全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

救われることVS完全な救い

2019-11-30 22:29:25 | ニュース

救われるとは、どういうことなのでしょうか。完全な救いを得るとは、どういうことなのでしょうか。人間の罪は赦されていますが、それでもなお人々は頻繁に罪を犯し、清められていません。人々は完全な救いを得たのでしょうか。天国に入ることができるのでしょうか。これを読んで、完全な救いと天国への道を見出だしてください。


天の御国へ入る条件に関する質問と答え

2019-11-29 21:41:50 | ニュース

質問3.私たちは主を信じてきて、主の御名を守ってきたわ、普段から聖書を読み、主に罪を告白してきた。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、福音を広めているわ。私たちは主の言葉を実践し、道に従ってないって言うの?信仰は持ったこともなく不信心者だったなんて、なんてことを言うの?聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)だから私たちは、主の賞賛を得るはずじゃないの、主が来られたら天国へと引き上げて下さるわ。

解答: 多くの信者はこう思ってます。主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、全てを犠牲にして努力していれば、真の信者であると、そのように主を信じれば、天国へと引き上げられると考えているのです。神を信じることは、人々が思うほど簡単でしょうか?このような信じ方で、神様の承認を得られるでしょうか?主イエスによって、罪に定められたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか?彼らはよく祈り、懸命に働き、福音を広めるため遠く旅したこともありました。主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか?聖書を読む人はわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛した。外から見れば、信仰が深そうで、本物の信者のようでした。ですが実際は、神様を崇めず心に神様の居場所はありませんでした。信仰において、神様の言葉に真理を求め、御心を理解することにはせず、神様の言葉を実践したり、従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論を普及させることに力を入れていました。宗教的な儀式ばかりに固執し、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそんな信仰を続け、神様のことは知らず、従順かつ敬虔になることもありません、従って、主イエスが働きをした時、彼らは真理を求めずに、思い込みや想像だけで推し量ったのです。主イエスの説教が意味深く、主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは学んだりせず、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰せられました。パリサイ人の信仰は、真の信仰だと言えるでしょうか?神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか?主イエスは認めなかっただけでなく、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23章)そう非難し、呪ったのです。そうではありませんか?パリサイ人たちは思い込みや想像だけで、天の曖昧な神を信じました。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、拒んでいたのです。

 では今の宗教界はどうでしょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、それによって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし全能神が裁きのために真理を表す時、思い込みや想像で神の働きを定義づけ、聖書の御言葉や働きの範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは全能神の御言葉は真理だと知っているのに、探し求めようともせず、全能神の噂や嘘を広め、中傷し、非難し、冒涜しているのです。信者が真の道を探すことを制限するどころか、証をしようとする人たちを逮捕させています。どうですか?こんな長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか?どちらも真の道を知りつつ、拒んだのでしょうか?どちらも真理を忌み嫌う、神の敵ではないでしょうか?ということは、主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を実践し主の道に従っているわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうでも、心の中で主を崇めて、従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているわけでもありません。主を信じているのに真理を求めず、神様の言葉を体験しないのであるなら、何年も、主を信じていようが、どれだけ主の為に努力していようが、主の賞賛は得られません。これは特に宗教指導者たちです。主のために努力しますが、未だに全能神を徹底的に非難しています。これだけで、彼らが邪悪な人々だという証拠になります、彼らは終わりの日の働きで、反キリストと暴かれたのです。彼らは呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通り、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)終わりの日の全能神の御言葉も明確です。全能神は言われる。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より)神様の言葉は、不変の真理です。信者たちが神の賞賛を得られるかは、どれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかに左右されません、御言葉を実践するか神様に従うか次第です。だがパウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」といた。(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)これはパウロの考えや想像で、神様の言葉や真理とは一致してません、神とは反対です。

 真の信仰を持つのはどういうことか、どうすれば神様の承認を得られるのか?この質問は本質的なものです。神様への信仰が救いをもたらし、神様の国に入れるかに関係しています。これまでは、主のために働くことを重視しました、そうすれば、再臨された時に、主の国に入れると思っていたからです。しかし今は間違った信仰の道だと、皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また神様の承認を得るのにどのようにすべきか、宗教界には誰も知りません。終わりの日のキリスト、全能神は、信仰の真理を明らかにし、「真の信仰とは何か?」についてはっきりと話されています。全能神は言われる。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない── しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう── これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)

