全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

全能神教会御言葉讃美歌「神の意志はいつも全ての人に明らかである」

2017-09-30 15:19:27 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

 

の意志はいつも全ての人に明らかである

人類の創造以来 変わりなく
神は自らの存在や意志 所有するものや性質を
全ての人々に対して いつも明らかにしている
1
神は自らの本質や性質を 
隠したことなど 一度もなかった
神は自らのその意志さえも 
故意に隠したことなど 一度もなかった
人々が 神の働きに心を寄せることをせず
人々が  神のその意志に心を寄せることをせず 
人々が 神の全てに心を向けることをしないがために
神に対する理解は 哀れなほど低いのだ
人類の創造以来 変わりなく
神は自らの存在や意志 所有するものや性質を
全ての人々に対して いつも明らかにしている
2
神は自らの実体を隠しながらも 
いつも人々の 傍らにいて
神は本質や性質 その意志さえ
どの瞬間にも現している
それは、神の実体さえ明らかであるという意味だ
全ての人々の前に 明らかであるというのに
人々の盲目のゆえ 神の現れを見ることがない
人々の不従順のゆえ 神の現れを見ることがない
人類の創造以来 変わりなく
神は自らの存在や意志 所有するものや性質を
全ての人々に対して いつも明らかにしている
  
人類の創造以来 変わりなく
神は自らの存在や意志 所有するものや性質を
全ての人々に対して いつも明らかにしている
『言葉は肉において現れる(続編)』より


 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 




全能神の発表「二十一番目の言葉」

2017-09-28 16:58:07 | 全能神の発表

 

 人間はわたしの光のただ中に落ち、わたしによる救いを受けて堅固に立つ。わたしが全宇宙に救いをもたらすとき、人間はわたしによる回復の流れに加わる方法を見つけようとする。しかし、この回復の激流で大勢が跡形もなく流される。溺れ、激流に流される者が大勢いる。また、激流の中に堅固に立ち、けっして方向感覚を失わないものも大勢いる。そういう者は、今日まで流れに従ってきたのだ。わたしは人間と足並みをそろえて進む。しかし、人間はまだ誰もわたしを知らない。人間はわたしが外側にまとっている衣服しか知らない。そして、わたしの内に隠されている富を知らない。わたしは毎日人間に施し、与えているのだが、人間は真に受け入れるということを知らず、わたしの与える富をすべて受け取ることができない。わたしは人間の堕落を一つ残らず知っている。わたしには、人間の内面は水面の明るい月のようなものだ。わたしは人間に対してふざけているのではなく、いい加減なことをしているのでもない。人間には、自身の責任をとることができず、そのため、全人類はいつでも邪悪なのだ。そして、今日でも、そうした堕落の行いから抜け出ることができないでいる。惨めな、哀れな人間たちよ。人間がわたしを愛しても、わたしの霊の意向に従うことができないのは、なぜだ。わたしはほんとうに自分を人類に明かしたではないか。人類はほんとうに、けっしてわたしの顔を見ていないのか。わたしが人類に憐れみを示すことが少なすぎるのか。おお、全人類の反逆者たちよ。彼らはわたしの足の下で滅ぼされなければならない。彼らはわたしの刑罰により、消えなければならない。そして、わたしの大事業が完成する日、全人類が自身の醜い顔を知るよう、人類の中から追い出されなければならない。人間がほとんどわたしの顔を見ることがなく、また、わたしの声を聞くこともないのは、全世界があまりに混乱していて、その騒音が大きすぎるので、人間がわたしの顔を捜して、わたしの心を理解しようとしないためだ。これが人間の堕落の原因なのではないか。だから人間は貧しいのではないのか。人間はみな、いつでもわたしから与えられてきた。そうでなければ、わたしが憐れみ深くなければ、誰が今日まで生きてこられただろう。わたしの内の富は比類ない。しかし、あらゆる災いもまた、わたしの手の内にある──そして、いつでも好きな時にわたしの災いから逃れることのできる者が、誰かいるのだろうか。人間の祈りで災いを免れることができるのだろうか。それとも、人間の心の流す涙で災いを免れることができるのだろうか。人間は真にわたしに祈ったことが全くないので、全人類のうち誰一人としてその生涯を光の中で過ごした者はいない。人間たちは、断続的に現れる光の中で生きているのだ。そのために、人間は今日の貧しい状態になったのだ。

