全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(4)宗教的パリサイ人の縛りから逃れ神の下に帰りなさい 日本語吹き替え

2019-05-31 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

キリスト教映画「足枷を解いて走れ」抜粋シーン(4)宗教的パリサイ人の縛りから逃れ神の下に帰りなさい 日本語吹き替え 宗教界では広く、牧師が聖書の隅々まで知り尽くしており、よく人々に聖書の句を説きます。私たちには、彼らが皆、神を知っているように映ります。しかし、なぜ、宗教界では多くの人が、終わりの日の神様の再来の御働きを非難し否定するのでしょう? 全能神が言われます。「荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。」(『言葉は肉において現れる』より)

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

2019-05-30 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

毎年クリスマスが近くと、街では様々なクリスマスプレゼント用の商品が店先に並び、サンタクロースやクリスマスツリーが飾られます。木々や建物にはカラフルなイルミネーションが光り、街中がランタンや装飾で華やかに飾られ、誰もがクリスマスを楽しみにしてわくわくします。キリスト教にとってクリスマスは特別な休暇です。クリスマスの数ヶ月前から、あちこちの教会はクリスマスの準備に追われます。クリスマス当時、教会には人が溢れ、兄弟姉妹たちはみなお祝いし、クリスマスの料理を食べ、プログラムに参加したり、主イエス様を礼拝したりします。みんなの笑顔がはじけます。けれどそのように集まって主イエス様の誕生をお祝いする時、私たちはクリスマスの意味を理解しているでしょうか。おそらく兄弟姉妹は「主イエス様は私たち人間を贖うために十字架にかけられました。だから、主イエス様の誕生をお祝いするために、クリスチャンがクリスマスを制定したいのです。主イエス様がお生まれになった日は明確に聖書に記載がありませんが、イエス・キリストの福音が広まるにつれて、クリスマスは徐々に世界的な祝日として浸透していったのです。」と言うでしょう。そのことは皆知っているでしょう。けれども主イエス様の誕生に隠されている神様の愛と神様の御心を知っているでしょうか。主の御心に沿うクリスマスの理解とは、どのようなものでしょうか。

クリスマスの意味を考える:あなたは本当に主イエス様を礼拝しているか

 

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

初めに、ヤーウェは霊として人の間で働かれ、モーセを通してご自身の律法と命令を定め、人が地上でどう生きるべきかを導かれました。何が善で何か悪か、どう神様を礼拝すべきかなどを教えられました。けれども律法の時代が終わる頃、人間は益々サタンに堕落させられ、律法を守ることができず、自らの罪を贖ういけにえは、もはや尽きてしまったのです。律法により、いつ罪に定められ死刑に処せられるか分からない危険にさらされました。神は自らの手で作られた人間がそのように破壊されるのは見るに耐えなかったので。人間が生き続けることができるようにと、神様は天国から降ってこられ、主イエスキリストとして受肉され、地上に現れて働きをされ、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイによる福音書 4:17)の道を現わされました。そして人々に寛容で忍耐深くあるように、敵を愛するように教えられ、7を70倍するまで赦すように教えられました。主イエス様は病人を癒やされ、悪霊を追い出し、多くのしるしや不思議な業を行い、最終的に十字架にかけられて人類を罪から贖われたのです。私たちが主イエス様を救い主として受け入れて心から主に祈り、罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、平安と喜びを享受できます。それは主による喜びと豊かな恵みなのです。主イエス様が生まれて神様が直接受肉されて贖いの業をなされたからこそ、人類は罪の宣告を逃れることができ、律法の足かせを外すことができたと言えるのです。それによって、人間は罪に定められることも死の宣告を受けることもなくなったのです。主イエス様が生まれてくださったから、主に従うものは本当の平和と喜びを享受することができるのです。それ以上に、主イエス様が生まれてくださり、神様の霊が通常の体となられて私たちと同じ言葉を語られたので、主の言葉から人に対する神様の御心と要求をより明確に理解することができ、私たちは更に新しい、より霊的に成長してた実践をすることができ、神様とより近い関係になれるのです。主イエス様が地上に来られて真理を現わし、贖いの業を完成されたことの背景にあるものは、人間を救おうとする神様のなみなみならぬ努力があったのです。それは、私たち堕落した人間に対する神様の愛と憐れみなのです。

神の愛と人類の救いのために主イエス様はお生まれになった

 

