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全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

創造主の権威のもとでは、万物が完璧である

2019-11-26 12:00:00 | 全能神の発表

  鳥や魚、木や花、神により造られた物は、移動する物と移動しない物を含め、第六の日に造った家畜や昆虫や、野生動物を含め、すべて神にとって良いものであり、また神から見て、神の計画によれば完璧に達しており、神が望む基準を満たしていた。創造主は、自身の計画に従って自身が意図した業を、段階的に実施していった。神が造り出すことを意図していた物が次々と生まれ、そうした物の出現は創造主の権威の反映であり、結晶化であった。また、こうした結晶化のために、あらゆる生物は、創造主の恵みと施しに対する感謝の念を感じずにはいられなかった。神の奇跡の業が現れると、この世の中は神が造った物で少しずつ拡大してゆき、混沌と闇の状態から、明瞭で明るいものへ、また死の静寂から生の無限の活力へと変化していった。大きいものから小さいもの、そして微小なものまで、創造されたあらゆる生物には、創造主の権威と力により造られなかったものは存在せず、それぞれの生物に固有の、生来の必要性と価値がある。あらゆる生物は、その形状や構造の相違に関係なく、創造主の権威に従って存在するよう、創造主により造られている。……

  こうして、創造主の権威による万物は、創造主の支配により新たな交響曲、新しい日の神の業への美しい前奏曲を奏でることとなった。またこの時、創造主は神の経営の業における新たなページを開くことになる。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた規律に従い、万物は創造主の経営(救いの)計画に従い、新たな日、新たな始まり、そして新たな生活を喜んで受け容れる。そしてやがて万物は無限の繁殖を続け、創造主の権威による支配下で新たな日々を迎える。……

                                        『言葉は肉において現れる』より

 

アダムへの神の命令

2019-11-25 17:40:09 | 全能神の発表

  創世記2:15-17)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

  この箇所からあなたがたは何かを学んだだろうか。この箇所をあなたがたはどのように感じただろうか。なぜ「アダムへの神の命令」を聖書から取り上げるのだろうか。神とアダムが心に描けただろうか。想像してみてほしい…もしあなたがたがこのシーンの中にいたら、神をどのような存在と思うだろうか。あなたがたはどのような感情を抱くだろうか。これは感動の、心温まるシーンである。そこには神と人間しかおらず、その関係の親密さは羨ましいほどだ。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包んできた。人間は純粋で、無邪気で、気楽、気ままで、神に見守られて満足して生きている。神は人間を心配してくださり、そして人間は神の護りと祝福の中で生きていた。人間の全ての言動は、神と密接に関係し、神と切り離すことはできない。

アダムへの神の命令

 

  この命令は神が人間を創造以来、最初に与えた命令だったといえる。ではこの命令は何を表しているのだろうか。それは神の意志を表しているが、同時に神の人類に対する懸念も表している。これは神の最初の命令であり、そしてこの時初めて神は、人間のことを心配した。どういうことかといえば、神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を持っていたということである。その責任とはどのようなものだろうか。それは人間を守り、顧みるという責任である。人間が神を信頼し従うことを神は望んだ。そしてそれは神が人間に抱いた最初の期待でもある。神はその期待とともに、次のように言った。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。このシンプルな命令に神の意志が現れている。そして神の人間に対する心配をすでに表していたこともわかる。被造物にあって、アダムだけが神の姿に似せて造られ、アダムだけが神の息を吹き込まれ、神と歩み、神と対話できる存在だった。それゆえに神はそのような命令を人間に与えたのである。神はこのことを命じたとき、非常に分かりやすい形で人間が何をすればよいのか、そして何をしてはいけないのかを伝えた。

  この極めてシンプルな言葉から、神の心をうかがい知ることができる。わたしたちはここからどのような神の心を見て取れるだろうか。神の心に愛はあるだろうか。そこに神の配慮は現れているのだろうか。この聖書箇所に示されている神の愛と配慮は、頭で理解できるだけでなく、実際に感じることができることだ。そうではないか。わたしは今これらのことを述べてきたが、あなたがたはまだ、これが単なる言葉だと思うだろうか。それほど簡単なものではないのではないか。このことに気づいたことが今までにあるだろうか。神がもし直接あなたにこれらのことを語ったら、あなたはどのように感じるだろうか。もしあなたが無慈悲で、心が冷え切っているなら、何も感じないだろうし、神の愛も理解できず、神の心を理解しようともしないだろう。しかしもしあなたに良心があり、人間性があるなら、見方は違ったものになる。もしそのような人間であるならば、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じることができるだろう。違うだろうか。これらのことを感じるならば、あなたは神に対しどのように行動するだろうか。神とのつながりを感じるだろうか。心の底から神を愛し、敬うだろうか。あなたの心は神に近づくだろうか。神の愛が人間にとってどれだけ重要かということが、ここから見て取れるだろう。しかしそれよりさらに重要なのは、人間がその神の愛を深く知り、理解することである。事実、神はこの段階の働きにおいて似たようなことを多く語っていないだろうか。しかし、今日の人々は神の心を理解しているだろうか。今ここでわたしが述べた神の心の意味を掴めただろうか。あなたがたはこれほどはっきりしていて分かりやすく、現実に示されている神の心さえ、認識することができない。ゆえにわたしはあなたがたが神に対する本当の認識と理解を得ていないと言うのである。そうではないだろうか。このセクションでわたしが述べるのは以上である。

                                      『言葉は肉において現れる』

私たちについて:https://jp.kingdomsalvation.org/gospel/the-scroll-opened-by-the-lamb-014.html

 
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神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

