全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある

2020-12-31 20:29:06 | 全能神教会いのちの経験の讃美歌

 すべての人々は地上におけるわたしの働きの目的、つまり、わたしが最終的に何を得ようと望んでいるかと、この働きが完成するまでに、その中でどの程度達成しなければならないかを理解する必要がある。今日までわたしとともに歩みながら、わたしの働きが一体何であるのかを理解していないならば、人々はむだにわたしと歩んできたのではないのか。わたしに従う人々は、わたしの旨を知るべきである。わたしは地上において何千年も働いてきたのであり、今日に至るまでこのように働き続けている。わたしの働きには多くの項目が含まれているものの、その目的は変わらないままである。例えば、わたしが人間に対する裁きと刑罰で満ちていても、わたしの行なうことはやはり人間を救うためであり、また人が完全にされたあと、わたしの福音をよりよく広め、あらゆる異邦人の国においてわたしの働きをさらに展開するためである。ゆえに、多くの人がずっと以前から失望に沈んでいる今日でも、わたしはいまだに働きを続けており、人を裁いて罰するために行なうべき働きを続けているのである。人はわたしの言うことにうんざりしており、わたしの働きに関わりたくないと思っているが、それにもかかわらず、わたしはいまだに自分の務めを果たしている。なぜなら、わたしの働きの目的は変わらないままであり、わたしの本来の計画は打ち破られることがないからである。わたしの裁きが果たす役割は、人間がわたしによりよく従えるようにすることであり、わたしの刑罰が果たす役割は、人間がより効果的に変化できるようにすることである。わたしが行なうことはわたしの経営(救い)のためであるものの、わたしはこれまでに人間に有益でないことを行なったことはない。それは、イスラエルの外にわたしが足場をもてるよう、イスラエルの外のあらゆる民族をイスラエル人と同じくらい従順にし、彼らを真の人間にしたいからである。これがわたしの経営であり、わたしが異邦人の諸国のあいだで成し遂げている働きである。今でさえ、多くの人が依然わたしの経営を理解していない。そのようなことに関心がなく、自分自身の将来と終着点だけを気にかけているからである。わたしが何を言おうと、人々はわたしの行なう働きに無関心なままで、その代わりに将来における自分の終着点だけに集中している。このままであれば、どうしてわたしの働きが拡大できるだろうか。どうしてわたしの福音が世界中に広まるだろうか。わたしの働きが広まるとき、わたしはあなたがたを散り散りにし、ちょうどヤーウェがイスラエルの諸部族の一つひとつを撃ったようにあなたがたを撃つことを、あなたがたは知るべきである。これはすべて、地球のいたるところにわたしの福音が広まり、異邦人の諸国のもとに届き、わたしの名が大人にも子供にも賛美され、わたしの聖なる名があらゆる国々、あらゆる民族の人々の口から褒め称えられるようにするためである。それは、この最後の時代において、わたしの名が異邦人の民族のあいだで賛美され、わたしの業が異邦人たちに見られ、わたしの業ゆえに彼らがわたしを全能者と呼び、わたしの言葉がまもなく実現されるようにするためである。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含むあらゆる異邦人の民族の神であることを、わたしはすべての人々に知らしめる。わたしがすべての被造物の神であることを、わたしはあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日に向けた働きの計画の目的、そして終わりの日に成就される唯一の働きである。

 わたしが何千年にもわたり経営してきた働きは、終わりの日においてのみ人間に完全に明らかにされる。今初めて、わたしは自分の経営の奥義の全貌を人間に明かし、人間はわたしの働きの目的を知り、そのうえわたしの奥義のすべてを理解したのである。わたしはすでに、人間が関心をもつ終着点についてすべてのことを人間に告げた。五千九百年以上隠されていたわたしの奥義のすべてを、すでに人間のために明らかにしたのである。ヤーウェとは誰か。メシアとは誰か。イエスとは誰か。あなたがたはこれらのことをすべて知っているはずである。わたしの働きはこれらの名によって定まる。そのことを理解したのか。わたしの聖なる名はいかに宣言されるべきか。わたしのことをわたしの名のいずれかで呼んできた諸民族のいずれかに、わたしの名はいかに広められるべきか。わたしの働きはすでに拡大しており、わたしはその拡充をあらゆる民族に広める。わたしの働きはあなたがたにおいて行なわれてきたのだから、ちょうどヤーウェがイスラエルのダビデの家の羊飼いたちを撃ったように、わたしはあなたがたを撃って、あらゆる民族のあいだに分散させる。終わりの日、わたしはすべての国々を粉々に打ち砕き、その民を新たに分配するからである。わたしが再来するとき、国々はわたしの燃えさかる炎がつくった境界線に沿ってすでに分断されているであろう。そのときわたしは焼けつく太陽として、人類の前に新たに現われ、人間がかつて見たことのない聖なるものの姿で公然と彼らに自分自身を示し、ちょうどわたし、ヤーウェがかつてユダヤの諸部族のあいだを歩いたように、無数の諸民族のあいだを歩く。それ以降、わたしは地上における人類の生活を導く。そこで人々は必ずやわたしの栄光を見、また空中に雲の柱が一本、彼らを生活において導くためにあるのを見る。わたしは聖なる場所に出現するからである。人間はわたしの義なる日を、またわたしの栄えある出現を見る。わたしが地球全体を統治し、わたしの多くの息子たちを栄光に至らせるとき、それは起こる。地上のいたるところで人々はひれ伏し、わたしの幕屋は人類のただ中に、わたしが今日行なう働きの岩の上に堅固に打ち立てられる。人は神殿においてもわたしに仕える。祭壇は汚らしくおぞましいもので覆われており、わたしはそれを粉々に打ち砕き、新たに建てる。生まれたばかりの子羊と子牛が聖なる祭壇の上に積み上げられる。わたしは今日の神殿を打ち倒し、新しい神殿を建てる。今日ある神殿は嫌悪すべき人々で溢れており、それは崩れ落ちる。わたしが建てる新しい神殿は、わたしに忠実なしもべで溢れる。彼らはわたしの神殿の栄光のために再び立ち上がり、わたしに仕える。あなたがたは、わたしが大いなる栄光を受ける日を、またわたしが神殿を倒して新しい神殿を建てる日を必ずや見るであろう。さらに、わたしの幕屋が人間の世界に到来する日を必ずや見るであろう。わたしは神殿を壊すと同時に、あたかも人間がわたしの降臨を見るかのように、わたしの幕屋を人間の世界にもたらす。あらゆる国々を打ち砕いた後、わたしはそれらを新たに集め、その時からわたしの神殿を建て、わたしの祭壇を築くことで、あらゆる者がわたしに生贄を捧げ、神殿でわたしに仕え、異邦人の諸国におけるわたしの働きに忠実に献身できるようにする。彼らは現代におけるイスラエルの民のようになり、祭司の式服と冠をまとう。わたし、ヤーウェの栄光が彼らのただ中にあり、わたしの威厳が彼らの頭上において彼らとともに留まっている。異邦人の諸国におけるわたしの働きもまた、同じ方法で実行される。異邦人の諸国におけるわたしの働きは、イスラエルにおけるわたしの働きと同様である。なぜなら、わたしはイスラエルでの働きを拡大させ、それを異邦人の諸国に広めるからである。

 現在はわたしの霊が大いなる働きを行い、わたしが異邦人の諸国で働きを開始するときである。それ以上に、わたしがあらゆる被造物を分類し、一つひとつを種類ごとに仕分けし、わたしの働きがさらに早く効果的に進行するようにするときである。だから、わたしがあなたがたに求めるのはやはり、自己の存在の一切をわたしのすべての働きに捧げ、そしてさらに、わたしがあなたにおいて行なったすべての働きを明確に認識、確信し、わたしの働きがより効果的になるよう、自分の全力をそれに注ぎ込むことである。これが理解しなければならないことである。自分たちのあいだで争ったり、後戻りする道を探したり、肉体の快適さを求めたりするのをやめなさい。これらはわたしの働きと、あなたのすばらしい将来を遅らせる。そのようにするのはあなたを守るどころか、破壊をもたらす。それは愚かなことではないだろうか。今日あなたが貪欲に享受しているものが、まさにあなたの将来を台無しにするものであり、一方、今日あなたが苦しんでいる痛みが、まさにあなたを守っているものである。抜け出すのに大変苦労する誘惑に陥るのを避け、濃霧にはまり込み、太陽を見つけられなくなることから逃れるために、これらのことをはっきり認識しなければならない。濃霧が晴れると、あなたは大いなる日の裁きのさなかにいる自分を見つける。その時点で、わたしの日は人類に近づきつつある。どうしてわたしの裁きから逃れるのか。どうして焼けつくような太陽の熱に耐えられるのか。わたしが自らの豊かさを人間に与えるとき、人間はそれを懐で大切にせず、代わりに誰も気づかない場所に投げ捨てる。わたしの日が人間の上に降りるとき、人間はもはやわたしの豊かさを見つけることも、はるか前にわたしが人間に語った苦い真実の言葉を見つけることもできない。光の明るさを失い、暗闇に陥ったので、人間は泣き叫ぶ。あなたがたが今日見ているのは、わたしの口の鋭利な剣に過ぎず、わたしの手にある鞭も、わたしが人間を燃やす炎も見ておらず、そのため、あなたがたはいまだにわたしの面前でも不遜で不節制なのである。そのため、あなたがたはいまだにわたしの家でわたしと争い、わたしが自らの口で語ったことに人間の言葉で反論するのである。人間はわたしを恐れず、今日までわたしと敵対し続けながら、それでもまったく恐れていない。あなたがたの口には不義なる者の舌と歯がある。あなたがたの言動はエバを罪へと誘惑した蛇のもののようで、互いに目には目を、歯には歯を要求しあい、わたしの前で地位、名声、利益を自分のものにしようと奮闘するものの、わたしが密かにあなたがたの言動を見張っていることを知らない。あなたがたがわたしの前に来る以前でさえ、わたしはあなたがたの心の奥底を調べていた。人間はいつもわたしの手中から逃れ、わたしの目の観察を避けようと望んでいるが、わたしは人間の言動から離れたことがない。代わりに、それらの言動をわざとわたしの目に触れさせ、わたしが人間の不義さを罰し、人間の反抗に裁きを下せるようにする。このように、人間の密かな言動は絶えずわたしの裁きの座の前にあり、わたしの裁きは人間から離れたことがない。なぜなら人間の反抗は過度だからである。わたしの働きは、わたしの霊の面前で発せられ行なわれる人間のあらゆる言動を燃やして清めることである。こうすることで[a]、わたしが地上を去るとき、人々は依然としてわたしへの忠誠を保ち、わたしの聖なるしもべがわたしの働きにおいてするようにわたしに仕え、それによりわたしの地上での働きはその完成の日まで続くのである。

 脚注

 a. 原文に「こうすることで」の語句は含まれていない。


神の国の時代は言葉の時代である

2020-12-30 20:17:08 | 言葉は肉において現れる

 神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。神の国の時代全体を通じて、神は言葉を用いて働きを行い、その働きの成果を得る。神は不思議や奇跡を行うことなく、ただ言葉をとおして働きを行う。これらの言葉によって、人間は養われ、施しを受け認識と真の経験とを得る。言葉の時代の人間は格別の祝福を受けている。肉体的な痛みに苦しむことなく、ただ神の言葉の豊かな施しを享受し、無闇に探し求めたり旅をしたりする必要もなく、安穏の只中から神の出現を目にし、神がその口で話すのを聞き、神が施すものを受け取り、神が自らその働きを行うのを見守っている。これらは過去の時代の人々には享受できなかったことであり、彼らが決して受けることのできなかった祝福なのである。