主イエス様の御心、そしてと私たちへに求められること

主イエス様が贖いの業を完成され、甦られて天に昇られたけれども、イエス様の誕生を記念して多くの人々はクリスマスになるとパーティーを開き、様々な行事で主イエス様の誕生をお祝いするのです。けれども、私たちはクリスマスの意味と、主イエス様の御心や私たちにイエス様が求めておられることを理解しているでしょうか。神様に満足していただき、称賛していただくには、私たちは何をすべきなのでしょうか。

主イエス様は言われました。「あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」(ヨハネによる福音書 4:21、23)主イエス様の言葉から、イエス様は私たちが形にばかりこだわったり行事に参加したりするばかりでなく、霊と誠真をもって神様を礼拝することを望んでおられることが分かります。昔、パリサイ人や祭司長、律法学者たちは神殿での様々な儀式や規則ばかりにこだわっていました。彼らは毎日神様にいけにえを捧げましたが、神様の言葉を実践することはほとんどなく、ヤーウェの命令に従うこともなく、神様からの命令を捨てて人間的な伝統にのみ従ったのです。そして最終的に、彼らは神様からの称賛を得なかったばかりか、主イエス様に嫌われ、呪われたのです。現代の教会が大がかりなクリスマスのお祝いをしても、それは一時のことに過ぎません。人々があつまって喜び、幸せを感じても、心から主を礼拝しているのではなく、クリスマスを機会として神様の御心を理解したり認識を得たりしているのではありません。そうであれば、主イエス様から認めていただくことはできないのです。事実、主イエス様が正式にその業を始められた時から贖いの業を完了された時までの間に、主イエス様は多くの真理を現わされ、多くの要求を提示されました。私たちがみな主の御言葉を実践することに重きをおいていつでもどこでも、どんなことがあっても、誰に対しても主の教えを実践することが、主の望まれることであり、御心なのです。これが私たちに対して主が求められることで、神様を信じる私たちが持つべき、実践の原則の最も基礎となるものなのです。主イエス様が次のように言われた通りです。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書 8:31)「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネによる福音書 15:14)このように、私たちの生活や周りの人々に対する接し方において、主の御言葉に則して実践することが極め重要であることが分かります。というのは、それは心から神様を信じて礼拝する者がまず達成しなければならないことだからです。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

 

私たちは真に主を礼拝しているか

多くの兄弟姉妹たちが、クリスマスには教会に集い、主イエス様の誕生をお祝いし、祈り、聖書を読み、讃美します。けれどもクリスマス以外の時となると、私たちは自分たちは日々の仕事や多くの人々とのやりとりに明け暮れます。主の前に静まって祈り、主の御言葉を読んでその御心を求めることは滅多にありません。集会に頻繁に出席する兄弟姉妹はいますが、主の言葉を実生活で実践することはほとんどなく、相変わらず罪の生活を送り、罪はどんどん深まっていくのです。例えば、主イエス様は私たちが謙虚で穏やかでいることを求めますが、同僚や教会の兄弟姉妹たちと一緒に働きをする時には、私たちは自分の傲慢な性質に支配され、自分の見方や考えは完璧だとして自分を守り、周りの人達と穏やかに進めることができません。主イエス様は、私たちが周りの人々に対して赦すことを学び、自分を愛するように他の人をも愛すことを求めておられます。けれども周りの人々があなた利益を侵害するようなことがあれば、不当に扱われたと感じてサタンの毒の性質による生き方になってしまい、人を裁いたり非難したりしてしまいます。主イエス様は、私たちが世の人々から自分を切り離すことを求めておられますが、私たちはこの世の名誉、地位、肉体の楽しみを追い、この世の悪に倣い、罪の中に生きて主から益々離れていくのです。これは私たちが主の要求に沿うことのできない僅かな例にすぎません。私たちは宗教儀式に重きをおき、主の救いに感謝することや特別な祝日に主を讃美することに重点をおきますが、主の道に従わずに罪の生活をしがちです。主イエス様を礼拝するとはこのようなことでしょうか。イエス様は本当にそのような私たちを称賛してくださるでしょうか。子育てする親を例にとってみます。もし子供に分別があって親思いであれば、親が何を喜んで何を喜ばないかをわきまえ、両親に対して何かをする時には、親が喜ぶものが分かるのです。けれども、両親の誕生日には大げさなお祝いをして「パパ、ママ、愛してるよ」と言うだけで、本当に助けが必要な時には自分達のことで手一杯で親にすべきことができないのであれば、本当に親孝行だと言えるでしょうか。