2019-11-23 23:23:38 | 全能神の発表

  創世記3:20-21)さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

  ではこの3番目の箇所を見ていこう。ここではアダムがエバに与えた名前には意味があるということが語られている。この箇所は、創造された後アダムが自分の考えを持ち、たくさんのことを理解していたことを示すものだ。だがここでは彼が何をどのくらい理解していたかということを掘り下げていくのではない。この3番目箇所でわたしが取り上げたいテーマはそこではない。ではこの箇所で取り上げることとは何か。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」というところを見てみよう。もしわたしたちが今日この聖句の意味するところを掘り下げなければ、もしかしたらあなたがたは一生この聖句の意味するこころを本当には理解できないかもしれない。最初に、ヒントをあなたがたに与える。アダムとエバが住んでいるエデンの園を想像しよう。神が彼らのもとへやって来たが、彼らは裸だったので隠れる。神には彼らの姿が見えないため、彼らを呼ぶと、彼らは、「私たちはあなたにお会いすることができません。私たちは裸ですから。」と答えた。彼らは裸だったので、神に会おうとしなかったのである。このときヤーウェ神は彼らに何をしただろう。原文にはこう書いてある。「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」。今、神が何の素材で人間の服を作ったか知っているだろうか。神は人間の服を作るために動物の皮を使ったのだった。つまり、神が人間に作ったのは毛皮のコートだ。これが、神が人間のために最初に作った服だ。毛皮のコートというのは今日では高級品で、誰でも着ることのできるものではない。もし誰かに、「人間の祖先が最初に身に着けた衣類は何だったか。」と聞かれたなら、あなたは、「毛皮のコート」と答えればよい。「誰がその毛皮のコートを作ったのか。」と聞かれたなら、「神が作られた。」と答えればよい。これが重要な点なのだ。この服は神によって作られたものだった。これは注目に値することではないだろうか。今わたしが説明したことが、心に描けただろうか。せめて簡単な概要くらいはあるはずだろう。今日このことをあなたがたに伝えているのは、人間が最初に身に着けた服が何であったかを知らせるためではない。では、何が重要なのか。重要なのは毛皮のコートではなく、神が毛皮のコートを与えたことによって表された神の性質、神であるものと持っているものをどのように捉えるか、ということである。

 神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

  

  この「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」という部分では、アダムとエバと共にいた神は彼らにとってどのような役割をしたのだろうか。人間が2人しかいないこの世界で、神は自身をどのような役割を持つ者として現しただろうか。神としての役割であっただろうか。香港の兄弟姉妹よ、答えてくれないか。(親としての役割)。韓国の兄弟姉妹よ、神はこの時にどのような役割の者として現れたと思うか。(家族の長)。台湾の兄弟姉妹よ、どう思うか。(アダムとエバの家族の一人、つまり家族の一員としての役割)。あなたがたの中には、神はアダムとエバの家族の一員として現れると言う人もいれば、神は家族の長として現れると言う人もあり、また、親として現れると言う人もいる。これらの答えは全て適切だ。だが、わたしが言おうとしていることは何か。神はこの2人の人間を創り、2人を自身の友として扱った。2人の唯一の家族として、神は彼らの生活を見守り、基本的な必要において面倒を見たのである。ここでは、神はアダムとエバの親として現れている。その間、人は神がどれだけ高尚であるか見ることをせず、神の至高、その奥義、そして特に怒りや威厳を見ることをしなかった。人が見るのは神の謙遜、慈愛、人間への思い、神の責任及び配慮である。神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる。ここで現されている神の真実さや謙遜を通して、神の魅力を知るようになる。人の心の中の大きく、愛すべきであり、全能である神が小さく、醜い、吹けば飛ぶようなものになってしまっている。この聖句を読み、ストーリーを聞くとき、このようなことをした神をあなたは見下すだろうか。そういう人もいるかもしれない。しかしある人にとっては全く逆で、神を真実で愛すべきとして捉え、その真実さと愛すべき性質に心動かされるだろう。本当の神の側面をより知っていくことで、神の愛、神が自分の心の中にいてもらえることの重要性、そして神がどんなときも共にいてもらえることに、より深い理解を得るようになる。

 神は動物の毛皮を使ってアダムとエバのために着る物を作られる

 

  ここで、わたしたちの話を現在とつなげてみるべきだろう。もし神が最初に自身が創造した人間に対しこれらの様々な小さなこと、人間が全く考えたり予想したりしないようなものですら人間に対して行うことができるのなら、神は今日の人々に対してもそのようなことをすることは可能だろうか。「可能だ」と言う人もいるだろう。それはなぜだろうか。それは神の本質は偽物ではなく、神の魅力が偽物ではないからである。神の本質は真に存在しており、他者によって付け加えられるものではなく、また時間、場所、時代によって変わるものでも決してないからである。神の真実さや魅力は、人間が注目に値するとも重要とも思わないことをする中に、そして神がするとは思えないようなとても小さなことのなかに真に現されるのである。神は偉ぶってはいない。神の性質や本質のなかには、誇張、偽装、高ぶり、あるいは高慢さは存在しない。神は決して誇らず、かえって人間を愛し、配慮し、世話をしてくれ、忠実さと誠実さをもって自身が創造した人間を導く。人々がこのことをどれだけ感謝し、感じ、また理解できるかにかかわらず、神は間違いなくそうしている。神がそのような実質を持っていると知ることは、人々の神への愛に影響をもたらすだろうか。彼らの神への畏れに影響するだろうか。あなたが神の本当の側面を理解する時、あなたが神とさらに親しくなり、神の人間への愛と配慮にさらに深い感謝を持つことができるようになり、それと同時に神に心を捧げ、そして神に対しての疑いもいぶかりも持たなくなることをわたしは願っている。神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。

 

                                                                                                                                     『言葉は肉において現れる』より

 

その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その1)

2019-11-17 12:00:00 | 全能神の発表

  注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流することで、終わりの日の神の裁きの働きを理解するようになり、宗教的概念の愚かさについてはっきりと分かり始めました。著者は牧師によるコントロールを断ち切り、神の終わりの日の働きを受け入れ、神の前に戻りました。

  かつて、私は中国の三自教会の信者でした。その教会の集会に参加し始めた頃、牧師達は、よく、「兄弟姉妹の皆さん、聖書には次のような記載があります。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)私達はその信仰により罪が許されています。私達はイエスを信じているため、救われているのです。私達が他のものを信じていたら、救われてはいなかったでしょう…」と言っていました。私は牧師達のこれらの言葉をしっかりと胸に刻みこんでいました。そのため、主がやってきて、私を天の国に招き入れてくれるのを待ち望みながら、熱心に信仰し、積極的に集会に参加していました。その後、教会内で不正な行いが立て続けに起こり、そこの集会に出るのが嫌になってしまいました。まず、牧師達が派閥や党派に分かれ、それぞれの牧師がその派閥のトップとして君臨し、独自の“王国”築きました。そして、牧師達が口にする説教は、中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)に従う必要がありました。牧師が話す内容は牧師の裁量で決められており、誰もそれに反論しようとしませんでした。UFWDは、人々の感情を乱す恐れから、『ヨハネの黙示録』について話し合うことを認めていなかったため、牧師がそれについて説教することはありませんでした。牧師は寄付について頻繁に説教し、寄付をすればするほど、神からの祝福を受けるだろうと言っていました。そして、教会におけるこのような状況を目の当たりにし、「なぜ、教会はこんな風に変わってしまったのだろう。牧師達は主を信じていないのだろうか。牧師達はなぜ主を畏れていないのだろうか。牧師達はなぜ主の言葉に従わないのだろうか。」と考え、ひどく困惑してしまいました。この時から、牧師は神を真に信じておらず、神を信じているという名目で兄弟姉妹が頑張って稼いだお金をむしり取っていると感じ、三自教会の集会には参加したくなくなりました。

