全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

天国に入るための条件

2019-11-28 21:44:30 | グルメ

 質問2.もう何年も主を信じてきましたが、謙虚に、人に寛容で、兄弟姉妹を愛し、主のために奉仕して働いてパウロの例に従う限り、主に服従していることになり、主が戻られたときに天の国に引き上げられると誰もが思っています。パウロは言った「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)しかし、主を信じるには終わりの日における全能神の裁きを受けなければならず、清められてはじめて、神の賞賛を得て天国へと入ることができると証されました。疑問です、これまで何年も主を信仰してきた私たちでも、終わりの日における全能神の裁きの働きを受けずには、天国へ行けないのでしょうか?

  解答: 多くの信者が、パウロのように働くことは主の道に従うのと同じで、主が戻られたときに、天の国へ入る資格を得るのだと考えています。多くの人にとって、これが観念になっているのです。しかし、これは主の御言葉に基づいたものですか?こうした信仰で主がお喜びになるでしょうか?パウロのように主のために働けば、本当に主の道を歩んでいることになるのでしょうか?天国へ行く資格があるでしょうか?主イエスはこのようにおっしゃっています。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音 7:21-23)神の御心に従う者だけが天国に入れる、主イエスはそうはっきりとおっしゃっています。主のために、犠牲を捧げ仕え働く者が天国に入るとは言われませんでした。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う者の多くは、みなよく働く者たちです。彼らは主に称賛されるどころか、不法を働く者と見なされるのです。パウロは「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)この言葉は主イエスの言葉に矛盾し、主の御心とは相容れない、天国へ入る確実な方法はたった1つだけ、それだけです。主イエスが聖書の中ではっきりとおっしゃっています。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)「主と共に食事をすること」これは終わりの日の神の裁きを受けるという意味です。神の裁きと刑罰を受けることによって真理を全て理解し、清められ完全にされるのです、主と食事を共にする効果です。つまり、そうすることによってのみ間違いなく天国へ入ることができると確信が持てるのです。

  主イエスキリストのみが真理であり、道であり、命であることは皆さんがご存じのとおりです。なので天国に入るには最終的には主イエスの言葉に基づいた方法になるのです。パウロは福音を伝えるただの使徒でした、主を代弁することはできません。主イエスはそのようには証されなかったので、パウロが歩んでいた道は必ずしも正しい天国への道ではありません。そればかりか「パウロの例に倣うように」など主は一言もおっしゃっていません。もし私たちがパウロの言葉のみに従って天国への道を選ぶのなら、すぐに迷いはぐれるでしょう。「ただ天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」この聖句は、主の言葉を信じよと言っています、天国に行く唯一の方法は神の御心に従うことです。神の家から始まる裁きの働きをするため、主イエスが終わりの日にお戻りになったとき、私たちが神の声を聞き、終わりの日の神の働きを受け、裁きと刑罰を受けて清められ、完全にされれば神の御心に従い、天の国に入る資格を持てる者になるでしょう。これは絶対に確かなことなのです。主の名によって説教したり、悪魔を追い出したり、奇跡を行う熱意のみに頼る者は、主の御言葉を実行することには注意を払わず、神の現在の働きを受けようともしません。彼らが主を知っていると言えますか?神の御心に従っていると思いますか?なぜ主イエスはこう言ったのでしょう。「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」(マタイによる福音書 7:23)ここはとても考えさせられる箇所です。皆さんご存じのように、ユダヤ教のパリサイ人はその当時陸や海を旅し、多くの苦難に耐え、大きな代償を払いながらも福音を宣べ伝えました。見た目では彼らは神に忠実に見えたでしょう。でも実際には、彼らは神の言葉を実行する代わりに宗教的儀式に従事し規則に従う事を重視していました、神の戒めに従わなかったのです。それどころか、神の戒めを廃止してしまいました。彼らは完全に神の御心に矛盾し、神の道から外れてしまったのです。だから主イエスは彼らを非難し呪ったのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書 23:15)つまり私たちは思い込んでいるのです。「主のために懸命に働きさえすれば、主が来られたときに天国へ連れて行かれるであろう」と、この見解は純粋に主の言葉にそぐわない、人間の観念と想像に過ぎません。私たちが救いを求め、天国に入りたいと思うのは正しいことですが、最終的には主の御言葉に基づいて行わなければなりません。主の言葉を無視し、パウロの言葉に則り、その方法に従事するとなれば、主の称賛を得ることなど絶対にないでしょう。