神の御心旨に沿い、神の称賛を得るにはどうしたらよいか

もし私たちが真に神様を礼拝し、神の称賛を得ようと思うならば、神様の御言葉に沿って実践し、神様をあがめる心を持ち、すべての事において主の道に従うことに重点を置き、主の言葉を第1とし、私たちの生き方が神様に対する証しとなるようにし、神様に栄光を帰すようにすることが重要です。もちろん、兄弟姉妹の一部の人達は、クリスマスに集って賛美歌を歌い主を讃美し、主の言葉を人生でどう経験してどう実践したかを分かち合い、霊的な生活でどう問題解決するかを互いに支え合い助け合い、神様に更に近づこうとします。これも神様の御心に沿っています。そしてクリスマスが近づくと、西欧諸国では迫害されているクリスチャンやホームレスの人達への慈善運動もされます。そのような場で、ホームレスの人達が集まって保護施設を探したり、迫害されているクリスチャンが世界のあちこちから集まって互いに経験を語り合ったり、厳しい寒さの中でも神様の暖かさを感じることができたりします。このような事も神様は覚えてくださいます。要するに、クリスマス休暇自体が重要なのでも、行事自体が重要なのでもないのです。重要なのは、主イエス様の御言葉であり、主が私たちに求められていることなのです。神様を畏れる心を持ち、すべてのことにおいて主の御心を求め、主の御言葉を実践して主の要求に応えることで満足していただく—これが最も重要なことなのです。このように実践して初めて、私たちは真に主イエス様を礼拝し、主イエス様から称賛していただけるのです。

神様の啓きと導きを感謝します。神様が私たち一人ひとりと共にいてくださいますように。


結婚生活を救う“秘密”(その2)

2019-05-29 11:36:26 | 全能神の裁きを経験する証し

しかし、妻に福音を伝えた時、妻はそれを受け入れませんでした。その後、教会の兄弟姉妹に、家に来て妻に福音を伝えて欲しいと頼みましたが、妻はそれでも耳を傾けようとせず、彼らをお客さんとして迎え入れることでさえ難色を示しました。このような状況を見て、ただ、妻に対する真摯な願いを神に委ねるより他ありませんでした。ある日、私は次のような神の言葉を読みました。「日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり…他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より)「人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)神の言葉は、私が取るべき道を示してくれました。それは、人のそれまでの性質を変え、堕落したライフスタイルを変えるには、神の言葉を使う必要があるということでした。私が神の証を立て、妻に利益をもたらし、啓発する唯一の方法は、私の中の変化と、神が私に行なった働きを彼女に見せることでした。かつて、神を信じるようになる前、私はサタンのルールに従い生活していた頃を思い出しました。快楽主義から来ることで頭が一杯で、傲慢に振る舞い、妻を顎で使っていました。私は手が付けられない状態で、人としてあるべき状態ではありませんでした。それは、妻と子供達をひどく傷付けるサタンの悪魔的イメージをすべて反映したものでした。現在、妻は私に怒りを募らせており、私が彼女に許しを請う必要があるという断固たる考えを持っていました。その上、現在、私は神を信じており、神の言葉に従い行動しており、本物の人間のように行動しなければなりません。神の証を立てるために、私は真理の現実をまっとうしなければなりません。

それ以降、私は神の言葉を実践し始め、自分自身を最優先しないようにしました。また、私だけの楽しみにだけフォーカスしないよう、ましてや、偏執的優越心により、あれをやれ、これをやれと妻に命じて抑圧しないように努力しました。妻が店のストックを買いに早起きして市場に行くのを見た時は、私も早起きし、強い信仰心で神の働きを読み、現場の従業員の作業日程を決めるために、仕事に行くまで、妻の家事を助け、朝食を作り、片付けをし、洗濯までしました。仕事でのソーシャルイベントへの参加義務については、それを維持するために人類の方法を使うことはなくなり、その代わりに、神の知恵に頼って、誘惑から距離を取り、これらの悪い習慣を断ち切れるよう、神の前で祈りました。これらのことをすると、信じられないような平穏を感じました。同時に、真理を実践し始めてから、神の祝福を目にするようになりました。ソーシャルイベントに参加しなくとも、すべての仕事のプロジェクトから、簡単にお金を稼ぐことができました。収入をまとめると、妻にお金を渡し、「必要なものに使ってください。かつて、私はいつもどんちゃん騒ぎのためにお金を無駄に使っており、本当に悪い道にいました。あなたには大変な苦労をかけました。これからは、あなたにお金の管理をして欲しいのです!」と言いました。これを聞いて、妻はからかうような調子で、「あら、ようやく、家周りのことをして、家を家らしく扱うことができるようになったんですね。良心が目覚めましたか。」と言いました。それを聞いて、神が私にもたらした救済に心の中で感謝しました。さらに、子供達の勉強もできるだけ見るようにし、先生との三者面談にも積極的に参加するようになりました。食事の後には、よく、妻と子供達と共に、神への信仰における私自身の経験や、神がいかに私を導き、私を変えたかについて話し合い、その証を立てました。徐々に、私の家族は密接になっていきました。