  1995年の後半、私はためらうことなくこの教会を去り、(信仰義認の信奉者の集まりである)家庭集会に参加しました。当初、私は、彼らの説教が中国政府による制約に影響を受けていないと感じました。彼らは『ヨハネの黙示録』をその説教に含めることさえしており、終わりの日や主の再来について話し合っていました。また、三自教会では説教されることがなかった他のトピックについても深く掘り下げており、三自教会の集会よりも、ここでの集会のほうが多くの喜びがあると感じ、そのことは私をとても幸せな気持ちにしました。しかし、しばらくすると、そこでも、協働者の中に、嫉妬深い人や、物事を乱そうとする人、派閥に分かれようとする人がいることが分かりました。主の求めに従い生きている兄弟姉妹は誰1人おらず、彼らには、かつてはあった愛がなくなっていました・・・この教会は三自教会と何ら変わるところがないと分かり、とてもがっかりしました。しかし、それと同時に、聖霊の働きがある教会を見つけるために、どこへ行けば良いかも分かりませんでした。より良い選択肢がないため、これらの信仰義認の信奉者達と一緒にいるより他ありませんでした。かつて、牧師達や説教者達は皆、口を揃えて「一度救われた者は永遠に救われる」「最後まで忍耐を実践し続け、神のために一生懸命に働き、主の道を守る限り、天の国に入ることができるだろう」と言っていたため、集会に参加することは止めずにいました。その頃、「他の人々がどうであろうと、私が主イエスへの信仰を持ち続け、主の道から離れない限り、主が再来した時に、私には天の国に引き上げられるチャンスがあるだろう。」と自分に言い聞かせていました。

  あっという間に、1997年の後半になっていました。神の国の福音は、私達がいたところまで届き、教会は混沌とした状態に陥っていました。李指導者は、「最近、“全能神”を広める集団が台頭しており、彼らはあらゆる所へ現れ、さまざまな宗派から子羊達を盗んでいます。彼らは、主イエスは既に再来し、神は新たな段階の働きをしていると伝えています。主イエスは私達のために十字架に磔になり、神は私達の罪を贖うために、そのいのちという対価を支払っています。私達は既に救われています。私達は最後まで忍耐強く待つ必要があるだけです。主が再来した時、私達は、確実に天の国に引き上げられるでしょう。ですから、私達は注意し、絶対に、全能神の人々を受け入れてはなりません。彼らを受け入れる人は誰であれ、教会から追放します!また、彼らが言うことに耳を傾けてもなりません。彼らが書いた本を読んでもなりません・・・」と私達に言いました。ほぼすべての集会で、あらゆるレベルの協働者はこの話題で持ちきりのようでした。彼らが話していることを聞いているうちに、全能神について、意図せずして反目するような考えが浮かぶようになりました。全能神の人々にさらわれ、天の国に入るチャンスを失うことがないよう、彼らから身を守り、大きな注意を払わなければならないような気がしました。

  しかし、1998年になったある日、予期せずして、全能の神の教会の人に偶然会い、幸運にも、初めて、全能神の道について話を聞くことができました。その日、私の姉から電話があり、彼女の家に招待されました。彼女は、故郷の妹、フーさんも招待していました。彼女は私を見ると、微笑んで、「よくいらっしゃいました。神を信じている私の遠い親戚も尋ねてきています。一緒に集会を開きましょう。」と言いました。私は喜んで、こう答えました。「はい。是非、彼女も呼んでください。」間もなくして、妹フーさんが親戚の人と共に戻ってきました。この妹は私達を見ると、熱心に私達に挨拶しました。それまで彼女には会ったことがありませんでしたが、何か親しいものを彼女に対して感じました。全員が座ると、その妹が話し始めました。彼女はこう言いました。「最近、教会の中には虚しさが広がっています。説教者は説教するための新しい話題が何もなく、集会の度、全能神に抵抗する方法について話す以外は、テープを聞いたり、歌を歌ったりするだけです。これが集会になってしまいました。協働者は互いに嫉妬し合い、口論するようになり、結託し、共謀しています。誰もが極めて独善的となり、他人の言うことに従うことを誰もが拒否しています。兄弟姉妹はネガティブで弱い状態になっており、信仰も愛もありません。多くの人が主の元を離れ、お金を稼ぐために世俗的な世界に戻っています。」心の奥底で、私も同じように感じていました。私は頷いて、「私が参加しているところも、そんな感じです。かつては、毎月の集会に20~30名の人々が出席していましたが、最近では、数名の長老が出席しているだけです。説教者でさえ、お金を稼ぐために世俗的な世界に行ってしまいました!集会には喜びはありません。」と、彼女に言いました。妹は頷いて、「このような状況は、特定の教会だけのものではありません。これは、宗教界を通して広まっている現象です。これは、聖霊の働きをもはや教会内で見つけることができず、不正な行いが発生し続けていることを示しています。これは主の再来の印です。まるで、寺院が家畜を売り、お金のやり取りをする場所になってしまった律法の時代の終わりのようです。これは、神が寺院で働きを行なうことを止めてしまったためです。その代わりに、寺院の外で新たな段階の働きをするために、神は主イエスとして受肉しました。」と、言いました。私は熱心に耳を傾け、何度も頷きました。妹は、続けて、「お姉さん。ルカによる福音書17:24-26には、次のように書いてあります。『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。』(ルカによる福音書17:24-26)聖書のこの言葉を、あなたはどのように解釈しますか。」と言いました。しばらくこれについて考えてから、ぎこちなく微笑み、「妹よ、聖書に書いてあるこれらの言葉は、神の到来について話しているのではないでしょうか。」と言いました。妹は、「聖書のこれらの言葉は主の到来について話しています。しかし、これは、あの時代にやって来た主イエスについて話しているのではありません。むしろ、終わりの日の主の到来について言及しています。聖書には、『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。』と書いてあり、その“そして”という言葉は、主の再来を裏付けるものです。お姉さん。現在、教会の信者の信仰は冷めてきて、彼らはネガティブで弱い状態になっています。そのため、神は新たな段階の働きを行なうために、再び受肉したのです。神の働きは前進しており、神の新たな働きに従わない人は誰であろうと、聖霊の働きを失うことになります…」と答えました。主イエスが既に再来したと妹が言うのを聞き、直ちに、妹は全能神の人だという勘が働き、その瞬間に、心が沈みました。この教会を排除している指導者達の言葉、「イエスを信じることは救われることだ。一度救われた者は永遠に救われる!…全能神の人を受け入れてはならない!…」が私の頭をぐるぐると回り始め、私の笑顔も消えてなくなりました。指導者達の言葉について考える内、急いで家に帰りたくなりました。しかし、この考えが頭をよぎった時、主は次の歌の一節を思い出させることで私に啓示を与えてくれました。「主は私達の避難所です。問題がある時は、神の元に隠れなさい。主と一緒であれば、何を畏れる必要があるでしょう。」その通りです!主が私の側にいるなら、私は何を畏れる必要があるでしょう。私が畏れていることは神から来たものではありません。サタンから来たものです。この時、妹が、「質問があれば、皆に相談してください。神の言葉が私達の持つあらゆる問題や困難を解決します。」と言いました。妹がこう言うのを聞き、「私の質問に途方に暮れませんように!今日、私は、多くの“善良な子羊”を盗むことに成功している全能神で、実際何を教えているかについて是非聞きたい。」と思いました。