 わたしから何かを得るために、わたしのために全力を尽くそうと、誰もがうずうずしている。そこでわたしは、人間の心の働きに対応して、真の愛を人間の内に呼び起こすために約束をする。人間を強くするのは、ほんとうに人間の真の愛なのだろうか。天でわたしの霊を動かしたのは、人間のわたしへの忠誠だろうか。人間のすることによって天が感動することはいささかもなかった。そして、もしわたしの人間に対する扱いが、人間の行動すべてに基づいているのなら、人間はみなわたしの刑罰を受けながら生きることになる。大勢の人が涙で頬をぬらしているのを見た。また、大勢の人がわたしの富と引き換えにしようと心をささげるのをも見た。そうした「敬虔さ」にもかかわらず、そうした人間の衝動的行為の結果として、わたしがすべてを人間に与えたことは、ない。人間はけっして、すすんでわたしの前に自身のすべてをささげることがないからだ。わたしはすべての人間の仮面をむしりとり、火の海に投げ込んだ。その結果、人間のいわゆる忠誠心と訴えは、けっしてわたしの前で長続きしなかった。人間は空の雲のようなもので、風が吹きすさぶと、その強烈な力を恐れ、急いでその後をふわふわと追っていく――従わなければ撃たれるだろうと深く恐れて。これが人間の醜い顔ではないのか。これが、いわゆる人間の従順ではないのか。これが人間のいわゆる「真心」、偽りの善意なのではないか。多くの人は、わたしの口から出る言葉を信じようとしないし、わたしの評価を受け入れようともしない。そこで、彼らの言葉と行いには反抗的な意図が反映される。わたしの話すことは、人間の本来の性質と正反対のものだろうか。わたしは人間に、「自然界の理法」にしたがって、ふさわしい定義を与えたのではないか。人間は、真にわたしに従うことをしない。もしほんとうにわたしを求めていれば、こんなに語る必要はなかった。人間は無価値な屑で、人間を前進させるには刑罰を用いなければならない。もしそうしなければ、たとえわたしが与える約束が人間を喜ばせるには十分だとしても、どうして人間の心を動かすことができよう。人間は長い年月、苦しみの中を足掻きながら生きてきた。人間は常に絶望の中で生きてきたと言える。その結果、落胆し、肉体的にも精神的にも疲れ果てており、そのため、わたしが与える富を喜び受けることをしない。今日でも、わたしから霊の喜びをすべて受け入れることのできる者は、誰一人いない。人間は、貧しい状態にとどまることしかできず、終わりの日を待っている。

 多くの人は、ほんとうにわたしを愛したいと願うが、彼らの心が自分のものではないために、自身を制御できない。多くの人は、わたしの与える試練の中で、ほんとうにわたしを愛している。しかし、わたしが本当に存在することを把握できず、わたしの実在ではなく、単に空虚の中でわたしを愛しているに過ぎない。多くの人は、わたしの前に心を差し出して後、もはや顧みない。そして、彼らの心は機会があり次第、サタンに掠め取られる。その後、彼らはわたしを離れる。多くの人は、わたしが言葉を与えるとき、ほんとうにわたしを愛する。しかし、霊でわたしの言葉を愛するのではなく、公共物ででもあるかのように気安く用いて、気が向けばいつでも元の場所に投げ戻すのだ。人間は苦痛の中でわたしを求め、試練の中にあって、わたしを探す。平和の時にはわたしを楽しみ、危険になると、わたしを否定する。忙しい時にはわたしを忘れ、暇な時には、わたしに対しておざなりな態度をとる。しかし、けっして誰も生涯を通じてわたしを愛しはしない。人間がわたしの前で熱心であればいいと思う。わたしに何かよこせとは言わない。ただ、すべての人がわたしを真剣に受け止め、わたしを欺くのではなく、誠意を人間の内に取り戻せるようにしたいのだ。わたしの啓きや照らし、努力はすべての人を貫く。しかし、人間のあらゆる行動の真相が人々を貫き、わたしに対する欺きが貫く。人間には母の胎にいるときから欺きの種が備わっていたものででもあるかのようだ。生まれながら欺きの特別の技術をもっているかのようなのだ。そのうえ、人間はけっしてそのことを漏らさない。誰一人、そうした欺きの技術の源を見通した者はいない。その結果、人間はそれと気付かずに欺きの中で生き、自身を許しているかのようで、それが、自分で意図的にわたしを騙そうとしているのではなく、神の計らいででもあるかのように振る舞う。これこそが、人間がわたしを欺く原因なのではないか。これは人間の狡猾なしわざではないのか。わたしはけっして人間の巧みな言葉に惑わされたことはない。わたしはずっと以前に人間の本質を見抜いていたのだから。人間の血にどれほどの不純物が含まれているか、どれほどサタンの毒がその髄に潜んでいるか、誰が知っているのか。人間は日々にそれに慣れ、サタンのしわざに無感覚になり、「健康的な生き方」を見つけることには何の関心もない。