クリスチャン結婚

 

それからしばらくして、教会の兄弟姉妹が交流のために家に来た時、妻は私達の後ろに座り、私達の話を聞いていました。妻は解決策のない人生の問題について兄弟姉妹に熱心に尋ね、兄弟姉妹は神の言葉で彼女に答え、彼女が取るべき道を示しました。私は、妻が兄弟姉妹に「あなた方の交流は私が直面していた現実的な困難を解決しました。皆さん、ありがとうございます!時間がある時に、また、私達を尋ねに来てください。リー・クアンがここにいなくても、是非、お越しください。」と言うのを聞きました。妻がそう言うのを聞いて、私はものすごい幸せになりました。これは、妻がこんな風に変わることを実現した、神の神秘的な働きの実に1例です。

ある日、帰宅すると、妻は熱心に神の言葉を読んでいました。私は素早く彼女の所へ行き、「いつから神の言葉を読み始めたのですか。理解していますか。」と興奮気味に言いました。妻は少し恥ずかしそうに、「実は、これを読み始め、賛美歌を歌うようになってかなりの日が経っています。あなたが変わるのを目の当たりにし神を信じるようになり、また、家に来た兄弟姉妹が、あなたのかつての快楽的な友人達と異なり、健全で威厳に満ちているのを見て、これこそ真の道だと感じました。ゆっくりと、神の言葉を読んだり、賛美歌を歌ったり、福音のビデオを見たりするようになりました。今では、神の言葉は毎日読むようになっています…」と、言いました。妻がそう言うのを聞いて、神だけが人を変え、救うことができると本当に感じ始め、心の中で、神を絶え間なく讃えました。神は私を鬱や苦しみから救い、神の言葉により私を清め、変えました。神は真の人間らしく生きることを可能にし、私を通して、妻が全能の神がどのようなものかを見ることができ、それにより、妻も救済を得ました。神の働きは本当に素晴らしく、神はとても賢く、私達の愛を受けるのに値する存在です!私は神の偉大なる救済を受け、心から神に感謝し、神を讃えます!

その後、子供達も神を信じる道を歩み始めました。私達は家族として一緒に神の言葉を頻繁に読み、私達の経験や神の言葉の知恵について話し合うのが好きでした。家族全体が神の愛の温かい包容の中で喜びを感じています。妻が神の終わりの日の働きを受け入れてから、妻の気性はずっと明るいものになり、全体的な精神的展望は日を追うごとに良くなっていきました。私の兄とその奥さんは、妻が神を信じるようになってからの変化に気が付きました。彼女はとても生き生きとし、おしゃべりになり、まるで全く別人になったかのようでした。姪までが驚いた顔で私を見て、「おじさん、顔色がすごく良いし、シワも消えましたね。充実して見えるし、すごく若返りました!」と言いました。私達の親戚や近所の人達も、皆、私達家族が良い方向に変わったのを目の当たりにし、羨望の目を向けました。特に、妻が私達のビジネスを運営するのを、私が手伝うようになり、彼女の回りの女性たちは、「彼らが夫婦として共にいかに幸せでいるかをご覧なさい。彼らは宝を得たようです!」と言いましたが、それは本当のことでした。人々がそのようなことを言うのを聞いて、とても良い気分になりました。これは、全能の神の救済の働きであり、神の偉大さが私の結婚を救ってくださったことを私は十分に認識していました。私は、神が私と家族を救済してくださったことに対し、心からの感謝を表したいと思います。