  そう考えて、次のように尋ねました。「私達の指導者は、『主イエスは私達のために十字架に磔になり、神は私達の罪を贖うために、そのいのちという対価を支払い、それゆえに私達は救われた』と常々言っています。聖書にも次のように記載されています。『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)私達は一度救われたので、永遠に救われるのです。私達が最後まで忍耐を実践し続け、神の再来を待つ限り、私達は必ず、天の国に引き上げられるでしょう。これは、主が私達にした約束です。ですから、私達は神が行なっている新しい働きを受け入れる必要はありません。」

  私がこう言うのを聞いて、妹は微笑んで、「多くの信者が主イエスは彼らのために十字架に磔になり、いのちという対価を払ったので、彼らの罪は贖われ、彼らは救われたと考えています。彼らは、一度救われた者は永遠に救われ、彼らがすべきことは最後まで忍耐を実践し続け、彼らが確実に天の国に引き上げられることになる主の再来を待てば良いだけで、神が行なう新しい働きを受け入れる必要はないと考えています。しかし、このような考え方は本当に正しいでしょうか。これは、本当に神の心に適ったものでしょうか。実際、『一度救われた者は永遠に救われる』や、『神が再来する時には、私達は天の国に引き上げられる』という考えは、人の観念であり、想像したものです。これは、神の言葉に即していません。主イエスは『その信仰により救われたものは、天の国に入ることができるだろう』とは一度も言っていません。むしろ、『天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイによる福音書7:21)と言っています。『救われること』と『天にいる父の心に即した行動をする』は同じことではありません。『あなたの信仰故に救われる』と私達が話す時、この『救われる』という言葉は、あなたの罪が許されたことを意味します。つまり、もし誰かが法律に従い死刑にされるところを、彼らが主の前に来て悔い改め、神の愛を受け、罪に対して主の許しを得た場合、この人は有罪判決を逃れ、法律に従い死刑に処されることはもはやないということです。これが『救われる』の本当の意味です。しかし、『救われる』ということは、人々が罪から逃れ、清められたことを意味しません。私達は全員、経験により、これが本物の真理であることを知っています。私達は長い間、主を信じ、主に対して自分の罪を認め悔い改め、私達の罪が許される喜びと安全な気持ちを享受してきましたが、未だに、意図せずして罪を犯すことがよくあり、私達は罪に囚われています。これは事実です。たとえば、私達の傲慢さ、狡猾さ、身勝手さ、貪欲さ、邪悪さ、その他の堕落した性質が未だに存在し続けています。私達は、未だに、世俗的なトレンドや富や名声、そして肉の悦びを追い求めています。私達は罪深い悦びに執着し、自分達を解放することができずにいます。個人的な利権を守るために、私達は頻繁に嘘をつき、他者を騙すこともできます。従って、『救われる』と言うことは、完全な救済を受けたことを意味しません。これは事実です。神は次のように言っています。『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』(ペテロの第一の手紙1:16)神は聖なる存在ですが、神は、頻繁に罪を犯し、神に抵抗する人達を天の国に入れることを許すでしょうか。もしあなたが、信仰により救われた人々は天の国に入ることができると信じているならば、主イエスは、なぜ、次の言葉を言ったのでしょうか。『わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイによる福音書7:21-23)なぜ、主が再来した時、子羊からヤギを、有毒な雑草から麦を分けると言っているのでしょうか。私達は、『信仰により救われた人々は天の国に入ることができる!』と言うのは完全に無効であると信じています。これは、主イエスの言葉から完全に離れています!これらは、主の言葉に背く言葉です!ですから、もし、私達が主の言葉を受け入れず、これを信じず、むしろ、牧師や長老達が伝えている間違った考えに固執するなら、もし、私達が神への信仰に関して、自分自身の観念や想像に頼るならば、私達は神の求めるものを達成することができず、天の国に引き上げられることはないでしょう。」と言いました。

私は妹の言葉についてじっくり考え、彼女の言っていることは尤もだと感じました。そのため、そこで黙って、彼女の話に耳を傾けていました…

 

その日、空は特に澄んで、晴れ上がっていました(その3)