 神は人間を完全にすると決意しており、どの視点から語るにせよ、すべては人々を完全にするためである。霊の視点から語られる言葉は人間には理解し難く、人間は理解能力が限られているため、実践のための道を見つける方法がない。神の働きはさまざまな成果を達成するものであり、神は常に目的を持って働きのそれぞれの段階を行っている。さらに神はさまざまな視点から語ることが不可欠であり、そうすることによってのみ、人間を完全にすることができる。もし神が霊の視点からのみ声を発するなら、働きのこの段階を完了することはできないであろう。神が語る口調から、神がこの人々を完全にすると決めていることがわかる。では、神に完全にされることを望む一人一人にとって、とるべき最初の一歩は何だろうか。まず何よりも、神の働きを知らなければならない。今日では新しい方法が神の働きに導入され、時代は推移し、神の働き方も変わり、神の話し方も異なっている。現在は神の働きの方法が変わっただけでなく、時代も変わっている。今は神の国の時代であり、そして神を愛する時代でもある。これは千年神の国の時代の先駆けであり、千年神の国の時代は言葉の時代でもある。言葉の時代、神は多くの方法で語って人間を完全にし、さまざまな視点から語って人間に施す。時代が千年神の国の時代に移行すると、神は言葉を用いて人間を完全にし始め、人間がいのちの現実に入れるようにするとともに、人間を正しい軌道へと導く。人間は神の働きの多くの段階を経験した結果、神の働きが不変ではなく、絶えず発展し深化することを目にしてきた。人々がこれほど長い間経験してきた働きは、繰り返し展開され、何度も変化してきた。しかしどれほど変化しようとも、人間に救いをもたらすという神の目的からその働きが逸れることは一切なく、一万回の変化を経ようとも、元来の目的から外れることは決してない。神の働きの方法がどのように変化しようと、その働きが真理やいのちから離れることは一切ない。働きが行われる方法の変化は、ただ働きの形式や神が語る視点の変化でしかなく、神の働きの中心的目的に変化があるわけではない。神の口調や働きの方法の変化は、特定の効果を得るために行われる。口調の変化は、働きの背後にある目的や原則の変化を意味するものではない。人間が神を信じるおもな目的はいのちを追い求めることであり、もし神を信じていながらいのちを求めもせず、真理や神の認識を追求もしないのなら、それは神への信仰ではない。それでも神の国に入り王になることを望むのは、現実的なことだろうか。いのちの追求を通して神への真の愛を達成する、このことのみが現実である。真理の追求と実践は、すべて現実である。神の言葉を読み、その言葉を経験することで、あなたは現実の経験の中で神の認識を得るようになる。それこそが、真に追求するということの意味なのである。

 今は神の国の時代である。あなたがこの新たな時代に入っているかどうかは、あなたが神の言葉の現実に入っているかどうか、そして神の言葉があなたのいのちの現実となっているかどうかによる。神の言葉がすべての人に知らされているのは、最終的にすべての人が神の言葉の世界に生きるようになり、神の言葉が一人一人を内から啓き、照らすようになるためである。もしこの期間にあなたが不注意に神の言葉を読み、神の言葉にまったく関心を持たなければ、それはあなたの状態が間違っていることを示している。あなたが言葉の時代に入れないなら、聖霊はあなたの中で働きを行わない。もしあなたがこの時代に入っているのなら、聖霊はその働きを行う。言葉の時代が始まる今、聖霊の働きを得るためには何ができるだろうか。この時代、神はあなたがたのもとで次のような事実を実現する。つまり、一人一人が神の言葉を生き、真理を実践できるようになり、誠実に神を愛するようになる。そしてすべての人々が、神の言葉を基盤かつ自身の現実として用い、神を敬い畏れる心を持つようになる。さらに神の言葉の実践をとおして、人間が神とともに王のような力を振るうようになるのである。これが、神によって達成される働きである。あなたは神の言葉を読まずに生きることができるだろうか。現在、神の言葉を読まずには一日や二日も生きられないと感じる人々が大勢いる。彼らは神の言葉を毎日読まずにはいられず、時間がないときには代わりにそれを聴く。これは聖霊が人々に与える感情であり、人々を動かし始めるときのやり方である。つまり神は言葉をとおして人間を統治し、人間が神の言葉の現実に入れるようにするのである。もし、一日だけ神の言葉を飲み食いしなかった後、闇と渇きを感じ、それに耐えられないと感じたなら、それはあなたが聖霊によって動かされており、聖霊があなたから離れていないことを意味する。そうであれば、あなたはこの流れの中にいる。しかし神の言葉を飲み食いせずに一日か二日経った後、何も感じず、渇きもなく、まったく動かされていないなら、それは聖霊があなたから離れてしまったことを意味する。そうであれば、それはあなたの内面状態の何かが間違っているということであり、あなたは言葉の時代に入っておらず、遅れをとったのである。神は言葉を用いて人間を統治する。あなたは神の言葉を飲み食いすれば気分が良くなり、それをしなければ、たどるべき道がなくなる。神の言葉は人間の食物となり、人間を動かす力となる。聖書には「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とある。今日、神はこの働きを完成させ、あなたがたの中でこの事実を成就させる。なぜ、過去の人々は神の言葉を何日間も読まなくても普通に食べて働くことができたが、今はそうではないのだろうか。この時代、神はおもに言葉を用いてすべてを統治する。神の言葉を通して人間は裁かれ、完全にされ、そして最終的には神の国へと導かれる。神の言葉だけが人間にいのちをもたらし、神の言葉だけが人間に光と実践の道を与えることができる。これはとりわけ神の国の時代における事実である。あなたが神の言葉の現実から離れず、毎日神の言葉を飲み食いしている限り、神はあなたを完全にすることができるだろう。

 いのちの探求は焦って成し遂げられることではない。いのちの成長は、一日や二日で起こるものではないのである。神の働きは普通で実際的であり、たどらねばならない過程がある。受肉したイエスが十字架の働きを完了するには、三十三年半を要した。では人間を清め、人間のいのちを変化させるという、最も困難な働きはどうだろうか。これは極めて困難な働きである。神を体現する普通の人間を作るのは、容易な業ではない。これは赤い大きな竜の国で生まれた人々についてはなおさらで、彼らは素質に乏しく、長期間の神の言葉と働きを必要とする。だから、結果を見るのを急いではならない。あなたはただ積極的に神の言葉を飲み食いし、神の言葉にもっと努力を注がなければならない。神の言葉を読み終えたら、それを実践に移し、神の言葉における認識、識見、識別、知恵を増やすことができなければならない。それを通して、あなたは知らぬ間に変わっていく。神の言葉を飲み食いし、それを読み、知り、経験し、実践することを自分の原則として取り入れることができれば、あなたは知らないうちに成熟していく。中には、神の言葉を読んでもそれを実践できないと言う者もいる。何を急いでいるのか。ある程度の霊的背丈に達すれば、神の言葉を実践できるようになる。四、五歳の子供が、両親を養ったり敬ったりできないなどと言うだろうか。あなたは自分の現在の霊的背丈を知るべきだ。実践できることを実践し、神の経営を妨げる者とならないようにしなさい。ただ神の言葉を飲み食いし、それを今後の自分の原則としなさい。当面は、神があなたを完全にしてくれるかどうかと心配してはならない。まだそのことは深く考えず、ただ自分のもとに来た神の言葉を飲み食いしていれば、必ずや神はあなたを完全にしてくれるだろう。ただし神の言葉を飲み食いするときには、従うべき原則がある。それをむやみに行ってはならない。神の言葉を飲み食いするにあたっては、一方で自分が知るべき言葉、つまりビジョンに関連する言葉を探し求め、他方では実際の実践に移すべきこと、つまり自分が入っていくべきことを探し求めなさい。一方の側面は認識に関連しており、もう一つの側面は入りに関連している。ひとたびこの両面を把握すれば、つまり自分が知るべきことと実践すべきことを把握できれば、神の言葉をどのように飲み食いすべきかがわかるようになるだろう。

 いずれは神の言葉について語ることが、あなたが話すときの原則になる。あなたがたが集まるときは通常、神の言葉についての交わりを持ち、神の言葉を交流の内容とし、それらの言葉について知っていること、それをどのように実践するか、そして聖霊がどのように働くかについて話し合いなさい。神の言葉について交わりを持っている限り、聖霊はあなたを照らすだろう。神の言葉の世界を実現するには、人間の協力が必要になる。あなたがこれに入っていかなければ、神は働くことができない。あなたが口を閉ざしたまま、神の言葉について語らなければ、神はあなたを照らすことができない。他のことに従事していないときはいつでも、神の言葉について話し、無駄なおしゃべりをしないようにしなさい。日々の生活を神の言葉で満たしたとき、初めてあなたは敬虔な信者となる。あなたの交わりが表面的なものであっても、それは問題ではない。表面なしに深みもありえないからだ。過程というものが必要なのだ。あなたは訓練を通して、自分に対する聖霊の照らしを把握し、神の言葉を効果的に飲み食いするにはどうするべきかを知るのである。しばらくの手探りの後、あなたは神の言葉の現実に入ることになる。協力する決意をして初めて、聖霊の働きを受けることができるのだ。

 神の言葉を飲み食いする原則の一つは認識に関連し、もう一つは入りに関連している。まず、どのような言葉を知るべきか。それはビジョンに関連する言葉である(神の働きが今どの時代に入ったか、神が今何を成し遂げようとしているか、受肉とは何か、その他のことに関連する言葉は、みなビジョンと関連している)。人間が入るべき道とは何を意味しているのか。それは人間が実践し、入るべき神の言葉を意味している。これが、神の言葉を飲み食いすることの二つの側面である。これからは、このように神の言葉を飲み食いしなさい。ビジョンに関する神の言葉を明確に理解しているなら、絶えずそれを読み返す必要はない。最も重要なのは、どのように心を神に向けるべきか、どのように神の前で心を静めるべきか、どのように肉に背くべきかといった、入りに関する言葉をさらに飲み食いすることである。これらはあなたが実践すべき事柄である。どのように神の言葉を飲み食いするべきかを知らなければ、真の交わりは不可能である。ひとたび神の言葉をいかに飲み食いすべきかを知り、何が鍵なのかを把握できれば、交わりは自由なものとなり、どのような問題が提起されても、それについて話し合い、現実を把握することができるようになる。神の言葉について交わりを持つとき、現実を持っていないのなら、それは何が鍵かを把握していないからであり、あなたが神の言葉をどのように飲み食いすべきかを知らないことを意味している。中には神の言葉を読んでうんざりする人もいるかもしれないが、それは正常な状態ではない。正常な状態とは、神の言葉を決して読み飽きることなく、常に神の言葉を渇望し、常にそれを良いものと感じることである。これが、真に入りを成し遂げた人が神の言葉を飲み食いするやり方である。神の言葉を非常に実際的でまさに人間が入るべきものだと感じ、その言葉を極めて役に立つ人間に有益ないのちの糧であると感じるとき、その感情を与えているのは聖霊であり、聖霊があなたを動かしているのである。これは聖霊があなたの中で働いており、神があなたから離れていないことを証明している。中には神がいつも語っているのを見て、神の言葉に飽き、それを読んでも読まなくても大したことではないと考える人もいるが、それは正常な状態ではない。彼らには現実に入ることを渇望する心がなく、このような人々は完全にされることを渇望も重要視もしていない。自分が神の言葉に渇いていないと気づいたときはいつでも、あなたが正常な状態でないことを示している。昔は神が自分から離れたかどうかは、自分の内面が穏やかであるか、喜びを感じているかどうかで判断することができた。今では、鍵となるのは神の言葉に渇きを覚えるか、神の言葉が自分の現実となっているか、自分が忠実か、そして神のためにできることをすべて行えるかということである。言い換えれば、人間は神の言葉の現実によって判断されるのだ。神はその言葉を全人類に向けている。それを読む気があるなら、神はあなたを啓いてくれるが、そうでないなら神に啓かれることはない。神は義に飢え渇く人々と、自らを探し求める人々に啓きを与える。中には、神の言葉を読んでも神からの啓きが与えられなかったという人々もいる。しかし、その言葉をどのように読んだのか。もし乗馬しながら花に目をやる人のように神の言葉を読み、現実を一切重視しなかったなら、どうやって神があなたを啓けるだろうか。神の言葉を大切にしない者が、どうして神に完全にされることができるだろうか。神の言葉を大切にしないなら、あなたは真理も現実も得ることはない。神の言葉を大切にすれば、真理を実践することができ、そうして初めて現実を得ることになる。そのため、忙しいかどうか、逆境にあるかどうか、試練の最中にあるかどうかにかかわらず、いつも神の言葉を飲み食いしなければならないのである。結局のところ、神の言葉は人間の生存の基盤である。誰一人として神の言葉から離れることはできず、三度の食事のように神の言葉を食べなければならない。神に完全にされ、神のものとされることが、そんなに簡単でありうるだろうか。現在あなたが理解しているかどうか、神の働きを見抜いているかどうかにかかわらず、できるだけ多くの神の言葉を飲み食いしなければならない。それが積極的な入りというものである。神の言葉を読んだら、自分が入っていけることを急いで実践し、入っていけないことはとりあえず脇へ置いておきなさい。当初は神の言葉の多くが理解できないかもしれないが、二、三ヶ月後、あるいは一年後には理解できるようになる。なぜそのようになるのか。それは、神が人間を一日や二日で完全にすることはできないからである。神の言葉を読んでも、多くの場合すぐには理解できないかもしれない。その時点ではただの文章にしか見えないかもしれず、理解できるようになるには、ある程度の期間それを経験する必要がある。神は非常に多くを語っているので、あなたは神の言葉の飲み食いに最大限努めるべきであり、そうすることでいつの間にか理解できるようになり、いつの間にか聖霊があなたを啓くのである。聖霊が人を啓くとき、多くの場合人はそれに気づかない。聖霊があなたを啓き導くのは、あなたが渇き探し求めているときである。聖霊の働きの原則は、あなたが飲み食いする神の言葉を中心としている。神の言葉を一切重視せず、神の言葉に対して常に態度を変え、混乱した考えをもって、神の言葉を読むか読まないかなどどうでもいいと考えている人々は皆、現実を得ていないのである。そのような人の中には、聖霊の働きも聖霊による啓きも見ることができない。そのような人々はただ惰性で生きているのであり、ちょうど寓話の南郭氏[a]のように、真の資格を持たない偽善者なのである。