そして、今、私の結婚が危機的状態にあった頃を思い返すと、言葉に尽くせません。私はすべてのことを試しましたが、功を奏したものはありませんでした。しかし、神の働きを通して、修復されたのです。全能の神の導きを通して、妻と私は共に同じ道を歩み、私が家族に対して長い間望んでいた、平和で幸せな家族と生活を手に入れることができました。神の前に来て、神の言葉を受け入れ、それを実践することによってのみ神の祝福と保護を受け取ることができ、それにより、耐えてきた辛さや困難が解決されると言うことが、経験により、しっかりと示されています。全能の神の終わりの日の働きは、幸福への真の道です!これから、私はさらに密接に神に従い、神の救済と言う愛に報いるため、正しい道を歩んでいきます!


ゴスペル キリスト教映画「私の天国の夢」天国の福音 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え

2019-05-28 15:22:54 | 真実の解明動画シリーズ

ゴスペル キリスト教映画「私の天国の夢」天国の福音 完全な映画のHD2018 日本語吹き替え
韓国の牧師が熱心に主の再臨を待っている時、中国に現われた東方閃電が、主がすでに戻られたことを証ししていることを知ります。彼は中国へ足を延ばし真の道を探ろうとします。多くの困難を乗り越え、全能神の御言葉を読み、全能神の御言葉から主の声を認識するようになった途端、中国共産党政府に逮捕され韓国に強制送還されました。全能神の御言葉を読むことができないまま、非常に腹立たしく落胆してしまいました...。ある日突然全能神教会の福音サイトを発見し、教会と再び連絡が取れるようになりました。彼は全能神教会の証人の証しと話しを聞いて、全能神は主イエスの再臨であると確信しました。喜んで全能神の終わりの日の働きを受け入れ、天国への道を見つけることが出来ました。彼の天国の夢がとうとう現実になったのです。

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「完全にされた人々への約束」

2019-05-27 18:40:32 | 真実の解明動画シリーズ

朗読 主イエス・キリストの再臨の御言葉 「完全にされた人々への約束」
全能神は言われた「神に完全にしてもらうことができる人たちは、神から祝福や受け継いだものを受け取ることのできる人たちである。すなわち、そのような人たちは、神が所有するものそして神という存在を取り入れる。そうすることによって取り入れたものが彼らが内部に持つものとなる。すなわち、彼らは、神の言葉が彼らの中に組み入れたものすべてを、所有している。神という存在が何であれ、あなたがたは、その存在のすべてをまさにそれがあるがままに受け入れることができる。そうすることによって、真理を実現することができる。これが、神によって完全にされ、神のものとされた人の姿である。そのような人だけが、神が授ける祝福を受け継ぐ資格がある。」
『言葉は肉において現れる』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。



正直には大きな幸福がある

2019-05-26 16:35:10 | 全能神の裁きを経験する証し

わたしの生活において、わたしは他人との関わりではいつも「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉に従ってきた。わたしは簡単に他人を信頼することは決してない。誰かの本当の意図を知らない状況で自らの手を早く見せすぎてはならないとわたしはいつも感じた。それだから平和的な態度を保つだけで十分である。このようにしてあなたは自らを守り、仲間から「良い人」と思われるだろう。

証し

 

世の終わりにわたしが神の働きを受け入れた後でさえ、わたしは他人への対処でこの格言を守った。わたしたちは清らかで率直で正直であれと神が求めるのを理解したとき、わたしは個人的な関心がないわずかな事柄についてのみ率直だった。わたしの兄弟姉妹たちがわたしを見下ろすことを恐れて、本当に堕落していると感じるわたしの性質のこうした面を共有することはほとんどないだろう。わたしの指導者がわたしの働きが形だけなのを見てわたしを指摘するとわたしは不安感と疑念に満ち、「なぜわたしの指導者はいつもわたしを選び出し、わたしの兄弟姉妹たちの前でわたしの状況の細々としたことを調べるのか。このために人々の前でわたしが面目を失い、当惑するのは明らかではないか。おそらくわたしの指導者はわたしに熱心ではないのでわたしのあら探しをするようにしたのではないか」とひそかに考えた。わたしが同じ地位に留まる間に他の兄弟姉妹たちが昇進しているのを見るのは特に苦痛で耐え難いものだった。わたしを鍛える価値がないのでわたしは昇進させられていないと思った。わたしの心は誤解や不安に溢れた。わたしには未来がなく、この道を歩き続けても仕方がないと感じた。わたしは常に警戒して他人を疑っていたので、わたしは神をますます誤解し、神とのつながりがますます少なくなったと感じた。わたしの状態はますます異常になり、ついにわたしは聖霊の働きとの関わりがなくなり、闇に落ちた。