2019-11-15 12:00:00 | 全能神の発表

  家に着くと、妹の話を反芻し、「あの妹は、今日、とても素晴らしかった。彼女は牧師が言っていたような人物では全くなかった。また、彼女が言っていたことは本当に真実で、すべて聖書に書いてある。私がかつて『一度救われた者は永遠に救われる』と信じていたことは、まったく根拠のないことだった。」と考えました。神を信じてきた長い年月を振り返り、私は罪を犯しては、その罪を認める環境の中に常に身をおいてきたことに気が付きました。しかし、その間中、これを解決することはできず、1人で多くの苦しみを味わってきました。これは、本当に、神の称賛を得る道ではありません。私が救済を得て、天の国に入りたければ、主イエスの再来により行われている人々を裁き、清めるすべての働きを受け入れる必要が本当にあるようです。それでは、終わりの日の神の裁きの働きとは一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。・・・これらのことを考えながら、私は聖書を捲っているうち、主イエスの次の聖句を見つけました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)さらに、聖書には次のようにも書いてあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。…」(ペテロの第一の手紙4:17)「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネの黙示録2:29)これを読んだ時、私はまるで、夢からようやく覚めたように感じました。主イエスは、随分前に、終わりの日に、神がより多くの真理を表現し、新たなる段階の働きを行なうことを予言していたことが分かりました。これこそは、人を裁き、清める働きを行なうために全能の神が到来したことを意味しないでしょうか。あぁ!今日、牧師が入ってきて、私の邪魔をしなければ、全能の神の道についてもっと慎重に聞くことができていたでしょう。かつて、私は常に牧師や長老の言葉に耳を傾けていました、全能の神の終わりの日の働きについて聞こうとしたことは一切ありませんでした。私は、ただ、牧師や長老が話していることを聞いていただけでした。これが、私の主への信仰における最大の失敗であったことに今日初めて気が付きました。主を信じる人達は、神の足跡を積極的に求めなければなりません。このようにすることによってのみ、私達は神の心に従えるのです。今日、牧師の行動が神の心に従っていないことを私は目撃しました。もはや、盲目的に彼らが言うことを聞いているだけにはいきません。全能の神の道を求め、これを調べる必要があります。

  次の日、全能の神の福音を伝道した妹を探し、交流の続きをするために、まず最初に妹フーさんの家を尋ねることにしました。私が家を出る前に、妹フーさんがあの妹を私の家に連れてきてくれるなど、誰が想像したでしょう。その時、主が彼女達にそうするように導いてくださったのだと感じたことを覚えています。その妹は家に入ると、まず、心配そうに、昨日、牧師から嫌がらせをされなかったかを尋ねました。私ははっきりと、「いいえ。昨日の交流の後、私はここに戻り、すべてのことを慎重に思い返してみました。そして、主イエスを信じているだけでは私達は本当に清められることはできず、私達の穢や邪悪さはまだ存在しており、それにより、神の救済を得ることはできないということに気が付きました。さらに、神の終わりの日の裁きの働きをするために、主が再来することを本当に予言していた聖書の一節も読みました。今、私が最も知りたいことは、次のことです。全能の神が終わりの日に行なう裁きの働きとは、一体何でしょうか。全能の神の裁きの働きは、どのように人を清め、変えるのでしょうか。」と言いました。

  妹は嬉しそうに、「神に感謝します!あなたの質問は、本当にとても重要なものです。なぜなら、これは、私達の神への信仰が、どのように私達に救済を得させ、天の国に入らせるようにするかという重要な問題に関するものだからです。まず、全能の神の言葉に何と書いてあるかを読んでみましょう。全能の神は次のように言っています。『神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)『「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。』(『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より)

  神の言葉を読んだ後、妹は話し続けました。「神の言葉を通して、神の終わりの日の裁きの働きでは、真理の多くの側面を使い、人を暴き、人を詳しく調べること、そして、この裁きの働きは、人による背きに容赦しない神の義と威厳ある性質により実行されることを理解しました。神は言葉で人の堕落の本質と真理を明らかにし、神に反抗し、神を裏切るサタンのような本性を裁きます。神の言葉の裁きと刑罰を経験することで、神の働きに関してあらゆる観念や想像を持つことや、神の働きを私達が吟味し、私達の観念を真理とみなし、私達が好き勝手に神を裁き、神を非難し、神に抵抗することなど、さまざまな種類の私達の堕落が清められます。私達は神を信じていますが、実際には、信じていない人達と全く変わるところはありません。いずれも、名声と財を求め、そのためにあらゆる対価を支払おうとしています。しかし、誰1人として、神を満足させるために生きていません。実際には、神の心に従うことによってのみ、人は天の国に入ることができると神が言っているのに、主を信じている限り私達は救われるとか、主が到来したら、私達は天の国に引き上げられるだろうなど、私達は神と相容れないものの見方をたくさんしています。神の裁きと刑罰を通して、これらの堕落した性質や、誤った考え方、サタンの人生ルールが清められ、変革を遂げます。そして、私達はより真に、神に従うようになります。同時に、神の裁きと刑罰により、私達は神の義なる性質が人による背きに容赦しないことを認識するようになり、神の心を理解し、神に畏敬の念を抱き、神の称賛を得るためにどのように行動すべきかを知り、適切に本分を尽くすことができるようになります。神の言葉を経験・実践することにより、私達はより真理を理解するようになります。たとえば、私達は神への信仰を持つということはどういうことであるかを知るようになります。真に救済を得るとはどういうことであるかを知るようになります。神に従い、神を愛するとはどういうことであるかを知るようになります。神の心に従うとはどういうことであるかを知るようになります。神の裁きを通して、真理に入ると、私達の堕落した性質がすべて、さまざまな度合いで変化していき、私達のいのちへの見方や価値観も変わっていきます。これこそ、神が私達に行なっている裁きと刑罰の働きです。これを、神の愛すべき救済と呼ぶこともできます。ですから、終わりの日のキリスト/全能の神の席の前で裁きを受けることによってのみ、私達は真理を受け取ることができます。その時初めて、罪から解放され、清められ、救済を得ることができるでしょう。お姉さん、この交流を受け入れることはできますか。」

  神の言葉を読み、妹の交流を通して、私は神の働きと神の心を理解するようになりました。そして、深く感動しながら頷き、「神のお導きにより、全能の神の言葉を聞き、あなたの交流を通して、終わりの日に、神はその言葉の真理を使い、人に対して裁きと刑罰の働きを行なうことを理解するようになりました。私のこれまでの追求はとても曖昧なもので、観念的なものでした。しかし、今、終わりの日の神の裁きと刑罰の働きを受けることによってのみ、人は神に清められ、救済を得ることができ、天の国に入ることができるということを理解しています。全能の神は、主イエスの再来です!私の堕落した性質がいつか変わるように、喜んで、終わりの日の全能の神の働きを受け入れ、神の裁きと刑罰を受け入れます。」と言いました。私がこう言うのを聞いて、妹は幸せそうに微笑み、神に引き続き感謝を捧げました。

