全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

日々の神の御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」(抜粋 2)

2020-04-30 13:00:24 | 全能神教会御言葉朗読

日々の神の御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」(抜粋 2)
「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。
『言葉は肉において現れる』より引用


キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける 日本語吹き替え

2020-04-28 19:01:28 | 全能神教会映像

キリスト教会寸劇2019「戸を叩かれる主」神の羊は神の御声を聞き分ける  日本語吹き替え
本劇「戸を叩かれる主」では、終わりの日に主が御言葉によって私たちの心の戸を叩いてくださり、賢い乙女が神の御声を聞き、子羊と婚宴を共にするということが、どのように実現するかが明らかにされる。
チャン・ショウダオ牧師は日頃から主の再来を待ちわびていたが、信徒のチェンによる「主が既に再来された」という証を聞いても、「主は雲に乗って戻られるはずだ」と自分の観念や想像に頑なに執着し、真の道へ通じる心の戸を閉ざし続ける。しかし今回、チェンが主の再来に関する聖句を参照してチャン・ショウダオと議論し、チャン・ショウダオは聖書に、終わりの日に主は受肉して密かに再来し、新しい御言葉を語り人を清められた後、初めて公にお姿を表し、善に報い、悪を罰せられる、というような預言があることを学ぶ。また、「主が戸を叩かれる」ことの真の意味を理解し、主の再来をお迎えするには神の御声を聞くことが大切であると悟る。全能神の御言葉において神の御声を聞いた牧師は、ついに心の戸を開き、主の再来をお迎えする。


キリスト教の歌「神の言葉を実践しない人は取り除かれるだろう」歌詞付き

2020-04-27 11:40:40 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

キリスト教の歌「神の言葉を実践しない人は取り除かれるだろう」歌詞付き
神の働きと言葉は
あなたの性質に変化をもたらすためにある
神の目的はそれを理解させ
認識させるだけでは十分ではなく
それが全てではない
神の言葉はほとんどが人の言語で書かれているため
あなたが受け入れるなら容易に理解できる
凡人であっても
神があなたに知って欲しいこと
行って欲しいことは理解すべきことだ
人は神の言葉のあらゆる真理を経験し
更に詳しく探求しなければならない
待っていて与えられたものを受け取るだけでは
ただの居候である
もし彼らが神の言葉の中の真理を知っているのに
実践しないとしたら
彼らは真理を愛してはおらず
最後には取り除かれるだろう

神が今語ることは
とても明白で分かりやすく明快である
神は人が思いもよらないことを指摘し
人が持ち得る様々な状態を明示する
神の言葉は全てを満月のように明るく包み
人は多くの問題を知ることができる
成し遂げるべきことは神の言葉の実践であり
これが人類に欠けていることだ
人は神の言葉のあらゆる真理を経験し
更に詳しく探求しなければならない
待っていて与えられたものを受け取るだけでは
ただの居候である
もし彼らが神の言葉の中の真理を知っているのに
実践しないとしたら
彼らは真理を愛してはおらず
最後には取り除かれるだろう
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より


キリスト教賛美歌「神の権威はいたるところにある」歌詞付き

2020-04-26 12:15:40 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌MV

キリスト教賛美歌「神の権威はいたるところにある」歌詞付き
神の権威はどんな状況にもある
神は全ての者の運命と全てのことを
思いと望みのままに定め、采配する
それは人の変化によらず
人の意志とも関係ない
また時間や空間や地理など
いかなる変化によっても変わらない
神の権威はまさに神の実質だからだ
神の権威は神だけのもの
人にも場所にも何にも空間にも
決して縛られず制限されない
神の権威はどんな場所、時
どんな瞬間にも存在する
天と地が過ぎ去っても
神の権威はここに留まる

神の支配を知ろうが受け入れようが
神による運命の支配を変えることはできない
神の支配を知っていてもいなくても
その力はなおも存在する
たとえあなたが従わなくても
神はあらゆる方法で支配する
神の権威と、運命への支配は
人の意志や好みや選択によって変わらない
神はあらゆる時に権威を振るい
働き続け  力を示し
万物を支配し、与え、常に指揮する
それは時の始まりから続く
誰も変えられない事実
神の権威は神だけのもの
人にも場所にも何にも空間にも
決して縛られず制限されない
神の権威はどんな場所、時
どんな瞬間にも存在する
天と地が過ぎ去っても
神の権威はここに留まる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

キリスト教の歌「このような穢れた地に住む人々」歌詞付き

 