 人間がわたしから距離を置いているとき、人間がわたしを試すとき、わたしは雲の中に身を隠す。そのため、人間はわたしの痕跡も見出すことができず、悪人の手の内で生きて、言われるままのことをしているのだ。人間がわたしと親しくしているとき、わたしはその前に現れ、隠れない。そして、そういう時には、人間はわたしのやさしい面を見る。人間の目が突然開かれ、それとは知らないうちに、わたしへの愛がその内に生じる。心に突然、たとえようもない温かさを感じ、宇宙にわたしの存在することをどうして知らなかったのかと、不思議に思う。そうして、人間はわたしの愛の深さをより感じる。さらにはわたしの尊さをも、より深く感じる。その結果、二度とわたしから離れたくないと願う。わたしを生きていくための光と見て、わたしが去ることを深く恐れ、しっかりとわたしを抱く。わたしは人間の熱意に動かされないが、その愛には憐れみをもって応える。この時、人間は直ちにわたしの試練の中で生きる。わたしの顔が心から消えると、人間はすぐさま、人生が虚しく思われ、逃れたいと思うようになる。そうしたとき、人間の心が明らかになる。わたしの性質のゆえにわたしを抱くのではなく、愛するのなら守ってほしいと願うのだ。しかし、わたしの愛が人間に反攻すると、すぐさま気が変わる。わたしとの契約を破棄し、わたしの裁きから離れる。わたしの慈しみ深い顔を二度と見ようとせず、そこで、わたしについての意見を変え、わたしが人間を救ったことはないと言うのだ。真の愛は、ほんとうに憐れみだけしか意味しないのか。人間は、ほんとうに、わたしの輝く光の中にいるときだけ、わたしを愛するのか。人間は昨日を振り返るが、今日を生きる──それが人間の状態ではないのか。あなたがたは、ほんとうに、明日もまだこのような状態なのだろうか。わたしが望むのは、人間が表面的なもので満足するのではなく、心の底からわたしを求める気持ちをもつことなのだ。

1992321



私たちについて:全能神教会の紹介

もっと知る:  [東方閃電全能神教会はどうやって創られたでしょうか


全能神教会御言葉讃美歌「全ての創造物は神の支配の下に」

2017-09-27 17:41:13 | 全能神教会御言葉讃美歌

全ての創造物はの支配の下に


神は全てのものを創った  
故に神は創造物全てを
彼の支配下に置き
自らの支配に従わせる
神は全てのものに命じた
そして神の手の内に支配する
命あるもの、山、川、そして
人間も皆、神の支配下にある
空にあるもの地上にあるもの
全てが神の支配下にある
選択の余地などなく
全てが従わなければならない
これが神の定めであり神の権威である

神は全てのものを創った  
故に神は創造物全てを
彼の支配下に置き
自らの支配に従わせる
あらゆるものが神により命じられる
神は全てのものを並べ位づけをする
それぞれが分類され
神の意志によって位置づけされる
空にあるもの地上にあるもの
全てが神の支配下にある
選択の余地などなく
全てが従わなければならない
これが神の定めであり神の権威である

どんなに偉大なものであろうと
神に優るものはない
全てのものが神の創った人類に仕え
あえて神に逆らい要求をつきつける者などいない
神の創造物である人間は
その義務を果たさなければならない
それが主人であれ支配者であれ
その地位がどんなに高かろうとも
神の支配下では依然として小さな人間に過ぎない
とるに足らない人間は、神の創造物であり
神を超えることなど決してないのである
『言葉は肉において現れる』より

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。



全能神教会御言葉カード

2017-09-26 23:30:37 | 全能神御言葉カード

 

 

東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


全能神の発表「二十番目の言葉」

2017-09-25 20:59:50 | 全能神の発表

 