 全能神は信仰の奥義と真理を明かしました。大勢が信じますが、真の信仰が何であるかだけでなく、神様もその働きも、知らないのです。このような信仰は、賞賛を得ることのない、混乱した信仰です。全能神は信仰の真意を明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」本物の信仰について明確に話してます。神を信じる人は、実際に御言葉を信じます。それは御言葉を実践し、御働きを体験することです。これが真理を理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。宗教界では、どう主のために働き苦しむかしか話しません、御言葉をどう実践するかは話さないのです。ですから、長く信じても真理を理解できず、神様を知ることもできません。そんな風に信じていて、どうして認めてもらえるでしょう。主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイによる福音書 7:22)次に何と仰いましたか?「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:23)自分の意思に従い、神様のために犠牲を払い、働いても、御言葉を体験しようとせず、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。宗教界の信者の頃を振り返ると、御言葉を実践することも、体験することもせず、罪を犯して悔い改め主に赦しを請う、それだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました、聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じていると思った。自分は主を愛し、主に忠実でいる、主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思った。これは、私が全能神を受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より)全能神は問題の核心に入り、人の本性を明らかにします、神との取引を求むのです。私は信仰の動機があまりにも不純だと気づきました、祝福や恵みや報酬、天国に行くことを求めていたのです。祝福さえあれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし御言葉を実践せず、神様を知ろうとしなかった、結果として、私の人生は真理と関わりのないものになった、何年も信じてきたのに、主の認識はこれっぽっちもありません。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、再臨の時には、天国へ引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずでした。神様は人類の贖いと、救いのために2度受肉されました、真理をもたらすためにされたのです。彼らが神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛から解放され、従順になるようにされたのです。御心を理解しておらず、真理だけでなく、神の認識も求めなかった、私は恵みと報酬だけを、求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。神をどう信じていたのでしょう?どう神様を愛し忠実だったのか?神様と取引をしようとしました。神様を利用し、騙そうとした。全能神の御言葉による裁きで、自分がどれほど、堕落させられていたかわかりました。利己的で狡猾で、人間らしさもない、卑劣な悪人で自己中心的でした。御前にふさわしくありません。神様は創造主で、私は創造物です。私が神様を信じ、すべてを犠牲にする、それが本分です、それが創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした、何かを犠牲にしたり苦しんだのは、神様との取引のためでした。私は祝福が欲しかったのです。神様を騙したこの私の信仰、神様から憎まれるはずです。私のような、悪魔的なものは天国へいざなわれるわけがない。私は、御前に跪き、悔い改めました、神様がどのようにされ、最終的にどうなろうと、神様の計画に従います。仕えるだけでも、真理を追い求め、本分を全うします。全能神の裁きや刑罰や試練を、体験することで、信仰の考えは変わりました。真理を追い求め、実践し始める、徐々に正しい道を歩み始めました。これが全能神の裁きを体験した結果です。全能神に感謝をします。

 全能神の裁きと刑罰を体験した後、私はやっと、どれだけ堕落させられていたかに気づきました。私はあまりにも、傲慢でした。見た目は福音を広め、苦しみを耐え、聖書について語り、内容を覚えているようでした。神様を知っていると思って、私は傲慢に、振る舞っていました、実際は神様に祈ったり、真理を求めてなかったのです。私はひたすら、思う通りにやりました。主の再臨については特にそうでした。自分の考えや想像で、神を聖書に限定したのです。御言葉や働きは聖書の中にあり、外にあるとは、思っていませんでした。主を信じる人は、聖書を守ろうと頑なに信じていて、守らなければ信じられないと、その結果、全能神の働きに触れても、調べたりはしませんでした。しかも長老たちに従い否定しました、神の御前にありながら、傲慢で理性を失っていました。私の行動は、信仰だったでしょうか?ただの悪でした、主イエスを拒んだパリサイ人たちと私は、どう違うのでしょうか?

 全能神の御言葉を目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の言葉が、心に刺さりました、その裁きは、私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、神の義なる、威厳のある性質を感じました。恐れで震え、悪事を恥じ、跪きました。主を信じてきたのに、こんなにも傲慢で、自惚れていたのか?なぜ神様への畏敬がなかったのか?神様の働きと自分の考えが合わないとそれを裁き、否定しました、真理を求めることは一切しなかったのです。信じてはいても、神様を拒む傲慢な人間でした。この態度は神様の性質を侵しました、神の慈悲と救いがなければ、とっくに地獄に送られていた。神様の声を聞き、神様の裁きを受け入れる機会はなかったでしょう。私は本当に、神様によって救われたんだと感じました。この時、私はこれまでにないくらい、自分を呪いました、私は決めました。神様がどのように裁き、罰し、試そうとも、神様に従おうと。御言葉を読み続け、神様の裁きと刑罰を体験することで、真理が理解できるようになりました。神様を裏切る、自分の本性も、理解を深めていて、神様の聖なる性質と、義なる不可侵な性質について、少しは判っています。無意識のうちに、神様への畏敬の念が生まれていました、以前より腰が低くなり、傲慢で自惚れることも減りました。壁に当たれば、意識的に自分を否定し、真理を求められるようになりました、自分の性質は少しずつ変わっていきました、これが御言葉による裁きと刑罰を体験した結果です!今では、信仰とは何か、理解できるようになりました、信仰の本当の価値と意味を理解しています。恵みの時代の信者も、果たせなかったことですね。恵みの時代信者の大半が、パウロを模範にしました、御名を否定するより、牢獄を望むほどでした。このような信仰は、私たちを変えることができるでしょうか?神様に従い愛することは、どうでしょう?最終的にこんな信仰で、サタンを打ち負かせますか?神様は満たされますか?神様は真理を表し、実践を求めますが、なぜでしょうか?人の命の性質を変え、サタンの影響から救うためです。そして人は神を知るのです、まさに神様への信仰が成せることです。でも信者の大半は、犠牲さえ払えば、主の再臨の時、天国へと引き上げられると思っています。神様は人に働きかけます。人は神様の働きを広め、その過程で苦しみ、そしてこう言います。「わたしたちは立派に戦いぬき、走りつくしました。私には義の冠が待つばかりです」と、これは神様が求めていることでしょうか?これは御心でしょうか?こんなふうに理解してるなら、神様を誤解していませんか?

