全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

「愛の使命」から、その三「清められ、救われる道」

2020-01-14 11:25:56 | ニュース

主イエスは十字架につけられて、すでに私たちを罪の中から贖ってくださいました。 なぜ神様が世の終わりにもう一段階の裁きの仕事をなさってこそ、 人が清められ、救われるのでしょうか。 ここであなたはきっと答えを見つけるはずです。

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


救われることVS完全な救い

2019-11-30 22:29:25 | ニュース

救われるとは、どういうことなのでしょうか。完全な救いを得るとは、どういうことなのでしょうか。人間の罪は赦されていますが、それでもなお人々は頻繁に罪を犯し、清められていません。人々は完全な救いを得たのでしょうか。天国に入ることができるのでしょうか。これを読んで、完全な救いと天国への道を見出だしてください。


天の御国へ入る条件に関する質問と答え

2019-11-29 21:41:50 | ニュース

質問3.私たちは主を信じてきて、主の御名を守ってきたわ、普段から聖書を読み、主に罪を告白してきた。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、福音を広めているわ。私たちは主の言葉を実践し、道に従ってないって言うの?信仰は持ったこともなく不信心者だったなんて、なんてことを言うの?聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)だから私たちは、主の賞賛を得るはずじゃないの、主が来られたら天国へと引き上げて下さるわ。

解答: 多くの信者はこう思ってます。主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、全てを犠牲にして努力していれば、真の信者であると、そのように主を信じれば、天国へと引き上げられると考えているのです。神を信じることは、人々が思うほど簡単でしょうか?このような信じ方で、神様の承認を得られるでしょうか?主イエスによって、罪に定められたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか?彼らはよく祈り、懸命に働き、福音を広めるため遠く旅したこともありました。主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか?聖書を読む人はわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛した。外から見れば、信仰が深そうで、本物の信者のようでした。ですが実際は、神様を崇めず心に神様の居場所はありませんでした。信仰において、神様の言葉に真理を求め、御心を理解することにはせず、神様の言葉を実践したり、従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論を普及させることに力を入れていました。宗教的な儀式ばかりに固執し、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそんな信仰を続け、神様のことは知らず、従順かつ敬虔になることもありません、従って、主イエスが働きをした時、彼らは真理を求めずに、思い込みや想像だけで推し量ったのです。主イエスの説教が意味深く、主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは学んだりせず、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰せられました。パリサイ人の信仰は、真の信仰だと言えるでしょうか?神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか?主イエスは認めなかっただけでなく、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23章)そう非難し、呪ったのです。そうではありませんか?パリサイ人たちは思い込みや想像だけで、天の曖昧な神を信じました。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、拒んでいたのです。

 では今の宗教界はどうでしょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、それによって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし全能神が裁きのために真理を表す時、思い込みや想像で神の働きを定義づけ、聖書の御言葉や働きの範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは全能神の御言葉は真理だと知っているのに、探し求めようともせず、全能神の噂や嘘を広め、中傷し、非難し、冒涜しているのです。信者が真の道を探すことを制限するどころか、証をしようとする人たちを逮捕させています。どうですか?こんな長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか?どちらも真の道を知りつつ、拒んだのでしょうか?どちらも真理を忌み嫌う、神の敵ではないでしょうか?ということは、主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を実践し主の道に従っているわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうでも、心の中で主を崇めて、従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているわけでもありません。主を信じているのに真理を求めず、神様の言葉を体験しないのであるなら、何年も、主を信じていようが、どれだけ主の為に努力していようが、主の賞賛は得られません。これは特に宗教指導者たちです。主のために努力しますが、未だに全能神を徹底的に非難しています。これだけで、彼らが邪悪な人々だという証拠になります、彼らは終わりの日の働きで、反キリストと暴かれたのです。彼らは呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通り、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)終わりの日の全能神の御言葉も明確です。全能神は言われる。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ送る」より)神様の言葉は、不変の真理です。信者たちが神の賞賛を得られるかは、どれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかに左右されません、御言葉を実践するか神様に従うか次第です。だがパウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」といた。(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)これはパウロの考えや想像で、神様の言葉や真理とは一致してません、神とは反対です。

 真の信仰を持つのはどういうことか、どうすれば神様の承認を得られるのか?この質問は本質的なものです。神様への信仰が救いをもたらし、神様の国に入れるかに関係しています。これまでは、主のために働くことを重視しました、そうすれば、再臨された時に、主の国に入れると思っていたからです。しかし今は間違った信仰の道だと、皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また神様の承認を得るのにどのようにすべきか、宗教界には誰も知りません。終わりの日のキリスト、全能神は、信仰の真理を明らかにし、「真の信仰とは何か?」についてはっきりと話されています。全能神は言われる。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。そのような人々の信仰は意味がなく、神の承認は決して得られない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない── しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう── これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)

 全能神は信仰の奥義と真理を明かしました。大勢が信じますが、真の信仰が何であるかだけでなく、神様もその働きも、知らないのです。このような信仰は、賞賛を得ることのない、混乱した信仰です。全能神は信仰の真意を明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」本物の信仰について明確に話してます。神を信じる人は、実際に御言葉を信じます。それは御言葉を実践し、御働きを体験することです。これが真理を理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。宗教界では、どう主のために働き苦しむかしか話しません、御言葉をどう実践するかは話さないのです。ですから、長く信じても真理を理解できず、神様を知ることもできません。そんな風に信じていて、どうして認めてもらえるでしょう。主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイによる福音書 7:22)次に何と仰いましたか?「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:23)自分の意思に従い、神様のために犠牲を払い、働いても、御言葉を体験しようとせず、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。宗教界の信者の頃を振り返ると、御言葉を実践することも、体験することもせず、罪を犯して悔い改め主に赦しを請う、それだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました、聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じていると思った。自分は主を愛し、主に忠実でいる、主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思った。これは、私が全能神を受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目当て、つまり祝福を受けることしかない。そこで、その目的に関わりあること以外に関心を向けることは怠惰すぎてしないのである。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、甘受と欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より)全能神は問題の核心に入り、人の本性を明らかにします、神との取引を求むのです。私は信仰の動機があまりにも不純だと気づきました、祝福や恵みや報酬、天国に行くことを求めていたのです。祝福さえあれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし御言葉を実践せず、神様を知ろうとしなかった、結果として、私の人生は真理と関わりのないものになった、何年も信じてきたのに、主の認識はこれっぽっちもありません。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、再臨の時には、天国へ引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずでした。神様は人類の贖いと、救いのために2度受肉されました、真理をもたらすためにされたのです。彼らが神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛から解放され、従順になるようにされたのです。御心を理解しておらず、真理だけでなく、神の認識も求めなかった、私は恵みと報酬だけを、求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。神をどう信じていたのでしょう?どう神様を愛し忠実だったのか?神様と取引をしようとしました。神様を利用し、騙そうとした。全能神の御言葉による裁きで、自分がどれほど、堕落させられていたかわかりました。利己的で狡猾で、人間らしさもない、卑劣な悪人で自己中心的でした。御前にふさわしくありません。神様は創造主で、私は創造物です。私が神様を信じ、すべてを犠牲にする、それが本分です、それが創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした、何かを犠牲にしたり苦しんだのは、神様との取引のためでした。私は祝福が欲しかったのです。神様を騙したこの私の信仰、神様から憎まれるはずです。私のような、悪魔的なものは天国へいざなわれるわけがない。私は、御前に跪き、悔い改めました、神様がどのようにされ、最終的にどうなろうと、神様の計画に従います。仕えるだけでも、真理を追い求め、本分を全うします。全能神の裁きや刑罰や試練を、体験することで、信仰の考えは変わりました。真理を追い求め、実践し始める、徐々に正しい道を歩み始めました。これが全能神の裁きを体験した結果です。全能神に感謝をします。

 全能神の裁きと刑罰を体験した後、私はやっと、どれだけ堕落させられていたかに気づきました。私はあまりにも、傲慢でした。見た目は福音を広め、苦しみを耐え、聖書について語り、内容を覚えているようでした。神様を知っていると思って、私は傲慢に、振る舞っていました、実際は神様に祈ったり、真理を求めてなかったのです。私はひたすら、思う通りにやりました。主の再臨については特にそうでした。自分の考えや想像で、神を聖書に限定したのです。御言葉や働きは聖書の中にあり、外にあるとは、思っていませんでした。主を信じる人は、聖書を守ろうと頑なに信じていて、守らなければ信じられないと、その結果、全能神の働きに触れても、調べたりはしませんでした。しかも長老たちに従い否定しました、神の御前にありながら、傲慢で理性を失っていました。私の行動は、信仰だったでしょうか?ただの悪でした、主イエスを拒んだパリサイ人たちと私は、どう違うのでしょうか?

 全能神の御言葉を目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の言葉が、心に刺さりました、その裁きは、私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、神の義なる、威厳のある性質を感じました。恐れで震え、悪事を恥じ、跪きました。主を信じてきたのに、こんなにも傲慢で、自惚れていたのか?なぜ神様への畏敬がなかったのか?神様の働きと自分の考えが合わないとそれを裁き、否定しました、真理を求めることは一切しなかったのです。信じてはいても、神様を拒む傲慢な人間でした。この態度は神様の性質を侵しました、神の慈悲と救いがなければ、とっくに地獄に送られていた。神様の声を聞き、神様の裁きを受け入れる機会はなかったでしょう。私は本当に、神様によって救われたんだと感じました。この時、私はこれまでにないくらい、自分を呪いました、私は決めました。神様がどのように裁き、罰し、試そうとも、神様に従おうと。御言葉を読み続け、神様の裁きと刑罰を体験することで、真理が理解できるようになりました。神様を裏切る、自分の本性も、理解を深めていて、神様の聖なる性質と、義なる不可侵な性質について、少しは判っています。無意識のうちに、神様への畏敬の念が生まれていました、以前より腰が低くなり、傲慢で自惚れることも減りました。壁に当たれば、意識的に自分を否定し、真理を求められるようになりました、自分の性質は少しずつ変わっていきました、これが御言葉による裁きと刑罰を体験した結果です!今では、信仰とは何か、理解できるようになりました、信仰の本当の価値と意味を理解しています。恵みの時代の信者も、果たせなかったことですね。恵みの時代信者の大半が、パウロを模範にしました、御名を否定するより、牢獄を望むほどでした。このような信仰は、私たちを変えることができるでしょうか?神様に従い愛することは、どうでしょう?最終的にこんな信仰で、サタンを打ち負かせますか?神様は満たされますか?神様は真理を表し、実践を求めますが、なぜでしょうか?人の命の性質を変え、サタンの影響から救うためです。そして人は神を知るのです、まさに神様への信仰が成せることです。でも信者の大半は、犠牲さえ払えば、主の再臨の時、天国へと引き上げられると思っています。神様は人に働きかけます。人は神様の働きを広め、その過程で苦しみ、そしてこう言います。「わたしたちは立派に戦いぬき、走りつくしました。私には義の冠が待つばかりです」と、これは神様が求めていることでしょうか?これは御心でしょうか?こんなふうに理解してるなら、神様を誤解していませんか?