 わたしの家の富は数知れず、計り知れない。しかし、人間は誰も、それを享受しに来たことがない。人間は自分でそれらを楽しむことができないし、また、自分の力で自らを守ることもできない。その代わりに、いつでも他者を頼みとしてきた。わたしの見てきた者たちの中で、自分の意思で直接わたしを求めてきた者は一人もいない。彼らはみな、他人に促され、大多数にしたがってわたしの前に来る。そして、自分の生活を豊かにするために、代価をはらったり、時間をかけたりすることを好まない。それゆえ、人間の中で、これまで誰一人実際の中で生きたものはおらず、みな無意味な人生を生きている。人間の長年の間に培われた習慣のため、すべての人の体は、地の土のにおいに満ちている。その結果、人間は無神経になった。世界の荒廃するのに気付かず、冷たい世の中で自らの楽しみを求めることに忙しい。人間の生活には、少しのぬくもりもなく、人間らしさや光がまったくない──それなのに、人間はそれに慣れていて、価値のない人生を送り、何事も成し遂げず、走り回っている。瞬く間に死が迫り、人間は悲痛な死を迎える。人間はこの世で何事も成し遂げず、何も得ない──ただあわただしくやって来て、大急ぎで去ってゆく。その誰一人、わたしの目には何ももたらさず、何も持ち去らなかった。そこで、人間は、この世が不公平だと感じる。しかし、誰も急いで去ろうとは思っていない。わたしの天からの約束が突然人間の中に実現する日を待っているだけだ。そうなれば、たとえ道を踏み外しても、その時には、もう一度永遠の命への道が開かれるというのだ。そうして、わたしがほんとうに約束を守るかどうか、わたしのすることなすことすべてをじっと見ている。患難の中にいるとき、あるいは、はなはだしい苦痛の中にいるとき、試練にさらされ、倒れそうなとき、人間は生まれた日を呪い、少しでも早く苦境から抜け出し、別の理想的な場所に移りたいと考える。しかし、その試練が過ぎ去ると、人間は喜びに満たされる。地上に生まれた日を祝い、自分の誕生日を祝福するよう、わたしに願う。その時点では、もはや以前の誓いには触れず、再び死が訪れるのではないかと、深く恐れる。わたしの手が世界を引き上げると、人々は喜びに舞い踊る。もはや悲しまず、わたしを頼みとする。わたしが顔を手で覆い、人々を地中に押し込むと、人々はただちに息苦しくなり、かろうじて生きているという状態になる。人々はわたしが彼らを滅ぼすことを恐れ、わたしに向かって声を上げる。人間はわたしが栄光を得る日を目の当たりにしたいと願っているからである。人間はわたしの日を自身の存在の資本だと考え、わたしの栄光が訪れる日の到来を待つために今日まで存続しているのだ。わたしの口から出た祝福は、終わりの日に生まれた者は幸いで、わたしの栄光すべて見ることができると告げている。

 長い間に、大勢が失望して、しぶしぶこの世を去った。そして大勢が希望と信じる心を持ってこの世に来た。わたしは大勢が来るようにし、大勢を去らせた。無数の人々がわたしの手を通り過ぎた。多くの霊がよみに投げ込まれ、多くが肉の体で生き、多くが死んでは、この世に生まれ変わった。しかし、けっして誰も今日のの国の祝福を受ける機会は得なかった。わたしは人間に実に多くを与えた。しかし、人間はほんのわずかしか得ていない。サタンの勢力が襲ってきて、人間がわたしの富を享受できないようにしたためだ。人間は、目にする幸いは得たが、けっして完全に享受することはできなかった。人間は、天からの富を受け入れる宝庫をその体の中に発見することがなかった。そのため、わたしが与えた祝福を失ったのだ。人間の霊こそは、人間をわたしの霊に繋ぐためのものそのものではないか。なぜ人間は、けっしてその霊においてわたしにつながることがないのか。なぜ人間は肉においてわたしに近づきながら、霊においては、そうできないのか。わたしの真の顔は、肉のものなのか。なぜ人間はわたしの本質を知らないのか。人間の霊には、わたしの痕跡がほんとうに存在しないのか。わたしは人間の霊から完全に消え去ったのか。もし人間が霊界に入らないのなら、どうしてわたしの意図が把握できよう。人間の目には、霊界を直接見通すことのできる力があるとでもいうのか。わたしは何度も霊で人間に呼びかけた。しかし、人間は、わたしが突き刺しでもしたかのように振る舞い、わたしが別の世界に連れて行こうとしているのではないかと、ひどく恐れ、離れた所からわたしを見ている。何度も人間の霊に問いかけてみたが、人間はまったく気づかないで、わたしが彼の家に入って、その機会に持ち物をすべて奪うのではないかと、深く恐れている。そこで、わたしを締め出すので、わたしは、冷たい、固く閉ざされた「扉」に向かい合うことになった。人間が倒れ、わたしが助けたことは何度もあるが、人間は気がつくと、すぐさまわたしを去り、わたしの愛に触れず、用心深い目を向ける。人間の心が温かくなることはなかった。人間は感情のない冷血動物だ。わたしの抱擁に温まっても、けっしてそれで深く動かされることがない。人間は山の野蛮人のようなものだ。人間は一度たりとも、わたしの人類に対する思いを大切に思ったことがない。人間はわたしに近づきたがらず、山々の中に住むことを好む。そこでは野獣に脅かされているのだが、それでも、わたしの内に逃げ込もうとはしない。わたしは人間に強制しない。わたしの働きをするだけだ。陸地のすべての富を楽しみ、海に飲み込まれる危険から解放されようと、いつの日か人間は大海原をわたしに向って泳ぐことだろう。