 神の言葉を自分の現実としていなければ、あなたに本当の霊的背丈はない。試練の時が来ても、あなたは必ず倒れ、そのときに真の霊的背丈が明らかにされるだろう。しかし常に現実に入ろうと努めている人々は、試練の時に神の働きの目的を理解するようになる。良心を持ち神を渇望する人は、実際的な行動をもって神の愛に報いなければならない。現実を持たない人々は、些細な事柄に直面しただけでも、しっかりと立っていられなくなる。それが、本当の霊的背丈を持つ人々と持たない人々の違いである。彼らはいずれも神の言葉を飲み食いしているのに、なぜ一方は試練に揺るぎなく立ち向かうことができ、他方は試練から逃げ出すのだろうか。明らかな違いとして、一部の人々には本当の霊的背丈がなく、彼らは自身の現実となる神の言葉を持っておらず、神の言葉は彼らの中に根づいていない。そして彼らは試練に遭うと、すぐに音を上げてしまう。では、試練の中でもしっかり立てる人がいるのはなぜなのか。それは真理を理解してビジョンをもち、神の旨と要求を認識しているからであり、ゆえに試練のさなかでもしっかり立てるのである。それが本当の霊的背丈であり、それもまたいのちなのだ。また神の言葉を読みはしても、実践に移すことはなく、真剣にとらえない人々もいるかもしれない。神の言葉を真剣にとらえない人々は、実践をまったく重視しない。自身の現実となる神の言葉を持たない人々には、本当の霊的背丈がなく、彼らは試練を揺るぎなくやり遂げることができない。

 神の言葉が発せられたら、ただちにそれを受け取って飲み食いしなければならない。どれほど理解しているかにかかわらず、固守すべき一つの観点は、神の言葉を飲み食いし、知り、実践するということである。それが、あなたができなければならないことだ。自分の霊的背丈がどれほど立派になれるかについては気にせず、ただ神の言葉を飲み食いすることに集中しなさい。それが、人間が協力しなければならないことである。霊的生活とはおもに、神の言葉を飲み食いしそれを実践するという現実に入るよう努めることである。それ以外のことに集中する必要はない。教会の指導者はすべての兄弟姉妹を指導して、どのように神の言葉を飲み食いすべきかを伝えることができなければならない。これが一人一人の教会指導者の責任である。老若を問わず全員が神の言葉を飲み食いすることを重視し、神の言葉を心に留めなければならない。この現実に入ることは、神の国の時代に入ることを意味する。最近ではほとんどの人が、神の言葉を飲み食いせずには生きていけないと感じ、神の言葉はいつでも新鮮だと感じている。これは彼らが正しい軌道を歩み始めていることを意味する。神は言葉を使って働きを行い、人間を養う。すべての人が神の言葉を求め渇望するようになったとき、人類は神の言葉の世界に入ることになる。

 神はこれまで非常に多くのことを語った。あなたはそれをどれくらい知り、どれくらい入ったのだろうか。教会指導者がその兄弟姉妹たちを神の言葉の現実へと導いていなければ、彼らはその本分をないがしろにし、責任を果たすことができなくなるのだ。あなたの理解が深かろうが浅かろうが、あるいはあなたの理解がどの程度かにかかわらず、神の言葉をどのように飲み食いすべきかは必ず知らなければならず、神の言葉に細心の注意を払い、それを飲み食いすることの重要性と必要性を理解しなければならない。神はすでに非常に多くのことを語っているので、神の言葉を飲み食いしなかったり、それを求めようとしなかったり、実践に移さなかったりするのなら、それは神の信仰とは言えない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を体験し、神の言葉を生きなければならない。それだけが神への信仰と呼べるのだ。口では神を信じると言いながら、神の言葉を一つも実践できていなかったり、何の現実も生み出せていなかったりするのなら、それは神への信仰とは言えない。それは単に、「飢えを満たすためにパンを求めている」だけだ。あなたが取るに足らない証しや役に立たない事柄、表面的な物事について話すだけで、現実を少しも得ていないなら、それは神への信仰ではなく、神を信じる正しい道をまったく把握していないことになる。なぜ神の言葉をできるだけ多く飲み食いしなければならないのか。神の言葉を飲み食いせずに、ただ天に昇ることだけを求めているのなら、それは神への信仰であろうか。神を信じる人が進むべき最初の一歩は何だろうか。神はどのような道によって人間を完全にするのだろうか。神の言葉を飲み食いせずに、人が完全にされることはできるだろうか。神の言葉を現実として持つことなく、神の国の民とみなされることができるだろうか。神への信仰とは、正確には何を意味するのか。神を信じる人々は、最低限として外見上よい振る舞いをしなければならず、何よりも重要なことは、神の言葉を持っていることである。何があろうとも、神の言葉から離れることはできない。神を知ること、神の心を満たすことは、すべて神の言葉を通して達成される。将来的にはすべての国、教派、宗教、領域が神の言葉を通して征服される。神は直接語りかけ、すべての人々は神の言葉をその手に抱き、それによって人類が完全にされる。内にも外にも、神の言葉はあらゆるところに行き渡る。人類は自らの口で神の言葉を語り、神の言葉にそって実践し、神の言葉を心の中に留め、内も外も神の言葉に満たされ続ける。このようにして人は完全にされる。神の心を満たし、神の証しをすることができる人々は、神の言葉を自身の現実としている人々なのである。

 言葉の時代、つまり千年神の国の時代に入ることは、今日完了されつつある働きである。これからは、神の言葉についての交わりを持つ訓練をしなさい。神の言葉を飲み食いし、神の言葉を経験することによってのみ、あなたは神の言葉を生きることができる。他の人々を説得するには、いくらかの実践的経験を生み出さねばならない。神の言葉の現実を生きることができなければ、誰も説得することなどできない。神に用いられる者たちは皆、神の言葉の現実を生きることができる。この現実を生み出して神の証しをすることができないのなら、それは聖霊があなたの中で働いておらず、あなたが完全にされていないことを意味する。これが神の言葉の重要性である。あなたには神の言葉を渇望する心があるか。神の言葉を渇望する人々は、真理を渇望しており、そのような人々だけが神に祝福されている。将来的に、神はあらゆる宗教と教派に向けてさらに多くの言葉を語る。神はまずあなたがたの間で語り、声を出し、あなたがたを完全にしてから、次に異邦人の間で語り、声を出し、彼らを征服する。神の言葉を通して、すべての人が心から完全な確信を得る。神の言葉と暴露をとおして、人間の堕落した性質は弱まり、人は人間の姿を呈するようになって、反抗的な性質も弱くなる。言葉は権威をもって人間に働き、神の光の中で人間を征服する。神が現在の時代に行う働きも、またその働きの分岐点も、すべては神の言葉の中にある。神の言葉を読まなければ、何も理解することはできない。あなた自身が神の言葉を飲み食いし、兄弟姉妹との交わりに参加し、そして実際の体験を持つことで、神の言葉についての包括的な認識を得られるようになる。そのとき初めて、あなたは神の言葉の現実を真に生きられるようになるのである。

 脚注

 a. 原文に「寓話の」の語句は含まれていない。


ゴスペル音楽「神の民たちの祈り」MV

2020-12-29 22:57:41 | ゴスペル音楽

 

 I

 神の民たちは多くの祈りを心に抱いて神の御座の前に上げられる

 神はご自分のもとに立ち帰る全ての人を祝福し

 彼らは皆、光の中に生きる

 聖霊が神のみ言葉を照らし

 我々が十分に神のみ心を悟るように祈りなさい

 全ての人々が神のみ言葉を大切にし

 神を知ることを求めてやって来ますように

 神が私たちにより多くの恵みを与え

 我々の性質が変わりますように

 神が私たちを完全にし

 私たちの心と知性を神と一つにして下さるように

 神が私たちを鍛え

 私たちが神への使命を果たすことが出来ますように

 聖霊が日々私たちを導き

 神を述べ伝え証しすることが出来ますように

 II

 全ての人々が善悪を区別し

 真理を実践しますように

 神が悪を行う者どもを罰し

 神の教会が煩わされることがありませんように

 全ての人々が愛すべき神に真の愛を捧げますように

 神が全ての妨げをとり除いて下さり

 私たちが自分の全てを神に捧げることができますように

 私たちの心が神を愛し続けるように

 神から離れることのないようにして下さいますように

 神によって予め定められた者たちが

 神のおられる所へ立ち帰りますように

 人々が皆、栄光を得られた神に賛美の歌を歌いますように

 神がいつも神の民たちと共にいて下さり

 私たちが神の愛の中に生き続けられますように

 神がいつも神の民たちと共にいて下さり

 私たちが神の愛の中に生き続けられますように

 『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

 


全能神と主イエスは一人の神なのだろうか

2020-12-28 13:55:21 | よくある質問

 人類がサタンによって堕落させられた時、神は人類救済の経営計画を開始した。神は人類を救うために三段階の働きを実行した。律法の時代にヤーウェ神は律法を発布し、人類の生活を導き、人々に神を崇拝することを教え、罪が何であるか教えた。しかし、律法の時代の最終段階が来ると、人類の堕落はいっそう深刻になり、人々はしばしば律法に違反し、ヤーウェに対し罪を犯した。彼らは律法を犯したため罪に定められ、処刑される危険に直面した。したがって、人類の要求に応えて、恵みの時代に神は肉となって、主イエスになった。主イエスは人類のために十字架につけられて、人を罪から贖い出し、人々が神の前に出て、神に祈り、告白して悔い改め、罪を赦され、神の豊かな恵みと祝福のもとで暮らせるようにした。しかし、人々の罪深い本性はまだ解消されておらず、しばしば罪を犯し、神に反抗したので、神の国の時代に神は再度肉となり、全能神の名を使い、主イエスの贖いの働きを基礎にして人類の救いと清めのためにすべての真理を示し、人類の罪深い本性を取り除き、人類の神への不服従や反抗をやめさせ、人々が本当に神に従い、崇拝できるようにし、最終的に人類を美しい終着点に導く。神が律法の時代、恵みの時代、神の国の時代に行なった働きは異なっており、神が選んだ名前と神が示した性質も異なっていたが、その働きの本質と目的は同じである。つまり、すべては人類を救うためであり、すべての働きは神自身によって行われる。全能神が次のように言った通りである。「ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している」(「神の働きのビジョン(3)」『言葉は肉において現れる』)。