 真の信仰とは何か、皆さんも理解できましたか?終わりの日の裁きを経験していなくても大丈夫ですか?御言葉の裁きと刑罰を体験しなくても、神様を知ることはできますか?神様を信じていても、御言葉を実践せずに、御心を理解し、神様に従い、礼拝することは?ということで、私たちが神様を知り、自分の性質を変えたいのなら、全能神の働きを受けることが極めて重要です。全能神は言われた。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神──全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

                                                                                                                                                                                                                                                                                『神への信仰』の映画台本から


エバの創造

2019-11-24 19:24:44 | ニュース

  (創世記2:18-20)また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。

  (創世記2:22-23)主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。

  この箇所にはいくつかの鍵となるフレーズがある。次の部分に印をつけてほしい。「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」。ここで全ての生き物に名前をつけたのは誰だったか。それは神ではなく、アダムだった。この部分は人類にある事実を示している。神は人間を知性的な存在として創造した。つまり、人間の知恵は神によるものだということである。これは間違いなく事実である。しかし、なぜだろうか。アダムは神に創造された後、学校へ行っただろうか。アダムは字を読むことができただろうか。神が様々な生き物を造った後、アダムは神が創造した数々の生き物を全て認識することができたのだろうか。神はアダムにそれらの生き物の名前を教えたのだろうか。もちろん、神はアダムに対して生き物にどのような名前をつけたらよいかを教えていない。間違いない。ではアダムはどうして動物に名前をつけることができ、またどのような名前をつけたらよいのかがわかったのだろうか。これらの問いは、神が創造の際にアダムに何を与えたのかという問いに関わるものだ。この「アダムが動物たちに名前をつけることができた」という事実は、神がアダムを造った時に、アダムに知恵を与えたことを証明している。これは鍵となるポイントだ。あなたがたは注意深く聞いていただろうか。もうひとつ、はっきりさせておかなければならない重要な点がある。それは、アダムが生き物に名前を与えた後、神はそれらの動物を、アダムがつけた名前で呼ぶようになったということである。なぜわたしはこのことをわざわざ述べるのか。それは、このこともまた、神の性質に関わることで、わたしが説明する必要がある事柄だからである。

エバの創造

 

  神は人間を創造し、人に息を吹き込み、また自身の知恵、能力、そして自身が持っているものと自身であるものを一定程度与えた。神が人間にこれらのものを全て与えた後、人間は自分で行動することができるようになり、自分で考えられるようになった。もし人間が神の目によいことを思いつき、行うのであれば、神はそれを受け入れ、人のすることに介入することはない。人間の行うことが正しいことである限り、神は人間の思うようにさせておくのである。ではこの「人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」という言葉はいったい何を示唆するのだろうか。ここからわかることは、神は人間がつけた動物の名前を変えることは一切なかったということである。アダムがその名前で呼んだのならば、神はその名前を認め、神もその名前で呼んだのだ。神はアダムに意見しただろうか。絶対にそのようなことはない。ではここから、何を読み取ることができるだろうか。神は人間に知恵を与え、人間は様々なことを行うためにその知恵を用いた。そして人間のすることが神の目にあってよいことである限り、神はそれを一切の評価や批判をすることなく受け入れ、理解し、承認したということだ。これは人間や悪魔、あるいはサタンには絶対にできない。ここに神の性質を見ることができるだろうか。人間に、堕落した人間に、あるいはサタンに、他者が自分の目の前で行ったことを自分の行動として認めることができるだろうか。そんなことはもちろんできない。自分達と異なる他者もしくは他の力と彼らは戦うだろうか。勿論戦う。そのとき、もしアダムと一緒にいる者が堕落した人間かサタンであったなら、彼らは間違いなくアダムのしたことを拒否したであろう。自分で考えることができ、独自の見解があることを証明するために、アダムのしたことを全て否定しただろう。「この名前でどうか。」、「いや、私はその名前では呼ばない。私は別の名前で呼ぶ。君はそれをトムと呼んだが、私はハリーと呼ぶことにする」。私は自分の能力を誇示しなければならない。これはどのような本性だろうか。あまりに傲慢ではないか。しかし神にそのような性質は見られるだろうか。神はアダムがしたことに対して、特に反対しただろうか。決してそのようなことはない。神の性質には、論争、傲慢、独善などは一切みられないのである。それは実に明確だ。些細なことだが、神の本質を認識していなければ、そして心から神がどのように働き、どのような態度であるかを理解しようとしなければ、神の性質を認識することはできないし、神の性質に関する表現や明示を見出すことはできない。違うだろうか。今わたしが説明したことに同意できるだろうか。アダムがしたことに対して、神は高圧的に「よくやった。お前は正しいことをした。お前に同意する」とは言わなかった。しかし神は心の中ではアダムを認め、受け入れ、アダムのした事を褒めたのである。これが、人間が神の命令に基づいて行った最初のことであった。神の代理として、神の代わりに人間が行ったことだ。神の目には、これは、神が人間に与えた知性から来るものであった。神はその知性をよいものとして、肯定的に捉えていた。この時アダムが行ったこのことは、神の知恵が人間を通して現れた最初の出来事であり、神の目から見て、よい現れだったのである。ここであなたがたに伝えたいのは、神が自分の持っているものと神であるもの、その知恵の一部を与えたのは、人間が神の性質を現す存在となるためであったということである。このように、生きる被造物が神の存在を体現する者として物事を行うことこそ、まさしく神が人間に望んでいたことなのである。

                                         『言葉は肉において現れる』より


主の再来を心で聞き、迎える

2019-11-19 12:00:00 | ニュース

マックス(米国)

  私は1994年にアメリカで中国人の両親の元に生まれました。母は成功したキャリアウーマンの典型で、自分で考える力があり、非常に有能です。私は母が大好きです。小学校2年生の時、私は中国語を身に付けるために両親に連れられて中国に戻りました。私が主なるイエス様を知るようになったのもその頃です。2004年のある日、学校から帰ると家にお客さんが来ていたのを覚えています。母はアメリカからの牧師さんだとその人を私に紹介しました。こうして母も主なるイエス様を信じてしばらく経つようなのを知り、私は非常に喜びました。母は、以前は信じておらず、毎年春節が来ると線香を燃やして仏を拝んでいたのです。しかし、母が主なるイエス様を信じ始めてからは、冥銭や線香の燃える匂いを嗅ぐこともなくなりました。その日、アメリカから来た牧師は主なるイエス様の話をしてくれました。続けて、私は風呂場に連れて行かれ、何をする間もない内に、牧師に風呂に頭をボチャンと突っ込まれ、一呼吸の後引き上げられました。耳に聞こえたのは、母と牧師が「これで主なるイエス様の懐に受け入れられました。私たちはみな迷える羊です。」と話しかける言葉だけでした。こうして、私は知らないうちに新たな人生の旅を始めていました。しかし、主が共にいてくださったので、私は心の内で非常に幸福でした。それからは、毎週日曜日に教会に行って礼拝し、牧師が聖書の話をするのを聞き、聖書の言葉を読みました。私は常に幸せで、心は落ち着いており、主なるイエス様を信じるのは本当に良い事だと思っていました。

証し

 

  2008年、私は勉強のため父に伴われてアメリカに来ました。それからも、私は教会に行き交流に参加しました。2012年に高校を卒業すると、父は中国にいる母に会いに行けるよう航空券を買ってくれました。出発の直前、父は私に向き合って色々と打ち明けてくれました。父は、母が中国にいる間に東方閃電を信じ始めたと言い、私が帰ったら母と話をして東方閃電の信仰を諦めさせることができるのではないかと思っている、と話しました。大学生になろうとしていた私は、勿論父の話だけを聞こうとは思いませんでした。私はすぐにインターネットで東方閃電に関する情報を検索し、現実的に理解しようとしました。その結果、中国共産党政府や宗教界の牧師・長老らが東方閃電を非難し、中傷するような意見を述べているのを知りました。私は母のことが心配になり、家に戻って母の様子を見てくることにしました。帰宅すると、母は全く普通どおりでした。私を心配し、愛してくれることにも変わりはありませんでした。神に対する母の信仰と愛はますます強まり、以前よりも敬虔になったようでした。そこで私は母のことがさほど心配ではなくなりました。

  私が中国に戻っている間、予期していた通りに母は東方閃電の話を切り出し、「主なるイエス様はもうお戻りになっていて、神の家を手始めに裁きの働きの段階を始めていらっしゃる。」と言いました。母の言葉から、私は主なるイエス様が今回受肉された時、その働きをなさるために女性となっていらっしゃったとわかりました。その時のことで記憶に残っているのは、私がアメリカにいた時に聞いた主なるイエス様の話と全く違うので唖然としてしまった、ということだけです。私の教会の牧師は、ヤーウェの神は聖なる父であり、主なるイエス様は聖なる息子であるといつも説教で強調していました。父と息子ですから、両方とも男性です。さらに、教会に掛かっているイエス様の絵も、十字架に掛けられたイエス様も、すべて主なるイエス様が男性だったことを表していました。しかし、母はその時、イエス様は女性になって戻られたと言ったのです。それは主なるイエス様に関する私の知識を完全に超越していました。私の心はそれを受け入れられず、母に「主なるイエス様は男性だよ。主がお戻りになる時、女性の姿になるなんて不可能だ。」と言いました。すると母は「神の本質は霊ですよ。神に性別はありません。神は救いの働きをなさるために受肉されたので、別の性を選んだだけです…。」と答えました。しかし、教会の牧師が私に植え付けた観念が第一印象として最も強く残っていたため、母がそう言ったにもかかわらず、私は信じようとはしませんでした。