苦しみの深みで、迷い、方向を失い、わたしは神の言葉のこの一節を見つけた。「あなたが非常に狡猾であるならば、あなたはすべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考を持っているであろう。このため、あなたのわたしに対する信仰は疑念の基礎に基づいている。わたしはそのような信仰は決して認めていない。本当の信仰がなければ、愛は本当の愛からはほど遠い。そして、神を疑い、意のままに推測するようであれば、間違いなくあなたは最も狡猾な人である。」(『言葉は肉において現れる』の「地上の神をどのように知るか 」より)」 神の言葉をあれこれ考えつつ、わたしは突然、日々の自分の行動を思案した。始めにわたしは「すべての事柄およびすべての人に関して疑いを持つ、器の小さい心と思考」により生きてはいないかと思った。そのようなものとして、神の目にわたしは狡猾な人間でなかったか。その瞬間、「狡猾な人」という言葉は鋭い刃のようにわたしの心を突き刺し、耐え難い苦しみを引き起こした。「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という格言を守っている限り仲間から良い人と考えられているとわたしはいつも思っていたので、他人の対処や仕事を行う上でこうした言葉によって生きていた。生涯で、この格言によって生きることがわたしを狡猾な人に変えると疑ったことはなかった。これは「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というわたしが長い間守ってきた格言が真理に合致せず、神の言葉とは直接矛盾することを意味した。思い出せる限りの間わたしが支持してきたいのちのこの哲学が、一見一夜にして神の言葉によって打ち倒され否定さられたのを見てわたしはショックを受けた。しかし、諸事がそのようであろうと、わたしは事実を受け入れるしかなかった。わたしは自らを落ち着かせ、あれこれ考え、わたしが長年支持してきたこの格言を再評価した。時間の経過とともに、神の啓示のおかげでわたしはついにこの言葉に新しい理解と洞察を得た。表面的には「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というのは十分に理解できる意見で、ほとんどの人々の善悪の考えに沿っているように見える。一見するとその意見には何も間違いがあるようには見えない。わたしたちは他人から自らを守るべきで、他の人に害を及ぼすようなことはしてはならないと述べているからである。さらに、この格言によって生きればわたしたちは罠に陥らずにすみ、良い人になるにはどうすればよいかを学ぶことができる。しかし、この言葉を細かに検討すると、これは実際にはサタンが人々を堕落させる殊更に悪意のある方法であることが明らかになる。この言葉は誰も信じることはできない、誰であれあなたに害を及ぼすことができるので、あなたが他人に対処する際に決して全面的に支持し受け入れてはならないとひそかにわたしたちに伝えている。このようにしてわたしはあなたを警戒し、あなたはわたしを疑うようになり、どちらもお互いを本当には信用しない。これは人々をますます堕落させ、不誠実で、狡猾で腹黒くさせる誤解、憎しみ、悪巧みへの道へわたしたちを導く。さらに悪いことに、このサタンの公理はわたしたちの愛情ある優しい神との遭遇においてわたしたちを警戒させ、疑わせ、不信感を抱かせる。わたしたちは神もまた不誠実で、狡猾で、ごまかしばかりで、わたしたちの利益のために働きを行っていないと思い始める。その結果、神がどれほどわたしたちを愛し、わたしたちに思いやりがあっても、わたしたちは神に信を置きたがらず、神がどれほどわたしたちを求めてきているか気がつきそうにない。その代わり、不誠実な心で、神が為すすべてのことに疑問を呈し、わたしたちの誤解、不安、不忠誠、抵抗を神に押し付ける。このようにしてサタンは人々を堕落させ毒し、わたしたちを神から離させ、裏切らせる目標を達成する。しかし、わたしは洞察力が足りず、サタンの邪悪な企みがわからなかった。わたしはその誤った考えを、尊重され支持される堅実ないのちの哲学と解釈し、ますます狡猾で、疑わしげに、警戒するようになった。神の側に立ち肯定的な視点から物事に近づく代わりに、どんな状況に出会ってもわたしはいつも自らの不誠実な考え方を使った。わたしは神を誤解し、神の意図に疑問を呈した。最後に、わたしの神に対する誤解がますます顕著になるにつれて、わたしは聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に落ちた。今となれば明白だが、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は、人々を堕落させてわなに掛けようとサタンが考案した誤った考え以上の何ものでもない。このいわゆる格言によって生きることは人々に神を誤解させ、神から離れさせ、その一方で人々を導いてより狡猾にずるくし、不当に他の人々に対して疑問を抱かせ警戒させるだけだろう。そのように導かれた生は神の嫌悪感を得るだけで、聖霊の働きとの関わりを失い、暗闇に陥るだろう。結局のところ、この格言の支持者たちは自らの不実の犠牲者になるだろう。そのような人々の明るい未来は消滅させられる。この時点で、わたしは最終的に「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という言葉は正統ないのちの哲学ではなく、正しくは人々を騙し苦しめようとするサタンによる卑劣な謀略ということを悟った。この言葉は人々を堕落させ、人間性を失わせ、そして神から逸脱させ裏切らせる猛毒のようなものだった。

