全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

「終電に乗る」から、その三「主が再来される時の働きの方式」

2020-03-30 11:00:28 | 全能神教会映像

   

キリスト教映画「終電に乗る」抜粋シーン(3 )主が再来される時の働きの方式
終わりの日において、主イエスは肉となってお戻りになり、真理を表されて神様の家から始まる裁きの働きをなさってきました。しかし主を信じる多くの兄弟姉妹が、ヤーウェ神は旧約聖書における霊として働きをなさったとか、神様は終わりの日に受肉なさる必要がなく、霊の形で働きをお続けになるとか信じています。受肉した神様の働きと霊の働きとの違いは何でしょうか。


キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 日本語吹き替え

2020-03-29 11:44:38 | 全能神教会映像

あらすじ
キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 日本語吹き替え

終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

キリスト教会漫才2018「校内尋問」あなたは中国における人権の現状を理解しているか


キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける

2020-03-28 11:55:49 | 全能神教会の寸劇

あらすじ
キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え

本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。

チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。

キリスト教会寸劇2018「警察のたくらみ」元来中国共産党はこんなにもクリスチャンを迫害するのだ


聖書について(2)

2020-03-27 11:36:07 | 書籍

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたたちは、「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」とは、ヤーウェがエジプト人を殺してイスラエルの民をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた羊の血で、神はそれをもって人間と契約を結んだ。この契約は、二本の門柱と鴨居に羊の血のついた家の者はイスラエル人で、彼らは神の選ばれた民であり、ヤーウェは彼らを通り過ぎる(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子たちと羊や牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容であった。この契約には二重の意味がある。ヤーウェはエジプト人とその家畜を一切救わず、男の初子と羊と牛の初子をみな殺す。そこで、多くの預言書は、エジプト人がヤーウェの契約のために厳しい刑罰を受けることを預言していた。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民は、すべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はヤーウェの慈しむ者たちであり、みな助かるであろうということである。ヤーウェは彼らのために長期におよんで働こうと思い、羊の血で彼らと契約を結んだ。それ以後、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に自分の選んだ民であると告げた。イスラエルの十二部族の間で、ヤーウェは律法の時代を通して働きを開始する。イスラエル人に律法を示し、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを神の働きの中心に置いた。ヤーウェは彼らと契約を結んだ。時代が変わらない限り、ヤーウェは選ばれた民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。それは血で結ばれたからである。そして、神が選んだ民との間で結ばれたのである。より重要なことに、ヤーウェは時代全体を通じて働くために適切な範囲と対象を選んだ。そこで、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約締結前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を結んだ後のイスラエル人の間での神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に旧約はイスラエルにおける神の働きを記録している。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は「旧約」と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架上で流した血と、イエスを信じる者たちとの間での契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、イエスの流した血により罪を赦され、救われ、イエスをとおして生まれ変わり、もはや罪人ではない。神の恵みを受けるにはイエスを信じさえすればよい。そうすれば、死後、地獄の苦しみを受けることがない。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものだ。そしてみな、働きと、そこで述べられた言葉を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約より先には進まない。これらは、すべて経験をした主における兄弟たちが記した書である。だから、これらの書も契約に因んで名付けられ、「新約」と呼ばれる。この二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、終わりの時代には何のつながりもない。したがって、聖書は終わりの時代の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、臨時の参照用になるが、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、まだこれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らない。彼らは聖書を説明する方法を知っているだけで、基本的にそのなりたちを知らない。そうした人々の聖書への態度は、聖書に書かれていることはすべて正しい、そこには不正確なことや誤りはない、というものである。彼らは聖書は正しく、誤りはないと最初から決めているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについてはどこでも触れていなかった。これは最新の働きだからだ。働きの時代は異なるものだから、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行われるとは知らなかった──では、終わりの日の人々がこの段階の働きを聖書の中に見つけることなどできるであろうか。