  数日後、母は私を集会に連れて行こうとしました。私は行きたくはなかったのですが、母を尊敬していたので一緒に行きました。そこでは、中国の東北部から来た中年の女性が「終わりの日は既に来ています。主なるイエス様は肉となって既に戻ってこられ、私たちの間に暮らして、神の国の時代の働きをしていらっしゃいます。現在恵みの時代の教会は、もはや聖霊の働きを宿しておらず、どこも完全に荒廃してしまっています…。」と言っていました。しかし、私の心は既に閉ざされていたので、私はまだ主なるイエス様は男性であり、イエス様がお戻りになる時は、当然男性としてお戻りになるだろうと思っていました。それで私は女性の話している事を基本的に信じはせず、中国を出る時までずっと、とても面食らった思いでいました。主なるイエス様が女性としてお戻りになることなどあるだろうか?私は、母が間違った道を歩んでいるのではないかと心配になりました。しかし、私にできることは「主なるイエス様!母を守り、間違った道を歩まないようにしてください。あなたの懐にお導きになり、お戻しください…。」と、母のために祈ることだけでした。

  アメリカに戻った私は、教会での礼拝に出席し続けましたが、次第に牧師の言う事の大部分が古臭く、同じことの繰り返しか、具体的に教会への寄付のことばかりなのに気づきました。信者として、私たちは本当の導きを得られていませんでした。集会では多くの人が居眠りし、出席者は次第に減っていきました。そして2014年、私が通っていた教会は大きな不幸に見舞われました。牧師が公のお金を使って別の州に自分の家を買い、その結果教会が破産したのです。こうした出来事を見て、私は非常にがっかりしました。ちょうどその頃、クラスメートが私を自分の教会に礼拝に誘ってくれました。その教会は私が以前通っていた所よりずっと大きいものでした。毎週日曜日、牧師が説教をしている間、私は2階の席に座って説教を聞きました。しかし、以前と同様、多くの人が居眠りしており、私でさえ居眠りをし始めました。牧師は兄弟姉妹の目を覚まそうと、しきりにわざと大声で話すのですが、説教を聞かせようという目論見は失敗に終わっていました。私は牧師が教会のお金を使い込んだ、以前の教会のことを思い返しました。その牧師の説教は兄弟姉妹の霊的な生活に必要なものを届けることができず、代わりに兄弟姉妹は教会に寝に来ていたのです!今度通った教会も似たようなものでした。そこで私は「どの教会もこんなに荒廃しているものなのだろうか?」と自問しました。そして突然、2012年に中国に帰った際に、母と東北部から来た女性が言っていたことを思い出したのです。二人は、神は神の国の時代の働きを始めていらっしゃると言っていました。恵みの時代は終わりを迎え、神は恵みの時代に属する教会では働きをなさっていないのです。神の国の時代における神の働きに従ってこそ、聖霊の働きを得られるのです。その時初めて、私は「主なるイエス様は本当に戻られたのかもしれない。」と思いました。

  その後、あっという間に2015年の末となりました。母が私の兄に会いにサンフランシスコへ出かけたと聞き、私は航空券を買って母に会いに行きました。その時も再び、母に東方閃電と主なるイエス様の再来の話を聞きました。また、全能神教会の多くの福音ビデオを見せられ、全能神の御言葉を多く読ませられましたが、今回は以前のように抵抗することはありませんでした。それというのも、過去2年間、私は通っていた教会で様々な荒廃の場面を見ていたので、母らの言う教会の荒廃のことが信じられたからです。それは本当に真実でした!私は心の内にある足かせから開放されるよう、心を落ち着けて母の言っている事を聞きました。その時、母は私の観念に対し、神の性別についての神の御言葉を読んで聞かせてくれました。それは私に非常に深い印象を与えるとともに、再来された主の性別について私がずっと抱いていた混乱を説明するものでした。全能神は「神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。……人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)、「神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることはない。神の本質、神がもつものと神であるものは決して変わることはない。しかし神の働きは常に前進しており、常に深くなっている。神は常に新しく決して古くないからである。…もしも神が男性としてだけ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として見定め、神を女たちの神だとは決して信じないであろう。それで男たちは神は自分たちと同じ性別であり、神は男たちの長であると信じるであろう。では女たちにとっては何になるのか。これは不公平である。これはえこひいきではないであろうか。もしそうであれば、神が救ったあらゆる人々は神と同じ男ということになり、女たちには救いがないということになる。神が人類を創造したとき、神はアダムを造り、そしてエバを造った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を造った。神は男たちだけの神ではない。神はまた女たちの神でもあるのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)とおっしゃったのです。その御言葉を読み終わるとほぼ同時に、私の心を悩ませていたこの疑問は消え失せました。心の中で私はその御言葉が正しいと感じたのです。はじめに、神はアダムとイブを創造されました。もともと、男性と女性は平等だったのです。それならば、神が女性となって戻っていらっしゃることが不可能なわけがありません。神の本質は霊なのですから、神がその働きをなさりに私たちの間にいらっしゃる際は、当然どちらの性別にでもなることができるでしょう。神が受肉なさる際に男であろうと女であろうと、それは神のご選択です。あらゆるものの支配者であり、創造主でいらっしゃる神は、受肉の際に性別を選ぶ権利をお持ちです。神の働きが人間によって制限されることがあるでしょうか?神に比べたら、人間は何物でもありません。人間はただの塵ではありませんか。人間にどうして神の知恵が理解できるでしょうか?以前私は、神は男性でしかありえないと思っていました。私は本当に神を定義していたのであり、それゆえに、私は神について何も知らなかったということがわかります。私は余りに傲慢で愚かだったのです。

  神の御言葉をさらに読んで、今回神が働きをなさる上で女性として受肉されたことに関する私の観念は完全に消し去られました。また私は、神が新たな働きをなさるために既にお戻りになったことも受け入れることができました。しかし、全能神教会に抵抗し、それを非難する否定的なプロパガンダをインターネットで読んでいたので、全能神の働きについては、まだ百パーセント確信したわけではなく、私の心にはまだ一抹の不安が残っていました。私は、それを徹底的に追求して、全能神教会がどういうものか探ってみようと思いました。そして、2016年2月から正式に、私は客観的な目を持って、全能神教会の兄弟姉妹のオンライン集会に参加し始めました。同時に、否定的なプロパガンダに関して、何が真実で何が偽りか、私を導き知らせてくれるよう神に祈りました。

  しばらく追求した後、集会の度に兄弟姉妹は神の御言葉を読み、真理を伝え、神の御心について話し合っていることがわかりました。さらに、全能神の御言葉は、人に普通の人間性を持って生き、正直な人となるよう求めていました。全能神の御言葉には、神の性情の知り方や神の救いを得るための真理の求め方も含まれていました。こうした事は、霊的な生活を求める上ですべて必要な事であり、私たちが純粋に人間として生きる上で恩恵があります。兄弟姉妹の話を聞いて、彼らが霊的な生活において本当に気遣い合い、助け合っているのがわかりました。各人の行動の意図は、言葉の端々や表現される考え方に明らかに見て取れました。全能神教会の兄弟姉妹との交流から、彼らがインターネット上の情報が主張するような人々では全くなく、非常に親切で誠意があると感じられました。彼らのあらゆる言動の内に、神を畏れる心がありました。また、私にはそこに聖霊の働きも感じられました。これらの兄弟姉妹は真理を熱心に追求しており、集会での神の御言葉の話や個人的な経験と知識の内に、聖霊の啓きと光が確かにありました。私は集会の度に真理を少し理解し、何かしらを得られました。それは、過去に通った教会では経験しなかったことです。真実は単なる美辞麗句に打ち勝ち、事実の前に噂はその信用を失うのです。

  その後ある集会で、私は中国共産党政府や宗教界の牧師や長老らが捏造した噂について、ある姉にこう話しました。「全能神教会には聖霊の働きがあり、神が終わりの日にその働きをなさるために姿を現す際に、神が作られた教会であるのに、なぜ共産党政府や宗教界の牧師や長老らの強烈な反対や避難に遭うのでしょう?私には理解できません。」するとその姉はそれに関する真実を、こう話してくれました。「私たちはインターネットの噂を見抜かなければなりません。共産党政府や宗教界の牧師や長老らが終わりの日における神の働きを攻撃し、批判して、全能神教会を非難するのは変ではありません。なぜなら、大昔から真実の道は迫害されてきたからです!サタンは常に神の敵として、私たちが神の御前を去り神に背くように、私たちを欺き妨害して、あらゆる噂を捏造し広めてきたのです。サタンの目的は私たちを支配し所有することであり、それははじめにサタンが噂を利用してエバを欺き、神の御言葉を否定させ、神に背かせたのと同じです。主なるイエス様がその働きをなさりにいらした時、祭司長や律法学者やパリサイ人も、あらゆる噂を利用して一般のユダヤ人を欺きました。彼らは主なるイエス様を大工の息子として糾弾し、主なるイエス様は悪魔の支配者を利用して悪魔を追い払っていると冒涜し、ローマ政府と共謀すらして主なるイエス様を十字架にはりつけたのです。そして主なるイエス様が復活した後も、兵士を買収して主なるイエス様は復活しなかったと嘘を言わせ、一般のユダヤ人が主の御許に帰らないようにさせたのです。神は裁きの働きの段階をなさり、人間を完全に清めて救うため、終わりの日に再び受肉されました。神の国の福音は、既に中国では知れ渡っています。現在、全能神の働きは世界各地に広められているところです。神の御言葉の導きにより、サタンに発する悪の力を見分けられる人がどんどん増えてきています。そうした人々は、宗教界のリーダーらのサタンのような悪魔的な本質と、中国共産党の無神論に立つ政権もはっきりとわかっており、彼らを完全に拒否して神の御許に立ち返り、真理を追求して正しい人生の道を歩み始めています。こうして神が人間を救い、サタンの暗黒の影響力から人間を解放させる働きをしにいらっしゃった時に、サタンはただ手をこまねいているだけでしょうか?サタンは進んで打ち負かされるようなことはしません。神の選民を巡って神と競り合うため、最後まで戦い続けるでしょう。宗教界とサタンのような中国共産党政権は共謀し、真理を持たず分別のつかない人々を欺くために、インターネットやメディアを通じて思う存分全能神教会についての噂を広め、その名を汚しているのです。彼らは人類の永久支配を目指しており、その凶悪な目的は人類を堕落させ、破滅させることです。それは、聖書が「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙 5:19)と言っている通りです。主なるイエス様は「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」(ヨハネによる福音書 3:19-20)とおっしゃいました。どうサタンの凶悪なたくらみを見抜き、サタンに欺かれないようにするかについては、全能神が「経験を積めば、多くのことを判別できるようになる──善悪、正邪、何が血肉によるもので何が真理によるものであるかを区別できるようになるだろう。あなたは、こうしたことの区別ができなければいけない。そうすれば、どういう状況にあっても、迷うことはないだろう。これのみが、あなたの真の基盤なのだ。神の働きを知ることは単純なことではない。あなたは、基準と目標をもって探究しなければいけない。あなたは、どのようにして真の道を求めるか、何を基準にしてそれが真の道かどうかを推し量るか、そして、それが神の業であるかどうか、ということを知らなければならない」(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)と、私たちに強く説いていらっしゃいます。主なるイエス様の働きの背景を考え、終わりの日における神の救いの働きと、人間が神の御許に戻らないようサタンが広める噂や嘘を真実に基づいてよく考えれば、サタンの邪悪な真意を知るのは難しくありません。また、共産党政府や宗教界が全能神教会に反抗し、非難し、抑圧し、迫害する理由を理解するのも難しいことではありません。」

  この姉の話を聞き、私はサタンのくわだてについて少しわかりました。また、神に抵抗するサタンの本質についても少し理解できました。さらに、こうした噂を見分け、真実と嘘を分けるには、実際に神の働きを追求し、理解すればいいのだ、ということも理解できました。偏った話を盲目的に信じるだけで、真理を追求したり事実を調べたりしなければ、中国共産党や宗教界の牧師や長老らの噂に欺かれてしまい、そうすると終わりの日に神の救いを得られなくなってしまいます。その時私の心は、こうした真理を理解し、全能神が主なるイエス様の再来であると完全に確信しました。そして、神の御跡をたどり主のお戻りを歓迎するよう私を導いてくださった全能神に感謝しました。神に感謝します!アーメン!