  実は、終わりの日の全能神の働きを受ける前には、主の御名を守り奉仕し説教し働くことで、主の御言葉を実践し、主の道に従っていると思っていました。主が来たときには天の国へ連れて行かれると、誰もがそのような観念を持ち想像していました。そして、しばらくして終わりの日の全能神の働きを受け、その言葉を知りました、読みましょう。「働きと言うと、それは神のために奔走し、随所で説教を行い、神のために心血を注ぐことだと人間は考える。その考えは正しいものの、偏りすぎている。神が人間に求めているのは、神のために奔走することだけではない。むしろ霊の中において務め、与えることである。……働きとは、神のために奔走することを指すものではなく、人間のいのちと人間が生きながら示すことが神を楽しませることであるかどうかを指す。働きとは、人間がもつ神への信心、人間がもつ神に関する認識を用いて神の証しに立ち、人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、全ての人間が気付くべきことである。換言すると、あなたがたがいのちに入ることが、あなたがたの働きである。あなたがたは神のための働きの過程においていのちに入ることを求めているのである。神を経験することとは、神の言葉を食べ飲み出来ることだけでなく、それよりも重要なこととして、神の証しに立ち、神に仕え、人間を牧し、人間に供給することが出来なければならない。これが働きであり、いのちに入ることでもある。これは、あらゆる者が実現すべきことである。神のために奔走して回り、方々で説教をすることだけに重点を置く一方で、自分の経験を軽視し、自分の霊的生活に入ることを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗するようになるのは、これが原因である。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より)全能神の御言葉を読むことで神が私たち人間に、神のために苦しみ労力とお金を費やすことだけを求めているのではないことがわかりました。どちらかといえば、神の御言葉を実行し体験すること、働き、説教する時には神の言葉に関する認識を話すこと、御言葉の実際へと兄弟姉妹を導くこと、これらこそ神の御心を喜びで満たす働きです。長い信仰の歩みを振り返り、 嵐や雨の中でさえ、主の御名によってどこへでも行き説教に務め、若干の苦難に耐え、それなりの代価も払いましたが、主の御言葉を実行し経験することに注意を払わず、私はそれについて証しすることもできませんでした。聖書の意味のない言葉や教義をならべて、宗教儀式と規則を守るように教えていただけです。そんなことで、兄弟姉妹たちを神様の御言葉が持つ真理に導くことなどできるはずがありません。それだけでなく、説教する時は人の尊敬を気にし、主のお求めになることに反して、自分の思うままに行動したこともありました。主のために何かを犠牲にし、苦難に耐え代償を払うことによって、私こそが主を最も愛する者であり、主に最も忠実な者だと思っていました。私は神からの天国の祝福を要求し、とんでもない恥知らずでした。自分よりも消極的で弱い兄弟姉妹たちを軽蔑して、高慢に振舞っていました。主のために働くという熱意だけに寄りかかり、主の御言葉を実行し体験することには疎かにしていたので、何年も主を信じてきたにもかかわらず、主への認識や畏れはかけらもありませんでした、性質の変化など言うに及ばずでしょう。私は何年も主を信仰し、 相当な苦労にも耐えて来たので、ますます傲慢になり誰に対しても、背を向けていました、ごまかして欺こうとし、あらゆる面でサタンの性質を示していました。実際に私の働き方は、主の御言葉を実行し主に従う、それとは違うものでした、それでは主の理解に繋がるはずがありません。私のように真理どころか主の理解もない者が、何をしても主を辱め、拒んでいたのではないか?そんなことでは主を褒めたたえ、証しするなどできない。全能神の働きを経験してわかったのは、どれだけ長く主を信じていようが、どんなに苦労しようが、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、神の御心に従う者、偽りなく神に従い崇める者にはなれないということです。これは確かなことです。