聖書を解説する人のほとんどは、論理的推測をしているので、実際の背景を知らない。彼らは単に、多くのことを論理的に推測しているだけだ。何年ものあいだ、あえて聖書を細かく調べたり、聖書に「否」といったりする人は誰もいなかった。この本は「聖なる書」であり、人々は聖書を神のように崇めているからである。これが数千年も続いている。神は気にしないし、誰一人として聖書のなりたちを発見していない。わたしたちは、聖書を大切なものとするのは偶像崇拝だと言うが、そうした敬虔な信者たちは誰もそのように見ようとはしない。その人たちは「兄弟!そんなことを言うのではありません。それはひどい。どうして神を冒瀆できるのです」と言うであろう。次には辛そうな顔をして、「ああ、慈悲深いイエス、救いの主、この人の罪をお赦しください。あなたは人間を愛する主で、わたしたちはみな罪を犯しました。どうか、わたしたちを憐れんでください。アーメン」と言う。彼らの「敬虔」とはこのようなものである。彼らが真理を受け入れるのは容易なことではない。あなたの言うことに、彼らはひどく怯えるだろう。聖書が人間の考えや観念によって汚されているかもしれないとは、誰も考えようとしない。また、誰にもこの欠陥が見えない。聖書のある部分は個人の経験や認識であり、一部は聖霊の啓示であり、また、人間の知性や思考が混じってもいる。神はこうしたことに介入したことはないのだが、物事には限界がある。これらの事柄は通常の人間の考えを超えられない。もしそうなれば、神の働きに介入し、邪魔していることになる。通常の人間の考えを超えるものはサタンの働きである。それは本来人間のするべきことを奪うからである。それはサタンの働きで、サタンの指示によるもので、このような時、聖霊はあなたがそのように行動することを許さない。時に、兄弟姉妹が「これこれのやり方で働いていいのですか」と尋ねる。わたしは彼らの背丈を見て、「いいですよ」と言う。また、「もしわたしがこれこれの働き方をしたら、わたしの状態は正常でしょうか」と尋ねる人もいる。そこでわたしは「はい。それは正常です。ごく正常です」と言う。別の人は「こういうふうに働いていいですか」と言う。そこでわたしが「いけません」と言うと、「なぜあの人はよくて、わたしはいけないのですか」と尋ねてくる。そこで、わたしは「あなたがしていることは、サタンから来ているからです。それは混乱させます。あなたの動機は逸脱しています」と答える。また、働きが十分に進んでいないが、兄弟姉妹はそれに気づいていないときがある。わたしに、こういうふうに働いていいかと尋ねる人たちもいる。それを見て、その人たちの行動が将来の働きを妨げないものなら、わたしは、それでよい、と言う。聖霊の働きは人々にひとつの範囲を与える。人々は聖霊の願うことに厳格に従う必要はない。人々は普通の考え方と弱点を持っているし、身体的な必要もあり、現実的な問題を抱えており、頭の中には自分では基本的には抑制のできない考えもあるからである。わたしが人々に求めることにはみな、一定の限界がある。わたしの言葉が曖昧で、わたしがみなに、適当に行動するよう指示を出していると思っている人がいる。それは、わたしの要求には適切な範囲があることを理解していないからである。あなたたちの想像のとおりなら──もしわたしが同じ要求を例外なく全員にしていたなら、みな同じ背丈を達成することを要求するなら──それではうまくいかないであろう。これは不可能な要求というものだ。それに、これは人間の働きの原則であって、神の働きの原則ではない。神の働きは、人々の実際の状況に従って行われるのであって、人々の生まれながらの素質に基づいている。これはまた、福音を広める原則でもある。あなたは、自然に任せ、誰かに真理を明瞭に話すときのみ、ゆっくりと進まなければいけない。そうしてはじめて、人々は理解し、そうなってはじめて、聖書を脇に置くだろう。もし神がこの段階の働きをしなければ、誰が因習を打ち破れるのか。誰が新しい働きをできるのか。誰が聖書の外に新たな道を見いだせるのか。人々の伝統的な観念と封建的倫理とが甚だしいので、人々は自分ではこれらを捨て去る能力をもたず、そうする勇気もない。今日の人々が聖書にある死んだ言葉のいくつかに捕らえられていること、言葉に心を奪われていることは、言うまでもない。どうしてそんな人々が聖書を捨てようと思うであろうか。どうして聖書の外にある道を容易に受け入れることができるであろうか。つまり、あなたが聖書の内部事情と聖霊の働きの原則を明瞭に話して、すべての人々を完全に納得させることができなければ、である。これが最も必要なことだ。これは、宗教を信じているすべての人が聖書を尊重し神として崇拝しているから、神を聖書の内に閉じ込めようとしているから、さらには再び神を十字架につけなければ、そんな人々の目的は達成できないという事態だからである。


キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(4)主イエスの再来のしるし

2020-03-26 12:46:39 | 全能神教会映像

あらすじ
主イエスが御働きをなさるために来られたとき、主は至る所で天国の福音を伝道し、福音は宗教界全体とユダヤの国に衝撃が走りました。主イエスが御働きをなさるために戻られた日、あらゆる宗教や宗派も揺さぶり、全世界に衝撃が走りました。主の再来のしるしに気づきましたか?主の再来を歓迎しましたか?