私は主の再来を歓迎した

2019-11-18 22:12:05 | ニュース
 
2018-05-18
 チンシン

  私の両親は中国人で、私は幼い頃から連れられて教会の礼拝に出席しました。12歳でミャンマー国内の大規模なキリスト教キャンプに参加した時、私は牧師に「死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」と言われ、天国に入れるようキャンプ中に洗礼を受けました。その時から、私は本当のキリスト教徒となりました。

主の再来を歓迎した

 

  大人になり、私は教会の青年部会長を長年務め、伝道師が留守の時は、祈祷でも、聖書研究でも、讃美歌でも、証を述べる時でも、兄弟姉妹をリードしました。結婚後は日曜日の献金や十分の一献金を集める係となりました。私の教会は、当初は聖霊の働きがありました。牧師は滑らかに雄弁をふるい、兄弟姉妹は説教によく聞き入り、啓きを受けたように感じていました。誰もが自信に満ち溢れ、毎回の礼拝に出席して、非常な熱意をもって福音を広めました。しかし次第に牧師の説教は繰り返しの多い、精彩を欠いたものとなり、私たちが求めるものが得られなくなってしまいました。そして兄弟姉妹の持っていた自信も薄れ始め、金銭や肉体的な享楽に興味が移ってしまいました。信徒の数も減り始め、やがては全員が必ず出席するよう毎週土曜日になると牧師が電話をかけてくる始末でした。兄弟姉妹は、出席したとしても力も熱意もなく讃美歌を歌い、説教の最中は居眠りし、礼拝が終わると仕事の話をし始めました。礼拝は形だけのものとはり、中身が全くなくなりました。そこで私は非常に悩み、「どうして私たちの教会はこんなに荒廃した牧場となってしまったのだろう?」と思いましたが、その時過去30年間様々な牧師がよく同じ事を言っていたのを思い出しました。「私たちは主なるイエス様を信じているので、私たちの罪はすべて赦されている。」「私たちは信仰のゆえに神の恵みにより救いを得る。」「主なるイエス様は既に一度救いの働きを終えられたのだから、我々主の信者は既に救われており、天国に入る。」と。そこで「私は既に救われている、私は天国に入るのだ。」というのが、私の神への信仰の基本的な教義となりました。教会がいかにさびれていても、信者がいかに弱く受動的であっても、私は常に「私は主の道を歩まなければならない。主から離れない限り私をお見捨てになることはないだろう。主がお戻りになる時、私を天国に連れて行って下さるだろう。」と自分に言い聞かせていました。そう自分に言い聞かせてはいたものの、私は主の道を歩み続けられませんでした。昼には罪を犯し、夜にはその罪を告白しましたが、いつ祈っても側に主を感じることができませんでした。まるで主に見捨てられたかのように、私の霊は暗黒と空白を感じ、私は神からどんどん遠ざかるのを感じました。私はそのために非常に悩みましたが、問題の根源が見つからずにいました…。

  2016年2月、私はインターネットでジャン兄とリーフイ姉に出会いました。主への信仰についての経験を語り合った後、私は二人に自分の教会が荒涼たる牧場になってしまった、という悩みを打ち明けました。するとジャン兄はこう言いました。「荒廃してさびれているのはあなたの教会だけではありませんよ。今は宗教界全体が荒廃しています。それは、主なるイエス様が働きをなさっていた頃、荒廃した寺院が盗賊の巣窟になっていたのと同じです。そこで、まず寺院がどうして荒廃したかを理解すれば、今の宗教界がこんなにさびれて荒廃している理由もわかるでしょう。主なるイエス様が律法の時代を終えて恵みの時代を始められた時、聖霊は寺院では働きを行わず、代わりに主なるイエス様を受け入れ、イエス様に従った人々に働きかけました。ヤーウェを崇拝した人々は、神の働きのペースに追いついていけず、聖霊の働きを受けられませんでした。自らの寺院が牛や羊は鳩を売り両替をする場所となってしまったことからもわかるように、神の加護と配慮を失った彼らは、罪に生きていました。元はヤーウェの栄光に輝いていた寺院は盗賊の巣窟になり、そのために神の性情を怒らせ、神の憤慨のうちに見捨てられたのです。それが、寺院が元々荒廃した理由の一つです。」そして私たちは聖書からアモス書の次の2個所を読みました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに,雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書 4:7)「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス書 8:11)ジャン兄はまた、私に全能の神の御言葉から次の2個所を送ってくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)そしてジャン兄はこう言いました。「現在の教会もこの寺院のように荒廃していますが、それも神が新たな働きをなさっているからです。私たちが非常に待ち望んでいた主なるイエス様は、今や人間の形に受肉され、私たちの間に戻っていらっしゃいました。イエス様は、終わりの日に真実を表し人間を裁き、清め、救われるため、全能の神と名乗られています。イエス様は、恵みの時代を終わらせ神の国の時代を始められるためにいらっしゃいました。聖霊は既に恵みの時代の教会を離れ、今や終わりの日の全能の神の働きを受け入れる人々にその働きを行っています。単に主なるイエス様の御名を守るだけで、神の新たな働きに追いついていない人々は皆、もはや側に神がいらっしゃらず、もはや聖霊の働きがなく、命の生ける水を与えられることが決してないでしょう。そこで当然、そうした教会はどんどん荒廃していくのです…。」

  ジャン兄の話を聞いて、私は今日の教会の状況が本当に主なるイエス様がその働きを始められた頃の寺院と変わらないのを知りました。そして、ジャン兄の話に主の新たな光と導きがあるのが感じられました。しかし、主なるイエス様がお戻りになって人間を裁き清める新たな働きをなさっている、と言ったことには少し困惑して、こう思いました。「確かに主なるイエス様は戻っていらしたかもしれない。しかし、私たち信者はもう救われているのだから、主がお戻りになられた時は、裁きと清めの別の段階の働きをなさらずに、私たちをそのまま天国に連れて行ってくださるはずだ!だが、主の再来は重要な事なのだから、まずそれについて一生懸命に答えを見つけるべきだ。」

  そこでジャン兄に混乱した気持ちを伝えると、ジャン兄はこう言いました。「主の兄弟姉妹の多くがあなたと同じ意見です。また、そういう人々は、私たちは既に主なるイエス様を救い主として受け入れているので、自分たちの罪は赦され、イエス様の恵みを通じて救いを得、イエス様が戻っていらした時にはそのまま天国に連れて行ってもらえるのだとも思っています。そこで、そういう人たちは終わりの日における神の救いを受け入れようとしません。その主な理由は、主なるイエス様の働きがもたらした良い結果を理解せず、神の働きを知らないからです。全能の神はこうおっしゃいました。『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)神の御言葉から、私たちは恵みの時代の主なるイエス様の働きは人類の救済だったことがわかります。主なるイエス様は、私たちの罪の生贄となられ、律法による罪の宣告から私たちを救われるために十字架に掛けられました。主の御前に来たり、自らの罪を認めて悔い改めることで、私たちはその罪を赦されます。それが救われるということです。つまり、救われるということは赦されるということであり、律法の下には罪の宣告はありません。しかしそれは、私たちがサタンの汚れた性情や私たち自身のサタンのような本質から逃れ、二度と罪を犯さないということではありません。傲慢、欺瞞、身勝手さ、貪欲さなどの、私たちのサタンのような本質は未だに存在します。私たちはサタンのような本質とサタンの性情に支配されているため、未だによく嘘をつき、騙し、傲慢でうぬぼれた行動をし、善良な振りをして神を欺きます。私たちは、特に自分の観念とそぐわない時は常に神の働きを故意に批判し、神を非難し、神に背きます。このように深く堕落し神に背く私たちのような人類が、どうして神の賞賛を得られましょうか?私たちは天国に入る資格があるでしょうか?神に背きサタンに属する堕落した人類の私たちを、もし神が御国に招き入れられるならば、神の義と神聖さに対する説明が付かなくなってしまいます。そこで、私たちが御国に入る資格を得るためには、神に裁きと清めの段階の働きを行っていただき、私たちの汚れた性情を変えていただき、私たちの罪深い本質という足かせを完全に振り払っていただかなければなりません。一たび私たちの命の性情が変われば、もはや神に反抗したり背いたりせず、真に神に従い、神により完全に得られ、完全に救われて天国に入り、神が約束なさったものを受けることができるでしょう。それが終わりの日における神の裁きの働きの結果であり、主なるイエス様の救いの働きは、終わりの日における人間の裁きと清めへの道を開くためのものであったことがわかります。つまり、主への信仰により私たちの罪は赦されても、私たちは罪から完全に逃れることも、天国に入ることもできないのです。罪から完全に救われるためには、裁きと清めの働きという別の段階を経なければならないのです。終わりの日における神の裁きの働きにより、聖書の『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロの第一の手紙 1:5)』という言葉が正に成就するのです。」