 何千年もの間、主イエス・キリストが神自身であること、主イエスは神の現れであり、肉となった神であることを本当に知っている人はほとんどいない。実際、聖書はこのことをずっと以前にはっきりと預言していた。主イエスは言われました。「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネによる福音書 14:9)。「父がわたしにおり、また、わたしが父におる」(ヨハネによる福音書 10:38)。「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)。主イエスが「わたしと父とは一つである」と語った時、イエスはヤーウェと自分が一つの霊であると語ったのだ。主イエスが発した言葉とヤーウェが発した言葉は同じである。どちらも真理であり、一つの霊から出された語りかけであり、源は同じである。すなわち、主イエスとヤーウェは一つの神である。同様に、終わりの日の全能神が述べた言葉と主イエスの述べた言葉の源も同じであり、それらは聖霊の語りかけであり、真理であり、神の声である。主を信じる人々は皆、聖書の預言のかなりの部分は主イエスの再臨と終わりの日の神の裁きの働きに関係していることを知っている。主イエスが次のように語った通りである。「そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書 14:3)。「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録 22:12)。「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(ルカによる福音書 21:27)。「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録 16:15)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:48)。ペテロの第一の手紙でもこう書かれている。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。これらの聖書の言葉には、主イエスは終わりの日に戻り、言葉を述べ、裁きの働きを行うと非常にはっきりと書かれている。全能神は終わりの日にやって来ると、主イエスの贖いの働きを基礎にして、神の家から始まる裁きの働きを行い、人類の清めと救いのためにすべての真理を述べる。全能神の働きと主イエスの働きは異なっているが、源は同じ、すなわち、一つの神である。これは主イエスの預言を完全に成就している。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。肉となった終わりの日の全能神は真理の霊の化身である。全能神は主イエスの再臨である。


祈りの実践について

2020-12-27 11:07:44 | 言葉は肉において現れる

 あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

 真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

 また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、わたしは今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。わたしは本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。わたしはただ時間を無駄にしていました。わたしは今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつもわたしの内で働き、絶えずわたしを照らし啓きますように。わたしにあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠がわたしたちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、わたしは自分の本分を尽くすことを望みます。わたしたちの中であなたが栄光を受け、わたしたちからなるこの集団による証しをあなたが喜んでくださるように、わたしは自分の全存在をただあなたに捧げます。わたしがあなたを真に愛し、満足させ、あなたをわたしの目標として追求することができるように、わたしたちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

 あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、わたしの心はあなたを真に愛することができません。わたしはあなたを愛したいのですが、わたしにはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたがわたしの霊の眼を開き、あなたの霊がわたしの心を動かしますように。わたしがあなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、わたしの全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたがわたしをどのように試そうと、わたしは用意ができています。今わたしは自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、わたしの運命もあなたの手の中にあり、わたしの一生そのものもあなたの手の中にあります。今、わたしはあなたを愛することを追い求め、わたしがあなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、わたしはあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

 真の祈りにどのように入っていくのか。

 祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

 祈りの重要性とは何か。

 祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

 祈りが達成するべき成果とは何か。

 人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

 祈りの最も基礎的な知識

 1. 何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

 2. 祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

 3. 祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。あなたの祈りは神の現在の言葉に関するものでなければならず、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

 4. 集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

 5. あらゆる人が取りなしの祈りを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

 個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのちの性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

 祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

 正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。


神はすべての被造物の主である

2020-12-26 21:01:35 | 言葉は肉において現れる

 前の二つの時代の働きのうち、一つの段階はイスラエルで、もう一つの段階はユダヤで行われた。一般的に言って、この働きのどちらの段階もイスラエルを出ることはなく、これらはいずれも最初の選民に対して行われた。この結果、イスラエル人はヤーウェ神をイスラエル人だけの神だと考えている。イエスはユダヤで活動し、磔の働きを行ったため、ユダヤ人はイエスをユダヤの民の贖い主とみなしている。ユダヤ人は彼をユダヤ人だけの王であり、他のどの民の王でもないと考えている。イギリス人の罪を贖う主ではなく、アメリカ人の罪を贖う主でもなく、イスラエル人を贖う主であり、イエスがイスラエルで贖ったのはユダヤ人だと考えている。実際には、神は万物の主であり、すべての被造物の神である。イスラエル人だけの神ではなく、ユダヤ人だけの神でもなく、すべての被造物の神である。神の働きのうち前の二つの段階はイスラエルで起き、人々の間にある種の観念を生み出した。人々は、ヤーウェがイスラエルで働きを行い、イエス自らもユダヤで働きを行い、さらに彼は肉となって働きを行ったが、いずれにせよこの働きはイスラエルの外には広がらなかったと考えている。彼はエジプト人の中で働くことはなく、インド人の中で働くこともなく、イスラエル人の中でのみ働きを行った。そのため人々は様々な観念を形成し、神の働きを一定の範囲内で思い描いている。神が働きを行う時は、選民の間で、イスラエルにおいて行われ、イスラエル人以外に神の働きの対象者はなく、神の働きにそれ以上の範囲もないとうのである。彼らは特に受肉した神を抑えつけることに厳格で、神がイスラエルの外に出ることを認めない。これらはすべて、単なる人間の観念ではないのか。神は天と地のすべてを、そして万物を造り出し、被造物のすべてを造り出したのに、なぜその働きをイスラエルのみに限定することができるのか。そうであるなら、神がすべての被造物を生み出したことに何の意味があるのか。神は世界全体を生み出し、神の六千年の経営(救いの)計画を、イスラエルだけではなく、全宇宙の一人ひとりを対象に行った。人々は中国、米国、英国あるいはロシアに住んでいても、みなアダムの子孫であり、みな神により創られたのである。誰一人として神の創造の範囲から離脱することはできず、誰一人として「アダムの子孫」という呼称から逃れることはできない。人々はみな神の被造物であり、アダムの子孫である。そして、アダムとエバの堕落した子孫でもある。神の被造物はイスラエル人だけではなくすべての人々であり、ただ呪われた者もいれば祝福された者もいるだけである。イスラエル人には望ましい点がたくさんあり、神は当初、イスラエル人が最も堕落していない民だったため、イスラエル人に対して働きを行った。中国人はイスラエル人に匹敵するものではなく、はるかに劣っている。そのため神はまずイスラエルの人々の間で働きを行い、神の働きの第二段階はユダヤでのみ行われた。その結果、人間に多くの観念や規則が生じた。実際、神が人の観念に従って行動するのだとしたら、神はイスラエル人の神でしかなく、神の働きを異邦人の諸国に拡大することはできないだろう。被造物すべての神ではなく、イスラエル人だけの神だからである。預言書によれば、ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられ、異邦人の諸国に広まるとされている。このように預言されているのはなぜか。神がイスラエル人だけの神ならば、イスラエルでしか働きを行わないだろうし、その働きを拡大することもなく、こうした預言も行わないだろう。神がこの預言を行ったからには、神の働きは必ず異邦人の諸国、あらゆる国や土地に拡大されるのである。彼がこのように述べたからには、必ずその通りにされなければならない。これが神の計画である。神は天と地および万物を造り出した主であり、被造物すべての神だからである。神がイスラエル人の間で働きを行おうと、ユダヤ全体で行おうと、神が行う働きは全宇宙の働きであり、全人類の働きである。神が今日、赤い大きな竜の国――異邦人の国――で行う働きも、やはり全人類の働きである。イスラエルは地上における神の働きの基点だったかもしれず、同様に中国も、異邦人の諸国における神の働きの基点であるかもしれない。これで神は、「ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられるであろう」という預言を成就させているのではないか。異邦人の諸国における神の働きの最初の段階は、神が赤い大きな竜の国で行うこの働きである。受肉した神がこの土地で、これら呪われた人々のあいだで働きを行うことは、人の観念とひときわ相反する。これらの人々は最も卑しく何の価値もなく、当初ヤーウェに見捨てられた人々である。人が他の人々に見捨てられることはあるにせよ、神に見捨てられたならば、それ以上地位のない人はなく、それ以上価値の低い人もない。神の被造物として、サタンに取り憑かれることや人々に見捨てられることはどちらも悲惨なことであるが、被造物が創造主に見捨てられたなら、それはもっと低い地位になりようがないことを意味する。モアブの子孫は呪われて、この遅れた国に生を受けた。モアブの子孫は間違いなく、闇の影響を受けた人々の中でも最低の地位にある。この人々はこれまで最低の地位にあったからこそ、彼らに対して行われる働きは人間の観念を最も効果的に打ち砕くことができるのであり、また同時に神の六千年の経営計画全体にとって最も有益な働きとなる。この人々の間でこうした働きを行なうことは、人の観念を打ち砕くための最良の方法であり、神はこの働きによってひとつの時代を開始する。これにより神は人の観念をすべて打ち砕き、恵みの時代全体の働きを終える。神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの境界の中で行われた。異邦人の諸国においては、神は新しい時代を始める働きを全く行わなかった。神の働きの最終段階は、異邦人の間で行われるだけでなく、呪われた人々の間で行われることがさらに重要である。この点はサタンに最も屈辱を与え得る証拠であり、それによって神は、全宇宙の被造物すべての神、万物の主、命あるすべてのものにとっての崇拝の対象になるのである。

 現在、神がどのような新しい働きを始めたのか、まだ理解していない人々がいる。異邦人の諸国では、神が新たな始まりの到来を告げ、新しい時代を開始し、新しい働きを始め、この働きをモアブの子孫に対して行なっている。これは神の最新の働きではないか。歴史上の誰も何者もこの働きを過去に経験したことはなく、聞いたこともなく、ましてや正しく認識したことはなかった。神の知恵、驚異、深遠さ、偉大さ、そして聖さはすべて、世の終わりの働きのこの段階を通して明らかになる。これは人間の観念を打ち砕く新しい働きではないか。そのため人々の中には、次のように考える者がいる。「神はモアブを呪い、モアブの子孫を見捨てると語ったのに、今になってモアブの子孫を救えるのか」と。こうした人々は神に呪われてイスラエルから追放された異邦人であり、イスラエル人は彼らを「異邦の犬」と呼んだ。誰の目から見ても、彼らは異邦の犬であるだけでなく、さらにそれ以下の滅びの子であり、すなわち彼らは神の選民ではない。彼らは元々イスラエルの地で生まれたが、イスラエルの民に属しておらず、異邦人の諸国に追放された。彼らはあらゆる人々の中で最も卑しい者たちである。そして彼らが人類の中で最も卑しい者であるからこそ、神は新しい時代を始める働きを彼らの間で実行する。彼らは堕落した人類の代表だからである。神の働きは選択を伴う的を絞ったものであり、神が今日これらの人々の中で行う働きは、被造物に対して行われる働きでもある。ノアは神の被造物であったし、彼の子孫もそうである。血と肉を持つ世界中の誰もが神の被造物である。神の働きはすべての被造物に向けられており、創造された後に呪われたか否かによって変わることはない。神の経営(救い)の働きはすべての被造物に向けられており、呪われていない選民にのみ向けられるものではない。神は自分の被造物の間でその働きを行うことを望んでいるため、この働きは間違いなく、見事に完了するまで行われるであろう。そして神は、自身の働きにとって有益な人々のあいだで働きを行う。このため、神が人々の間で働くときには、すべての因習が打ち砕かれる。神にとっては、「呪われた」「罰せられた」「祝福された」という言葉には意味がないのだ。イスラエルの選民同様、ユダヤ人は善良であり、優れた素質と人間性をもった人々である。当初、ヤーウェは彼らの間で働きを開始し、最も初期の働きを行ったが、今日神が彼らに対して征服の働きを行うことに意味はないだろう。彼らも被造物の一部であり、多くの肯定的側面を持っているかもしれないが、この段階の働きを彼らの間で行うことに意味はないだろう。その場合、神は人々を征服できず、すべての被造物に確信を与えることもできないだろう。それこそが、赤い大きな竜の国のこうした人々に、神の働きを移すことの意味なのである。ここでの深い意味は、神がひとつの時代を始めること、すべての規則とすべての人間の観念を打ち砕くこと、そして恵みの時代全体における働きを終えることである。もし神の現在の働きがイスラエル人の間で行われたならば、神の六千年の経営計画が終わる時にはすべての人が、神はイスラエル人だけの神であり、イスラエル人だけが神の選民であり、イスラエル人だけが神の祝福と約束を受け継ぐに値するのだと信じることになるだろう。神は赤い大きな竜の国の異邦人の中で終わりの日に受肉することで、すべての被造物の神としての働きを成し遂げる。神は経営(救い)の働き全体を完成させ、赤い大きな竜の国で、神の働きの中心となる部分を完了する。三つの段階の働きの中心は人間の救いであり、すなわちすべての被造物に創造主を崇めさせることである。そのため、働きのどの段階にも大きな意味がある。神は意味や価値のないことは行わない。働きのこの段階は、一方では新しい時代の到来を告げ、前の二つの時代を終わらせる。他方では、人間のすべての観念と、人間の古い信仰や認識方法すべて打ち砕く。前の二つの時代の働きは、異なる人間の観念に従って行われた。しかし今回の段階は、人間の観念を完全に排除し、それによって完全に人々を征服する。モアブの子孫を征服することと、モアブの子孫の間で行う働きを通して、神は全宇宙の人々をすべて征服することになる。これが神の働きのこの段階の最も深い意味であり、神の働きのこの段階の最も尊い側面である。あなたが今、自らの地位が低く、自分にあまり価値がないことを知っているにしても、あなたは最も大きな喜びに出会ったと感じるようになるだろう。あなたは大いなる祝福を受け継ぎ、大いなる約束を手に入れたのであり、そして神のこの偉大な働きの完成を助けることができるのである。神の本当の顔を見ることができ、神の本来の性質を知っており、神の旨を行なっている。神の働きのうち前の二つの段階は、イスラエルで行われた。もし、終わりの日における神の働きのこの段階がやはりイスラエル人の間で行なわれるなら、イスラエル人だけが神の選民なのだと全ての被造物が信じてしまうだけでなく、神の経営計画全体も望ましい効果を上げることはできないだろう。神の働きの二つの段階がイスラエルで行われていた時期、異邦人の諸国では新しい働きは全く行われず、新しい時代を始める働きも行われなかった。現在の、新しい時代を開始する働きの段階は、まず異邦人の諸国で行われるだけでなく、まずモアブの子孫の間で行われ、それによってその時代全体が開始される。神は人の観念にこめられていた認識をすっかり打ち砕き、ひとかけらも残ることを許さなかった。神はその征服の働きにおいて、人間の観念、その古い従来の認識方法を打ち砕いた。神は人々に、神に規則はなく、神について古いものは何もなく、神が行う働きは完全に解放されていて自由であり、そして神はその行う事すべてにおいて正しい、ということを理解させる。あなたは神が被造物の間で行うすべての働きに完全に従わなければならない。神が行うすべての働きには意味があり、それらは人間の選択や観念ではなく、彼自身の意志と知恵に従って行われる。彼は自身の働きにとって有益なことがあればそれを行い、自身の働きにとって有益でないことは、どんなに良いことであっても行わない。彼は働きを行い、その働きの対象者と場所とを、その働きの意味と目的に従って選択する。働きにおいて彼は、過去の規則には固着せず、古い常套手段にも従わない。そうではなく、働きの意義に従ってその働きを計画する。最終的には、働きの真の効果と予期された目的とを達成する。もしあなたが今日これらのことを理解しないなら、この働きはあなたに対していかなる効果ももたらさないだろう。