キリスト教映画「勝利の凱歌」クリスチャンの勝利を得る証し 日本語吹き替え


ゴスペル キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(1)どのように私たちは主の再臨を迎えるのか

2020-03-25 10:54:24 | 全能神教会映像

あらすじ
聖書に関する映画「戸をたたく」抜粋シーン(2)主をお迎えするうえの最も犯しやすい間違いとは何でしょう

宗教界では多くの人が、「神様の言葉と働きは全て聖書に書かれており、聖書の外に神様の言葉も働きも存在しない」という牧師や長老の言葉を信じています。それは聖書に書いてあるのでしょうか?主イエスがそうおっしゃったのでしょうか?ヨハネの黙示録には沢山の予言があります。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」主もはっきり言われていますが、終わりの日に戻った時には、言葉を発すると。聖書から離れずに聖霊が教会に向けて語っている事に従っていれば、主をお迎えできるのでは?


聖書について(4)

2020-03-24 10:39:20 | 書籍

多くの人は、聖書を理解することと解釈できることは、真の道を探すのと同じことだと信じている。しかし、実際、物事はそんなに単純だろうか。聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。聖書を読めば、せいぜいイスラエルの歴史が少しだけ、またアブラハムやダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰し、その時代の人々にどのように話したかといったことがわかるだろう。神が過去に行った働きのことだけがわかるだろう。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きの下で生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選ばれた民であったので、旧約では、イスラエルのすべての人々のヤーウェへの忠誠や、ヤーウェに従う人々が神からどのように守られ祝福を受けたかがわかる。また、イスラエルで働いたとき、神は慈悲と憐れみに満ちていたが、また激しい炎ももっていたこと、イスラエルの民は卑しい者から強い者まですべてがヤーウェを崇め、そのためすべての民は神から幸いを受けたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

聖書は神のイスラエルでの働きの歴史記録であり、古代の預言者たちの数多くの預言と、ヤーウェが当時その働きについて述べたことの一部が記録されている。だから、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、人々のヤーウェへの畏敬と神への尊崇から来ている。人々がこの本をこのように扱うのは、ひとえに神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬し、崇拝しているからであって、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。実際のところ、これは人間の記録でしかないのだが。これはヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたものでもない。つまり、この本の著者は神ではなく、人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではない。これは人間の考えでしかない。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなく、多くの古代の預言者、使徒、そして予知する者による記録を後の世代が一冊の古代書に編集したものであって、それは人々にとってとりわけ聖いものと映り、また、未来の世代によって解読されるのを待っている多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいると、その人々は信じているだから、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本への人々の態度は、他のどの本とも異なっていて、誰一人、この「天の書」を解明しようとしない。――それはあまりに「神聖」だからだ。