 わたしの言葉がすべて終わった後、わたしの国は徐々に地に形を現し、人間は次第に正常に戻り、そうして、地上にわたしの心の国が築かれる。その国では、神の民全員が正常な人間の生活を取り戻す。凍える冬は去り、春の訪れた町々の世界となり、一年中春が続く。もはや人々は暗く惨めな人間世界に臨まない。もはや人間世界の凍える寒さを耐えることがない。人々は互いに戦うことなく、国々は互いに戦争を仕掛けることがない。もはや大虐殺が行われて血が流されることはない。地はすべて幸福に満たされ、どこも人と人とのぬくもりが満ちる。わたしは世界を動き回り、玉座の上から楽しむ。わたしは星々の間で暮らす。そして、天使たちがわたしに新しい歌や踊りをささげる。天使たちは、もはや自身のもろさに涙がほほを伝うことはない。もはや天使がわたしの前ですすり泣くのを聞くことがない。そして、もはや誰も苦難をわたしに訴えることがない。今日、あなたがたはわたしの前で生きている。明日、あなたがたはみな、わたしの国で暮らすようになる。これは、わたしが人間に与える最大の祝福ではないか。あなたがたは、今日支払う代価のために、将来の祝福を相続し、わたしの栄光の中で生きることになる。あなたがたはまだ、わたしの霊の本質と関わりたくないのか。あなたがたは、まだ自分を殺したいのか。人間は、それがはかないものであっても、自分の目に見える約束は追い求めたがる。しかし、それがたとえ永遠のものであっても、明日の約束を受け入れようとする者は誰もいない。人間の目に見えるものを、わたしは根こそぎにする。人間には感知できないことを、わたしは成し遂げる。これが神と人との違いである。

 人間はわたしの日を記録する。しかし、誰一人、厳密な日付を知った者はいない。そのように、人間は昏迷した状態で生きる。人間の切望が無限の空に響き渡り、そして消えるので、人間は何度も繰り返し希望を失い、そのために、現在の状況に陥ったのだ。わたしの言葉の目的は、人間に日付を追わせることではなく、また、絶望の結果、自滅に追い込むことでもない。人間がわたしの約束を受け入れることを願う。世界中の人々がわたしの約束に与ることを願う。わたしが求めるのは、生き生きとした生き物である。死に染まった死体ではない。わたしはゆったりと国のテーブルにつき、地のすべての人々に、わたしの審査を受けよと命じる。わたしの前には、清くない者の存在を許さない。人間がわたしの働きの妨げをすることは、誰にも許さない。わたしの働きを妨げる者はみな、地下牢に放り込まれ、釈放された後でも、災いに見舞われる。地上の焼きつけるような炎を浴びるのだ。わたしが受肉しているとき、誰でも肉の体のわたしと、わたしの働きについて議論する者を、わたしは憎む。わたしには地上に身内がないのであり、誰であっても、わたしを同等の存在を見て、わたしを引き寄せて昔のことを語ろうとする者は滅ぼされるのだということを、すべての人間に、わたしは何度も思い起こさせた。これがわたしの権限である。そうしたことについて、わたしは人間に対して、まったく許容しない。わたしの働きを妨げてわたしに意見しようとする者は、刑罰を受ける。けっして赦されることがない。もしわたしが率直に話さなければ、人間はけっして理解するに至らず、気づかないままわたしの刑罰を受けることになる。人間は肉の体のわたしを知らないからである。