クリスチャン映画「私の家はどこに」クリスチャン真実と感動物語

2020-12-25 18:15:44 | クリスチャン映画

 

 文雅の両親は彼女が2歳の時に離婚し、その後は父親と義母と一緒に暮らしていました。義母は文雅に我慢ができず、いつも彼女の父親と口論していました。父親にはどうすることもできず、文雅の母親の家に文雅を連れて行くしかありませんでした。しかし母親は文雅を世話する時間が全くなかったので、よく親戚や友人の家へ預けました。長年にわたる里親との生活のあと、小さい文雅は孤独で無力感を感じ、家の暖かさというものにあこがれていました。父と義理の母が離婚したため、父親の元に戻り、それからというもの良いも悪いも家庭はあったのです。

 成長した文雅は、とても慎重で従順な性格で、勉強熱心でした。しかし、大学入試の準備に熱心に取り組んでいたちょうどその頃、不幸が襲いかかりました。母親が脳出血を起こし、麻痺して寝たきりになってしまったのです。彼女の義父は母親を見捨て、しまいに彼女の財産をすべて盗んでしまいました。さらにその後、実の父親は肝がんで入院をしてしまい…文雅には一家を支えることなどとてもできませんでした。できることといえば、親戚や友人に助けを懇願することでしたが、それも拒否されました。

 文雅に頼る物は何もなく苦しんでいたとき、全能神教会から二人の姉妹が、終わりの日の全能神の働きについて文雅と母と姉に証しをしました。この二人は、全能神の言葉から人生の苦痛の根源を理解し、神様の前に来ることだけが、神様から守られ幸せに生きられる方法だとわかったのです。神様の言葉に慰められることだけが、母と娘が苦痛と無力から抜け出せる道だったのです。文雅は真に神様の愛と慈悲を経験しました。ついに家の暖かさを感じ、本当の家に戻って来たのです。


聖霊の働きと悪霊の働きの識別

2020-12-24 17:53:45 | 書籍

 関連する神の言葉

 神は同じ働きを繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある働きは行なわない。神が為す働きはみな、人間の正常な理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人々は堕落した自分のサタン的性質、および人間の本質についての認識を増し、また真理への渇望も更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の仕業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より引用

 何が神から来て何がサタンから来るのかを理解しなくてはならない。神から来るものはあなたに一層明瞭なビジョンを与え、ますます神に近づかせてくれる。あなたは兄弟姉妹と心からの愛を分かち合い、神の重荷に配慮できるようになり、決して弱まることのない神を愛する心を持つようになる。目の前には歩むべき道がある。サタンから来るものは、あなたのビジョンを消え去らせ、それまで持っていたものもすべて失わせる。あなたは神から離れ、兄弟姉妹に対する愛も失せ、憎しみの心を持つようになる。絶望して、もはや教会生活を望まなくなり、神を愛する心も失せる。それがサタンの働きであり、同時に邪悪な霊の働きがもたらす結末なのだ。『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十二章」より引用

 聖霊の働きは積極的な導きと肯定的な啓きの一種である。それは人々が受け身でいることを許さず、彼らに慰めをもたらし、信仰と決意を与え、彼らが神によって完全にされることを追求できるようにする。聖霊が働きを行なえば、人々は積極的に入ることができる。受け身でもなく、強制されることもなく、自分が主導権を握って行動するのである。聖霊が働きを行なうとき、人々は進んで従い、喜んで謙虚になる。内なる痛みや脆さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志や人の考えによって汚されておらず、人間的な欲望や動機に汚されていないのは間違いない。人々が聖霊の働きを経験するとき、彼らの内面は特に聖い。聖霊の働きを有する人たちは神への愛、兄弟姉妹への愛を生きており、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きに触れた人は正常な人間性をもち、常に真理を追い求め、人間性を自分のものにしている。聖霊が人々の中で働くとき、彼らの状態はますますよくなり、その人間性はより正常になる。そしてこうした人たちによる協力の中には愚かなものもあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの入りは肯定的で、邪魔しようと試みたりせず、彼らの中に悪意は一切存在しない。聖霊の働きは正常かつ現実的であり、聖霊は人の通常生活の規則にしたがってその人の中で働きを行ない、正常な人々の実際の追求に応じて彼らを啓き、そして導く。聖霊は人の中で働きを行なうとき、正常な人々の必要に応じて彼らを導き、そして啓く。聖霊は人々の必要に応じて彼らに糧を施し、彼らに欠けているものに応じて、また彼らの欠点に応じて肯定的に導いて啓く。聖霊の働きは人々を現実の生活において啓き、導くことである。実生活の中で神の言葉を経験して初めて、人は聖霊の働きを見ることができる。日常生活において前向きな状態であり、正常な霊的生活を送っていれば、その人には聖霊の働きがある。そうした状態の中では、神の言葉を飲み食いすると信仰を得、祈ると鼓舞され、何かに突き当たっても受け身にならず、何かが起きるとその中から、神が彼らに学ぶよう求めている教訓を理解できる。彼らは受け身でもなければ弱ってもおらず、たとえ現実の困難を抱えていても、神のすべての采配に自ら従おうとする。

 聖霊の働きによって成し遂げられる効果とは何か。あなたは愚かかもしれないし、識別力がないかもしれないが、聖霊が働きを行なえば、あなたの中に信仰が生まれ、どれほど神を愛しても愛しきれないといつも感じるようになる。前途にどれほど大きな困難があろうと、あなたは進んで協力するようになる。自分に何かが起こり、それが神に由来することなのか、それともサタンに由来することなのかはっきりわからないことがあっても、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これが聖霊の正常な働きである。聖霊があなたの中で働きを行なう際、あなたはそれでも現実の困難にぶつかり、時には涙し、時には乗り越えられない問題が生じることもあるが、これらはすべて聖霊による普通の働きの一段階に過ぎない。たとえあなたがそうした困難を乗り越えられなくても、またその際に弱くなって不満で一杯だったとしても、後になれば絶対的な信仰をもって神を愛することができた。あなたが受け身だとしても、そのせいで正常に経験できないということはあり得ず、他の人が何と言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、あなたは神を愛することができる。祈りの中では常に、自分はかつて神に借りがあったと感じ、そうしたことに再び出会うたび、神を満足させて肉を捨てようと決意する。この力は、聖霊の働きがあなたの中にあることを示している。それが聖霊の働きの正常な状態なのである。

 サタンに由来する働きとは何か。サタンに由来する働きの中で、人々の内なるビジョンは漠然としており、彼らは正常な人間性をもたず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、心の中で絶えず咎められ、そうした咎めや思いが自分の中で常に干渉し、いのちの成長を制約するとともに、正常な状態で神の前に出られないようにする。つまり、人々の中にサタンの働きが存在するやいなや、その人の心は神の前で安らげないのである。そのような人は自分でもどうしたら良いかわからず、人々が集まっているのを見ると逃げたくなり、他の人が祈るときに目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまでもっていたビジョンや、以前のいのちの入りへの道を混乱させる。心の中で神に近くことが決してできず、妨害を引き起こし、足かせとなるようなことがいつも起こる。心は安らぎを見つけられず、神を愛する力が残らずなくなり、霊が沈んでいく。これらがサタンの働きの表われである。サタンの働きの表われは次のようなことである。堅く立って証しをすることができず、それがあなたを神の前で落ち度がある者、神への忠実さをまったくもたない者とさせる。サタンが干渉するとき、あなたは自分の中にある神への愛と忠実さを失い、神との正常な関係を奪われ、真理や自分を改善することを追い求めず、後戻りして受け身になり、自分を甘やかし、罪が広がるままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神への不満を漏らして神に反抗し、神を疑うようになる。さらに、あなたが神を捨てる危険すらある。そのすべてがサタンに由来するのである。『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より引用

 神は、優しく、繊細で、愛に溢れ、思いやりのある方法で、また並外れて配慮された適切な方法で働きます。神の方法は、「神は私にこれをさせてくれるべきだ」とか、「神は私にそれをさせてくれるべきだ」のような強い感情をあなたに抱かせることはありません。神は物事が耐えがたくなるような強い考え方や強い感情をあなたに与えることは決してありません。そうではありませんか。たとえ神の裁きと刑罰の言葉を受け入れるときでさえ、あなたはどう感じますか。神の権威と力を感じるとき、あなたはどう感じますか。神は神聖で害することができないと感じますか。(はい。)そのようなときに、あなたは神から遠ざけられたと感じますか。神に対する恐怖を感じますか。感じません。そのかわりに、あなたは神に対する畏敬の念を感じます。人は神の働きのおかげで、これらすべてのことを感じるのではないですか。……

 ……神は人間に働きかけ、人間は神の態度と心の両方において大切にされています。一方、サタンは人間を大切にしますか。サタンは人間を大切にしません。サタンが考えるのは人間を傷つけることだけです。そうではありませんか。サタンが人間を傷つけることを考えているとき、サタンは喫緊の精神状態でそうしますか。(はい。)人間に対するサタンの業に関しては、サタンの悪意のある邪悪な本性を十分に言い表し、あなたがたがサタンの憎らしさを知ることができる二つの語句があります。サタンが人間に接近する際に、サタンは常に強制的に一人ひとりの人間を占有し、一人ひとりの人間に取り憑き、害を及ぼすところまで到達し、サタンの目的を果たし、無謀な野望を実現させようとします。「強制的に占有する」とはどういう意味ですか。それはあなたの同意の上で、それとも同意なしで起こりますか。あなたが知っていて、それとも知らないうち起こりますか。それはまったく知らないうちに起こります。あなたが意識していない状況において、おそらくサタンがまだ何も言っていないとき、おそらくまだ何も行なっておらず、何の前提も脈絡もないとき、サタンはあなたを取り囲んでそこにいるのです。サタンは利用する機会を探しており、次にあなたを強制的に占有し、あなたに取り憑き、あなたを完全に支配し危害を加えるという目的を果たします。これが、サタンの人類を手に入れるための神との戦いにおける典型的な意図と振る舞いです。『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 4」より引用