   では、宗教界の牧師や長老たちについて見てみましょう。主のためにすべてを捨て去り、働いているのですが、どんな事をしていますか?その本質は、一体どうでしょうか?長く主を信じてきたにもかかわらず、真理を求めたことは一度もなく、聖霊の働きを受けていない、いのちに入ることや信仰上に起こる問題を、どうやって解決するのか助言もしてくれません。彼らはよく聖書の無意味な教説を取り上げて話します、信者を惑わし自分たちがどれだけ主のために説教してきたか。いかに努力し、どれほど苦しみ、いくつ教会を建て上げたかなど機を逃さず証しをします。こうして人が自分に従い 崇拝するように仕向けます。その結果、何年も働いているのに兄弟姉妹たちが、真理を理解して神を知ることはなく、自分たちを崇拝させ従わせ知らないうちに、人間崇拝という神を裏切る道に足を踏み入れてしまうのです。では、そういう牧師や長老たちがそのような働きで、主の道に従っていると言えますか?主に対して悪事を行っていませんか?特に終わりの日における全能神の働きについては、多くの牧師や長老たちは全能神の御言葉が真理であり、その働きが聖霊の働きであることに気づいていながらもそれを学ぼうとせず、己の地位と生計を守るため、熱心に噂を流し、ありとあらゆる噓偽りを並べ立て全能神を非難します。全能神を拒み遠ざけ宗教界を閉ざしてしまうのです。彼らは真の道を求め学ぶことを誰にも許さず、神の働きを証しする人々を教会から追い出します。さらには邪悪な中国共産党と共謀し、全能神の証をする人たちを捕まえ迫害するんです。これは大胆にも神に対抗した行動ではないですか?神に反する彼らの罪は、主イエスに反したパリサイ人のそれよりも遥かに重いのです。この事実から、主の御名によって労力を費やすことが、神の御心に叶うことだなどとまだ言えますか?主の御名にしがみつき、主の道を守り、主のために労力を惜しまなければ、私たちには天国に召される資格があると言えますか?全能神の御言葉をもう少し読めば理解できるでしょう。

   全能神は言われる。「あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神の後を追いかけることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。とにかく神は義であると信じている、とあなたは言う。あなたは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたが、神は確かにあなたのことを覚えている。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験──刑罰と裁きに関するペテロの認識」より)

  「あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)全能神の御言葉にはっきりと示されているように、神は聖なるもので義なのです。汚れて腐敗した者が神の国に入ることは、絶対に赦されません。

 

                                                                                                                『私の天国の夢』の映画台本から


天国に入るための条件

2019-11-27 18:32:57 | グルメ

質問1.私達は主のために働き、苦労もあります、それでも変わらず嘘をつき、欺き、だまそうとします。毎日自己弁護ばかりしています、横柄でわがままで人に恩を着せたりします。罪を犯し告白を繰り返し、肉の束縛から逃れられません。主の言葉を実行しないし、御言葉通りの現実を生きていません。こんな私達が天の国に招かれますか?罪を犯しても、主は私達を罪のない者だと見てくださると言う人もいます。パウロの言葉にあるからです。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)主が戻られたとき、私たちの姿が変わり天の国に召されると信じる根拠です。でもそうじゃないと言う人もいます、信仰があり救われていてもよく罪を犯す者は、天の国には入れない。これは主イエスの言葉にあるからです「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記 11:45)これは誰もはっきりと答えを持たない争点なので、どうか私たちに教えてください。

  解答: 私達も、パウロのような使徒の言葉を神の言葉だと、以前は考えていました。パウロの言葉をもとに、主のために働いていました。さらに、主のお戻りに関しても、パウロの言葉に従っていました。しかし主の言葉を無視しています。問題ではありませんか?信者としては、神の言葉に従いますか?それとも人の言葉?聖書のパウロの言葉ですが、神と人間どちらの言葉でしょう?神の言葉か人間の言葉かは一旦置いておいて、聖書にあるヤーウェと主イエスの言葉は確実に神の御言葉だと言えますね。誰も否定できませんね。一方パウロのような使徒たちの言葉は、聖霊の啓きがあったとしても人間の言葉です。神の言葉ではありません。主も聖霊も使徒の言葉が神の言葉だとは証言していないし、使徒たちも自らの言葉が神の言葉だとは言っていません。そうでしょう?聖書の人間の言葉は、人間の言葉で神の言葉ではない、神の言葉として利用してはいけません。聖霊の啓きを受けた人間の言葉もあれば、人の意志が混ざったものもあるからです。真理を示すものではない。人間の言葉を真理として扱うと人々はどこにも導かれはしません。なぜ宗教界に何千もの宗派があるのでしょう?聖書にある人間の言葉を神の言葉として解釈したために、大きな混乱を招いたからです。天国へ入るかどうかは主イエスの言葉で判断すべきです。なぜなら主イエスは受肉されたキリストであり、唯一の救い主なのです。主イエスの言葉だけが真理であり権威を持つのです。パウロはただの人間です、真理を示すことはできない、そのため彼の言葉には人の意思や想像が混ざっています。パウロ自身も自分の言葉が神の霊感によるとか、手紙が神の言葉だとは言っていません。パウロの言葉を神の言葉とみなすのはおかしな話でしょう?私たちは、神の御心に叶っているか天国に行く資格があるかどうかを、主イエスの言葉に従って真理を探し求め、答えを見つける必要があります。