  全能の神の言葉は私が心に抱いていた観念から私を解放し、私の堕落した性質をどのように捨て、どのように清めるかについて道を示してくれました。私は、救済を得るために続く明確な道があると感じ、まるで解放されたかのように、私の霊が明るく安定したのを感じました。窓の外を見ると、その日の空は特別に澄んで晴れ上がっていました。私は地面にペタンと座り、神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ。人生の中で神に出会えるようにすることで私を祝福してくださったことに感謝します!あぁ、神よ。私は神を信じています。そして神の救済を得られるよう、神の到来を待ち望んでいます。しかし、私は盲目で無知です。私は牧師や長老が撒き散らしていた噂を信じ、私の観念や想像に固執し、もう少しで永遠の救済を失うところでした!あぁ、神よ。私はとても無知で愚かです!私は悔い改めるつもりです。救済を得るというこの極めて貴重なチャンスを大切にします。そして、神の前にまだたどり着いていない兄弟姉妹が救済を得られるよう、彼らを神の前に連れてくるつもりです!アーメン!」

 

神の働きは人間が想像するほど簡単か

2019-11-14 12:00:00 | 全能神の発表

  古い時代は過ぎ去り、新しい時代が到来した。年々歳々、来る日も来る日も神は多くの働きを行ってきた。神はこの世にやって来て、またこの世から去っていった。そのような周期が幾世代にもわたって続いてきた。今日も、神は以前と同じように、神は為さねばならぬ働き、まだ完了していない働きを続行している。何故なら今日まで神はまだ安息に入っていないからである。天地創造の時から今日まで、神は多くの働きを成し遂げてきたが、あなたは、神が今日行なう働きは以前よりずっと多く、その規模もずっと壮大であることを知っていたか。だからわたしは、神は人々の間で偉大な業を成し遂げたと言うのである。神の働きは人にとっても、神にとっても、すべてが非常に重要である。神の働きの一つひとつは人に関連するものだからである。

  神の働きは見ることも感じることもできず、ましてや世間の人が見ることはできないのに、いったいどうしてそれが偉大なものだと言えるのだろうか。どのようなことが偉大だとみなされるのだろうか。確かに神の働きはすべて偉大であるということは誰にも否定できない。それでは、何故今日神が行う働きが偉大だとわたしは言うのだろうか。神は偉大なる業を成し遂げたと言う時、そこには人間がまだ理解していない多くの奥義が関わっているということに疑いの余地はない。今からそれらのことについて話そう。

  イエスは、イエスの存在を受け入れられない時代に飼い葉おけの中に生まれたが、それでもこの世はイエスの行く手を遮ることができず、イエスは神の配慮の下で三十三年間人々の間で暮らした。その数十年の生涯において、イエスはこの世の辛酸を嘗め、地上でみじめな生活を味わった。イエスは全人類を贖うために十字架につくという重い任務を引き受けた。イエスはサタンの支配のもとで生きていたすべての罪人たちを贖い戻し、最終的には、イエスの復活した体は安息の場に戻った。今や、神の新しい働きが始まったが、それはまた新しい時代の始まりでもある。神は、新しい救いの働きを始めるために、贖われた人々を神の家に連れて来る。今回、救いの働きは過去の時代よりも徹底している。人の中で働き、自ら人を変化させる聖霊によってではなく、人々の間に現れるイエスの肉体によってでもなく、ましてや、その他のやり方で行われることなどありえない。むしろ、その働きは受肉した神自身によって為され、導かれる。これは人を新しい働きに導き入れるために行われる。これは偉大なことではないか。神はこの働きを一部の人々や預言を通してではなく、神自身によって行う。一部の人は、これは偉大なことではなく、人に大いなる喜びをもたらすことはできないと言うかもしれない。しかしながら、わたしはあなたに告げる。神の働きはただこれだけのものではなく、何かもっと偉大で、もっと多くのものであると。

  今回は、神は霊体ではなく、まったく普通の体で働きを行うために来る。それは神の二度目の受肉の体というだけではなく、神がそれをまとって戻ってくる体でもある。それはごく普通の肉体である。この体の中に、他の人々と異なるものは何も見受けられないが、あなたは、今までに聞いたこともない真理をこの人から受け取ることができる。この取るに足らない肉体は、神から来る真理の言葉のすべてを具現化したものであり、終わりの日の神の働きを引き受けるもの、また人が知るようになる神の全性質の表現である。あなたは天の神を見ることを大いに望んでいたではないか。あなたは天の神を理解することを切に願ったではないか。あなたは人類の終着点を見ることを大いに欲していたではないか。この人は、今まで誰ひとりとしてあなたに語ることのできなかった秘密の全てをあなたに語るだろう。また、あなたが理解していない真理についてさえ語るだろう。この人は、あなたにとっての神の国への入り口の門であり、新しい時代への導き手である。このような普通の肉が多くの計り知れない奥義を握っているのである。この人の行いはあなたには測り知れないかもしれないが、その人が行うすべての働きの目標は、この人が人々が思うような単なる肉ではないことを理解するのに充分である。なぜならこの人は、終わりの日に人類に神が示す配慮及び神の意志を表しているからである。あなたは天地を揺るがすような神の語る言葉を聞くことはできず、燃え上がる炎のようなその目を見ることもできず、また、鉄の杖のような神の懲らしめを感じることもできないが、その言葉から神の怒りを聞き、神が人類に示す憐れみを知ることができる。あなたは神の義なる性質と神の知恵を見ることができ、更に神が全人類に対して持つ配慮をはっきり理解することができる。終わりの日の神の働きは、天の神が地上で人々の間で生きていることを人に見せることであり、また人が神を知り、神に従い、神を畏敬し、神を愛することができるようにすることである。これが神が再び肉に戻った理由である。今日人が見るものは人と同じ姿の神、一つの鼻と二つの目を持つ神、目立たない神であるが、最終的には神はあなた方に次のことを示すだろう。この人の存在がなければ、天と地は膨大な変化にさらされ、この人の存在がなければ、天は薄暗くなり、地上は混沌に陥り、全人類は飢饉と疫病の中で暮らすことになるということを。終わりの日における受肉の神による救いがなければ、神はずっと前に全人類を地獄で滅ぼし尽くしていたはずであるということを、神はあなた方に示すであろう。またこの肉の存在がなければ、あなた方は永遠にずっと罪人のかしらと死体のままであろうということを神は示すであろう。この肉の存在がなければ全人類は避けることのできない災難に直面し、終わりの日の神の人類への一層厳しい懲罰から逃れることはできないことをあなた方は知るべきである。この普通の肉の誕生がなければ、どのように求めようとも、あなた方にはみな生も死も到来しない状態に陥るだろう。この肉の存在がなければ、今日、あなた方は真理を受け取り神の玉座の前に来ることもできないだろう。それどころか、あなた方の深い罪ゆえに罰せられるだろう。あなた方は知っているか。神の肉への再来がなければ、誰にも救いの機会はないのである。また、この肉が来なければ、神はずっと以前に古い時代を終わらせていたはずである。これでも、あなた方は神の二度目の受肉をなおも拒むことができるのか。あなた方は、この普通の人から大いに利益を得ることができるのに、なぜすぐにこの人を受け入れないのか。