 中には聖霊が常に自分の中で働きを行なっていると言う者もいるが、それはあり得ない。聖霊が常に自分と共にあると言うのなら、それは現実的だろう。自分の思考や理知は常に正常だと言うのなら、それもまた現実的であり、聖霊がその者と共にあることを示すだろう。しかし、聖霊は常に自分の中で働きを行なっており、自分はどの瞬間にも神により啓かれ、聖霊によって感動し、常に新たな認識を得ていると言うのなら、それは決して正常ではなく、極めて超自然的なことである。そうした人々は、疑いの余地なく悪霊である! 神の霊が受肉した時でさえ、時には休息し、食事もする必要があるのだから、人間については言うまでもない。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さがないように見える。そうした者はあらゆる物事を断念して捨て去ることが可能で、感情をもたず、苦しみに耐えることができ、肉体を超越しているかのようにまったく疲労を感じない。これは極めて超自然的なことではないか。悪霊の働きは超自然的であり、人間にそのようなことはできない。判断力のない者たちは、そうした人を見ると羨ましがり、神に対する彼らの信仰は極めて強く優れていて、彼らにはひとかけらの弱点も見えないと言う。実のところ、それはすべて悪霊の働きの表われなのだ。なぜなら正常な人間には必然的に人間の弱さというものがあり、それが聖霊の臨在を得ている者の正常な状態だからである。『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より引用

 説教と交わりの参考箇所

 聖霊の主な働きは啓きと照らしであり、人に神の御言葉を理解させ、それに入らせることです。すなわち、人が真理を理解し、真理に入るように導き、ありとあらゆる試練と環境の中で人を啓いて照らし、神の御心を理解させることです。もちろん、人を救いに導くという目的で、聖霊は様々な人や物事を通して、人を暴露し、刈り込み、鍛え、罰します。聖霊はすべてを支配し、ありとあらゆる状況を采配して人を変え、完全にします。神の救いの働きにおいて、聖霊の働きは多岐にわたりますが、それは例外なく救いに関わるものです。聖霊の働きは隠れており、表面的にはまったく超自然的に見えませんが、経験がある人は心の中ではっきりと理解しています。それに対し、悪霊の働きはとてつもなく浮世離れしており、目に見え、感じられ、とても異常です。悪霊の所業から、悪霊は自己顕示を特に好み、真理のかけらもなく、非常に邪悪であることがわかります。たとえ悪霊が人に何年働きかけても、人の堕落した性質は少しも変わりません。むしろますます正常でなくなり、正常な人の理知を失いさえします。これが悪霊の働きの結果です。サタンとありとあらゆる悪霊はこのようにして人を堕落させ、人を縛り、人を惑わすのです。ついには、人は幽霊となり、悪霊に惑わされた人はサタンに奪われ、呑み込まれます。聖霊の働きはすべて人類の救いに関わるものであり、聖霊の働きがあればあるほど、人は真理を理解できるようになり、ますます正常な人間性を有し、ますます人間らしくなります。最後には神の救いを得て、真理と完全な人間性をもつ人になります。聖霊の働きと悪霊の働きとの主な違いは次のとおりです。悪霊は人を堕落させ、人を縛り、結局は幽霊にすることしかできません。聖霊の働きは、堕落した人を救いにおいて清め、真理と完全な人間性を与えます。聖霊の働きは、サタンによって堕落して汚れた霊の部類に属した人を、真に聖い人にすることができます。単純に言えば、サタンによって堕落して悪魔となった人を人間に戻すのです。これが聖霊の働きと悪霊の働きの違いです。兄弟の交わりより引用

 さまざまな悪霊の働きと聖霊の働きの明確な違いは具体的に次の側面に現れます。聖霊は、真理を追い求め、良心と理知をもつ正直な人を選びます。聖霊が働きかけるのはこのような人です。悪霊は、狡猾で馬鹿げた人、真理への愛がない人、良心も理知もない人を選びます。悪霊が働きかけるのはこのような人です。聖霊の働きのために選ばれた人と、悪霊の働きのために選ばれた人を比べて分かるのは、神が聖く義であること、神に選ばれた者は真理を追い求め、良心と理知をもち、比較的正直で、正義を愛していることです。悪霊に選ばれた者は狡猾で、利己的で下劣で、真理への愛がなく、良心も理知もなく、真理を追い求めることもなく、真の人類ではありません。悪霊は負の物事しか選びません。そのことから分かるのは、悪霊が邪悪さと暗闇を愛し、真理を追い求める者からは避けるように離れ、歪んだ狡猾な者、不義なことに心を奪われた魅せられやすい者にはすぐに取り憑くということです。悪霊がその中で働こうと選んだ人は救いを得られず、神によって淘汰されます。いつ、そしてどのような背景において悪霊は働きかけるのでしょうか。悪霊は人が神から遠く離れ、神に反抗している時に働きかけます。悪霊の働きは人を惑わすことです。人が罪を犯す時、最も弱っている時、特に心にひどく苦しんでいる時、混乱して途方にくれている時、悪霊はそうした機に乗じて人を惑わし、堕落させ、人と神の間に不和の種をまきます。人が神の名を呼ぶ時、人の心が神の方に向く時、人が神を必要とする時、人が神の前で悔い改める時、あるいは人が真理を求める時、聖霊は彼らに働きかけ始めます。聖霊が働くのはすべて人を救うためであり、聖霊は人を救う機会を探していますが、それに対して悪霊は人を堕落させ、欺く好機を狙っています。悪霊は下劣で邪悪、陰険で悪意があります。悪霊のなすことはすべて、人を呑み込み、堕落させるためであり、聖霊のなすことはすべて愛のため、人の救いのためです。聖霊の働きの効果とは、人が清められ、堕落から救われ、自分自身とサタンのことが分かるようになり、サタンに逆らえるようになり、真理を追い求め、最終的には人間らしく生きられるようになることです。悪霊は人を堕落させ、汚し、束縛します。悪霊は人をますます深く罪に陥れ、人の暮らしにますます大きな痛みをもたらします。そのため、悪霊が人に働きかけると、人は一巻の終わりです。ついにはサタンに呑み込まれてしまいます。それが悪霊の働きによる結果です。聖霊の働きの効果とは、人が最後には救われ、本当のいのちを生きるようになり、完全に解放されて自由になり、神から祝福を受けることです。悪霊は人を暗闇にいざない、奈落の底へと連れていきます。聖霊は人を暗闇から連れ出し、光の方へ、そして自由へといざなうのです。聖霊の働きは人を啓いて導き、人に機会を与え、人が弱っていて過ちを犯している時、慰めをもたらします。聖霊により人は自分自身を知ることができ、真理を追い求めることができます。また、聖霊は人にこうせよと強要するのではなく、自分の進む道を自分自身で決めさせて、最終的には光へと導くのです。悪霊は人にこうせよと強要し、あれこれと命令します。悪霊の言うことはすべて偽りであり、人を惑わし、欺き、束縛します。悪霊は人に自由を与えず、選ばせることもなく、破滅への道に押しやり、ついにはますます罪へと深く陥れ、死へと導きます。『いのちに入ることに関する交わりと説教』より引用

 悪霊の働きの最も顕著な特徴は、それが超自然的であること、悪霊が話す言葉や人々に行うよう求めることは異常で、非論理的であり、正常な人性と人間関係における基本的道徳に反することさえあり、それらはただ人々を欺き、混乱させ、堕落させることのみを目的としているということです。悪霊が取り憑くと、大きな恐怖を感じる人もいれば、異常になる人もおり、また、放心状態に陥ったり、ものすごい不安に襲われて、じっと座っていられなくなる人もいます。いずれにせよ、悪霊が人間に取り憑くと、人は変わり、人間でも悪魔でもないものになり、正常な人性を失ってしまいます。これは悪霊の本質が邪悪で醜悪であることを証明するに十分であり、まさにそれはサタンの本質なのです。悪霊は人々に嫌悪感と軽蔑感を与え、絶対に人々の益になることも助けになることもありません。サタンとあらゆる種類の悪霊どもが唯一できることといえば、人々を堕落させ、害し、食い尽くすことだけです。

 悪霊が働いている者たち(悪魔に憑かれている人々)の主な兆候は次のとおりです。

 第一の特徴として、悪霊はこうしろ、ああしろと人々に命じたり、誰かに何かを告げたり、人々を誘導して偽りの預言をさせたりします。

 第二の特徴として、人々はしばしば祈りの中で誰にも理解することのできない、いわゆる「異言」を話すことがあり、話している本人ですらそれを理解できないのです。異言を話す者たちの中には、いわゆる「異言の解釈をする」ことができる人さえいます。

 第三の特徴として、非常に頻繁に啓示を受け、ある時はこのように、次の瞬間にはあのように、といった具合に悪霊によって振り回され、絶え間なく続く不安状態に陥る人がいます。

 第四の特徴として、悪霊が働いている人々は、急にこれをやりたい、あれをやりたいと、居ても立ってもおられなくなり、状況の良し悪しも考慮することなく、真夜中に外へとび出すことさえあり、その行動は極めて異常です。

 第五の特徴として、悪霊が働いている人々は、ものすごく傲慢で、理性に欠け、何を話しても人を見下すような態度をとり、他人に指図する立場でしかものを言うことができません。彼らは人々を途方にくれさせ、悪魔と同じように人々に物事を強制します。

 第六の特徴として、悪霊が働いている人々は、真理について交わることができず、ましてや神の働きに注意を払うことなどなく、神に対して反抗的な態度をとり、勝手気ままに行動し、あらゆる種類の暴挙を働いて教会の通常の秩序を乱します。

 第七の特徴として、悪霊が働いている人は、何の理由もなく自分を誰か他の者として押し通し、あるいは、自分は誰かに遣わされて来たのだから、自分の言うことに耳を傾けるべきだと主張します。彼がどこから来たのか、つきとめることのできる人はいません。

 第八の特徴として、悪霊が働いている人々は、たいてい正常な理性を持っておらず、どんな真理も理解することがありません。彼らは何かを受け取る能力を持ちあわせておらず、聖霊によって啓示を受けることもありません。また、誰の目にも明らかなのは、これらの人々は、何かを受けたとしても、余りにもでたらめで、正しいことが一切ないということです。

 第九の特徴として、悪霊が働いている人々は、働きの最中、他の人に講義することに特に重点を置きます。彼らはいつも乱暴にふるまい、常に妨害と混乱を引き起こします。彼らは何をやっても何を言っても、他の人たちを攻撃し、束縛し、堕落させることしかせず、人々の決意をくじいて否定的にならせ、再び立ち上がることができないようにします。彼らは正真正銘の悪魔であり、他の人に危害を加え、他人を弄び、食い尽くします。そして彼らは、事が自分の思い通りにいくと、ひそかに喜んでいるのです。これが悪霊の働きの主な目的です。

 第十の特徴として、悪霊が働いている人々は、極めて異常な生活をしています。彼らの目は人殺しのようにぎらつき、彼らが話す言葉は、あたかも悪魔が世界に舞い降りたかのように、非常に残酷です。このような人の生活にはまったく秩序がなく、彼らは非常に不安定で、飼い慣らされていない野獣のように気まぐれです。他の人々にとって、彼らは極めておぞましく、鼻持ちならないのです。まさしくこれが悪魔によって縛られた人間の特徴です。

 上に挙げた十の特徴は、悪霊の働きの主な表象です。これらの表象の一つでも顕れている人には、必ず悪霊が働いています。もっと正確に言えば、上記の悪霊の働きの表象を示している者は皆、それがどのような表象であれ、悪霊の働いている人々なのです。悪霊の働きのある人は、聖霊が働いている人、真理について交われる人をしばしば憎み、その人から遠ざかります。多くの場合、相手が優れているほど攻撃と断罪の対象にしたいと思います。相手が愚かなほど媚びへつらおうとし、特に接触しようと思います。悪霊は働くとき、常に真理を偽りと混同し、正を負、負を正と言います。これがまさに悪霊の所業です。『全能神教会における働きの手引き選集』より引用

 働きが明らかに超自然的である霊は悪霊であり、霊が人において行う超自然的な働きと発言はどれも悪霊の働きです。 悪霊の働き方はすべて異常で超自然的であり、主に次の六つの形で現れます。