なぜ、聖書を読むとすぐに、実践の正しい道を聖書の中に見つけることができるのだろうか。なぜ人々には不可解であったものを幾分でもとらえることができるのか。今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、これはわたしが聖書を憎んでいるからではないし、また、参考としての価値を否定するものでもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中にとどまることのないようにである。人々は聖書について実に多くの解釈をしており、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけではなく、さらに重要なことに、わたしのしようとする働きの妨げとなる。これは未来の働きをひどく妨げ、有用さより欠点ばかりをもたらす。だから、わたしがあなたに教えていることは、単に聖書の本質とその内部事情である。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし。また、聖書がまったく無価値だと告げて歩けとも言っていない。ただ、聖書に関して正しい知識と見方をもつべきだというのだ。あまり偏った見方をしないことだ。聖書は人間の書いた歴史書だが、これはまた、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則とともに、近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て、知った事柄であり、この時代に真の道を求める人々に関する参考としては役立てることができる。だから、聖書を読めば、他の書物からは得られない多くのいのちの道について知ることができる。これらの道は、預言者や使徒たちがかつて経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々の必要とするものを与えてくれる。だから、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くの事が隠されているから、人々の聖書の見方は偉大な宗教家の著作に対するものとは異なっている。聖書は古代と新しい時代にヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録で、後の世代は、これにより多くの啓示、洞察、実践への道を学ぶことができた。聖書がどの偉大な宗教家たちの著作よりも高位にあるのは、彼らの著したものが聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な宗教家の著書から糧を得られるが、彼らはまだ聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロ書簡やペテロの書簡といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、また、人々はこれらの書から必要なものや助けを得ることができるものの、これらの書は時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠ではない。神の働きは常に進展しており、ただパウロやペテロの時代にとどまることはできないし、いつまでもイエスが十字架につけられた恵みの時代にとどまることもできない。だから、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者の必要を満たすものであって、神の国の時代の聖徒のためのものではない。どんなにすぐれたものであっても、それらは過去のものなのだ。これはヤーウェの創造の働きやイスラエルでの働きも同様だ。働きがどんなに偉大なものであっても、それは過去のものであって、それが廃れる時が来ることは決まっていた。神の働きもまた同じである。偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、十字架刑の時代にとどまっていることもできない。十字架刑の働きがいかに説得力があり、サタンを打ち負かすことにおいてどれほど効果的であっても、結局、働きは働きであり、時代もまた時代なのである。働きはいつまでも同じ基礎の上にとどまれない。また、時代がけっして変わらずにあるということはありえない。創造があったのだから、終わりの日がなければならない。これは必然だ。だから、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの書簡とそれに四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるであろうか。年鑑がどれほど人々にいのちを与えることができたとしても、人々を十字架に導くことができたとしても、時代遅れなのではないか。価値がないのではないか。だから、盲目的にこれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。ああしたものは古すぎて、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷になるだけだ。新たな働き、新たな進路に至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会に入らせる。もしそうなると、神への信仰において退歩していることになるのではないか。

聖書に記されているのは、イスラエルにおける神の働きであり、そこにはイスラエルの選ばれた民によって行われたことも幾つか含まれている。一部の内容が含まれたり省略されたりしており、聖霊が認めることはなかったが、非難することもなかった。聖書は純粋にイスラエルの歴史であり、それはまた神の働きの歴史でもある。人々、物事、そしてその記録していることは、みな事実であり、それらには象徴的な意味は全くなかった。――もちろん、イザヤとダニエルと、その他の預言者たちやヨハネの幻の書を除いては。イスラエルの初期の人々は知識が豊富で教養があり、彼らの古代の知識や文化はきわめて進んだものであり、彼らの書いたものは今日の人々のものより高度であった。だから、彼らがこれらの書を著せたのは驚くにあたらない。ヤーウェは彼らの間で実に多くの働きをし、彼らは多くを見たのだから。ダビデはヤーウェのわざをその目で見、自らそれを味わい、多くのしるしと不思議を見た。そこで、ヤーウェのわざをたたえて、あの多くの詩歌を書いた。彼らがそうした書を著すことができたのは、その置かれた状況のためであり、彼らが神聖であったためではない。彼らがヤーウェをたたえたのは、ヤーウェを見たからである。もしあなたたちがヤーウェをまったく見たことがなく、神の存在を知らなければ、どうして神をたたえることができたであろうか。ヤーウェを見たことがなければ、神をたたえることも、崇めることも知らないままであろうし、まして神をたたえる歌を書くこともできないであろう。そして、たとえヤーウェのわざを何かでっち上げてくれと言われても、できないであろう。今日、あなたたちが神をたたえ、神を愛するのは、あなたたちが神を見て、神の働きを経験したからでもある。そして、もしもあなたたちの能力が向上したなら、あなたたちもまた、ダビデのように神をたたえる詩を書けるようになるのではないか。