1992320


 

私たちについて:全能神教会の紹介

世の終わりのキリスト全能神は、イエスの再臨です、「東方閃電」全能神教会を考察しまょう




 

 


全能神の発表「十九番目の言葉」

2017-09-19 23:09:09 | 全能神の発表

 

 わたしの言葉を自身の生存の基とするのが人間の正しい責務である。人間は、わたしの言葉のすべての部分において自身を形作らなければならない。そうしなければ、自分で問題を起こすことになり、自ら滅びを招くことになる。人間はわたしを知らない。そして、そのため、自分のいのちをわたしに捧げるのではなく、わたしの前でがらくたを手に、意気揚々と歩き回り、それでわたしを満足させようとするだけなのだ。しかし、わたしは、そうしたものに満足せず、人々に要求し続ける。わたしは人間からの捧げ物を愛するが、ゆすりは憎む。人間はみな貪欲さに満ちた心をもっている。人間の心は悪魔の奴隷になっているようなもので、自由になって心をわたしに捧げることができない。わたしが話すとき、人間は一心にその声に耳を傾ける。しかし、話すのをやめると、また自分なりの「事業」にとりかかり、わたしの言葉に従うことをすっかりやめてしまう。まるで、わたしの言葉が自身の「事業」の従属物ででもあるかのように。わたしは、けっして人間をいい加減に扱うことをしなかった。また、人間に対して長い間忍耐し、寛大であった。そこで、わたしが寛大であったために、人間はみな傲慢になり、自己を知ること、自らを省みることができないで、わたしの忍耐を利して、わたしを欺こうとする。そうした者たちの一人も心からわたしを思わず、誰一人、わたしを大切に心に抱きはしなかった。たまたま暇な時にだけ、おざなりに、わたしについて考える。わたしが人間に注いだ努力は、すでに計り知れないものである。わたしはかつてないほどの働きを人間にしてきた。そしてそれとは別に、さらに人間に重荷を与えた。わたしの持っているものとわたしであるものから認識を得て変化するようにと。人間を単なる消費者にするためではなく、サタンを打ち負かすことのできる生産者にするために、そうしているのだ。わたしは人間に何も要求しないが、それでも、わたしの要求することには基準がある。それは、わたしの行うことには目的があり、根拠があって、それに基づいて行動するためだ。わたしは、人間が想像しているように、恣意的に好き勝手なことをしているわけではない。また、気まぐれに天と地と、無数の被造物を形作っているわけでもない。わたしの働きに、人間は何かを見、何かを得るはずである。人間は若い「青春」の日々を無為に過ごしたり、命を、まるで塵が積もるに任せた衣類のように扱ってはならない。人間は、わたしのためにもうサタンの側には戻れないようになるまで、そして、わたしのためにサタンに攻撃を仕掛けるようになるまで、わたしが彼らのために用意した富を享受し、自身の守りを固めていなければならないのだ。わたしが人間に求めているものは、このように単純なことではないのか。

