしは雨風の中を進む。何年も人間の中で過ごし、それが今日まで続いた。これは、わたしの経営(救いの)計画の手順なのではないか。誰がわたしの計画に付け足しをしただろう。誰がわたしの計画の手順から抜けられるだろう。わたしは何億もの人々の心の中に住む。わたしは何億もの人々の王だ。そして、わたしは何億もの人間に拒まれ、罵られてきた。わたしの姿は、ほんとうの意味では人間の心にない。人間はただ、わたしの言葉に、うっすらと、わたしの栄光に満ちた顔を認めるだけだ。しかし、自分の考えが邪魔をして、自分の感覚を信用しない。人間の心には輪郭のはっきりとしないわたしがいるだけだが、それほど長くは、そこにとどまらない。さらに、人間のわたしに対する愛もまた、同様である。人間は気まぐれに愛する。まるで、わたしを愛そうという衝動に駆られるように。まるで、朧な月の下で人間の愛が見え隠れしているようなものだ。今日、わたしの愛があるから、人間は存続し、生き残る幸運に与っているのだ。もしそうでなければ、人間の誰が、そのやせ細った体をレーザー光線で切り倒されないだろう。人間はまだ自身を知らない。人間はわたしの前で誇り、わたしの後ろで自慢するが、誰一人、わたしの前で「敵対」しようとはしない。しかしながら、人間はわたしの言う敵対の意味を知らない。代わりに、わたしをだまそうとし、自分を誇り続ける──それは、わたしの面前でわたしに敵対しているのではないか。わたしは人間の欠点は大目に見るが、人間が自分からする敵対行為は、わずかも許容しない。人間は、意味はわかっていても、その意味にしたがって行動するつもりはない。ただ、自分の都合次第でわたしを欺いているだけである。わたしはいつでも、わたしの言葉の中で、わたしの性質について明白にしている。しかし、人間は敗北を受け入れられない──同時に、人間は自己の性質を明らかにしている。わたしの裁きの中で人間は文句なく納得し、わたしの刑罰の中で、人間はついにわたしの姿を生かし出し、地上でのわたしを顕示するものとなる。

 

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東方閃電全能神教会は主イエスの再臨ーー世の終わりのキリスト全能神の中国での働きによって生まれました。誰か人が設立したのではありません。キリストは真理であり、道であり、命なのです。神様の言葉を読んだら、神様が既に現れていると分かるはずです。

 


全能神教会いのちの経験の讃美歌MV「新しい生活をほめたたえよ」【アカペラ】

2017-07-21 23:48:11 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

東方閃電 全能神教会 いのちの経験の讃美歌MV「新しい生活をほめたたえよ」、

全能神を賛美しましょう。

 

 

ハレルヤ!感謝し、ほめたたえよ! 
ハレルヤ!感謝し、ほめたたえよ、全能神を!
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終末のキリストが現れ
人の間で御業をなされ語っておられる
キリストの言葉は私たちを裁き、懲らしめ、清め
正しい人の道へ導かれる
私を変えたのは神の言葉だ
こうして、私はをほめたたえる新しい生活を得た(ハレルヤ!)
苦痛と当惑は去った
私の霊は解き放たれ、歌を歌う(ハレルヤ!)
真理を理解するのは本当に良いことだ
私は肉を超越し、とても自由になった(神をほめたたえよ!)
観念と誤解はすべて消え去った
私の不服従の性質は変えられた
私は人としての輝かしい人生を歩く
神の愛は本物でとても貴い(神をほめたたえよ!)
神の愛を楽しむことは私たちを引き上げる
私は神の愛を味わった
だからもう決して神から離れることはできない
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兄弟たちも姉妹たちも共にいる
私たちの間には壁もないし距離もない
心と精神を一つにして共に協力しながら教会で奉仕する
そして、喜びながら賛美の歌を歌う
その歌は神への愛に満ちている
私たちは心を込めて歌う
実際の神は私たちを新しく造り変えられた
新しく造り変えて、新しい人にされた
心の中の愛情を表明しない者があるだろうか
心の中の愛を表明しない者があるだろうか
神をたたえるためにあなたは踊り、私は傍らで手を叩く
私たちはこの世の重荷も、家族も肉の重荷も超越した
私たちは互いに愛し合うことは、何と甘美なことだろう
過ぎ去った古い生活はもう戻らない
前途には輝ける未来が待っている!
前途には輝ける未来が待っている!
||
自分の義務を果たし証をするのはとても楽しい
私たちは真理に交わり、解き放たれ、自由になる
神に属する人々は新しい生活を楽しむ
輝かしい人生が私たちを招いている(オ!)
自分の本分を尽くし証をするのはとても楽しい
私たちは真理に交わり、解き放たれ、自由になる
神に属する人々は新しい生活を楽しむ
輝かしい人生が私たちを招いている
私は、実際の神を永久にほめたたえる!
ハレルヤ!

 


『小羊に従って新しい歌を歌おう』より