その後わたしは神の言葉の次の一節を見た。「神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に対して完全に正直な者を愛すのである。正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである…もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の言葉からわたしは、神は正直な者を愛し祝福すると理解するに至った。正直であることによってのみ人は正しい方法で、神の意図と調和して生きる。それだから、正直な者だけが神の救いを受ける資格がある。わたしはまた正直な者として行動するにはどうすればよいかを理解するに至った。正直な人々はわかりやすく、隠し立てせずに欺瞞なく話す。正直な人々は鋤を鋤と呼ぶ。正直な者は他人を欺かず、おざなりに行動せず、決して神を騙さず、神に嘘をつかない。正直な人々の心は正直で、不実や背徳がない。話し行動するとき、正直な人々は邪念や隠された動機を心に抱かない。正直な人々は自らの利益のために行動せず、肉を満足させることはなく、それどころか真の人であるために行動する。正直な人の心は高潔で、その魂は誠実で、喜々として心といのちを神に捧げる。見返りに何も求めず、神の願いを満たそうと努める。こうした特質を持つ人々だけが正直な人々、光の中に住む人々と呼ばれ得る。

正直な人であることに関わるさまざまな原則を理解すると、わたしはそれらの原則を実践に移し始めた。他人の対処でわたしは狡猾でなく、勘ぐらず、警戒心を高めないよう意識的に試みた。これに成功するとわたしは非常に自由と解放を感じた。このように生きるのははるかにくつろげるようだった。わたしの職務を果たしつつ堕落を実証すると、わたしは積極的にわたしの仲間である姉妹を求め、交友の中でわたし自らの新しい理解を曝け出し、その姉妹も同じように行った。この過程の間にわたしたちはお互いへの偏見を発展させず、実際さらに一層円満に協調するようになった。会合の間にわたしが神の言葉を引用してわたしの堕落を曝け出しても、兄弟姉妹たちはわたしが当初想像していたほどわたしを軽んぜず、それどころか神の愛の救いの一例としてわたしの説明を理解した。わたしの義務を果たし、自らの評判と地位のためではなく神の願いを叶えるために働きを行うと、わたしの義務を果たす神の意図をわたしが理解できるように、わたしを通じて聖霊が働きを行い、導きを与えてくれるように感じた。その結果、わたしは非常に効果的に自らの義務を果たした。祈りの中で、わたしの内なる思いを神と分かち合おうと、魂から語りかけようとわたしは意識的に試みた。そうする間にわたしは神にさらに近づき、神がとても素敵であると感じた。当然、わたしが神について持っていた古い誤解はことごとくその過程で解消された。正直さを実践するこの過程を通じて、正直であることによってどのように人は光の中に住み、神の祝福を受けるかを体験した。正直な人であることは本当に有意義で価値がある。

正直な人であるという恩恵を体験するに当たり、「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」というサタンの原理は人々を堕落させ傷つけることがさらに明白になった、もしこの原理を守れば、人はいつも暗闇に、堕落に、そして苦しみに生きるだろう。正直な人であることによってのみ、わたしたちは光の中に住み、育まれ、神の賞賛を受けることができる。今後わたしは新たに始めることを誓い、サタンのこの「他人を陥れようなどと考えてはならないが、他人から陥れられないよう警戒心を失ってはならない」という原理を金輪際放棄することを誓おう。今後、正直さが基準であり、それによってわたしは生き、わたしの正直さで神を喜ばせるように努力しよう。