  少し全能神の言葉を読んでみましょうか。全能神は言われます。「今日、人々は聖書が神であり、神は聖書だと信じている。また、聖書の言葉のすべてだけが神の語った言葉であって、それはみな、神が語ったと信じている。神を信じている人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだけれど、これらはみな神から霊感を受けており、聖霊の告げたことを記録しているのだとさえ考えている。これは人々の解釈が誤っているのであって、事実に完全に沿ったものではない。実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。……彼が人々に向けて言った信仰を養い、確信に満ちた言葉はみな正しかったが、それは聖霊の言葉を代弁していたのではないし、パウロにも神の代理はできなかった。一人の人間の経験の記録や手紙を聖霊が諸教会に向けて語ったものとして扱うのは、ばかげた解釈であり、ひどい冒瀆である。……彼の身分は単に活動中の使徒であって、単に神に遣わされた使徒だった。彼は預言する者でも、予知する者でもなかった。だから、彼にとって自分の働きと兄弟姉妹の生活が最も重要なものであった。それで、彼は聖霊を代弁することはできなかったのだ。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、まして、神の言葉であったとは到底言えない。パウロは神の被造物でしかなく、受肉した神では絶対になかったのだから。彼の身分はイエスの身分とは違っていた。イエスの言葉は聖霊の言葉で、神の言葉であった。イエスの身分はキリスト、神の子であったのだから。どうしてパウロがイエスと対等になれるのか。もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(3)」より)

  「神の言葉は人の言葉として語ることはできないし、ましてや人の言葉は神の言葉としては語ることはできない。神に使われる人間は受肉した神ではなく、受肉した神は神に使われる人間ではない。ここに実質的な違いがある。……人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。神によって語られた言葉を単に聖霊による啓示と見なし、使徒や預言者の言葉を神自らが語る言葉として受け取るならば、それは間違っている。とにかく、あなたは決して正しいものを誤りとするべきではないし、高いものを低いものとして話すべきではないし、深いものを浅いものとして話すべきではない。とにかく、あなたは真理であると知っていることを決して故意に論駁するべきではない。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

  主の信者の多くが主の出現を待つ間、パウロの言葉に従っています。「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは非常にばかげた話です。人間の言葉は神の言葉を代表できず、人間の意図を含んでいるからです。たとえその意味が近かったとしても、それは神の言葉ではない。パウロが言ったことは、主が言われたことですか?預言者の言葉はどうですか?聖霊はパウロの手紙が神の御言葉だと証しましたか?聖霊の啓きは、主の再臨に備えるためにパウロに従えと言いましたか?言っていない。そんな事実も証言もどこにもないのです。よってパウロの言葉はあくまで参考にすぎません。主に引き上げられ天の国に召されることについては、主がお見えになったとき、一瞬にして姿を変えてくださるといったパウロの言葉に頼っていては、間違いを犯して、主に見捨てられるかもしれません。事実、終わりの日に主が為される働きや人間を聖なるものにどう変えるかは、聖書に預言されています。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

  「わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音 12:47-48)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。……真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。……またが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。」(ヨハネによる福音書 17:15、17、19)

 このような聖句からも、終わりの日に主が再臨されると神の家から裁きの働きをされ、人間を真理へ導き悟らせるのです。神の御言葉の裁きを受ければこそ真理を理解し清められ、神の国へ入る資格を得るのです。つまりパウロが言った「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙 15:51-52)これは不正確で誤解を招く発言です。多くの信者が姿を変え天の国に召されると信じています、主の御言葉も実行せず神の御心に叶う方法も知りません、自分の熱意だけで主のために努力し働き、罪を犯す本性に支配されたまま、罪深く生き悔い改めることに毎日を費やしています。こうした人々はパウロの言葉だけを信じて主の出現を待っているのです。現実的ではない、主がされることですか?皆さん、パウロのこの「預言」はいのちの成長を得る役に立ちますか?この言葉のように主の再来を待って預言は成就しますか?「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネによる 福音書 10:27)これで預言は成就しますか?積極的に真の道を模索して神の声を聞くことができますか?

 終わりの日の全能神の働きでは神が大災難の前に、勝利者のグループを作られたことが分かります。大災難は急速に近づいています、終わりの日に神が出現され働く時から大災難が起きるまでに約30年あります。その期間はあっという間です、決してパウロが言ったように、人が一瞬で聖なるものに変えられるわけではありません。パウロの言葉は漠然としていて、超自然的です。そして、主イエスの預言にある神の声を聞き婚宴に招かれることには触れていません、主の預言は現実的で事実に即していて、預言が成就すれば、私たちは理解できるのです。全能神が現われ、語られると多くの人が神の声を聞き全能神を信じます。神の裁きと刑罰を受けることは、黙示録の預言を成就するものです。「小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 19:9)パウロの「預言」は成就されていません。それどころかパウロは預言者ですらない、彼の「預言」は想像によるものでしょう。主の預言は成就されていますが、パウロの言葉は実現していません。その差は非常に大きいのです。これが人間と神の言葉の違いです。パウロの言葉に頼っていては天の国に入れないのです。信仰する人がパウロの言葉を頼りに、主がお見えになるのをただ待っていれば、主に見捨てられ愚かなおとめとなるでしょう。