 1. 人の発話を直接操る。その人自身が正常に語っているのではなく、悪霊が語っている明らかな証拠です。

 2. 悪霊が人に指示を出し、あれこれ命令しているのではないかという感覚。

 3. 部屋にいるとき、誰かが入って来るのがわかる。

 4. 他人には聞こえない声が自分に語りかけているのが頻繁に聞こえる。

 5. 他人が見聞きできないものを見聞きできる。

 6. 常に落ち着きがなく、独り言を言い、人と正常な会話ややり取りができない。

 悪霊が働いているすべての人には必然的にこれらの六つの兆候があります。そのような人は理知がなく、そわそわしており、他人と正常な付き合いができません。まるで理知が通用しないかのようで、どこか超然として現世離れしたところがあります。そのような人は悪霊に取り憑かれているか、悪霊が働きかけているのであり、悪霊の働きはすべて目に見え、超自然的です。これは悪霊の最も顕著な働きです。悪霊は取り憑いた相手をもてあそび、すっかり蝕みます。その人はゾンビのように理知を失います。このことは、悪霊が本質的に人を堕落させて呑みこむ悪しき霊である証拠です。悪霊の発言は容易に見極められます。それは悪霊の悪しき本質を見事に表しており、よどんだ水のようで、濁っており、臭いがひどく、死臭も発します。優れた素質の持ち主にとって、悪霊の言葉は空虚で面白みも啓発性もなく、うそと駄弁に過ぎず、混乱していて難解で、戯言だらけように感じられます。これは悪霊の戯言の最も顕著な特徴の一部です。高等な悪霊の中には、人を魅するために、神やキリストのふりをして語るものや、天使や有名人のふりをするものもいます。このような悪霊は神のある特定の御言葉や言い回し、語調を真似て語ることに長けており、真理を理解していない人はそのような高等な悪霊に騙されがちです。神の選民は、悪霊とは本質的に邪悪で厚かましく、たとえ高等な悪霊であっても、真理がまったく欠けていることを理解しなければなりません。悪霊は結局のところ、悪霊であり、悪霊の本質は邪悪であり、サタンと同類なのです。全能神教会における働きの手引き選集』より引用


すべては神の言葉が達成する

2020-12-23 16:54:49 | 言葉は肉において現れる

 神はそれぞれの時代において言葉を語り、働きをする。そして神は異なる時代において異なる言葉を話す。神は規則に従わず、同じ働きを繰り返さず、過去の事柄への懐旧の念を抱かない。神は常に新しく、古さとは無縁であり、毎日、新しい言葉を話す。あなたは今日従うべきことに従うべきである。それが人の責任であり本分である。現在における神の光と言葉を軸として実践することが不可欠である。神は規則に従わず、神の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、人の視点から話すので神は神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人に観念が生まれた。そのような人は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神が常に一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めないであろうか。人がそのように振舞うことを神が許すことができるであろうか。神がどの視点から話すにせよ、神にはそうする目的がある。もし、神が常に霊の視点から話したなら、あなたは神と関わりをもつことができるであろうか。それゆえ、神は時おり第三者の立場で語り、あなたに言葉を与え、あなたを現実性へと導く。神が行なう万事が適切である。要するに、すべては神になされているのであり、あなたはこのことを疑うべきではない。神は神であり、それゆえ、どの視点から話しても、神は常に神である。これは不変の真理である。どのように働きをしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。ペテロは深く神を愛し、神の心に叶う人であったが、神はペテロを主あるいはキリストとして証ししなかった。なぜなら、存在するものの本質は、それ自体であり、決して変わることはできないからである。働きにおいて、神は規則に従うのでなく、働きを効果的にし、人の神についての認識を深めるために種々の方法を用いる。神が働きをする方法のすべてが、人が神を知るのを助け、そしてそれは人を完全にするためである。神がどのような働きの方法を用いても、それぞれが人を作り上げ完全にするためである。神が働きをする方法のうちの一つが非常に長い時間続いたかもしれないが、それは人の神への信仰を強化するためである。したがって、あなたがたの心には疑いがあってはならない。これらはすべて神の働きの過程であり、あなたがたはそれらに従わなければならない。

 今日の話は、現実に入っていくことである。天に昇ることや、王として支配するといったことではない。現実に入ることを追い求めることのみについて話している。これよりも実践的な追求はない。王としての支配についての話は実践的ではない。人は好奇心が強く、宗教的観念を用いて神の現在の働きをいまだに評価する。神が働きをする方法を数多く経験してきたにもかかわらず、人はいまだに神の働きを知らず、相変わらずしるしや不思議を求め、そして依然として神の言葉が成就したかどうかを知ろうとする。これは驚くべき無知ではないであろうか。神の言葉が成就しなかったとしても、あなたはなお神が神であることを信じるであろうか。今日、教会で数多くのこのような人がしるしや不思議を見ようと待っている。彼らは、「もし神の言葉が成就するなら、その人は神である。もし神の言葉が成就しないなら、神ではない」と言う。それでは、あなたは神の言葉が成就したという理由で神を信ずるのであろうか、あるいは神が神自身であるから信ずるのであろうか。神への信仰についての人の考え方は、正されなければならない。神の言葉が成就しなかったとわかると、人は走り去っていく。これが神への信仰であろうか。神を信じているなら、すべてにおいて神の采配に委ね、神のすべての働きに従うべきである。神は実に多くの言葉を旧約聖書で語った。そのうちのどれかが成就したのをあなたは自分自身の目で見たのであろうか。それを見なかったために、ヤーウェは真の神でないと言うことができるであろうか。たとえ多くの言葉が成就しても、人間はそれをはっきり見ることができない。なぜなら、人間には真理がなく、何も理解していないからである。神の言葉が成就していないと感じると、逃げ去りたがる人がいる。そうするがいい。逃げ去ることができるかどうかを試してみなさい。走り去った後で、やはりあなたは帰ってくる。神はあなたを言葉で支配するのであり、もし教会や神の言葉から離れて行くなら、あなたには生きるすべがなくなる。もしこのことを信じないのなら、試してみるがよい。本当にただ去って行けると思っているのであろうか。神の霊があなたを支配している。あなたは離れていくことはできない。これが神の行政命令である。もし試したいと思う人がいるなら、試してみればよい。この人は神ではない、とあなたは言う。ならば、神に対して罪を犯せばよい。そして神が何を行うかを見てみればよい。あなたの肉は死なず、今までどおり食べ、衣服を着ることは可能である。しかし、精神的には耐え難いものとなる。あなたは圧迫と苦しみを感じ、それ以上の苦しみはない。人は精神的な苦しみと荒廃に耐えることはできない。おそらく肉の苦しみに耐えることはできるが、持続する精神的な圧迫や長く続く苦しみにはまったく耐えることができない。今日、しるしや不思議が一切見えないせいで否定的になる人がいる。しかし、どれほど否定的になっても、あえて逃げ去ろうとする人はいない。なぜなら、神は言葉で人を支配するからである。事実がいまだ到来していないにもかかわらず、誰も逃げられないのである。これは神の行為ではないであろうか。今日、神は人にいのちを与えるために地上に来た。神は、人が想像するように、神と人の平和な関係を確かなものにするためにしるしや不思議を示して人をなだめるようなことはしない。いのちに集中せず、神にしるしや不思議を示してもらおうとすることにばかり気持ちが向いているような人は皆パリサイ人である。イエスを十字架に釘付けしたのは、パリサイ人であった。神の言葉が成就したら神を信じ、成就しなかったら神を疑い、神を冒涜さえして、神への信仰に関する独自の考えに従って神を評価するならば、あなたは神を十字架に釘付けしているのではないであろうか。このような人は、本分において怠慢であり、貪欲に快楽に浸っている。

 ある面において、人の最大の問題は神の働きを知らないことである。人は否定の態度はとらないにしても、疑いの態度を示している。否定することはしないが、完全に認めてもいない。もし人に神の働きについての完全な認識があるなら、逃げ去ったりはしない。別の面の問題は、人が現実を知らないということである。今日、各々が関わってきたのは神の言葉である。本当に、未来において、しるしや不思議を見ることを考えるべきでない。わかりやすくあなたに説明するならば、今の段階であなたが知ることができるのは神の言葉だけである。そして、事実がなくとも、神のいのちはそれでもなお、人の中に作り込まれることが可能である。千年神の国のおもな働きとはこの働きであり、この働きを感じ取ることができないなら、あなたは衰えて倒れ、試練に陥り、また一層悲痛なことに、サタンの囚われの身となる。神はおもに言葉を話すために地上に来た。あなたが関りをもつのは神の言葉である。あなたが知るのは神の言葉である。あなたが聞くのは神の言葉である。あなたが従うのは神の言葉である。あなたが経験するのは神の言葉である。そしてこの肉となった神は、人を完全にするのにおもに言葉を用いる。しるしや奇跡を示さず、イエスが過去に行った働きは特に行わない。どちらも神であるが、肉でもある。両者の職分は同一ではない。イエスが現れたとき、イエスは神の働きの部分も行い、言葉も話した。しかし、イエスが成し遂げたおもな働きは何であろうか。イエスがおもに成し遂げたのは磔の働きであった。イエスは磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げたおもな働きであった。最終的に、イエスは後から来る人たちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それはおもに贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を贖い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国へ至る道をもたらした。その結果、その後に来た人は皆、「我々は十字架の道を歩き、十字架のために我々自身を犠牲にすべきだ」と言った。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるための他の働きも行い、そのための言葉も語った。しかし、イエスの職分はやはり磔であり、イエスが道を説きながら費やした三年半は、その後に起こるべき磔への準備であった。イエスが何度か祈ったのも磔のためであった。イエスの普通の人としての生涯と地上での三十三年半は、おもに磔という働きを完成するためであった。それはこの働きに取り組む力をイエスに与えるためであり、その結果として神はイエスに磔という働きを託した。今日、肉となった神は、どのような働きを成し遂げるのであろうか。今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。これまでずっと、神の働きのほとんどは、人間への施しであり、明かしであり、取り扱いであった。神は軽々しく人を呪いはしないし、そうするときでさえ言葉を通して行う。したがって、この肉となった神の時代において、神が再び病人を癒やし、悪魔を追い出すのを見ようとしてはならず、また常にしるしを探し続けてはならない。それは無意味である。そのようなしるしは、人を完全にしはしない。わかりやすく言うならば、つまり、今日、肉となった現実の神自身は行動せず、話すだけなのである。これが真理である。神は言葉を用いてあなたを完全にし、あなたに食べ物を与え、水をやる。神はまた言葉を用いて働き、さらに神の現実性をあなたに知らせるために、事実の代わりに言葉を用いる。このような神の働き方を感知することができるなら、否定的でいることは難しい。否定的なことに集中する代わりに、肯定的な事柄にのみ集中すべきである。つまり、神の言葉が成就しようとしまいと、あるいは事実の到来があろうとなかろうと、神はその言葉から人がいのちを得ることを可能にする。これはあらゆるしるしの中の最大のしるしである。そしてさらに、それは議論の余地のない事実である。これこそ、神を知るための最良の証拠であり、しるしよりも偉大なしるしである。このような言葉だけが、人を完全できるのである。

 神の国の時代が始まるや否や、神は言葉を放ち始めた。未来において、これらの言葉が徐々に成就していく。そしてそのときには、人はいのちへと成長する。人の堕落した性質を明らかにするために神が言葉を用いることは、より現実的であり、そしてより必要である。そして神は、人の信仰を完全にするために働きを行うのに言葉以外の何ものも用いない。なぜなら、今は言葉の時代であり、そしてそれは、人の信仰、決意、協調性を必要とするからである。終わりの日の、肉となった神の働きとは、人間に奉仕し与えるために言葉を用いることである。肉となった神がその言葉を話し終えてはじめて、言葉は成就し始める。神が話している間は、神の言葉は成就しない。なぜなら、神が肉の段階にあるとき神の言葉が成就することはできないからである。これは、神が肉であり霊ではないのを人が見ることができるようにするためだからである。この結果、人は自身の目で神の現実性を見ることができる。神の働きが完了する日、すなわち地上で神によって話されるべきすべての言葉が話されたその日、神の言葉は成就し始める。今は、神の言葉の成就の時代ではない。なぜなら神は言葉をまだ話し終えていないからである。従って、神が地上でその言葉をまだ話しているのを見ると、あなたは神の言葉が成就するのを待ち構えてはいけない。神が言葉を話すのを止め、地上での神の働きが完了する時、それが神の言葉が成就し始める時である。地上で神が話す言葉の中には、ある観点では、いのちの提供が存在し、もう一つの観点では、預言が存在する。来るべき諸事についての預言、行われるであろう諸事についての預言、さらに未だ成し遂げられていない諸事についての預言である。イエスの言葉の中にも預言はあった。ある観点からは、イエスはいのちを供給し、別の観点からは、イエスは預言を話した。今日、言葉と事実を同時に遂行することについて語られることはない。なぜなら、人が自身の目で見ることができることと、神が行うこととの間の差異は大きすぎるからである。ひとたび神の働きが完了したなら、神の言葉は成就し、言葉の後に事実が到来する、とだけ言うことができる。終わりの日において、肉となった神は地上において言葉の職分を果たす。そしてこれを実行するとき、神は言葉だけを話し、その他の問題には注意を払わない。ひとたび神の働きに変化が現れたら、神の言葉は、成就され始める。今日、言葉はまず、あなたを完全にするために用いられる。神が全宇宙で栄光を獲得する時、それは神の働きが完了する時、話されるべきあらゆる言葉が話され、全ての言葉が事実になった時である。神は、人類が神を知ることができるように言葉における働きをするため、終わりの日に地上にやって来た。その結果、人類は神であるものを知り、神の知恵と、神の言葉がもたらす神の驚くべき業を全て知ることが可能になる。神の国の時代を通じて、神は全人類を征服するために言葉を用いる。未来においては、神の言葉は、あらゆる宗教、分野、国家、教派にも届くであろう。神はすべての人を征服し、神の言葉が権威や力を帯びるのをすべての人に知らしめるために、言葉を用いる。したがって今日、あなたがたは、神の言葉にのみ面するのである。