  神の働きはあなたには理解できないことである。あなたの決定が正しいかどうか理解することも、神の働きが成功するかどうか知ることもできないのなら、この普通の人があなたにとって大いに助けとなるかどうか、また、神が偉大な働きを行ったかどうかを運をためしてでもいいから見てみようとしないのか。しかし、わたしはあなたに告げなければならない。ノアの時代、人々は神が見るに堪えないほど飲んだり、食べたり、勝手気ままに結婚したり結婚させたりしていたので、神は大洪水を引き起こして人類を滅ぼし、ただノアの家族八人とあらゆる種類の鳥と獣だけを残した。しかしながら、終わりの日に神に守られるのは、最後まで神に忠誠を尽くしたすべての人々である。どちらも神が見るに耐えないほどのひどい堕落の時代であり、どちらの時代の人類も主である神を否定するほどひどく堕落していたが、ノアの時代の人はすべて神に滅ぼされた。どちらの時代の人類も神をひどく悲しませたが、神は終わりの日の人々には今日に至るまで忍耐深い。それは何故なのか。あなた方はこのことを一度も考えたことがなかったのか。本当にそれを知らないなら、わたしがあなた方に話そう。終わりの日に神が人々を恵み深く取り扱うことができる理由は、彼らがノアの時代の人々ほど堕落していないからでも、彼らが神に悔い改めを示したからでもない。まして、テクノロジーが進歩した終わりの日に人間を滅ぼすことに神が耐えられないからでもない。むしろ、神には終わりの日に一群の人々に対して行う働きがあり、これは受肉の神自身によってなされるからである。その上、神はこの一群の一部を救いの対象、神の経営(救いの)計画の実として選び、そのような人々をともなって次の時代へと連れてゆくのである。従って、何がなんでも、神によって支払われたこの全ての代価は、終わりの日における神の受肉の働きのための準備であったのだ。今日あなた方が持っているすべてはこの肉のおかげである。神が肉の中で生きている故に、あなた方にも生きる機会がある。このすべての恩恵はこの普通の人の故に獲得されたのである。それだけではない。最後にはすべての国々はこの普通の人を礼拝し、この取るに足りない人に感謝し、従うだろう。全ての人類を救い、神と人の間の対立を和らげ、神と人を近づけ、神と人の考えをつなげるための真理、いのち、道をもたらしたのは、この人だからである。一層大きな栄光を神にもたらしたのもこの人である。このような普通の人は、あなたの信頼や敬愛を受けるに値しないだろうか。このような普通の肉はキリストと呼ばれるに相応しくはないだろうか。このような普通の人が人々の間で神の表出となれないことなどあろうか。人類が災難を免れる手助けをするこのような人は、あなた方に愛され、あなた方が抱きしめる価値がないなどということがあろうか。あなた方がこの人の口から発せられる真理を拒み、あなた方の間に彼が存在することを忌み嫌うならば、あなた方の運命はどうなるであろうか。

  終わりの日の神の働きのすべてはこの普通の人を通して行われる。この人はすべてのものをあなたに授け、その上、あなたに関わるすべてのことを決定することができる。このような人が、あなた方が思っているように、言及する価値もないほどとるに足りないということがあろうか。この人の真理はあなた方を完全に納得させるのに十分ではないのか。その行いによる証しは、あなた方を完全に確信させるには充分でないというのか。あるいは、この人があなた方を導き入れる道は、あなた方がついて行く価値がないということか。あなた方がこの人に反感を抱き、見捨て、避ける理由は何であろうか。真理を表すのはこの人であり、真理を供給するのはこの人であり、あなた方に進むべき道があるようにするのもこの人である。あなた方はまだ、これらの真理の内に神の働きの足跡を見つけることができないなどということがあり得ようか。イエスの働きがなければ、人類は十字架から降りることはできなかったであろうが、今日の受肉がなければ、十字架から降りる人々は神に称賛されることは決してないし、新しい時代に入ることもできない。この普通の人の到来がなければ、あなた方には神のほんとうの顔を見る機会も資格も全くない。何故ならあなた方は皆ずっと前に滅ぼされているはずの人々だからである。神の二度目の受肉の到来の故に、神はあなた方を赦し、あなた方に憐れみを示した。いずれにしても、最後にわたしがあなた方に言い残さなければならない言葉はやはりこうである。神の受肉であるこの普通の人は、あなた方にとって極めて重要である。これこそが、神が人々の間で成し遂げた偉大なることである。

 

七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2019-11-13 12:00:00 | 全能神の発表

  わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの心は星のように散らばる人々の中に現れ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

  誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分を取り上げ、それをまずカナンの地で現す。そうすると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝き、全地をその光のところに来させる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが出発したのはイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

  宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。

 

人類経営の目的

2019-11-12 12:17:26 | 全能神の発表

  もしも人々が本当に完全に、神の人類経営(救い)の目的と共に、人間の正しい道を理解することができるなら、人々は個人の将来や終着点を宝として心に握りしめることはないだろう。もはや豚や犬よりも悪い両親に仕えたいとも願わないだろう。人の将来と終着点とは、まさにペテロの「親」と呼ばれるものの今日版なのではないのか。それはまさに人自身の肉と血だ。肉の将来である終着点は、神を生きていながらに見ることなのか、あるいは死後に魂が神に会うことなのか。肉は明日、患難の中にあるように巨大な炉の中で尽きるのか、あるいは燃え盛る火に入れられることになるのか。人の肉がはたして不幸や苦しみに耐えられるのかに関するこの類の問いが、今この流れの中にあって、脳があり正常な思考をしている人々が最も心配している問いなのではないのか。(ここで、苦しみを耐えるとは祝福を受け取ることであり、苦しみとは、将来の試練は人の終着点にとって有益であるという意味である。不幸とは堅く立つことができないこと、あるいは騙されることである。あるいは、人が災難の只中で不幸な危機に見舞われて、彼らの人生を保つことが困難で、そして魂の適切な終着点がないという意味である。)人には健全な理性が備わっているが、おそらくその考えることは、彼らの理性に備わっているべきものと完全には調和していない。これは人々がむしろ無知で、物事に盲目に従うからである。人々は自分がどのように成長すべきかを完全に把握しているべきであるし、特に患難の時に(つまり、炉による精錬の間)どう成長するべきなのか、そして火の試練の際、何を備えているべきか整理しておくべきである。豚や犬のような、そして蟻や虫よりも悪い両親(肉を意味する)に常に仕えることはやめなさい。それについて苦しみもだえ、一生懸命に考え、頭を悩ませる意味は何なのか。肉はあなたに属しておらず、神の手の中にある。神はあなたを支配しているだけでなく、サタンに命令をする方だ。(これが元々意味するのは、肉はサタンに属していたということである。サタンも神の手中にあるので、こういう表現しかできないのだ。そういう表現の方が説得力があるからである。つまり、そう表現することで、人が完全にサタンの支配下にあるのではなく、神の手の中にあることを示唆する。)あなたがたは肉の苦しみの中に生きてはいるが、肉はあなたがたに属しているのだろうか。それはあなたがたの制御下にあるのか。どうして肉について頭を悩ませる必要があるだろう。どうしてとうの昔に有罪とされ呪われ、汚れた霊によって汚された、あなたがたの堕落した肉のために執拗に神に嘆願する必要があるだろうか。どうしてサタンの仲間を心から離さずにいる必要があるのか。肉があなたがたの現実の将来や素晴らしい希望、そしてあなたがたのいのちの真の終着点を台無しにすることを心配しないのだろうか。