聖書を理解し、歴史を理解するが、聖霊が今日何をしているかを理解しない──これは間違っている。あなたは歴史を学ぶことはよくできたし、実にすばらしい成果を上げた。しかし、聖霊が今日している働きについては、何も理解していない。これは愚かなことではないか。人々があなたに「神は今、何をしているのですか。あなたたちは今日、何に入るべきなのですか。あなたのいのちの探究はどうはかどっていますか。あなたは神の御心を理解しているのですか」と尋ねても、あなたには答えることができないであろう。それで、あなたは何を知っているのか。あなたは、わたしは肉に背を向け、自分を知らなければいけないことを知っているだけですと言うであろう。そして、もし相手が「他には何を知っているのですか」と尋ねたなら、あなたは、神のすべての計画に従うことを知っている、そして、聖書の歴史について少し知っている、それで全部だと答える。それが、この数年間神を信じてきて、学んだことのすべてなのだろうか。それがあなたが理解していることのすべてなら、あなたには実に多くのことが欠けている。だから、あなたたちの今日の背丈では、わたしがあなたたちに求めることを満たすことは基本的にできないし、また、あなたたちの識別力とあなたたちの理解している真理はあまりにわずかである。つまり、あなたたちの信仰はあまりに表面的なのだ。あなたたちは、もっと真理を身につけなければいけない。あなたたちにはもっと認識が必要だ。あなたたちはもっと多くを見なければいけない。そうしてはじめて、福音を広められる。これがあなたたちの成し遂げるべきことなのだから。


キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(2)神様の現れの奥義を知っていますか

2020-03-23 17:46:33 | 全能神教会映像

あらすじ

キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(2)神様の現れの奥義を知っていますか

主の信者の多くは、主は輝きに満ちて雲に乗り公然と姿を現すと信じ、いつも空を眺めて主が雲に乗って現われるのを待ち、天国に引き上げられ主に会えるものと考えています。果たしてこれは真理に沿っているのでしょうか?神様の出現と御働きにどうやって気が付くのでしょう?神様の出現にはどのような奥義が込められているのでしょう?

キリスト教映画「待ち焦がれて」神は天の御国の降臨の奥義を明かす 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え


聖書について(3)

2020-03-22 16:21:35 | 書籍

聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい理解である。しかし、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事についての見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものだ。イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような者たちによる預言は、聖霊が直接指示したものだ。これらの人々は預言者で、預言の霊を受けた。彼らはみな旧約の預言者であった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けたこれらの人々は、多くの預言を語った。それはヤーウェが直接指示したものであった。それでは、なぜヤーウェは彼らの内で働いたのだろうか。イスラエルの人々が神の選ばれた民だったからだ。預言者の働きは彼らの間で行わなければならなかったし、彼らはそうした啓示を受ける資格をもっていた。実際のところ、彼ら自身は神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通して言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらがほんとうに神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにであり、聖霊の働きを確認させるためであった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行った。だから、人々はもはや預言を語らなかった。では、イエスは預言者だったのだろうか。イエスは、もちろん、預言者だった。しかし、イエスはまた、使徒の働きもできた。イエスは預言を告げることも、全土の人々に教えを説くこともできた。しかし、イエスのした働きと、その身分は同じではない。イエスはすべての人間を贖うために、罪を贖うために来たのである。イエスは預言者、使徒であったが、それ以上にキリストであったのだ。預言者は預言を告げることができるが、だからといって、その人がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を語ったので、イエスは預言者であったと言うことはできるが、預言者であったからキリストではないとは言えない。つまり、イエスは神自身を代表して一つの段階の働きを実行したのであり、その身分はイザヤとは違う。イエスは贖いの働きを完了するために来た。イエスはまた人間にいのちを与えた。また、神の霊が直接イエスに訪れた。イエスの行った働きには、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わりに霊が直接働いた──このことは、イエスが預言者と同じではなかったことの十分な証拠である。イエスの行った働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を語ることであった。イエスは預言者、使徒、そしてそれ以上に贖い主であった。一方、預言者たちは、預言ができるだけで、他の働きをして神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間がしたことのない働きをかなり行ない、人間の贖いの働きをしたので、イザヤのような人々とは違っていた。現在の流れを受け入れない人々がいるのは、これがその人たちの妨げとなっているからである。その人たちは言う。「旧約では多くの預言者もまた多くの言葉を語っています。では、なぜあの人たちは受肉した神ではなかったのですか。今日の神は言葉を語る──それで、あの人が受肉した神であると証明するのに十分なのですか。あなたは聖書を重視していないし、聖書の勉強もしない──では何を根拠にしてあの人が受肉した神だと言うのですか。あなたは、彼らは聖霊に導かれていて、あなたは、この段階の働きは神が自ら行う働きだと信じています。――でも、その根拠は何なのですか。あなたは今日の神の言葉に注意を集中し、まるで聖書を否定して、脇に置いてしまったかのようです。」それで、人々はあなたが異端の教えを信じており、邪教集団の一員だと言う。