 真の信仰とは何か、皆さんも理解できましたか?終わりの日の裁きを経験していなくても大丈夫ですか?御言葉の裁きと刑罰を体験しなくても、神様を知ることはできますか?神様を信じていても、御言葉を実践せずに、御心を理解し、神様に従い、礼拝することは?ということで、私たちが神様を知り、自分の性質を変えたいのなら、全能神の働きを受けることが極めて重要です。全能神は言われた。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神──全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

                                                                                                                                                                                                                                                                                『神への信仰』の映画台本から


天国に入るための条件

2019-11-28 21:44:30 | グルメ

 質問2.もう何年も主を信じてきましたが、謙虚に、人に寛容で、兄弟姉妹を愛し、主のために奉仕して働いてパウロの例に従う限り、主に服従していることになり、主が戻られたときに天の国に引き上げられると誰もが思っています。パウロは言った「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)しかし、主を信じるには終わりの日における全能神の裁きを受けなければならず、清められてはじめて、神の賞賛を得て天国へと入ることができると証されました。疑問です、これまで何年も主を信仰してきた私たちでも、終わりの日における全能神の裁きの働きを受けずには、天国へ行けないのでしょうか?

  解答: 多くの信者が、パウロのように働くことは主の道に従うのと同じで、主が戻られたときに、天の国へ入る資格を得るのだと考えています。多くの人にとって、これが観念になっているのです。しかし、これは主の御言葉に基づいたものですか?こうした信仰で主がお喜びになるでしょうか?パウロのように主のために働けば、本当に主の道を歩んでいることになるのでしょうか?天国へ行く資格があるでしょうか?主イエスはこのようにおっしゃっています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音 7:21-23)神の御心に従う者だけが天国に入れる、主イエスはそうはっきりとおっしゃっています。主のために、犠牲を捧げ仕え働く者が天国に入るとは言われませんでした。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う者の多くは、みなよく働く者たちです。彼らは主に称賛されるどころか、不法を働く者と見なされるのです。パウロは「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)この言葉は主イエスの言葉に矛盾し、主の御心とは相容れない、天国へ入る確実な方法はたった1つだけ、それだけです。主イエスが聖書の中ではっきりとおっしゃっています。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)「主と共に食事をすること」これは終わりの日の神の裁きを受けるという意味です。神の裁きと刑罰を受けることによって真理を全て理解し、清められ完全にされるのです、主と食事を共にする効果です。つまり、そうすることによってのみ間違いなく天国へ入ることができると確信が持てるのです。

  主イエスキリストのみが真理であり、道であり、命であることは皆さんがご存じのとおりです。なので天国に入るには最終的には主イエスの言葉に基づいた方法になるのです。パウロは福音を伝えるただの使徒でした、主を代弁することはできません。主イエスはそのようには証されなかったので、パウロが歩んでいた道は必ずしも正しい天国への道ではありません。そればかりか「パウロの例に倣うように」など主は一言もおっしゃっていません。もし私たちがパウロの言葉のみに従って天国への道を選ぶのなら、すぐに迷いはぐれるでしょう。「ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」この聖句は、主の言葉を信じよと言っています、天国に行く唯一の方法は神の御心に従うことです。神の家から始まる裁きの働きをするため、主イエスが終わりの日にお戻りになったとき、私たちが神の声を聞き、終わりの日の神の働きを受け、裁きと刑罰を受けて清められ、完全にされれば神の御心に従い、天の国に入る資格を持てる者になるでしょう。これは絶対に確かなことなのです。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う熱意のみに頼る者は、主の御言葉を実行することには注意を払わず、神の現在の働きを受けようともしません。彼らが主を知っていると言えますか?神の御心に従っていると思いますか?なぜ主イエスはこう言ったのでしょう。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」(マタイによる福音書 7:23)ここはとても考えさせられる箇所です。皆さんご存じのように、ユダヤ教のパリサイ人はその当時陸や海を旅し、多くの苦難に耐え、大きな代償を払いながらも福音を宣べ伝えました。見た目では彼らは神に忠実に見えたでしょう。でも実際には、彼らは神の言葉を実行する代わりに宗教的儀式に従事し規則に従う事を重視していました、神の戒めに従わなかったのです。それどころか、神の戒めを廃止してしまいました。彼らは完全に神の御心に矛盾し、神の道から外れてしまったのです。だから主イエスは彼らを非難し呪ったのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書 23:15)つまり私たちは思い込んでいるのです。「主のために懸命に働きさえすれば、主が来られたときに天国へ連れて行かれるであろう」と、この見解は純粋に主の言葉にそぐわない、人間の観念と想像に過ぎません。私たちが救いを求め、天国に入りたいと思うのは正しいことですが、最終的には主の御言葉に基づいて行わなければなりません。主の言葉を無視し、パウロの言葉に則り、その方法に従事するとなれば、主の称賛を得ることなど絶対にないでしょう。