  今日の道は歩むのに容易ではない。通るのが難しいとも言えるし、これまでの時代の中でもきわめて稀だと言える。しかし、人の肉だけでその人を瞬く間に破壊できるなどとは誰が考えただろう。今日の働きとは確かに、春の雨のごとく尊く、人に対する神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、もし人が今日の神の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していないのなら、その尊さや価値の高さをどのように語ることができようか。肉は人間たち自身には属さないので、その終着点が実際にどこなのか、誰もはっきりと見ることはできない。しかしながら、あなたがたは創造主が、被造物である人類を元の地位へと戻し、創造の時からの元の姿へと回復させるのだということをよく知っておくべきだ。神は人に自身が吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して創造の主に返すのである。主は人類をすっかり変えて、再び新しくする。そして人から、元々人ではなく神の所有物であった遺産のすべてを取り戻す。神はもう二度とそれを人類には渡さない。その中の何も元々人類に属していたものはないのだから。主はそのすべてを取り戻す。──これは不当な強奪ではない。むしろ天と地を元の状態へと回復し、人を変え、新しくするためのものである。これは人々が想像するような、肉の刑罰の後にある取り戻しでは恐らくないものの、これが人にとっての理にかなった終着点である。神が欲しいのは、滅んだ後の肉の残骸ではなく、初めに神に属していた人の中にあった元来の要素だ。よって、神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶させたりはしない。人の肉は人に属する私有財産ではないからだ。むしろそれは、人類を経営する神の付属物だ。どうして神が、自身が「楽しむ」ために人の肉を絶滅させたりなどできようか。この時点で、あなたがたは本当に自分の、たった1セントの価値もないような肉のすべてを放棄しているのか。もしあなたがたが、終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(たった30%、つまり終わりの日に神が行われる言葉の働きを理解することと、今日の聖霊の働きを理解することだ)、あなたがたは今日しているように、もう何年も腐敗状態の自分の肉に「仕え」、「孝行」し続けることはないだろう。あなたがたは人類が今、かつてないほどの状態に進歩し、これからは歴史の車輪のように前進し続けることはもうないのだということを完全に理解するべきである。あなたがたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、それでどうやって、神が今日まで継続を可能にしてきた歴史の車輪を逆回転させられるというのか。それでどうやって、沈黙しているような終末期の時計の針を再び動かし、時を刻むようにできるというのか。そんなものでどうして深い霧に覆われたような世界を変えられるというのか。あなたがたの肉は山や川をよみがえらせることができるのか。あなたがたのほとんど機能をもたないその肉は、本当にあなたがたが憧れてきたような人類の世界を回復させられるのか。あなたがたは本当に、子孫が「人間」になれるように教育できるのか。さあ、わかっただろうか。あなたがたの肉は厳密に何に属しているのか。人に働き、完全な者とし、そして変えるにあたって、神の元々の意図とはあなたがたに美しい故国を与えることや、人の肉に安息をもたらすことではなかった。そうではなく、それは神の栄光と神の証しとのためであり、人が将来をより楽しむことができるため、そしてすぐに安息を喜べるようになるためであった。それでもなお、それはあなたがたの肉のためではない。人は神の経営の資産であり、人の肉は単なる付属物にすぎない。(人は霊と体の両方をもった物質であるが、肉はただ腐敗しやすい部品にすぎない。これは、肉が経営計画の一道具であることを意味する。)あなたがたは、神が人を完全な者とし、完成させ、そして獲得することは、人の肉への剣と強打以外はもたらさなかったこと、終わりのない苦しみ、燃える火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらしてきたことを知るべきだ。これが内幕であり、人類経営の働きの真実である。しかし、これらすべての目的は人の肉に対するもので、敵意の槍の穂先はすべて、無慈悲に人の肉に向けられている(人は、元々は潔白だからだ)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。これは、神の働きがただ人類のためだけではなく、計画全体と、神が人類を創った時の元々の意志の実現のためだからである。よって人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練なのだが、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は非常に少ないかあるいはまったく無く、神との美しい夕べを過ごす肉にある幸せな瞬間を楽しむなどことさらない。肉は汚れているので、人の肉が見たり味わったりすることは、人が喜ばない神の刑罰以外の何者でもなく、まるで正常な理性を失っているかのようだ。これは神が、人の好まない自身の義なる性質を現すからであり、人の罪を大目に見ないからであり、そして敵をひどく嫌悪するからである。神は率直に、あらゆる方法を通して自身の性質をみな明らかにし、それによってサタンとの6千年の戦い、すなわちすべての人類の救いの働きと古きサタンの破壊を完結するのだ。

 

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

2019-08-18 01:00:00 | 全能神の発表

  数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

  「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人をののしり、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

  終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。


全能神の発表「神の経営の中でのみ人は救われる」抜粋8

2019-03-22 19:58:20 | 全能神の発表

全能神の発表「神の経営の中でのみ人は救われる」抜粋8

 その後、神は人類をサタンに渡し、人類はサタンの領域で生きた。そして、これが徐々に神の最初の時代の働きへと至った。律法の時代の物語である…。数千年に及ぶ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、軽く考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そして、律法を守っていながら、同時に偶像をも拝み、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの守りなしに、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇っていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った…。