もしあなたが終わりの日の神の働きを証ししたいのなら、聖書の内部事情、聖書の構成、そして聖書の本質を理解しなければいけない。今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人の理解が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが見たような幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。あれは単に、パウロが働きの間に諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉である。また、当時のパウロの活動の大部分の記録でもある。あれは主における兄弟姉妹のために書かれたもので、当時のすべての教会の兄弟姉妹に、パウロの助言に従い、主イエスの教えを守らせるためのものだった。当時の教会であれ、未来のものであれ、パウロは自分の書いたものをみなが飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、また、自分の言葉がみな神から出たものだとも言わなかった。当時の教会の状況に合わせて、パウロは単に兄弟姉妹と心の交流をして、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていた。そして、彼は単に説教をしたり思い起こさせたりして、勧告していたのだ。彼の言葉は、彼自身の重荷に基づいて、言葉によって人々を支えたのだ。彼は当時の教会の使徒としての働きをした。彼は主イエスに用いられた働き手だった。そして、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのために、主においての兄弟姉妹すべてに手紙を書いたのだ。彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。彼の手紙は当時の各教会の事情や状況に基づいて兄弟姉妹に向けて、主における兄弟姉妹を励まし、主イエスの恵みを受けられるようにと書いたものなのだから。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものであった。これは彼自身の重荷であり、聖霊が彼に負わせたものだったといえる。結局のところ、彼は当時の教会を導いた使徒で、諸教会に手紙を書いて励ました。それが彼の責任であった。彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。彼にとっては自分の働きと兄弟姉妹のいのちが最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、どう思うのか──パウロが諸教会に宛てて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないと言えるであろうか。彼は自分の個人的経験や人生の幅に基づいて諸教会に向けて手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの諸教会に向けて手紙を書いているが、そこには、ある意見が含まれている。そして、ペテロも別の手紙を書いているが、別の意見が見られる。どちらが聖霊から出たものなのか。誰一人確かなことを言えない。だから、彼らは二人とも教会のために重荷を負っていたが、二人の手紙は彼らの霊的背丈を、彼らの兄弟姉妹に向けた備えと支えを、諸教会への彼らの責任を象徴している。その手紙は人間の働きを表しているに過ぎない。すべてが聖霊から出ていたのではないのだ。もしもパウロの手紙は聖霊の言葉だというのなら、その人は愚かで、冒瀆を犯している。パウロ書簡と新約のその他の書簡は、もっと最近の宗教活動家の回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験その他と同じようなものだ。簡単に言えば、最近の宗教活動家の著作は新約には含まれていないが、そうした人物の本質は同じである。彼らは一定の期間、聖霊に用いられた人々であったが、直接神を代表することはできなかったのである。