 今の時代に神によって話される言葉は、律法の時代に話された言葉とは異なり、また恵みの時代に話された言葉とも異なる。恵みの時代には、神は言葉の働きをせず、全人類を贖うためにキリストは十字架に磔にされると語っただけである。聖書は、イエスがなぜ磔にされる運命にあったのか、さらに、イエスが十字架上で受けた苦しみ、そして人がどのように神のために磔にされるべきかだけを記述する。その時代を通じて、神によってなされる働きはすべて、キリストの十字架上の死を中心に展開していた。神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった」。このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

 わたしは以前「しるしや不思議を見ることを重視する者は、見捨てられるだろう。彼らは、完全にされる人たちではない」と言った。わたしは非常に多くの言葉を話してきたが、人はこの働きについての認識を微塵も持ち合わせない。そして、ここにいたっても、人は依然として、しるしや奇跡を求めている。あなたの神への信仰はしるしと不思議を見ることの追求でしかないのであろうか。それともいのちを獲得するためなのか。イエスも多くの言葉を話したが、その一部は今日まだ達成されていない。イエスは神ではないと言うことができるであろうか。神は、彼がキリストであり、神の愛する子であることを示した。あなたにこれを否定することができるのか。今日、神は言葉を話すだけである。そしてもし、あなたがこのことを完全に知らないなら、あなたはしっかりと立つことはできない。あなたは神であるという理由で神を信じるのか。あるいは神の言葉が成就されたかどうかにもとづいて、神を信じるのか。あなたは、しるしや奇跡を信じるのか。それとも神を信じるのか。今日、神はしるしや奇跡を示さない。それでもそれは本当に神なのか。もし、神が話す言葉が成就されないなら、それは本当に神なのか。神の実質は、神が話す言葉が成就したかどうかによって決められるのか。神を信じる前に神の言葉の成就をいつも待望している人がいるのは何故なのか。このことは、彼らが神を知らないということを意味しないのであろうか。このような観念をもつ人たちは、神を否定する人たちである。彼らは、神を評価するのに、自らが持つ観念を用いる。もし、神の言葉が成就するなら、彼らは神を信じ、もし言葉が成就しないなら、彼らは神を信じない。さらに、彼らは常にしるしや不思議を見ることを追求する。このような人は現代のパリサイ人ではないであろうか。あなたが堅く立つことができるかどうかは、あなたが真の神を知っているかどうかにかかっている。これは決定的に重要である。あなたの中で神の言葉の実在性が偉大であればあるほど、神の実在性に関するあなたの認識も偉大になり、あなたは試練の中でますます堅く立つことができるようになる。しるしや不思議を見ることを重視すればするほど、堅く立つことができなくなり、試練の中で躓く。しるしや不思議は、基礎ではない。神の実在のみがいのちである。一部の人たちは、神の働きによって達成されるべき効果を知らない。彼らは、神の働きについての認識を追求せず、当惑の中で日々を送っている。彼らが求めるのは、神に彼らの欲望を満たしてもらうことだけである。そうなってはじめて、彼らは自らの信仰において真摯になる。彼らは、もし神の言葉が成就するならいのちを追求するが、神の言葉が成就しないなら、いのちを追求する可能性はないと言う。人は、神への信仰は、しるしや不思議を見ることを追求することであり天国や第三の天まで引き上げられることを追求することであると考えている。神への信仰は、神の実在性に入って行こうとすること、いのちの追求、さらに神のものとされることの追求であると言う者は一人もいない。そのような追求における意味は何であろうか。神についての認識や神の満足を追求しない者は神を信じない者である。彼らは神を冒涜する者である。

 今やあなたがたは、神への信仰とは何かを理解したであろうか。神への信仰は、しるしや不思議を見ることを意味するであろうか。それは天国に昇ることを意味するであろうか。神を信じることは簡単なことでは絶対にない。あのような宗教的慣行は、一掃されるべきである。病人の癒しや悪魔の追放を求めること、しるしや不思議を重視すること、神の恵みや平和や喜びをさらに欲しがること、明るい未来や肉の快楽を求めること、これらは宗教的慣行であり、そのような宗教的慣行は、漠然とした信仰の種類である。今日の実際の神への信仰とは何なのか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確に言うならば、すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、神への信仰における最低必要事項である。神への信仰はおもに、肉の生活から神を愛する生活への転換、堕落の中の生活から神の言葉のいのちにおける生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰はおもに、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためのものである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見たいという願望を中心とせず、個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死ぬまで神に従うことを追求することでなければならない。これが、神への信仰の主要な目的である。神の言葉を飲み食いするのは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲み食いすることは、神についてのより大きな認識をもたらす。そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。神についての認識があってはじめて、あなたは神を愛することができ、そしてそれが、人が神への信仰において持つべき目標である。もし、神への信仰において、いつも、しるしや不思議を見ようとするなら、そのような神への信仰の考え方は間違っている。神への信仰とは、おもに、いのちの現実として神の言葉を受け入れることである。神自身の口から出た言葉を実践し、あなた自身の内部でそれらの言葉を実行することでのみ、神の目的は達成される。神を信じることにおいて、人は神によって完全にされるように、神に服従することができるように、神に完全に従順でいられるように努力すべきである。もし不平もなく神に従うことができ、神の希望を心に留め、ペテロの霊的背丈に達し、そして神が言うところのペテロの流儀を所有するなら、それはあなたが神への信仰に成功したときであり、そしてそれは、あなたが神のものとされたことを意味するのである。

 神は自身の働きを全宇宙において行う。神を信じる者はすべて、神の言葉を受け入れ、神の言葉を飲み食いしなければならない。何人といえども、神によって示されるしるしや不思議を見ることで神のものとされることはあり得ない。時代を超えて、神は常に、人を完全にするのに言葉を用いてきた。したがって、あなたがたの注意のすべてをしるしや不思議に向けるべきではなく、神によって完全にされるよう努めるすべきである。旧約聖書の律法の時代において、神はいくつかの言葉を語った。そして恵みの時代において、イエスもまた多くの言葉を話した。イエスが数多くの言葉を話した後、後の使徒や弟子たちが人々を導き、イエスが発した戒めに従って実践し、イエスの語った言葉と原則に従って経験するようにさせた。終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。終わりの日に神が時代を終え、人が完全にされたならば、そのとき、人はしるしや不思議を見るにふさわしくなる。神を認識するようになり、神が何をしようと神に従うことができるとき、あなたはしるしと不思議を見ても、神についての観念をこれ以上もたなくなる。今、あなたは堕落し完全に従順であることはできない。あなたはそんな状態にいる自分のことを、しるしや不思議を見るにふさわしいと思っているであろうか。神がしるしや不思議を示す時は、神が人を罰するときであり、時代が変わるときでもある。さらに、時代が完結するときでもある。神の働きが順当に遂行されているとき、神はしるしや不思議を示さない。しるしや不思議を示すことは神にとって極めて容易であるが、それは神の働きの原則ではないし、神による人の経営(救い)の目的でもない。もし、人がしるしや不思議を見たら、そしてもし、神の霊の体が人の前に現れるようなことがあったら、神を信じない人がいるであろうか。わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか。終わりの日の神の働きは、実際の働きである。イエスの時代に、イエスは人を完全にするためではなく、人を贖うためにやって来た。したがって、イエスは人々を自身に従わせるためにいくつかの奇跡を見せた。なぜなら、イエスはおもに磔という働きを完了するためにやってきたのであり、しるしを示すことは彼の使命の働きの一部ではなかった。そのようなしるしや不思議は、イエスの働きを効果的にするために行われた働きであった。それらは追加的な働きであり、その時代全体の働きを表すものではなかった。旧約聖書の律法の時代においては、神はいくつかのしるしや不思議を示した。しかし、神が今日行う働きは、実際の働きであり、神は今や、決してしるしや不思議を示さない。神がしるしや不思議を示したとすれば、神の実際の働きは掻き乱され、神はそれ以上の働きを行うことができなくなるであろう。もし神が言葉を用いて人を完全にすると言いながら、しるしや不思議も示したとしたら、人が神を真に信じるかどうかを明らかにすることができるであろうか。したがって、神はそのようなことは行わない。人の内面には宗教的なものがあふれている。人の内面にある宗教的な観念や超自然的な事柄のすべてを追い出し、人に神の実在性を知らしめるために、終わりの日に神はやって来た。抽象的で空想的な神のイメージを、言い換えれば、全く存在しない神のイメージを取り去るために、神はやって来た。したがって、今や、唯一の貴重な事とは、あなたが実在性について認識を持つことである。真理は、あらゆるものより優先する。あなたは今日、どれだけ多くの真理を持っているだろうか。しるしや不思議を示すものはすべて神なのか。悪霊もしるしや不思議を示すことができる。彼らはすべて神なのか。神への信仰において、人が求めるのは真理であり、追求するのはいのちである。しるしや不思議ではない。これが神を信じる人すべての目標でなければならない。


贖いの時代における働きの内幕

2020-12-22 20:50:07 | 全能神の発表

 わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそが万物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。わたしの六千年の経営計画は三段階に分けられており、わたしがそのように働くのは被造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であることを知らしめるという成果を達成するためである。したがって、わたしの六千年にわたる経営計画における最初の働きのあいだ、わたしは人々を導いたヤーウェの働きである律法の働きを行なった。第二段階では、ユダヤの村々において恵みの時代の働きが始まった。イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表した。イエスは受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、そのため「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上における神の働きの拠点、発祥地を定め、律法と戒めを発した。これらがヤーウェが行なった二つの働きであり、それは律法の時代を代表する。イエスが恵みの時代に行なった働きは律法を発することではなく、それらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることであった。イエスは恵みの時代をもたらすために来た先駆者であったが、その働きの中心は贖いであった。よってイエスの働きもまた二つの部分から成る。それらは新しい時代を切り開くこと、そして十字架刑を通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。これで律法の時代は終わり、恵みの時代が始まった。

 イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、効果を及ぼすためには、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、人々は赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

 受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情を込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々にはイエスは常に寛容であり、決して復讐を求めず、人々の罪を赦し、人々に悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹への愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、病人をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためであった。どこへ行っても、イエスは従ってくる人すべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、足の不自由な人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにした。身分が一番低かった人々や乏しい人々、罪人さえ招いて共に食卓につき、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強く、「羊飼いが羊を百匹持っていて、その一匹が迷ったとすれば、九十九匹を残しておいて、迷った一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう」とさえ言った。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、その追随者を愛した。彼らは愚かしく無知で、イエスの目には罪人であり、さらには社会において最も身分の低い者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこれらの罪人を自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスは祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らのもとではしもべのようにふるまい、利用され、なぶり殺されるままにし、無条件に彼らに服従した。追随者にとってはイエスは愛すべき救い主であったが、上座から人々に説教したパリサイ人に対しては、イエスは慈しみや憐れみではなく、嫌悪と怒りを示した。イエスはパリサイ人のあいだではあまり働くことはなく、ごくまれに彼らに教えを説き叱責したが、彼らのもとで贖いの働きを行なうことはなく、しるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを追随者に与え、これら罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる屈辱に耐え、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働きの全体である。

 イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。