  実は、終わりの日の全能神の働きを受ける前には、主の御名を守り奉仕し説教し働くことで、主の御言葉を実践し、主の道に従っていると思っていました。主が来たときには天の国へ連れて行かれると、誰もがそのような観念を持ち想像していました。そして、しばらくして終わりの日の全能神の働きを受け、その言葉を知りました、読みましょう。「働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。……働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より)全能神の御言葉を読むことで神が私たち人間に、神のために苦しみ労力とお金を費やすことだけを求めているのではないことがわかりました。どちらかといえば、神の御言葉を実行し体験すること、働き、説教する時には神の言葉に関する認識を話すこと、御言葉の実際へと兄弟姉妹を導くこと、これらこそ神の御心を喜びで満たす働きです。長い信仰の歩みを振り返り、 嵐や雨の中でさえ、主の御名によってどこへでも行き説教に務め、若干の苦難に耐え、それなりの代価も払いましたが、主の御言葉を実行し経験することに注意を払わず、私はそれについて証しすることもできませんでした。聖書の意味のない言葉や教義をならべて、宗教儀式と規則を守るように教えていただけです。そんなことで、兄弟姉妹たちを神様の御言葉が持つ真理に導くことなどできるはずがありません。それだけでなく、説教する時は人の尊敬を気にし、主のお求めになることに反して、自分の思うままに行動したこともありました。主のために何かを犠牲にし、苦難に耐え代償を払うことによって、私こそが主を最も愛する者であり、主に最も忠実な者だと思っていました。私は神からの天国の祝福を要求し、とんでもない恥知らずでした。自分よりも消極的で弱い兄弟姉妹たちを軽蔑して、高慢に振舞っていました。主のために働くという熱意だけに寄りかかり、主の御言葉を実行し体験することには疎かにしていたので、何年も主を信じてきたにもかかわらず、主への認識や畏れはかけらもありませんでした、性質の変化など言うに及ばずでしょう。私は何年も主を信仰し、 相当な苦労にも耐えて来たので、ますます傲慢になり誰に対しても、背を向けていました、ごまかして欺こうとし、あらゆる面でサタンの性質を示していました。実際に私の働き方は、主の御言葉を実行し主に従う、それとは違うものでした、それでは主の理解に繋がるはずがありません。私のように真理どころか主の理解もない者が、何をしても主を辱め、拒んでいたのではないか?そんなことでは主を褒めたたえ、証しするなどできない。全能神の働きを経験してわかったのは、どれだけ長く主を信じていようが、どんなに苦労しようが、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、神の御心に従う者、偽りなく神に従い崇める者にはなれないということです。これは確かなことです。

   では、宗教界の牧師や長老たちについて見てみましょう。主のためにすべてを捨て去り、働いているのですが、どんな事をしていますか?その本質は、一体どうでしょうか?長く主を信じてきたにもかかわらず、真理を求めたことは一度もなく、聖霊の働きを受けていない、いのちに入ることや信仰上に起こる問題を、どうやって解決するのか助言もしてくれません。彼らはよく聖書の無意味な教説を取り上げて話します、信者を惑わし自分たちがどれだけ主のために説教してきたか。いかに努力し、どれほど苦しみ、いくつ教会を建て上げたかなど機を逃さず証しをします。こうして人が自分に従い 崇拝するように仕向けます。その結果、何年も働いているのに兄弟姉妹たちが、真理を理解して神を知ることはなく、自分たちを崇拝させ従わせ知らないうちに、人間崇拝という神を裏切る道に足を踏み入れてしまうのです。では、そういう牧師や長老たちがそのような働きで、主の道に従っていると言えますか?主に対して悪事を行っていませんか?特に終わりの日における全能神の働きについては、多くの牧師や長老たちは全能神の御言葉が真理であり、その働きが聖霊の働きであることに気づいていながらもそれを学ぼうとせず、己の地位と生計を守るため、熱心に噂を流し、ありとあらゆる噓偽りを並べ立て全能神を非難します。全能神を拒み遠ざけ宗教界を閉ざしてしまうのです。彼らは真の道を求め学ぶことを誰にも許さず、神の働きを証しする人々を教会から追い出します。さらには邪悪な中国共産党と共謀し、全能神の証をする人たちを捕まえ迫害するんです。これは大胆にも神に対抗した行動ではないですか?神に反する彼らの罪は、主イエスに反したパリサイ人のそれよりも遥かに重いのです。この事実から、主の御名によって労力を費やすことが、神の御心に叶うことだなどとまだ言えますか?主の御名にしがみつき、主の道を守り、主のために労力を惜しまなければ、私たちには天国に召される資格があると言えますか?全能神の御言葉をもう少し読めば理解できるでしょう。