 お判りになりましたか?聖書の預言が成就すると、主の信者たちにはそれが判るのです。しかしパウロの言葉は、現実になることはないでしょう。なぜでしょうか?パウロの言葉は神に霊感を受けていないからです、神の御言葉のはずがない。主のおっしゃった事に、実現しないものはないということがお判りでしょう?違いますか?終わりの日全能神は、数多くの真理を『言葉は肉において現れる』に記されました。『言葉は肉において現れる』が出版され、全能神の言葉を沢山読んで、様々な宗派や教派の良き羊も全能神の言葉は真理であり、神の声だと言い従っています。彼らは賢いおとめであり、大災害の前に神の御座に連れられ、子羊の婚宴に迎えられるのです。主の預言を成就するものです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)主の預言が完全に成就されたことがお判りですか?主が語った言葉や預言者による神の御言葉は、そのすべてが成就されるでしょう。主が言われた通りです。「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」(マタイによる福音書 24:35)パウロの言葉の中に成就されたものは?皆さん、パウロの語った言葉が神の霊感によるものでも、神の言葉でもないとはっきりしましたか?パウロの言葉だけを信じて、主の声を聞こうとも、神の働きを学ぼうともせずに、主が雲に乗って現われ姿を変えてくださるのを待つのは、愚かなおとめだとは思いませんか?そのような者が神の玉座の前に連れて行かれますか?

                                                                                                                                                            『変えられる瞬間』の映画台本から


その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その2)

2019-11-16 12:00:00 | グルメ

  その妹は話し続けました。「全能の神の言葉は、既に、『救われる』や『完全な救済を受ける』ことについての疑念を晴らしてくださっています。ですから、全能の神の言葉を一緒に読んで、神がこれについて何と言っているかを見ていきましょう。全能の神は次のように言っています。

  「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

  『人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。…人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。…罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

  『あなたは終わりの日にイエスが降って来るとだけ知っているが、イエスは具体的にどのように降ってくるのだろうか。 あなた方のように贖われたばかりでまだ変化しておらず、神によって完全にもされていない罪人が、神の心に沿うことができるだろうか。未だに古い自分のままのあなたは、確かにイエスによって救われ、神の救い故に罪人とは見なされなくなったことは事実であるにしても、それであなたが罪も汚れもないという証拠にはならない。あなたが変化していないのであれば、どうして聖いものとなれるのか。あなたは心の中の不純さ、自己中心、悪意にまみれながら、イエスと共に降ることを望んでいる――あなたはそこまで幸運ではない。あなたの神への信仰は一段階抜け落ちている。どうにか贖われたというだけで、あなたは変えられてはいないのである。あなたが神の心に沿うためには、神が直接あなたを変え、清める働きをしなければならない。贖われただけでは、聖さを獲得することは不可能である。このように、あなたには神の素晴らしい祝福を共有する資格はない。神による人間経営の働きの一段階、人を変え、完全にするという重要な段階が抜け落ちているからで ある。それ故、贖われたばかりの罪人であるあなたは、神の財産を直接相続することはできないのである。』(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)