 ほのかな光が東にさすと、全宇宙にいる多くの人々は、そのときだけ、東の光に注意を向ける。もはや眠りに沈んではおらず、人類は東の光の出ている方を眺める。しかし、人間の能力の限界のため、誰一人、光の源を見極めることができない。全宇宙のすべてがすっかり照らし出されると、人間は眠りと夢とから醒め、わたしの日がゆっくりと訪れようとしていることを知る。人間はみな、光の到来を祝う。また、もはや眠りこけていないし、無感覚でもない。わたしの光の輝きの下、すべての人間の心と目が見えるようになり、突然、生きる喜びに目覚める。わたしは霧に身を包み、その中から人間たちを見る。動物たちはみな休んでいる。ほんのりと光が現れたことですべての被造物は、新たな生活が来ようとしていることを知る。そのため、動物たちもみな、食物を求めて、洞窟から這い出る。植物も、もちろん、例外ではない。まばゆい光の中で緑の葉がつやつやと輝き、わたしが地上に降り立つ時には、それぞれがわたしに捧げ物をしようと、待っている。人間はみな光の到来を願っているが、それでも、みな、降臨を恐れている。自分たちの醜さがもはや隠されないことを心配しているのだ。人間は裸で、身を覆うものがないためである。どれほど多くの人々が光の到来に狼狽し、光が現れたことに衝撃を受けることか。どれほど多くの人々が光を見て恐ろしい後悔に襲われ、自分の汚れた状態を忌み嫌うことか。しかし、すでに起こってしまった事実を変えることはできない。わたしの下す判決を待つしかないのだ。どれほど大勢の人々が、闇の中で苦しむことで練られていたのが、光を見て突然、その深い意味に気づき、胸の内に光を抱きしめ、二度と失うまいとすることだろう。どれほど大勢の人々が、突然現れた光に、それまでの道筋から外れることなく、ただ、当面の日常生活をこなすだろう。そうした人々は、長年目が見えなかったので、光が訪れたことに気づかず、それを喜びもしない。人間の心には、わたしは高くも低くもない。人間に関する限り、わたしが存在するかどうかは、どうでもいいことなのだ。わたしが存在しないのなら、人間の生活がこれ以上孤独になることはないし、存在したとしても、それで楽しいことがあるわけでもないのだ。人間はわたしを愛さないから、わたしから得られる喜びはごく少ないのだ。しかし、人間がごくわずかでもわたしへの愛を示すなら、わたしもまた、人間に対する態度を変えよう。だから、人間がこの原則を把握してはじめて、その時、自らをわたしにささげて、わたしの手の中にあるものを要求することができる。まことに、人間のわたしへの愛は、自分の興味だけによるものではないのだろうか。まことに、わたしへの信仰は、わたしの与えるもののため、ということではないのだろうか。わたしの光を見るまでは、人間が信仰によって心からわたしを愛することはできないということだろうか。まことに、人間の強さと活力とは、今日の状態に制限されてはいないだろうか。人間がわたしを愛するためには、勇気が必要なのだろうか。

 わたしの存在を頼りとして、無数の被造物が、それぞれの場所でわたしに従い、わたしのしつけがなくとも、放埒な行為にふけりはしない。だから、山々は陸で国々の境界となり、海は陸と陸との間で人々を隔てる。そして、空気は、地の上で人と人との間を流れるものとなる。人間だけが真にわたしの心の要求することに従うことができないでいる。だから、すべての被造物の中で人間だけが不服従の者とされているのだ。人間はけっして真にわたしに従うことがなかった。そして、そのために、わたしは人間を厳しい指導下においてきた。人類のただ中にあって、わたしの栄光が全宇宙に広まるなら、わたしは必ずや、わたしの栄光すべてを人類の前に示そう。人間は汚れているため、わたしの栄光を目の当たりにするには相応しくないため、わたしは数千年もの間、けっして姿を現さず、隠れていた。そのため、わたしの栄光がかつて人類の前に示されることはなかった。そして、人間は常に罪の深い淵に沈んでいた。わたしは人類の不正を赦してきたが、人間は自己を守る方法を知らない。そして、いつでも罪を犯したがり、罪のために自らを損なってきたのだ。これは人間には自尊心や自己愛が欠けているということではないか。人間たちの中に、真に愛することのできる者がいるだろうか。人間の忠誠心はどれほどささやかなものなのか。粗悪品がいわゆる本物の中に混じっているのではないか。人間の忠誠心は、まったくの玉石混交のごたまぜではないのか。わたしが求めるのは、人間の全き愛である。人間はわたしを知らず、わたしを知ろうとしても、ほんとうに真心をささげはしない。人間が与えようとしないものを、わたしは奪おうとはしない。人間が忠誠心を捧げるなら、わたしは遠慮などしてみせずに受け取る。しかし、人間がわたしを信頼せず、わずかばかりも自身をささげることがないのなら、そのことで怒りをつのらせるよりは、ただ何か別の方法で捨て、ふさわしい場所に送る。雷が空に轟き渡り、人間を打ち倒す。高い山々は崩れ、人間を埋める。飢えた野獣たちが人間をむさぼり食う。そして、海の大波が人間の頭の上を閉ざす。人類が兄弟同士での殺し合いをしているとき、人間はみな、自分たちがもたらした災いの中、自らを滅ぼそうとしているのだ。