   全能神は言われる。「あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。とにかく神は義であると信じている、とあなたは言う。あなたは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたが、神は確かにあなたのことを覚えている。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

  「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)全能神の御言葉にはっきりと示されているように、神は聖なるもので義なのです。汚れて腐敗した者が神の国に入ることは、絶対に赦されません。

 

                                                                                                                『私の天国の夢』の映画台本から


天国に入るための条件

2019-11-27 18:32:57 | グルメ

質問1.私達は主のために働き、苦労もあります、それでも変わらず嘘をつき、欺き、だまそうとします。毎日自己弁護ばかりしています、横柄でわがままで人に恩を着せたりします。罪を犯し告白を繰り返し、肉の束縛から逃れられません。主の言葉を実行しないし、御言葉通りの現実を生きていません。こんな私達が天の国に招かれますか?罪を犯しても、主は私達を罪のない者だと見てくださると言う人もいます。パウロの言葉にあるからです。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)主が戻られたとき、私たちの姿が変わり天の国に召されると信じる根拠です。でもそうじゃないと言う人もいます、信仰があり救われていてもよく罪を犯す者は、天の国には入れない。これは主イエスの言葉にあるからです「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)これは誰もはっきりと答えを持たない争点なので、どうか私たちに教えてください。

  解答: 私達も、パウロのような使徒の言葉を神の言葉だと、以前は考えていました。パウロの言葉をもとに、主のために働いていました。さらに、主のお戻りに関しても、パウロの言葉に従っていました。しかし主の言葉を無視しています。問題ではありませんか?信者としては、神の言葉に従いますか?それとも人の言葉?聖書のパウロの言葉ですが、神と人間どちらの言葉でしょう?神の言葉か人間の言葉かは一旦置いておいて、聖書にあるヤーウェと主イエスの言葉は確実に神の御言葉だと言えますね。誰も否定できませんね。一方パウロのような使徒たちの言葉は、聖霊の啓きがあったとしても人間の言葉です。神の言葉ではありません。主も聖霊も使徒の言葉が神の言葉だとは証言していないし、使徒たちも自らの言葉が神の言葉だとは言っていません。そうでしょう?聖書の人間の言葉は、人間の言葉で神の言葉ではない、神の言葉として利用してはいけません。聖霊の啓きを受けた人間の言葉もあれば、人の意志が混ざったものもあるからです。真理を示すものではない。人間の言葉を真理として扱うと人々はどこにも導かれはしません。なぜ宗教界に何千もの宗派があるのでしょう?聖書にある人間の言葉を神の言葉として解釈したために、大きな混乱を招いたからです。天国へ入るかどうかは主イエスの言葉で判断すべきです。なぜなら主イエスは受肉されたキリストであり、唯一の救い主なのです。主イエスの言葉だけが真理であり権威を持つのです。パウロはただの人間です、真理を示すことはできない、そのため彼の言葉には人の意思や想像が混ざっています。パウロ自身も自分の言葉が神の霊感によるとか、手紙が神の言葉だとは言っていません。パウロの言葉を神の言葉とみなすのはおかしな話でしょう?私たちは、神の御心に叶っているか天国に行く資格があるかどうかを、主イエスの言葉に従って真理を探し求め、答えを見つける必要があります。

  少し全能神の言葉を読んでみましょうか。全能神は言われます。「今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。……彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。……彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より)

  「神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。……人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

  主の信者の多くが主の出現を待つ間、パウロの言葉に従っています。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは非常にばかげた話です。人間の言葉は神の言葉を代表できず、人間の意図を含んでいるからです。たとえその意味が近かったとしても、それは神の言葉ではない。パウロが言ったことは、主が言われたことですか?預言者の言葉はどうですか?聖霊はパウロの手紙が神の御言葉だと証しましたか?聖霊の啓きは、主の再臨に備えるためにパウロに従えと言いましたか?言っていない。そんな事実も証言もどこにもないのです。よってパウロの言葉はあくまで参考にすぎません。主に引き上げられ天の国に召されることについては、主がお見えになったとき、一瞬にして姿を変えてくださるといったパウロの言葉に頼っていては、間違いを犯して、主に見捨てられるかもしれません。事実、終わりの日に主が為される働きや人間を聖なるものにどう変えるかは、聖書に預言されています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