  妹は、話し続けました。「全能の神の言葉から、私達は、神が実行するあらゆる段階の働きは、堕落した人類の必要性に応じて実行されていることが分かります。律法の時代の終わりに、サタンによる誘惑と堕落により、人々には罪の拘束から自由になるための闘いをする力がもうありませんでした。人々はヤーウェの法に背き、死ぬまで石打ちされ、天の火に焼かれるという危険に直面しました。神は人類を愛しています。神は罪深き肉に似せて、自ら受肉し、人々を罪から救うために十字架に磔になりました。従って、主イエスを信じている限り、私達は救われます。主はもう私達の罪を覚えていません。私達は直接神の前に来て、神に祈り、神の豊かな愛を受けることができます。しかし、私達が救われたからと言って、私達が罪なき存在になった証にはなりません。私達人類は、何千年もの間サタンにより堕落させられてきました。サタンの毒は私達の中に深く根付き、私達のいのちとなり、本性となりました。私達は、サタンの本性である自惚れと傲慢さ、欺瞞と不正直さ、身勝手さと他人軽視、そして、貪欲さと邪悪さに支配されています。私達は、神に抵抗し、未だに、頻繁に嘘をつき、騙し、罪を犯すことができます。これは、常に罪を犯しては、その罪を認めるという繰り返しのようないのちの根源となっています。ですから、堕落した人類の要請と、人類を救うという神の経営計画に従い、神は、人を裁き、罰するという終わりの日の新たなる段階の働きをするために到来しました。その目的は、人を清め、その堕落した性質を変えることです。これにより、最終的に、救済を得、完全にされた人が神の国に入ることができるようにするためです。私達が『一度救われた者は永遠に救われる』という観念に未だに固執しているならば、神の終わりの日の裁きの働きを受け入れることを拒否しているのです。それが当てはまるならば、私達の血に入り込んだサタンの毒が清められることは決してないでしょう。私達が神の救済を得ることは決してないでしょう。天の国に入るなど、以ての外です。これらがもたらす結果は非常に重大なものです。従って、今、終わりの日にいる人間は、恵みの時代から離れた場所のみを歩き、全能の神の終わりの日の働きを受け入れることしかできません。そうしてのみ、人は徹底的に清められ、神の救済を得て、良き終着点に行くことができます。」

  妹の話を聞いているうちに、「その通りだ。全能の神の言葉はとても現実的に話している。私達は罪を許されただけで、罪深い本性はまだ残っているのだ。この堕落した本質は解決されていない。近年は、日中に罪を犯し、夜にその罪を認めるという生活を送ってきたのも、道理がいく。」と考えました。全能の神の言葉は、長年、私の心に重くのしかかってきたこれらの問題を1つにまとめました。全能の神の言葉には、その中に見出すことができる真理が本当にあります。全能の神は本当に主の再来なのでしょうか。私はこれについてきちんと調べる必要が本当にあります。

  私は、徐々に、この妹に対するガードが取り除かれていきましたが、私達が話し合っている内容について調べる必要があると思った瞬間、けたたましく、急を要するノック音がドアの方から突然聞こえてきました。妹フーさんは急いでドアを開けに行くと、1人の牧師が部屋に入り込んで来ました。彼は私を見て、全能の神の国の福音を説いていた妹を見ると、驚きと怒りに満ちた口調で、「お前はここで何をしているんだ。私は見知らぬ人間の説教を聞いてはならないと命じなかったか。それなのに、なぜ、ここで、こいつらの話を聞いているんだ。今すぐ家に帰り、こいつらの話をそれ以上聞いてはならない。そうでなければ、お前は騙され、悔い改めるには手遅れになるぞ!」と、私に言いました。牧師が私をたしなめ終わると、今度は妹の方に向き直り、「全能神を広めているお前達がやっているのは、私達の教会に来て、子羊を盗むことだけだ!今すぐここを去れ。去らないならば、私もいつまでも下手に出ていない!」と彼女を脅しました。こんな風に、牧師が妹を脅すのを見て、私はかなりの嫌悪感を感じ、「牧師さん。この妹には、本当に伝えるべき良い話があっただけです。それは、聖書と一致しています。全能の神が主の再来であると言うことは本当かもしれないと感じています。あなたも話を聞いて、その上で判断してはどうでしょうか。さらに、聖書には『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。』(ヘブル人への手紙13:2)と明記されていなかったでしょうか。主を信じる私達は愛を持つべきで、こんな風に人を扱ってはいけません。こんな風に妹を追い出すことは、主の教えに反していないでしょうか。」と言いました。私がこう言うのを聞くと、牧師は、「お前に何が分かると言うんだ。イエスを信じている私達は既に救われているんだ。再び救われる必要などない!奴らは子羊を盗むためにここにやって来た。奴らを受け入れてはならない!」と私に怒鳴り声を挙げました。この時、福音を伝道していた妹は、微笑んで、「私達は全員、主の再来を待っています。座って、お話しませんか。この機会を逃すと、とても後悔することになるでしょう・・・」と言いました。妹が言い終わらないうちに、牧師は妹を追い立て、「黙れ。たとえ、お前に話すべき良い話があったとしても、私は聞くものか!直ちに去れ!」と言いました。このようにして、牧師は妹をその家から追い出そうと、押したり、引いたり、暴言を吐いたりまでしました。妹が家から出ると、牧師は私の所に戻ってきて、「今すぐ家に帰れ。今後、お前が全能神の連中と接触することは一切認めない。接触したら、教会から追放する。そうなったら、お前が神の称賛を受け、天の国に入るチャンスは決してないだろう・・・」と、脅しました。その時には、私は既に妹の話を聞き、主イエスは私達を救ってくださっただけで、私達を清めたわけではなく、主が裁きの働きを実行するために再来した時にこそ、人の清めの働きが行われるということを理解していました。神の終わりの日の裁きの働きを受けることなく、人の堕落した性質が変わることや、神の救済を得られることはありません。そのため、牧師の言葉は私に大した影響を与えませんでした。私はその場をやり過ごし、頷くと、家に帰りました。

 

私たちの罪が許された今、私たちは天国に入れるのか?