  全能の神の御言葉とジャン兄の話を聞いて、私は主なるイエス様がなさったのは救いの働きであり、完全に罪を拭い去ったのではなかったことがわかりました。罪を犯した人は、法の下で非難され、刑罰を受けるべきですが、私たちが主なるイエス様の御前に来てその罪を認めるならば、罪は赦されます。神は私たちに罪があるとは見なさず、刑罰を受けなくて済むようにしてくださいます。それが救いです。しかし、この救いは、私たちが清められ、完全に救われたことを意味してはいません。どうも人々は真実を理解せず、真の救いが何かを誤解しているようです。私は、私たちが毎日罪を犯してはそれを認めるという未だに罪深い生活を送っており、それで裁きと清めという別の段階の神の働きを必要としていることを思いました。そして、キャンプで牧師が言った「クリスチャンが死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」という言葉を思った時、その考え方が本当に余りに非現実的であるのを悟りました。子供じみていて荒唐無稽だとさえ言えるでしょう。その後ジャン兄やリーフイ姉と長いおしゃべりができ、二人の話をよく考えてみた時、私は全能の神の御言葉には求めるべき真実があり、その御言葉は非常に実践的で、とても私のためになり、助けとなると感じました。しかし、主の再来は重大な事であり、その事をじっくり考えるため、私は終わりの日の全能の神の働きを徹底的に追求することにしました。

  そこで、それからの数週間、私は全能の神の終わりの日の働きについてインターネットで情報を探し始めました。インターネットを使う前に、私は「主よ、東方閃電が本当に渡した信じる主であるならば、私の心を動かし、あなたの御声をお聞かせください。」と主に祈りました。そして、それとは気づかずにあるウェブサイトをクリックすると、驚いたことに、そこには全能神教会に対する宗教界や中国共産党からのあらゆる批判、攻撃、非難の言葉が書かれていたのです。私は非常にショックを受け、危険な道に足を踏み入れてしまったかと怖くなりました。そこで、ジャン兄とリーフイ姉にそのサイトのリンクを送り、「こうしたことを全部どう説明してくださいますか?」と尋ねました。最初、ジャン兄らは私が送った情報に対し何の返信も寄こさないだろうと思っていたので、二人が落ち着いてしっかりと返答した時はびっくりしました。「全能の神は真の神であり、主なるイエス様の再来です。宗教界や中国共産党がインターネット上で広めているものは、人々を混乱させるために作った噂や出鱈目です。人々を神に従わせないようにするたくらみの一部なのです…。」

  ジャン兄の言葉は私を本当に揺れ動かし、私はその意味を把握しようと心の中でもがき始めました。私はインターネットの接続を切り、主にこう祈りました。「主よ、全能の神が本当にあなたの再来であるのなら、あなたの道を理解し、あなたの再来をこの目で見る機会を逃さないよう、どうぞ啓示をお与えください。インターネット上のああいう事柄が、すべて宗教界や中国共産党の流す噂に過ぎないのならば、私がそれに耳を貸さないようにしてください。サタンに誘惑されるのは恐ろしいことですから。」祈ると私は少し落ち着き、私も間違って非難された時のことや、玉石製品を売って商売がうまくいっていた知り合いの店主が、それを妬ましく思った競争相手に噂を流されて信用を失ってしまった時のことを思い出しました。そして私の心にはいくらかの光が差し始め、この世がいかに暗黒と悪に満ちており、インターネット上の多くのものは、良きにせよ悪しきにせよ、人の話に過ぎないと思い至りました。そして、全能の神とその教会に対し宗教界と中国共産党がインターネット上で流している非難についてよく考えてみました。そこには何の証拠も挙げられておらず、どれも信じ難いことでした。しかも、私は全能の神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹と交流していました。兄弟姉妹が言ったことはインターネットで広まっている噂とは何の関係もなく、二人が私を無理に全能神教会に入らせようとしたこともありませんでした。交流している数か月間、聖書を探求し、全能の神の御言葉を読み、神の御言葉を語り合う他には、何の話題も上ったことはありませんでした。話し方からしても、二人が敬虔で立派な人たちだというのが伝わりました。二人の話は光に満ちていて、私にはとてもためになるように感じられ、彼らの教会は本当に聖霊の働きがある教会でした。私はそう考えたところで、聖霊の働きのある教会は神の教会であるのだから、もちろんサタンはそれを攻撃・非難して、否定的なプロパガンダで取り巻くことだろうと思い至りました。

  後日、私はインターネットで中国共産党の悪意に満ちた様々な行為について読みました。共産党がいかに外国人伝道師を中国から締め出し、聖書を焼きはらい、教会を破壊し、クリスチャンを拘束して殺害したか…。私の心には、中国共産党に対する憎しみと怒りが沸き起こりました。無実で無抵抗のクリスチャンを迫害するとは、何と悪意に満ちていることか。中国共産党は無神論を広めて常に神に反対し、人間性や理由を微塵も示さずにキリスト教徒を捉えて迫害してきたのだから、彼らが言ったことが真実かどうかは知りようがありません。そこで、私はジャン兄らにまた連絡を取り始め、終わりの日における神の働きについて、そしてサタンの狡猾なたくらみをどう見抜くかについて、多くの真実を語ってもらいました…。彼らの話を聞いて、私は終わりの日の神の働きについて多少理解し、宗教界や中国共産党がインターネット上で広めている出鱈目が、いかにすべて根も葉もない噂や荒唐無稽な意見であり、全能の神の働きを人々に受け入れさせないようにするためのサタンの狡猾なたくらみの一部となっているかがわかりました。そして私は、もう二度と宗教界や中国共産党が言う事を聞かないことにしました。すると心の中にあった心配や恐怖は消え、同時に、全能の神の働きと主なるイエス様の働きは同じであり、両方がサタンのような政権や宗教界から抵抗や避難を受けたことに思い至りました。私はそれにより全能の神の働きが真実の道だと確信したのです!

  ある日、私はFacebookで神をほめ讃える讃美歌を聞き、非常に感動しました。実際、賞讃に値し、讃美する価値があるのは神のみです。その讃美歌には聖霊の導きがありました。そして出典を調べてみると、その讃美歌は全能神教会のものでした。私はその讃美歌に感動するあまりただただ涙を流し、嬉しさのあまり兄弟姉妹に連絡して、神が私の心を突き動かし、私を導いてくださったことを告げました…。今や私は、全能の神が主なるイエス様の再来であると完全に信じており、この道の終わりまで全能の神に喜んで従っていこうと思っています。

  現在私は全能神教会に出席し、玉座から流れる生ける命の水を享受しているとともに、自信と愛も回復しました。そして、さらに大切なことに、今では正しいことと誤ったこと、暗黒と光を見分けられるようになりました。私には何が真実で何が噂かがわかります。真実は神から来るもので、噂はサタンから来るものです。そして噂を聞いてもただ盲目的にそれに従うのではなく、慎重に真実と偽りを見分け、熱心に祈り、真実を謙虚に追求し調べるべきです。そうすることでのみ、私たちは噂から逃れて神の御前に戻れるのです。

 

真の携挙とは何か

2019-11-02 12:00:00 | ニュース

2017-11-23   35

 

  「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」(マタイによる福音 6:9-10)

  「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

  「それから、御使はわたしに言った、『書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである』。」(ヨハネの黙示録 19:9)

 

関連する神の言葉

  「引き上げられる」とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。「引き上げられる」とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より

  フィラデルフィアの教会の形が整い、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。聖徒たちは神への愛を堂々と示し、霊の道から外れることは一度たりともなかった。彼らは堅く、唯一の神が肉となり、全てを命ずる宇宙の頭である、と信じている。聖霊がそれを確認し、揺るぎない証拠がこれを裏付けている。そしてそれは変わることがない!

…………

  今日あなたは全ての教会──フィラデルフィアの教会を完全なものとされました。それはあなたの六千年に及ぶ経営(救いの)計画の実現です。聖徒たちは今や御前に身を低くして従うことができます。彼らは霊によって互いに繋がり、愛を持って互いに伴います。彼らは泉の湧くところで繋がれています。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れを全て洗い流し、あなたの神殿を再び清いものとします。私たちは真の実践の神を知っており、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のためにできる限りを費やしてきました。私たちはあなたの御前にて静まり、聖霊の働きを仰ぎ、あなたの御旨が私たちの中にて妨げられることのないように常にしなければなりません。聖徒たちは互いに愛し合い、力あるものが他の者の弱みを補うことでしょう。常に霊の中に歩み、聖霊による啓きと照らしを受けることができます。真理を理解するとすぐにそれを実践し、新たな光に従い、神の足跡をたどります。

…………

  積極的に神に協力し、協調してひとつとなり神に仕え、全能神の旨を満たしなさい。急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、その運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現れた。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二章」より

  主イエス・キリストに従う他の何億人もの人々と同じように、私達も聖書の律法と戒めに従い、主イエス・キリストの豊かな恵みを受け、主イエス・キリストの名の下に集まり、祈り、賛美し、仕えている。そして、これら全てを私達は主の配慮と加護の下に行っている。私達は時として弱くなったり、強くなったりするが、自分達の行動のすべては主の教えに従うものであると信じている。言うまでもなく、天の父の心にかなう道を歩んでいることも信じている。私達は主イエスの再来を、その輝かしい降臨を待ち望み、また地上における生活の終り、神の国の出現、そしてヨハネの黙示録に予言されていることが全てその通りに実現することを待ち望んでいる。つまり、主が到来し、災いをもたらし、善人をねぎらい、悪人を懲らしめ、そして主に従い、主の再臨を歓迎する全ての人々を天に引き上げ主に会わせる。このことを考えるたびに感動せずにいられない。この世の終りに生まれ、主の来られるのを幸運にも見ることができることに感謝する。確かに私達は迫害の苦難を受けているが、それは「永遠の重い栄光をあふれるばかりに」受けるための代償なのだ。何と素晴らしい祝福だろうか。この切なる願望と主によって授けられた恵みによって、私たちは油断なく祈るようになり、さらに頻繁に集うのである。もしかしたら来年、明日、いや、ひょっとしたらもっと早く、誰も予期していないときに、主は突然やって来て、主をひたすら待ち望んでいる人々の集団のもとに現れるかもしれない。主の出現を見る最初の集団となるために、天に引き上げられる人々のうちの一人となるために、遅れを取りたくないから皆我先にと争っている。