  「わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音 12:47-48)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。……真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。……またが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。」(ヨハネによる福音書 17:15、17、19)

 このような聖句からも、終わりの日に主が再臨されると神の家から裁きの働きをされ、人間を真理へ導き悟らせるのです。神の御言葉の裁きを受ければこそ真理を理解し清められ、神の国へ入る資格を得るのです。つまりパウロが言った「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは不正確で誤解を招く発言です。多くの信者が姿を変え天の国に召されると信じています、主の御言葉も実行せず神の御心に叶う方法も知りません、自分の熱意だけで主のために努力し働き、罪を犯す本性に支配されたまま、罪深く生き悔い改めることに毎日を費やしています。こうした人々はパウロの言葉だけを信じて主の出現を待っているのです。現実的ではない、主がされることですか?皆さん、パウロのこの「預言」はいのちの成長を得る役に立ちますか?この言葉のように主の再来を待って預言は成就しますか?「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる 福音書 10:27)これで預言は成就しますか?積極的に真の道を模索して神の声を聞くことができますか?

 終わりの日の全能神の働きでは神が大災難の前に、勝利者のグループを作られたことが分かります。大災難は急速に近づいています、終わりの日に神が出現され働く時から大災難が起きるまでに約30年あります。その期間はあっという間です、決してパウロが言ったように、人が一瞬で聖なるものに変えられるわけではありません。パウロの言葉は漠然としていて、超自然的です。そして、主イエスの預言にある神の声を聞き婚宴に招かれることには触れていません、主の預言は現実的で事実に即していて、預言が成就すれば、私たちは理解できるのです。全能神が現われ、語られると多くの人が神の声を聞き全能神を信じます。神の裁きと刑罰を受けることは、黙示録の預言を成就するものです。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 19:9)パウロの「預言」は成就されていません。それどころかパウロは預言者ですらない、彼の「預言」は想像によるものでしょう。主の預言は成就されていますが、パウロの言葉は実現していません。その差は非常に大きいのです。これが人間と神の言葉の違いです。パウロの言葉に頼っていては天の国に入れないのです。信仰する人がパウロの言葉を頼りに、主がお見えになるのをただ待っていれば、主に見捨てられ愚かなおとめとなるでしょう。

 お判りになりましたか?聖書の預言が成就すると、主の信者たちにはそれが判るのです。しかしパウロの言葉は、現実になることはないでしょう。なぜでしょうか?パウロの言葉は神に霊感を受けていないからです、神の御言葉のはずがない。主のおっしゃった事に、実現しないものはないということがお判りでしょう?違いますか?終わりの日全能神は、数多くの真理を『言葉は肉において現れる』に記されました。『言葉は肉において現れる』が出版され、全能神の言葉を沢山読んで、様々な宗派や教派の良き羊も全能神の言葉は真理であり、神の声だと言い従っています。彼らは賢いおとめであり、大災害の前に神の御座に連れられ、子羊の婚宴に迎えられるのです。主の預言を成就するものです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)主の預言が完全に成就されたことがお判りですか?主が語った言葉や預言者による神の御言葉は、そのすべてが成就されるでしょう。主が言われた通りです。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)パウロの言葉の中に成就されたものは?皆さん、パウロの語った言葉が神の霊感によるものでも、神の言葉でもないとはっきりしましたか?パウロの言葉だけを信じて、主の声を聞こうとも、神の働きを学ぼうともせずに、主が雲に乗って現われ姿を変えてくださるのを待つのは、愚かなおとめだとは思いませんか?そのような者が神の玉座の前に連れて行かれますか?

                                                                                                                                                            『変えられる瞬間』の映画台本から


創造主の権威のもとでは、万物が完璧である

2019-11-26 12:00:00 | 全能神の発表

  鳥や魚、木や花、神により造られた物は、移動する物と移動しない物を含め、第六の日に造った家畜や昆虫や、野生動物を含め、すべて神にとって良いものであり、また神から見て、神の計画によれば完璧に達しており、神が望む基準を満たしていた。創造主は、自身の計画に従って自身が意図した業を、段階的に実施していった。神が造り出すことを意図していた物が次々と生まれ、そうした物の出現は創造主の権威の反映であり、結晶化であった。また、こうした結晶化のために、あらゆる生物は、創造主の恵みと施しに対する感謝の念を感じずにはいられなかった。神の奇跡の業が現れると、この世の中は神が造った物で少しずつ拡大してゆき、混沌と闇の状態から、明瞭で明るいものへ、また死の静寂から生の無限の活力へと変化していった。大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生来の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形状や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。……