2019-10-30 12:00:00 | グルメ

2018年8月5日(日)曇り
今日、集会の後、ある兄弟が心配そうな顔で私の所にやってきた。彼は「神は人々に聖なる人となることを求められますが、私は無意識のうちに罪を犯してしまいます。いつもこのように罪を犯しながら生きていたら、私は主が来られる時に天国に入れるのでしょうか?」と言った。私は「主イエス様は十字架に磔られ、私たち全員の罪を負って、その命を犠牲にされ、私たちの罪は、私たちの主イエス様への信仰によって許され、主はもはや私たちのことを罪人としては見ておられず、私たちは主のために全てを捨て、労力を費やし、一生懸命に働き、最後まで耐えしのいでさえいれば、主が再臨される時に天国に携挙される」と彼に伝えた。私がこう言うのを聞いた後、兄弟はまるで私の言葉が期待外れだったような表情で、少しがっかりして去って行った。彼が歩き去る様子を見て、私はとても複雑な気分になった。正直なところ、私もこの兄弟と同じことを心配していたんじゃないのか? 長年に渡って主を信仰していながら、頻繁に罪に束縛され、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという状態の中で生きてきたことを考えて、そのような生活を続けたくはないと思った。しかし、私には本当に罪を打破することができなかった。それで、頻繁に主に祈りを捧げ、もっと熱心に聖書を読むようにした。でも、罪の問題を本当に解決することはできなかった。主は聖なる御方なのに、罪で満ちた私のような人を褒めてくださるのだろうか?

2018年8月7日 (火) 曇り
今日は妻とつまらない事で喧嘩をして、自責の念にかられ、苦しんでいる。どうして過去と同じ過ちを繰り返してしまうんだろう?今晩、主に祈りを捧げながら涙を流し自分の罪を告白したが、祈りの後もまだ動揺していた。主のこの教えについて考えた。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」。(マタイ福音書22章37―39)この御言葉は第一に心と精神をつくして神を愛するよう私たちに教えており、第二に私たちは自分を愛するように他人を愛するべきだと言っている。兄弟姉妹たちはお互いに励まし合い、寛容で忍耐強くあり、安楽と慰めを与え合わなければならない。これは私たちがクリスチャンとして行うべきことであり、こうしてのみ、私たちは主を讃えて主の証を立てる生活を送ることができる。でも今まで主を信仰してきた年月において、私はこのいずれの要件も満たせていない。家にいる時、妻と私は些細なことでときどき喧嘩をしてしまう。教会にいる時、兄弟姉妹たちに恥じをかくような事を言われると、彼らに対して偏見をもってしまい、無視してしまうことすらある。大抵の場合、主を愛したいと言って祈りを捧げてはいるものの、家で何か不愉快なことが起ったり、何かのアクシデントが起こると「主のために労力を費やしているのに、どうして主は私を守ってくれないんだ?」と思って、やっぱり主を誤解し、非難してしまう。あぁ、私がすることで主の御要求を満たすことや、主の御心に適うものは何もない。頻繁に主に祈りを捧げるものの、依然としてしょっちゅう罪を犯し、どれだけコントロールしたいと思ってもそうできない。よくこう考える。「主への信仰によって私の罪は許されたものの、未だに罪を犯して神を怒らせてしまう。こんなことを続けていて、私は主が来られる時に天国に入れるのだろうか?どうすれば、罪を犯すことを止められるんだ?」

最近、頻繁に聖書を読み、何度も牧師と長老の意見を求めたが、満足のいく答えは全く得られなかった。この問題は私が天国に入れるかどうかという重大な事柄に直接関連しており、どうしても忘れてしまうわけにはいかない。主はこう仰った。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ福音書7:7)探求する心を持っている限り、主が必ず私をお啓きくださると信じている。