…………

  神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。…

…………

  それでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが私達を救うための新しい働きを行っているのだ。この人は私達のために何も明らかにすることはないし、来た理由を説明することもない。単に為すべき仕事を段階ごとに、自分の計画に沿って行うだけである。彼は益々頻繁に声を発し、発言するようになる。それは、慰め、励まし、忠告、警告などから、非難や懲らしめまである。穏やかで優しい口調から、荒々しく威厳ある言葉使いまであり――どれもが人に哀れみと戦慄を注ぎ込む。彼が言うことは全て、私達の中に深く隠された秘密に命中し、それは私達の心を突き刺し、霊を突き刺し、私達を恥ずかしく、みじめな気持ちにする。…

  私達が知らないうちに、この小さな取るに足らない人は私達を神の一つ一つの働きの段階へと導き入れてきた。私達は数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。私達は神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と哀れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じ、神の愛らしさを実際に目にし、そして人類を救いたいという神の強い願いを見る。この平凡な人の言葉を通して、私達は神の性質と本質を知り、神の心を理解し、人の本性と本質をも知り、そして救いと完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は、私達を死なせ、また復活させる。その言葉は安らぎを与えるが、罪悪感と恩義の感情で私達を苦しませもする。その言葉は、私達に喜びと平安をもたらすが、大きな痛みも与える。私達は、時にはその手によって屠られる子羊のようであり、時にはその最愛のものであり、その愛と好意を享受する。時には私達はその人の敵のようでもあり、その怒りのまなざしによって焼かれ灰にされる。私達は彼に救われる人類であるが、その目には蛆のようでもあり、彼が日夜見つけることを考えている迷える子羊である。彼は私達に対し慈悲深くもあれば軽蔑もし、私達を立ち上がらせ、慰め励まし、私達を導き啓示し、刑罰を与え懲らしめ、私達を呪いさえする。彼は、昼も夜も私達のことを心配し、昼も夜も守り、気にかけ、決して私達の傍を離れず、その心血の全てを私達に注ぎ、私達のためならいかなる代償も払う。この小さくて平凡な肉体から出る言葉の数々の中に、私達は神の全てを享受し、神が私達に与えた終着点を見た。…

  神による発話は続いていて、様々な方法や観点を用いて私達にすべきことを諭し、その心の声を表す。その言葉は生命力を備え、私達が歩むべき道を示し、真理とは何かを理解できるようにする。私達はその言葉に引き付けられるようになり、その声音や話し方に注目し始め、そして意識下において、この小さな取るに足らない人の心の声に関心を持ち始める。彼は私達のために労力を惜しまず、私達のために睡眠も食欲も無くし、私達のために涙も流し溜息をつき、病気に苦しみ、私達の終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私達が鈍感で反抗的なために、その心は涙と血を流すのである。この人のそのような存在ともてるものは、普通の人を超えているし、堕落した者には誰も到達することが出来ないものである。彼には、普通の人にはない寛容と忍耐力が備わり、その愛はどんな被造物にも持ちえないものなのだ。私達の考えていること全てを知っていて、私達の本性や本質をこのように把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神を代理して私達に語りかけ、このように人の間に働くことができる人はこの人以外に居ない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を持つ者はいない。神の性質と神が持っているもの、神であるものが、この人からあますところなく発せられているのだ。この人以外に、私達に道を示し、光をもたらす者はいない。彼以外に神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に私達をサタンの束縛や私達の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を代表し、神の心の声と訓戒、そして人類すべてに対する神の裁きの言葉を表現する。彼は新しい時代を、そして新しい紀元を開き、新しい天と地そして新しい働きを持ってきた。そして彼は私達に希望をもたらし、漠然と生きてきた私達の生活を終わらせ、救済の道を私達に余すところ無く見せてくれたのである。彼は私達の存在そのものを征服し、私達の心を得た。その瞬間から私達の心は覚醒し、私達の霊は生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、長い間私達の間に交じり生活しながらも私達に拒否され続けてきたこの人こそ、私達が絶えず考え、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私達の神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私達にもう一度命を授け、私達が光を見えるようにし、そして私達の心がさまようのを止めてくれたのだ。私達は神の家に帰り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔をこの目で見て、この先にある道を見た。その時、私達の心は完全に彼に征服された。私達はもはや彼が誰であるか疑わず、その働きや言葉にもはや反抗することもなく、彼の前に完全にひれ伏す。私達の望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、神の恵みと私達への愛に報い、神の指揮と計画に従い、神の働きに協力し、神が私達に委ねたことを完成するためにできる限りのことを行うことだけである。

…………

  私達は、堕落したサタンのような性質を持っている人のごく普通の集団で、ずっと前から神によって既に運命が決められていた、神が掃きだめからすくい上げた貧しい者である。私達は、かつて神を拒絶し、糾弾したが、今は神に征服されている。私達は、神よりいのちを受け、そして永遠のいのちの道を授かった。私達がこの地球上のどこに居ようとも、迫害や試練を受けても、全能神の救いから離れることはできない。なぜならこの神こそ私達の創造主であり、唯一の贖い主であるからだ。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

 

クリスチャンとして集会出席をおろそかにしてはいけません

2019-11-01 12:00:00 | ニュース


2019-08-20    41
こんにちは、「霊に関するQ&A」の兄弟姉妹の皆さん、

  私は日中の仕事でとても疲れてしまい、夜はよく眠れません。結果的に、予定の時間に集会に出ようという気が起きなくなっています。束縛されたくありません。私に霊的な必要があった時に、兄弟姉妹を探しておしゃべりすればそれでいいのではないか、と思っています。この問題の原因は何なのでしょう。どのように解決すべきですか?

                                                  アンジーン

こんにちは、アンジーン姉妹、

  予定の時間に集会に出席する気が起きず、霊的な必要を感じた時だけ、積極的に兄弟姉妹を求めておしゃべりをすればよいのではないか、ということでした。そのように考えるのは、神を真に信じるとはどういうことか、集会の重要性とは何かを理解していないからです。真理のこの側面は、神様から称賛されるような信仰を持つことができるかどうかに直接関係しているため、非常に重要です。この点について、私がどのように理解しているかを少しお話します。お役に立てれば幸いです。

神様を真に信じるとはどのような意味か
  最初に神様が人間を創造された理由は、人間が地上で神様を称え、礼拝するためであったことを私たちは皆知っています。主イエスは言われました。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。」(マタイにによる福音書22:37-38)主の信じる者として、信仰と神様への礼拝、そして神様と正常な関係を持つことを最優先にすべきです。集会、祈り、真理を語り合うこと、賛美歌を歌うこと、そして神様を讃えることが、神様との正常な関係を確立する方法です。クリスチャンとして、最低これらを必ずやるべきです。神様の言葉はこう言っています。「『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より)「神の心において、自分の信仰が認められたことの無い人々がいる。換言すると、そうした人々の信仰を神が称賛しないため、そうした人々が神に付き従う者であることを、神が認めない。……こうした者は、神に対する信仰を、一種の余暇活動の趣味として捉え、神を単なる精神的な支えのように扱っている……神は、こうした人々のことを、どう思うであろうか。神は、こうした人々を、信者以外の者とみなす。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質と神の業の結果を知る方法」より)ここから分かるのは、もし、私たちの神様への信仰が単に口頭で認め、心の中で信じることのみから成っていて、真理を追い求めず、神様の言葉を経験したり実践したりせず、信仰を精神的な支えや趣味としてとらえているのであれば、真に神様を信じているとは言えません。神様はこの手の信仰を称賛しません。神様の真の信者たちは、頻繁に神様の御前に出て、よく神様に祈り、よく神様の言葉を読み、集会に何度も出席し、神様の言葉から来る真理に対する理解を深めるべきです。同時に、神様の言葉を実際の生活に適用させ、経験し実践しなければなりません。信者たちは毎日起こることは神様によって支配され、定められていると信じています。これが特に当てはまるのは、彼らが自分の考えとは異なる何かに遭遇した時、そしてそのことが自身の堕落した性質を明らかにしている時です。彼らは神様の御前に出て、神様の言葉に従って自分自身と向き合えます。彼らは神様が定めた環境の中で学ぶべき課題、実践に移すべき真理を求めることができます。その後、彼らは神様の要求に従って実際にそれを実行し、サタン的な堕落した性質を投げ捨て、正常な人間性を生き、最後には、神様に対する真の認識、神様への従順、神様への愛を達成するのです。この方法によって神様の働きと言葉を体験する時にのみ、神様を真に信じるということが成り立ちます。このようなやり方で神様を信じて初めて、私たちは神様の承認を得られます。反対に、私たちの信仰に神様との正常な関係、集会への定期的な参加、祈り、真理を語り合うこと、そして、神様の言葉を実践に移すことが含まれていないならば、もし、空き時間だけの信仰であるならば、もし、数年間神様を信じても、堕落した性質がまったく変わらず、神様を真に理解しないならば、未信者の信仰と変わりがありません。神様はそういった信仰を信仰とは認めません。もし私たちの信仰がこのようなものであるなら、最後まで信じたとしても、神様の承認と救いは得られないでしょう。

教会生活は不可欠です

  予定の時間に集会に出席する気が起きないなら、教会生活の重要性を理解していないと言えます。実は、教会生活は神の言葉を語り合い、真理において理解を深めて成長する生活であり、それはまた聖霊の働きを体験し、神様の愛を享受する生活でもあります。真理を理解し、真理において成長し、神様の救いを得ることは、聖霊の働きなくしてはまず達成できない成果です。互いに仕え、施し合い、本分を尽くして神様に対して証しとなる教会生活を通してのみ、容易に聖霊の働きと神様の清めと救いを得られるのです。言い換えれば、信仰の面で神様の承認を獲得することと、神様の救いを達成することは、正常な教会生活と密接に関係しているのです。聖書は言っています。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」(ヘブライ人への手紙10:25)主イエスは言われました。「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18:19-20)ここから分かるのは、教会生活を生きることは、クリスチャンである私たちに対する神様の要求のひとつであるという事実です。私たちの素質には限りがあり、真理を受け取る器官も備わっていませんから、神様の言葉の真理と奥義を理解するのは非常に困難です。文字面ばかり追っていても、神様の意図と人間に対する要求をほとんど理解していないでしょう。しかし、教会生活に参加し続け、兄弟姉妹と一緒に祈り、神様の言葉を読み、理解したことや経験を語り合うなら、聖霊による啓きと照らしを得ることができます。私たちはさらにたくさんの光と報いを得て、神様の意図と要望をはっきりと理解していくでしょう。実践の道ももっと明らかになるはずです。特に、神様の言葉を理解しなかったり、さまざまな困難に直面したりした時、兄弟姉妹が一致して神様を求め、祈るならば、私たちを通して聖霊が働かれ、真理を理解している兄弟姉妹を通して私たちを潤し、導いて下さいます。そうすれば、神様の言葉の隠された意味を理解することができ、真理を知る私たちの問題や困難は全て解決します。教会生活で多くの問題を解決すればするほど、もっとたくさんの真理を理解し、得ることができます。そうすることで、私たちは二度と混乱したり問題を抱えて生きることはなくなります。私たちの人生は楽になり、解放されます。神様の意図と要求に従って、遭遇する状況にも取り組んでいくことができます。次第に神様の言葉が、状況の対処に使える原則や指針になります。聖霊の導きの下で神様を信じる正しい道に踏み出せるのです。