キリスト教の歌 MV「終わりの日のキリストの裁きを受け入れて清められなさい」日本語字幕

2020-04-25 11:48:36 | 全能神教会御言葉讃美歌

キリスト教の歌 MV「終わりの日のキリストの裁きを受け入れて清められなさい」日本語字幕
あなたは終わりの日
イエスが降臨することだけは知っているが
正確にはどのように降臨するのだろうか
あなた方のように贖われたばかりで
まだ変えられておらず
神に完全にされてもいない罪人が
神の心に適うだろうか
古い自我を持ったままのあなたは
イエスによって救われたのは事実であり
神の救いのおかげで
罪人とは見なされなくなったが
これは、あなたには
罪や汚れがないという証拠ではない
変えられないままであれば
あなたはどうして聖いものとなれるのか
内側では、あなたは汚れに満ち
自分勝手で卑劣であるにもかかわらず
イエスと共に降臨することを望む
あなたはそこまで幸運ではない
あなたは神を信じる上での段階を
一つ見落としている
あなたは単に罪から贖われただけで
変えられてはいないのである

あなたが神の心に適うためには
神が自らあなたを変えて
清める働きをしなければならない
もしあなたが罪から贖われただけなら
聖さを得ることはできない
このように、あなたは
神が人を経営する働きの一段階
つまり変えられて完全にされるという
重要な段階を逸したために
神の良き祝福を共有する資格はないであろう
よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは
直接神の嗣業を
受け継ぐことはできないのである
二番目の受肉はもはや
罪のためのいけにえとしての役割ではなく
罪から贖われた人たちを
完全に救うことであった

それにより、赦された者が罪から解放され
完全に清められ
性質が変えられ
それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り
神の玉座の前に戻ってくるためである
このようにしてのみ、人は完全に清められる
このようにしてのみ、人は完全に清められる
このようにしてのみ、人は完全に清められる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

「万物は神の権威により生き、滅びる」キリスト教賛美歌 歌詞付き

 


クリスチャンの証し 2020「失敗に直面して立ち上がる」日本語字幕

2020-04-24 11:40:28 | 全能神教会映像


クリスチャンの証し 2020「失敗に直面して立ち上がる」日本語字幕
 「失敗に直面して立ち上がる」は、神の裁きと刑罰を経験したクリスチャンの証しです。主人公はかつて弁護士でしたが、終わりの日における神の働きを受け入れた後は熱心に自分を費やし、教会指導者に選ばれます。本分を尽くす中で、彼女は自分の素質によって多少の成果を挙げ、ますます傲慢かつ尊大になり、他の人に冷淡になっていきます。教会の働きでは自分のやり方を押し通し、同労者と話し合うことも滅多になく、最後は教会の働きに損害を与えてしまいます。しかし厳しい刈り込みと取り扱い、そして神の御言葉による裁きと啓示の中で、彼女は自分の失敗と転落の根本的な原因を認識し、神の御前で真に悔い改めます。こうして教会での集会において、彼女はこの忘れがたい経験について交わるのです……

キリスト教映画「神を再び磔にするのは誰か」終わりの日にパリサイ人が再び現れた 予告編 日本語吹き替え2018


ゴスペル音楽「神は裁きとともに降臨する」男性ソロ 日本語字幕

2020-04-23 10:49:49 | 全能神教会御言葉讃美歌

ゴスペル音楽「神は裁きとともに降臨する」男性ソロ 日本語字幕
今日、神は赤い大きな竜の国に降り立つだけではなく
顔を全宇宙に向け
天空全体が揺れるようにする
神の裁きが行われない場所が一つでもあるだろうか
神の投げつける懲罰が行われない場所が一つでもあるだろうか
神は行く先々にあらゆる災いの種を蒔いた
これは、神の働く方法の一つで
必ずや人間を救う行いなのであり
神が人間に差し伸べるものは
何であれ、一種の愛なのである
神は、さらに多くの人々が神を知り
見ることができるようにし
そうして長い間人々が見ることのなかった神
だが、今日、現実となった神を崇めるようにしたいのだ
神は、さらに多くの人々が神を知り
見ることができるようにし
そうして長い間人々が見ることのなかった神
だが、今日、現実となった神を崇めるようにしたいのだ
だが、今日、現実となった神を崇めるようにしたいのだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

ワーシップソング「全能神は義の太陽として現れる」韓国の歌 Praise and Worship

 


朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」

2020-04-22 12:27:54 | 全能神の発表

朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」
全能神は言われます「イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。……しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。」


キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする 日本語吹き替え

2020-04-21 13:52:56 | 全能神教会の寸劇

キリスト教会漫才2019「主の到来の形」 聖書の預言──主イエスの再臨の奥義を明らかにする   日本語吹き替え
終わりの日、主イエスの再来を待つキリスト教徒たちの間で緊張感が高まる中、実際に主はいかにして再来されるのかという疑問が出る。「雲に乗ってお見えになる」と言う者もいるが、それに対し、再来の預言が他にもあると指摘して異議を唱える声もある。「見よ、わたしは盗人のように来る」(黙示録16:15)、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ 17:25)、「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイ25:6)もし主が誰にでも見えるように雲に乗って来られるなら、主が密かに現れ、苦しみ、捨てられるという奥義や、再来の証しをする者たちが出て来るという御言葉はどう説明できるのだろうか。主はどのような形でお姿を表されるのか。本作「主の到来の形」は、私たちの疑問にユーモラスに答えていく。

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