 の国は人間たちの間で拡大する。神の国は人間たちのただ中で形作られている。神の国は人間たちのただ中に建てられている。どんな力もわたしの国を破壊できない。今日、国にいるわたしの民のうち、誰が人間たちの中にあって、人間ではないのだろうか。あなたがたの誰が、人間である状態の外にあるのか。わたしの新たな出発点がもろもろの者たちに告げられたとき、人々は、どのように反応するだろう。あなたがたは、その目で人類の有様を見てきた。まことに、いまだ、この世界で永遠に存在を続けようという希望は抱いていまい。わたしは今、わが民の間を歩き回り、わが民の中で生きている。今日、わたしに本物の愛情をもっている人々は幸いである。わたしに服従する者は幸いである。その人たちは必ずや、わたしの国にとどまる。わたしを知る者は幸いである。その人たちは、必ずや、わたしの国で権力を持つであろう。わたしを追い求める者は幸いである。その人たちは必ずやサタンの縛めを逃れ、わたしの内に祝福を楽しむだろう。自らに背くことのできる者は幸いである。その人たちは、必ずやわたしのものとなり、わたしの国の富を相続するであろう。わたしのために走り回る者を、わたしは覚え、わたしのために自ら持つものを費やす人を、わたしは喜んで抱こう。わたしに捧げ物をする人に、わたしは喜びとなるものを与えよう。わたしの言葉に喜びを見出す者を、わたしは祝福する。その人たちは必ずや、わたしの国の棟木を支える柱となる。その人たちは、必ずやわたしの家で何物も及ばない富を得、並びなき者となる。あなたがたは、与えられた祝福を受け入れたことがあるか。あなたがたは、自分に対して結ばれた約束を探したことがあるか。あなたがたは、必ずや、わたしの光の導きの下、闇の力の拘束を打ち破るだろう。あなたがたは、絶対に、闇のただ中にあって、あなたがたを導く光を失いはしないだろう。あなたがたは、必ずや、すべての被造物の主人となる。あなたがたは、必ずや、サタンの前で勝利する。あなたがたは、必ずや、赤い大きな竜の国が滅びるとき、無数の者たちの中で立ち上がり、わたしの勝利を証しする。あなたがたは、必ずや、秦の国にあって、堅固で揺るぎないだろう。あなたがたの耐え忍んだ苦しみによって、あなたがたはわたしからの祝福を相続する。そして、必ずや、全宇宙においてわたしの栄光に輝くだろう。

1992319

 

 

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全能神教会御言葉讃美歌「神の性質の象徴」

2017-09-18 15:58:32 | 全能神教会御言葉讃美歌

 

神の性質の象徴

の性質 人類への愛や慰め
人類への憎しみと完全な理解
神の性質
神の性質 生きとし生けるもの統べる
創造主のみが備える
神の性質
それは尊さ高貴さ力と偉大さ至高示す

神の性質
God is forever この上なく
and man, forever 価値が低い
Oh God is forever 人に身を捧げ
But man, forever 利己的なまま

神の性質 全ての善と正義美しさ また権威のシンボル

神の性質
神はいかなる闇や敵にも
付け入られない破れないもの
何も神を犯すこと許されない
神の性質は最高の力のシンボル
神の性質
No one or people 御業と性質阻むことない
God forever 人のために労したが
人は光や義に貢献しない

人はごく小さな打撃にも破れる
人の働きはいつも自身のため
God is forever この上なく
and man, forever 価値が低い
Oh God is forever 人に身を捧げ
But man, forever 利己的なまま
人は私利私欲神は無欲無私
神は美しさ、善の源
人は全ての醜さと悪を紡ぐ後継者
神の義と美は永久に変わらない
God is forever この上なく
and man, forever 価値が低い
Oh God is forever 人に身を捧げ
But man, forever 利己的なまま
God forever 人のため労したが
yet man never 光や正義にも貢献しない
ごく小さな打撃にも破れてしまう
人は利己的だから
God is forever この上なく
and man, forever 価値が低い
神の義と美は永久に変わらない
それは永久に変わることない
いつでも人は義に背を向け
神から離れようと
『言葉は肉において現れる』より


東方閃電全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、全能神ご自身によって全てが創られたもので、決して人によって創られたものではありません。今日では、全能神の言葉、福音映画、讃美歌などは、ネットワークを通じて世界中のすべての国々に広がっています。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。