新約のマタイの福音書は、イエスの系図を記録している。冒頭で、イエスはアブラハムの子孫、ダビデの子孫、ヨセフの子であったと述べている。次に、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたと述べている。すると、イエスはヨセフの子でもアブラハムの子孫でもダビデの子孫でもないことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊によってもうけられ、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし、系図では、はっきりと、イエスがヨセフの子であると書いてあり、系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフがマリヤの夫であると手短に告げている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためのものである。これは矛盾ではないのか。系図は明らかにヨセフの祖先を列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。これはイエスが聖霊によって生まれたことを否定するものではないのか。だから、マタイの系図は人間の考えではないのか。これはばかげている。このことから、この書がすべて聖霊から出たものではないことがわかる。おそらく、神には地上に系図がなければいけないと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫だとしたのではないであろうか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後で、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質においては、人間と同じではないのだ。どうして神をその被造物と同じものにできるのか。アブラハムは神の代理人ではない。彼はヤーウェの当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人であった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのだろうか。イエスは自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのだろうか。これはイエスが十字架につけられた後で、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解のできない働きを数多く行ったが、何も説明していない。イエスが去った後、弟子たちはいたるところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、彼らは手紙と福音の書を書き始めた。新約の福音の書はイエスが十字架につけられてから二十年から三十年後に書かれた。それ以前には、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の始めに、人々は旧約を読んだのである。新約は恵みの時代になって、はじめて現れる。イエスが働いていた間、新約は存在しなかった。イエスがよみがえり、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録した。そうしてはじめて、四福音書が生まれ、それに加えて、パウロとペテロの書簡、そして黙示録が生まれた。イエスが昇天して三百年以上過ぎた後で、後の世代が記録を集め、新約が生まれた。この働きが完了した後ではじめて新約が存在した。それ以前にはなかったのである。神がすべての働きを行った。使徒パウロも自分のすべての働きを行った。その後に、パウロとペテロの書簡が集められ、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻が、終わりの日の働きを預言していたため、最後に加えられた。これらはみな、後の世代の編集したものであって、今日の言葉とは別物である。今日記録されていることは、神の働きの段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行った働きであり、神が自ら語った言葉である。あなたがた人間は介入する必要がない。霊から直接出る言葉は順を追って並べられており、人間の記録を編集したものとは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての能力の程度に従っていたと言える。彼らが記録したものは人間の経験であった。人々にはそれぞれ自分なりの記録の手段と認識があり、それぞれの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救うことができるのである。聖書は人間を救えない。彼らは聖書を数千年の間読むことが出来たが、それでもなお彼らのうちには少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるのなら、けっして聖霊の働きを得ることはないであろう。イスラエルで神の行った二段階の働きは、いずれも聖書に記録されている。だから、これらの記録の中に見る名前はみなイスラエルのもので、出来事もすべてイスラエルにおけるものである。「イエス」という名前さえ、イスラエル人の名である。もしも今日聖書を読み続ければ、因習に従うことになるのではないか。新約聖書に記録されていることは、ユダヤの物事である。原文はギリシャ語とヘブライ語で書かれており、イエスの言葉とイエスが当時呼ばれた名はすべて人間の言語のものである。イエスが十字架につけられた時、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言った。これはヘブライ語ではないのか。これは、単にイエスがユダヤで受肉したためであり、神がユダヤ人であるとの証明ではない。今日、神は中国で受肉した。だから、その語ることはみな、間違いなく中国語である。しかし、原文の言葉が違うのであるから、中国語訳の聖書とは比較できない。一方は人間が記録したヘブライ語を原典とし、他方は霊による直接の言葉から来ているのである。


聖書について(1)

2020-03-21 10:58:54 | 書籍

神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。なぜわたしたちはこの問について話し合っているのだろうか。それは、将来あなたは福音を広め、神の国の時代の働きを広げることになるが、単に今日の神の働きについて話せるだけでは不十分だからである。神の働きを広げるためには、人々の古い宗教観念や古い信仰の方法を取り除き、人々を完全に確信させることがますます重要だ。そして、そこに至るには、聖書が関わってくる。長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じ、ますます聖書に執着し、よりいっそう聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に盲目的な信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。だから、聖書の内部事情を理解していないのなら、福音を成功裏に広めることはできないであろう。また、新たな働きについて証しすることもできないであろう。今日、あなたたちは聖書を読まないが、それでも聖書に関して極めて好意的だ。つまり、聖書はあなたたちの手にないかもしれないが、あなたたちの観念の多くが聖書に発している。あなたたちは聖書の由来、以前の二段階の神の働きの内部事情を理解していない。あなたたちは聖書を飲み食いしないが、聖書を理解しなければいけない。あなたたちは聖書について正しい認識をもたなければいけない。そして、そのようにしてはじめて、神の六千年に及ぶ経営(救いの)計画がどういうものなのかがわかるのだ。あなたたちはこうしたことを用いて人々を勝ち取り、この流れが真の道であり、今日あなたたちの歩む道が真理の道であり、それが聖霊に導かれており、人間が開いたものではないということを人々に認めさせるのである。

恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。それらの書簡は、当時聖霊がどのように働いたかを示している。(もちろん、パウロが懲罰を受けたか不運な目に遭ったかはともかく、働きにおいては彼は聖霊に導かれており、当時聖霊に用いられた人である。ペテロもまた、聖霊に用いられたが、彼はパウロほどの働きをしていない。パウロの働きには人間の不純さが含まれていたが、彼が書いた手紙から、聖霊が当時どのように働いたかがわかる。パウロの導いた道は、正しい道、聖霊の道だった。)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。恵みの時代に、イエスは旧約の律法に従った働きはせず、そうした教義に逆らった。今日、聖書、特に旧約の律法を擁護する人々が依然として存在する。そうすることで、彼らはイエスの働きを否定しているのではないか。「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人々がいる。また「神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけない」という人々もいる。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで滅ぼされ、神の刑罰を受けて死ぬだろう。