  こうして、創造主の権威による万物は、創造主の支配により新たな交響曲、新しい日の神の業への美しい前奏曲を奏でることとなった。またこの時、創造主は神の経営の業における新たなページを開くことになる。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた規律に従い、万物は創造主の経営(救いの)計画に従い、新たな日、新たな始まり、そして新たな生活を喜んで受け容れる。そしてやがて万物は無限の繁殖を続け、創造主の権威による支配下で新たな日々を迎える。……

                                        『言葉は肉において現れる』より

 

アダムへの神の命令

2019-11-25 17:40:09 | 全能神の発表

  創世記2:15-17)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

  この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい…もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

アダムへの神の命令

 

  この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

  この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

                                      『言葉は肉において現れる』

私たちについて:https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/the-scroll-opened-by-the-lamb-014.html

 
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エバの創造

2019-11-24 19:24:44 | ニュース

  (創世記2:18-20)また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

  (創世記2:22-23)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

  この箇所にはいくつかの鍵となるフレーズがある。次の部分に印をつけてほしい。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで全ての生き物に名前をつけたのは誰だったか。それは神ではなく、アダムだった。この部分は人類にある事実を示している。神は人間を知性的な存在として創造した。つまり、人間の知恵は神によるものだということである。これは間違いなく事実である。しかし、なぜだろうか。アダムは神に創造された後、学校へ行っただろうか。アダムは字を読むことができただろうか。神が様々な生き物を造った後、アダムは神が創造した数々の生き物を全て認識することができたのだろうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのだろうか。もちろん、神はアダムに対して生き物にどのような名前をつけたらよいかを教えていない。間違いない。ではアダムはどうして動物に名前をつけることができ、またどのような名前をつけたらよいのかがわかったのだろうか。これらの問いは、神が創造の際にアダムに何を与えたのかという問いに関わるものだ。この「アダムが動物たちに名前をつけることができた」という事実は、神がアダムを造った時に、アダムに知恵を与えたことを証明している。これは鍵となるポイントだ。あなたがたは注意深く聞いていただろうか。もうひとつ、はっきりさせておかなければならない重要な点がある。それは、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということである。なぜわたしはこのことをわざわざ述べるのか。それは、このこともまた、神の性質に関わることで、わたしが説明する必要がある事柄だからである。

エバの創造

 

  神は人間を創造し、人に息を吹き込み、また自身の知恵、能力、そして自身が持っているものと自身であるものを一定程度与えた。神が人間にこれらのものを全て与えた後、人間は自分で行動することができるようになり、自分で考えられるようになった。もし人間が神の目によいことを思いつき、行うのであれば、神はそれを受け入れ、人のすることに介入することはない。人間の行うことが正しいことである限り、神は人間の思うようにさせておくのである。ではこの「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉はいったい何を示唆するのだろうか。ここからわかることは、神は人間がつけた動物の名前を変えることは一切なかったということである。アダムがその名前で呼んだのならば、神はその名前を認め、神もその名前で呼んだのだ。神はアダムに意見しただろうか。絶対にそのようなことはない。ではここから、何を読み取ることができるだろうか。神は人間に知恵を与え、人間は様々なことを行うためにその知恵を用いた。そして人間のすることが神の目にあってよいことである限り、神はそれを一切の評価や批判をすることなく受け入れ、理解し、承認したということだ。これは人間や悪魔、あるいはサタンには絶対にできない。ここに神の性質を見ることができるだろうか。人間に、堕落した人間に、あるいはサタンに、他者が自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるだろうか。そんなことはもちろんできない。自分達と異なる他者もしくは他の力と彼らは戦うだろうか。勿論戦う。そのとき、もしアダムと一緒にいる者が堕落した人間かサタンであったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを拒否したであろう。自分で考えることができ、独自の見解があることを証明するために、アダムのしたことを全て否定しただろう。「この名前でどうか。」、「いや、私はその名前では呼ばない。私は別の名前で呼ぶ。君はそれをトムと呼んだが、私はハリーと呼ぶことにする」。私は自分の能力を誇示しなければならない。これはどのような本性だろうか。あまりに傲慢ではないか。しかし神にそのような性質は見られるだろうか。神はアダムがしたことに対して、特に反対しただろうか。決してそのようなことはない。神の性質には、論争、傲慢、独善などは一切みられないのである。それは実に明確だ。些細なことだが、神の本質を認識していなければ、そして心から神がどのように働き、どのような態度であるかを理解しようとしなければ、神の性質を認識することはできないし、神の性質に関する表現や明示を見出すことはできない。違うだろうか。今わたしが説明したことに同意できるだろうか。アダムがしたことに対して、神は高圧的に「よくやった。お前は正しいことをした。お前に同意する」とは言わなかった。しかし神は心の中ではアダムを認め、受け入れ、アダムのした事を褒めたのである。これが、人間が神の命令に基づいて行った最初のことであった。神の代理として、神の代わりに人間が行ったことだ。神の目には、これは、神が人間に与えた知性から来るものであった。神はその知性をよいものとして、肯定的に捉えていた。この時アダムが行ったこのことは、神の知恵が人間を通して現れた最初の出来事であり、神の目から見て、よい現れだったのである。ここであなたがたに伝えたいのは、神が自分の持っているものと神であるもの、その知恵の一部を与えたのは、人間が神の性質を現す存在となるためであったということである。このように、生きる被造物が神の存在を体現する者として物事を行うことこそ、まさしく神が人間に望んでいたことなのである。