  教会生活に参加しないならば、時々自分だけで祈ったり、神様の言葉を読んだりしている状況ならば、聖霊の働きを得ることは非常に限られてしまいます。聖霊の働きなしでは、真理を理解できず、真理の現実に入って行くこともできないでしょう。困難や問題にぶつかった時は、神様の意図を理解しないがゆえに、対処法も真理の実践方法も分からないという事態が頻繁に起こります。自分自身の観念や想像に頼って物事を行うなら、神様の意図を妨害するばかりでなく、神様の性質に背くことになってしまいます。神様による救いはもちろん、聖霊の臨在も失うのです。神様の言葉はこう言っています。「あなたは、自分の霊的生活が正常ではない場合、神の現在における業を理解できず、そうした業が自分の観念と全く相容れないものであると常に感じ、神に進んで付き従っていても、内部の推進力が欠如している。したがって、現在において神がどのような業を行っていても、人間は協力する必要がある。人間が協力しなかった場合、聖霊はその業を行うことが出来ない。また人間に協力精神が無ければ、聖霊の業を得ることがほとんど出来ない。……人間が神に協力せず、より成長することを求めなければ、神は人間が従前持っていたものを奪うであろう。人間は内心常に楽な方に貪欲で、既に用意されているものを楽しむことを好む。人間は全く代償を払うことなく、神の約束を得ることを望む。こうしたことは、人類の突飛な考えである。代償を払わずにいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことが一体あるだろうか。ある者が神を信じ、いのちにおける成長と性質の変化を求めているのであれば、その者は代償を払い、神が行う業が何かを問わず、常に神に付き従う状態に達する必要がある。それが、人間がすべき事である。その全てに規則として従っていたとしても、それを頑なに遵守せねばならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹と共に居ることが出来る必要がある。あなたは、神が自分を試すときでもなお、真理を求める必要がある。これが霊的生活のための最低限度である。」(「あなたは神への忠誠を保たなければならない」より)神様の言葉から、私たちにとって正常な霊的生活が非常に重要であることが分かります。祈り、神様の言葉を読み、集会に出席することのすべてが霊的生活を構成しています。これらを守れなければ、聖霊の働きを得られないでしょう。私たちの心が神様に従いたいと願っても、信仰を持つことはできません。ですから、仕事がどれほど忙しくても、肉体的に疲れていても、神様との正常な交わりを失ってはいけないのです。最低でも、正常な霊的生活を維持する必要があります。神様の御前で生活し、問題に遭遇した時は真理を求め、実践しなければなりません。そうすることによってのみ、私たちの霊的ないのちは確固たるものになります。そうして初めて、問題に遭遇した場合に取り得る道が与えられるのです。

神様の御前に生き、神様の保護を受ける

  主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイによる福音書11:30)主は私たちが楽に、自由に生きることを望んでおられます。主は私たちがこの世のことにまみれて苦しむ姿を見たくないのです。ならば、仕事で疲れすぎているために集会に出席する気が起きないのはなぜでしょうか。実は、そのような考えはサタンから来ています。その考えの中にはサタンの悪の陰謀が含まれています。神様は言われています。「神が人間に対して行いたいことはサタンが破壊しようとすることであり、サタンが破壊したいことは人間を通してすべて表れる。……サタンによる人類の破壊も明確に示される――彼らはますます堕落させられ、その状態はだんだん落ち込んでいく。あまりにも悲惨になると、サタンに捕らえられることもある。」(「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第十五章」より)サタンは神の敵です。あらゆる面で神に敵対し、頻繁に私たちの弱点を狙い、攻撃してきます。サタンに堕落させられた私たちの内側はサタンの毒に満ちています。私たちは富を愛し、栄誉や地位、肉の楽しみを愛します。富や栄誉のためであればどんな努力もし、それを手に入れるためならどんな代価も払います。ですからサタンはそのような堕落した私たちの性質を利用して肉欲に溺れさせ、神様との正常な関係性を阻害し、私たちを神様から離れさせ、神様を裏切らせ、最後に私たちを呑み込むという目的を達成します。もし私たちがいつも肉の欲望を満足させ、神様に頻繁に近づかないならば、いとも簡単にサタンの罠にはまってしまい、この世の邪悪な波に流されて、遂には神様の思いに背いて神様に嫌われるようなことまでするようになってしまうでしょう。集会は私たちが神様に近づく機会です。神様と私たちの距離を縮めてくれて、神様の前で生きるようにしてくれて、神様の検証を受け入れ、神様の配慮と守りを受けるようにしてくれます。神様との関係が正常になれば、霊的にも鋭くなり、神様が好まれる物事と嫌われる物事が見分けられるようになります。何か問題に直面しても、神様の側に立つ事ができ、肉の好みに従って神様に反することや拒絶することはありません。結果的に私たちは更に神様からの祝福を受けることができます。ですから、私たちが神様に認めて頂いて救いを得る上で、教会生活はとても重要です。信仰が弱く、状態が正常でない時は、もっと頻繁に神の御前に出て、神に祈り、神に頼らなければなりません。教会生活から離れないことです。同時に、神を満足させるという決意を神の御前固めるべきです。このように神と協力する時、サタンの陰謀は私たちに何ら影響を及ぼさず、サタンは慌てふためいて消え失せます。神との関係性がいったん正常になれば、集会への出席を束縛だとは感じなくなります。反対に、集会に出席することは、神と親しくなり、神の愛を味わう方法だと思うようになるでしょう。

  神の導きに感謝します!アンジーン姉妹、ここで今日の私たちの交わりを終わりにします。今日お伝えした内容が役に立つことを願っています。分からない点があれば、それについて一緒に話し合いましょう。

「霊に関するQ&A」

  編集者から:今日の「ディボーションでの交わり」を読んで、神様を心から信じるということ、そして教会生活の意味がわかりました。また、定期的に集会に出席することが、神様を信じて救われるという極めて重要な点に直接関連していることから、とても大切だということが分かりました。引き続き、私たちの福音映画『神への信仰』も是非ご覧になってください。神様に称賛されるような信仰を一緒に求めていきましょう。

 

 

東方閃電が真の道であるなら、なぜ抑圧されるのか

2019-10-31 12:00:00 | ニュース

信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ、

  私はしばらく前から東方閃電の道について調べています。全能神の御言葉を読み、全能神教会福音映画やビデオを見ることで、神の三段階の働きの目的、神の受肉の奥義、神が各時代に異なる名をおもちになることの意義、聖書の内幕、賢いおとめとは何か、愚かなおとめとは何か、真に携挙されるとはどういうことか、終わりの日の神の裁きの働きがいかに人々を清め、変え、完全にするのか、そして人々の終着点と結末は何かについて学びました。それまで理解していなかった真理を多く理解するようになり、神への信仰と愛を取り戻しました。霊的な喜びをたくさん得ました。全能神の御言葉が真理であると知ったのです。それには権威と力があり、人間には発せられるはずがありません。聖霊から来る発言です。東方閃電が真の道に違いないと私は感じます。しかし宗教界の牧師や長老の中には、「もしそれが真の道ならば、なぜ中共にあれほど抑圧され、迫害され、非難されるのか」と言う人がいます。この点がよくわからないので、もっと探求したいと思います。

                                              陽(ヤン)光(グアン)

陽(ヤン)光(グアン)さんへ

  全能神の御言葉を読むことであなたが得た理解と経験はすべて聖霊の啓きと導きです。神に感謝!けれど、中国共産党政府の神に抵抗し、真理の敵である本質を見抜けなければ、牧師や長老たちがそうしたことを言うのを聞くと混乱してしまいます。それはまったく当然のことです。主イエスはかつて、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とおっしゃいました(マタイ福音書7:7)。神は信実な方ですから、純粋に求める限り、私たちが真理を理解することができるように神は啓いて導いてくださり、問題は解決できます。以下にはあなたの経験している混乱を私たちがどのように理解しているかを記しました。お役に立てれば幸いです。

 

真の道は昔から迫害されてきた

 

  宗教界のほとんどの牧師や長老は、「もし東方閃電が真の道ならば、なぜ中共政府にあれほど抑圧され、迫害され、非難されるのか」などと言います。彼らが言わんとするのは、真の道なら中国政府はこうしたことをしないだろう、ということです。この観点は真理に沿い、神の働きの事実に沿っているでしょうか。主イエスがこの世に降誕されたばかりの時を思い起こしてください。ヘロデ王は東方の三賢人から、ユダヤ人の王が生まれたと聞きました。ヘロデ王は自らの王位が奪われるのではないかととても恐れて不安になったので、ベツレヘム周辺にいる二歳未満の男子を皆殺しにせよと命じました。そして主イエスが出現なさり働き始められたとき、パリサイ人は主イエスに付き従うユダヤ教徒が増えていくのを見て、自分たちの地位と生活のことを懸念したため、主イエスが逮捕されてローマの総督ピラトに引き渡されるように仕向けました。ピラトは主イエスが何の罪も犯していないことを知っていましたが、自らの支配と地位を維持したいがために、パリサイ人と協力して、主イエスを十字架に付けさせたのです。明らかに、権力者たちは身分と権力だけを尊び、真理への愛がありません。彼らの本質は神と真理への憎しみです。主イエスは誕生された時から正式に働きを始められた時まで、支配層とユダヤ教指導者たちの非難と抑圧を絶えず受けられました。主の使徒と弟子たちでさえ、天国の福音を広めていたとき、支配者やパリサイ人に激しく非難され、逮捕され、迫害され、さらには殉教させられました。しかし今、主イエスは真の神ではなかった、その働きは真の道ではなかったなどと大胆にも誰が言うでしょうか。宗教の牧師や長老たちの見方に基づくなら、主イエスの働きもまた非難されるべきではありませんか。ですから、彼らのこの推論は少しも筋が通らず、人間的な観念と想像に過ぎません。真理と神の働きに完全に反しており、馬鹿げた見解です。

恵みの時代における神の働き

 