2018年8月12日 (日)本曇り
今朝、熱心に主に祈りを捧げた後、普段通りに聖書を開いてディボーションを始めた。その時、ヨハネの黙示録のこの節を読んで心を動かされた。「しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである。」(ヨハネ黙示録21:27)聖書は、清められていない人たちはその中に入れないと聖書は明確に言っている。この「その」というのは天国のことではないのか?次にマタイによる福音書7:21を読んだ。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」また、ヨハネによる福音書8:34-35にはこうある。「イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」これらの聖句について熟慮しながら、自分は長年における主への信仰生活において、毎日のように主に祈り、聖書を読み、そして頻繁に福音を伝道し、働き、主のために物事をあきらめて自身を捧げてきたにも関わらず、依然として承知の上で罪を犯し、罪を犯してはそれを告白し、さらに主の教えを守ることも、主の求めることを実践することもできていないと思った。私は明らかに天の父の御心を行う人ではないし、まして清められた人でもない。それでも私は天国に入れるんだろうか?天国は神の御国であり、神は聖なる御方だ。そうなら、汚れにまみれて罪を犯してばかりいる人がどうやって天国に入って神と共に生きる資格を得られるというんだ?天国に入るのは想像していたほど単純なことではないようだ!

2018年8月13日 (月) 曇りのち晴れ
今日、ヂェン兄弟にばったり会った。彼とは長い間顔を合わせていなかったので、会えてとても嬉しかった。彼と話している最中、ずっと頭を悩ませている事柄を持ち出した。話の後、ヂェン兄弟はこんなふうに話してくれた。「人間の罪は主イエス様が十字架に磔られた時に許されており、私たちが主を信仰すると、私たちの罪は許され、私たちは救われます。しかし、罪が許されるとは正確にはどういう意味なのでしょうか?これについて理解できれば、私たちが主への信仰を始めて、罪を許された後も罪を犯し続けてしまう理由が分かると思います。私たちが天国に入れるかどうかということについては、先ず初めに主イエスの出現と働きの背景を見る必要があります。律法の時代末期に、人間はサタンによってどんどん堕落させられ、さらに罪を犯すようになっていました。その状態はあまりにも酷く、もはや彼らの罪を償うに十分な罪の捧げものは残っておらず、彼らは当時の律法によって有罪とされ、死刑に処される危険に陥っていました。これを背景に、神は主イエスとして受肉され、人間のために罪の捧げものとして十字架に磔にされました。こうして、人間の罪は永久に許されたのです。それ以降、人々は主の御名によって祈り、罪を告白し、悔い改めさえすれば、罪を許され、律法により有罪とされ処罰を受けることはなくなったのです。神は人間を罪深い者として見ることをお止めになり、人々は神に直接祈り、神に呼び掛け、神の豊かな恵みと真理の備えを授かることができるようになったのです。これより、私たちの罪は主への信仰によって許され、『私たちの罪は許された』というのは、私たちが神の律法と戒めを破り、神の御言葉に逆らうという罪を犯したことを、神がお許しくださったということに過ぎないことが分かります。すなわち、主は、神の律法に違反し、それを侵したという私たちの罪深い行いは心に留めてはおられないということです。しかし、私たちに罪を犯させるサタンの性質と罪深い本性は神から許されてはおらず、私たちが依然として頻繁に罪を犯すことができてしまう明確な理由は、神に逆らう罪深い本性とサタンの性質が私たちの内に存在し続けているということです。従って、私たちの罪深い本性は神に対して最も反抗的で、真理に反するものであり、私たちが自分たちの罪深い本性を直さなければ、人間の罪の問題を解決するのは不可能であり、私たちは律法に違反することよりも深刻な罪さえ犯すようになり、天国に入ることなど完全に論外となってしまうということが分かります。聖書には明確にこう書かれています。「むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。」(ペテロの第一の手紙1:15−16)「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。」(ヘブル人への手紙10:26−27)「罪の支払う報酬は死である。……」(ローマ人への手紙6:23)これらの聖句から、もし私たちの罪深い本性が直らず、いまだに昼に罪を犯し、夜にそれを告白するという状態の中で生きていたら、たとえ最後まで主を信仰したとしても、結局は滅びることになり、それは神は聖なる御方であり、汚れて堕落した人類は神の祝福と約束を受けるにふさわしくなく、天国に入れないからである、ということを知りました。」

今、心は少し明るくなった。私たちの罪が許されたというのは、神の律法を違反したという私たちの罪深い行いを主がお許しくださったということしか意味していないことを理解した。しかし、私たちは依然として神に逆らう罪深い本性を改善していないため、昼に罪を犯し夜にそれを告白するという状態の中で毎日を生きながら、どれだけ望んでもそれを改善できないのは当然のことだ。主に感謝!今日受けた交流はとても明確で、曇り空が晴れてやっと青空が見えるような気がする。帰りがけに、ヂェン兄弟がある書籍をくれて、彼の理解は全てその書籍から得たものだと教えてくれた。私はとても嬉しかった。