                                         『言葉は肉において現れる』より


神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

2019-11-23 23:23:38 | 全能神の発表

  創世記3:20-21)さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

  ではこの3番目の箇所を見ていこう。ここではアダムがエバに与えた名前には意味があるということが語られている。この箇所は、創造された後アダムが自分の考えを持ち、たくさんのことを理解していたことを示すものだ。だがここでは彼が何をどのくらい理解していたかということを掘り下げていくのではない。この3番目箇所でわたしが取り上げたいテーマはそこではない。ではこの箇所で取り上げることとは何か。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところを見てみよう。もしわたしたちが今日この聖句の意味するところを掘り下げなければ、もしかしたらあなたがたは一生この聖句の意味するこころを本当には理解できないかもしれない。最初に、ヒントをあなたがたに与える。アダムとエバが住んでいるエデンの園を想像しよう。神が彼らのもとへやって来たが、彼らは裸だったので隠れる。神には彼らの姿が見えないため、彼らを呼ぶと、彼らは、「私たちはあなたにお会いすることができません。私たちは裸ですから。」と答えた。彼らは裸だったので、神に会おうとしなかったのである。このときヤーウェ神は彼らに何をしただろう。原文にはこう書いてある。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。今、神が何の素材で人間の服を作ったか知っているだろうか。神は人間の服を作るために動物の皮を使ったのだった。つまり、神が人間に作ったのは毛皮のコートだ。これが、神が人間のために最初に作った服だ。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着ることのできるものではない。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか。」と聞かれたなら、あなたは、「毛皮のコート」と答えればよい。「誰がその毛皮のコートを作ったのか。」と聞かれたなら、「神が作られた。」と答えればよい。これが重要な点なのだ。この服は神によって作られたものだった。これは注目に値することではないだろうか。今わたしが説明したことが、心に描けただろうか。せめて簡単な概要くらいはあるはずだろう。今日このことをあなたがたに伝えているのは、人間が最初に身に着けた服が何であったかを知らせるためではない。では、何が重要なのか。重要なのは毛皮のコートではなく、神が毛皮のコートを与えたことによって表された神の性質、神であるものと持っているものをどのように捉えるか、ということである。

 神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

  

  この「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれないか。(親としての役割)。韓国の兄弟姉妹よ、神はこの時にどのような役割の者として現れたと思うか。(家族の長)。台湾の兄弟姉妹よ、どう思うか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割)。あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。ここで現されている神の真実さや謙遜を通して、神の魅力を知るようになる。人の心の中の大きく、愛すべきであり、全能である神が小さく、醜い、吹けば飛ぶようなものになってしまっている。この聖句を読み、ストーリーを聞くとき、このようなことをした神をあなたは見下すだろうか。そういう人もいるかもしれない。しかしある人にとっては全く逆で、神を真実で愛すべきとして捉え、その真実さと愛すべき性質に心動かされるだろう。本当の神の側面をより知っていくことで、神の愛、神が自分の心の中にいてもらえることの重要性、そして神がどんなときも共にいてもらえることに、より深い理解を得るようになる。

 神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

 

  ここで、わたしたちの話を現在とつなげてみるべきだろう。もし神が最初に自身が創造した人間に対しこれらの様々な小さなこと、人間が全く考えたり予想したりしないようなものですら人間に対して行うことができるのなら、神は今日の人々に対してもそのようなことをすることは可能だろうか。「可能だ」と言う人もいるだろう。それはなぜだろうか。それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。神がそのような実質を持っていると知ることは、人々の神への愛に影響をもたらすだろうか。彼らの神への畏れに影響するだろうか。あなたが神の本当の側面を理解する時、あなたが神とさらに親しくなり、神の人間への愛と配慮にさらに深い感謝を持つことができるようになり、それと同時に神に心を捧げ、そして神に対しての疑いもいぶかりも持たなくなることをわたしは願っている。神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。

 

                                                                                                                                     『言葉は肉において現れる』より

 

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え

2019-11-21 22:30:45 | 全能神教会映像

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え

2019-11-20 22:58:20 | 全能神教会映像

キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え
本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。
チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。