  それでは、東方閃電が真の道であるなら、なぜ中共政府にこれほど非難され、迫害されるのでしょうか。これは中共の「神に逆らう」という悪魔的本質と直接関わっています。中共政府が最も真理を憎み、神に逆らうサタン的政権であることは周知の事実です。中共政府は自らを、ヨーロッパに出没し、後に邪悪な理論である共産主義に発展した幽霊とさえ称しています。党によって惑わされ堕落した人々に神を否定させ、神に抵抗させ、「天と戦い、地と戦い、人と戦う」という悪しき道をたどらせます。中共政府が本物の悪魔であることは明白です。サタンなのです。1949年に政権に就いて以来、中共の行動は明らかにその悪魔的本質を露呈しています。教科書や有名人の思想や言論によって人々にじわじわと影響を与え、その結果、中国人民は無神論、唯物論、進化論、マルクス・レーニン主義といった異端と邪説を植え付けられています。中共は人々を強引に洗脳することで、神の存在や人が神に創造されたことを信じなくさせ、特に神が常に人類を養って育ててくださり、私たちの運命を支配されていることを信じなくさせます。代わりに、党を崇拝させ、従わせ、その賛美を歌わせます。その上、その無神論的な独裁体制を強化するために、宗教信仰を迫害し、狂ったようにキリスト教徒を抑圧して逮捕することに手段を選びません。その政権の初期から、中共は宗教信仰を厳しく取り締まり、教会を禁止して閉鎖し、キリスト教を邪教と指定してきました。無数の聖書が没収されて廃棄され、多くの欧米の宣教師が国から追放されたり、さらには逮捕されたり、死ぬまで迫害されたりしました。たくさんの家庭教会の指導者たちが投獄され、「更生」を余儀なくされました。1970年代後半になると、中共は民主主義諸国の援助と支持を得るために、もはや信仰に反対しないと国際社会に約束しました。憲法に中国人民は「信仰の自由を享受する」と書き加え、全国に三自愛教会を建て始めました。外部の目をごまかすために信仰の自由の旗を振りながら、その裏では家庭教会への狂乱した攻撃と弾圧を決してやめませんでした。信者を逮捕し迫害し続けたのです。この間、数え切れないほどのキリスト教徒が逮捕され、拘留され、過酷な労働を強いられ、刑を宣告されました。障害や死亡に至るほど残忍に拷問された人さえいます。これは中国国内でも海外でも一般に認知された事実であり、検証可能な事例があります。

  特に、終わりの日のキリスト、全能神が中国に出現し働き始められた1991年以来、神を純粋に信じて真理を愛し神の出現を待ち焦がれる人のあいだで、全能神の御言葉を読み、「御言葉には権威と力があり、すべて真理の表現で、神の御声だ」と断定する人が増え続けています。彼らは次々に終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の御座の前に戻りました。終わりの日の全能神の福音は中国本土全体に伝えられ、海外の多くの国と地域にも広がっています。全能神教会は世界中の多くの国で設立されました。全能神教会の急速な発展と成長を目にすることは中共にとって恐ろしいことでした。全能神の御言葉が全人類に広まり、万人が全能神に立ち返り、御言葉から真理を理解し、中共の邪悪で反動的な本質を見抜くことをとても恐れたのです。中共の真理を憎み、神に逆らう悪魔的な素顔が完全に白日の下にさらされ、全人類が党を拒み、踏みつけるでしょう。中国での足場がなくなるばかりか、他国の人々に嘘をついて害を加え続けることは特に不可能になります。そうなると、世界を完全に制覇するという中共の野望は消し去られます。中共が全能神が表されたすべての真理に対してこれほど極端な憎しみを抱いているのは、このためです。中共が全能神を憎むのは、このためです。ここ数年にわたって、中共は全能神教会を一掃するという目的で、宗教高級会議を開き、キリスト教の抑圧と撲滅を党内の主要な政治的課題としています。特に習近平が政権を握って以来、「キリスト教中国化」と「キリスト教共産化」が推進されています。全国各地で、家庭教会が容赦なく弾圧され、取り締まられてきました。至る所で教会が取り壊され、公認の三自愛国教会さえもほとんどが潰され、聖書が公の場で販売できなくなりました。宗教信仰が目に余る程ほど蹂躙されています。特に全能神教会に属すキリスト教徒には、「取締が終わるまで兵は撤収させない」、「まとめて捕らえ、まとめて抹殺」という政策が厳しく適用されています。それによりキリスト教の弾圧は史上かつてない域に達しています。全能神に対する中共の反対と非難はヘロデ王すら凌駕しています。中共は中国に無神論区域を確立することを意図し、神の働きを一掃することを空しくも夢見ています。その目的は、自らの赤い政権を維持し、中国人民を永久に支配し、虐げ、搾取し、害を加えることです。挙句の果てには中国人民を死ぬまで拷問し、地獄に引きずり落とします。神と真理をこれほど憎む国で働かれている全能神が中共政府の弾圧、非難、中傷、冒涜の対象となられているのは不思議ではありません。主イエスははるか以前に「そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである」(ヨハネ福音書3:19)とおっしゃいました。またヨハネの第一の手紙第5章19節には「全世界は悪しき者の配下にある」とあります。

  ですから、真の道であるか否かは、ある国の政府がそれを非難したり抑圧したりするかに応じて考えることはできません。そうではなく、神が表された真理と行われた働きに基づいて判断されるべきであり、これが正しいやり方です。中共には真理がなく、中共が語ること、なすことはすべて天に反し、神に背いています。中共は真理を憎み、神に抵抗し、神の義なる罰を受ける運命にある悪魔サタンです。私たちを愚か者にする中共の噂と嘘に耳を傾ければ、私たちは主の出現と働きを受け入れることができなくなるばかりか、中共と一緒に悪事を犯したことになり、そのため最終的には神の罰を受けることになります。

 

真の道か判断するための原則

 

  神の御言葉に述べられています。「真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。そして、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。」(『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より)「このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

  全能神の御言葉は、真の道と偽りの道を識別するための基準を私たちに与えてくれます。真の道には聖霊の働きと真理の表現があります。神によって表された真理は、私たちが命において必要とする糧を施してくれます。それにより私たちは万事において実践の道を得られ、加えて、堕落した性質を変えていただくことができ、神が私たちに要求なさる現実を生きることができます。

  終わりの日のキリスト、全能神が出現なさり、働かれています。全能神は数百万語もの言葉、すべて真理であり、人類を救うための神の六千年の経営計画の奥義を完全に明かした言葉を発せられました。御言葉のおかげで私たちは神がいかに律法の時代に人々の生活を導かれたのか、主イエスがいかに恵みの時代に人間の贖いの働きをなさったのか、そして今、神の国の時代において神がいかに人々を裁き、罰し、清め、変えられるかを理解することができます。御言葉はまた、私たちがこれまで理解できなかった真理の奥義をすべて明らかにし、神がなぜ救いの働きをするために肉となられたのか、なぜ異なる名をおもちになるのかを教えてくれます。サタンがいかに人々を堕落させ、そして神がいかに人々をお救いになり、神が誰を救い、誰を排除なさるか、人類の将来の終着点と結末は何か、人々が完全な救いを得て天国に入ることをいかに求めるべきかなど、あらゆる真理を御言葉は教えてくれます。これらの真理は人々を徹底的に清めて、変えることができるのであり、私たち堕落した人として必要としているすべてです。それらを通して私たちは神に完全に救われることができるのです。終わりの日の全能神の働きと御言葉は、聖書の預言を完全に成就します「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロ第一の手紙4:17)「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」(ヨハネ福音書5:22)「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ福音書16:12-13)

  加えて、もし真の道であれば、それには聖霊の働きがあります。堕落した人間や悪しき勢力がいかに抵抗、非難しても、神の働きの進みを止めることはできません。それは主イエスがユダヤで働かれていた時と同じです。主イエスはローマ政府とユダヤ教による非難と抑圧を受けられましたが、主の福音はそれでも宇宙の隅々まで広がり、キリスト教の教会は世界中に設立されました。今や主イエスの御名を誰が知らないでしょうか。同様に、現在の全能神の働きも中共政府の狂ったような非難と抑圧の対象となっていますが、神の福音はそれでも中国本土全体に広がっています。これは輝かしく空前絶後であり、何百万もの人々が全能神の御名のもとに来ており、神はご自身と心を一つにした人々の集まりを得られました。全能神教会の福音サイトは全世界に公開されています。全能神の御言葉は二十数言語に翻訳され、インターネット上に掲載されており、世界中で真の道を求め学んでいる人々が読むことができます。全能神の御名への賛美はますます増えています。全能神の御言葉にあるとおりです。「誰も神の全能性を推し量ることはできない。神を敵と見なす国、中国で、神は決してその働きをやめてはいない。それどころか、ますます多くの人々が神の働きと言葉を受け入れている。神は人類の一人一人を救うためにできる限りのことをしているからである。……神の働きは強く打ち寄せる大波のようなものである。誰も神を引き留めることはできないし、誰も神の歩みを停止させることはできない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)

  ひとたび真の道と偽りの道を見分ける原則を理解し、中共の真理を憎み、神に抵抗する悪魔的本質をはっきり見極めれば、もはや中共の噂と嘘に惑わされることはありません。ですから、サタンの噂と邪説を前にしても、神への崇敬の心を保ち、神に頼り、神に目を向け、真理を求める限り、神は私たちが真理を理解してサタンの策略を見破れるように啓き、照らし、導いてくださいます。

  陽(ヤン)光(グアン)さん、以上が本日の交わりです。あなたにとって有益であったならば幸いです。他に何かご質問があれば、いつでもご連絡ください。一緒に探求し、話し合いましょう。神のお導きに感謝!

                                              信仰ステーション

 

キリスト教混声合唱『神の国の讃歌―神の国がこの世に降臨する』完全版予告編

2019-10-14 12:00:00 | ニュース

2000年前、主イエスが言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書4:17)一代また一代のクリスチャンは天国に対する切望を持ちながら神様に従って今日に至りました。2000年後、全能神が言われます。「神の国は人間たちの間で拡大している。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中で建て上げられている。わたしの国を滅ぼすことのできる勢力はない。」全ての民よ、祝いましょう。主が再び受肉され、地上で自身の国を打ち立て、神様の選民が切望している日はすでに来ました。神様の選民は今美しい声と踊りで、神様の再来を歓迎し、神様の国の降臨のために喜び、賛美します。大型合唱特集「神の国の讃歌ー神の国がこの世に降臨する」は間もなく上映します。ごうぞ、ご注目ください。