神の特別の愛を経験する

2019-05-25 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

私の本性は際立って傲慢です。何をしていたとしても、常に、私の賢さを見せるために創意工夫と独創性を発揮し、私独自の方法で物事を行なうため、仕事の定めに違反することがよくあります。特定の地位に対して人を選ぶ時は、特に傲慢になります。私には、適任者を常に選ぶのに役立つ、他人にはない才能と洞察力があると信じています。このため、私が誰かを選ぶ際には、選択しようとする人物のあらゆる周辺を熱心に調査することはありません。また、関連する原則に従い、選択しようとする人物を慎重に選別することもありません。この結果、私は、教会内の重要職に就くためだけに公式文書や教義について語る、ずる賢く、狡猾な人物を選んでしまいました。これにより、私の兄弟姉妹の働きといのちに大きな損失をもたらしました。神に仕える中で、私の実質的な働きに欠けていたため、最終的には神から拒絶されてしまいました。私は聖霊の働きを失い、奉仕の仕事から除免されてしまいました。

証し

 

除免通知を受け取った時、私は呆然としました。このようなことが私の身に起きるとは想像し難いことでした。そのため、私は神を誤解し、神に疑念を抱き始めました。教会は私を役から除免し、一切仕事を与えてくれませんでした。私の問題は非常に深刻なように見えました。追放されてしまうことになりそうでした。あの時ツェンシンが追放されたのはいい加減な働きをし、神を欺いたからではなかったでしょうか。クァンシンがキリストの敵となったのは、彼女が自分自身を高い位置に置き、自分自身の証を立て、選ばれた人となるために神と競ったからではなかったでしょうか。私が今日追放されるのは、これよりさらにひどく、いい加減な働きをし、神を欺き、自分自身を高い位置に置き、自分自身の証を立てるという、2人が行なったことを1人ですべて行なったためではないでしょうか。私がもたらしたこの惨事を目の当たりにし、まるで死が近づいているかのように、恐怖に震えました。私の心はひっきりなしに次のように言いました。私はもう終わりだ。今回は、もう私は完全におしまいだ。私は何度も神に抵抗し、歯向かってきた。神は間違えなく私を助けないだろう。神は人類を助けるためにできるすべてのことをすると言ったが、それは、腐敗の程度が軽く、軽微な罪しか犯していない人に対して言ったことだ。神が見えなくなり、悪の限りを尽くしてきた、私のように傲慢で思い上がった人間は、間違えなく神の懲罰に苦しむことになるだろう。ゼロからやり直そうと努力したところで、神は私を許してはくれないだろう。なぜなら、私の行ないは神を失望させ、神をひどく苦しめてきたのだから…無意識のうちに、痛みと絶望に沈んでいきました。私は生き延びることに対する一縷の望みも持っていませんでした。

極限の痛みの中で、私は自殺するか、逃げ出すことを考えていました。その一方で、私は、教会が私に本分を尽くせる機会をもう一度与えてくれることを望んでいました。しかし、この考えが頭をよぎるたび、「罪は重い」という言葉が一縷の望みを否定し、打ち消しました。痛み、自責の念、苦しみ、そして願いが頭の中で渦巻き、痛みがあまりにも強くなり、もう生きていたくないと考えるようになりました。私は絶望の中でばらばらになってしまいそうでした。この時、神の言葉を目にしました。「神は臆病者を好みません。神は決断力がある人を好みます。あなたが多くの堕落を見せたとしても、あなたが多くの曲がりくねった道を辿ったとしても、途中であなたが多くの罪を犯したり、神に反抗したとしても—あるいは、神に対する冒涜を心に抱いたり、神を責めたり、神と対立する人もいます—神はこれを見ません。神はいつか人が変われるだろうか変われないだろうかだけを見ます。…それは、人類を救う神の心は誠実であるということです。神は人々に悔い改めの機会と変化の機会を与え、そしてこの過程で神は人々を理解し、人々の弱点と堕落の程度を深く知っています。神は人々がつまずくだろうことを知っています。…すべての人の困難、弱点、そして彼らの欲求を神は理解します。さらに、それぞれの人が途中で遭遇するであろう困難、性質の変化に入る過程、そしてどのような弱点や失敗が起こるかを神は理解します。これは神が大変理解していることです。それは、神は人々の心の深みをのぞき込むと言われている理由です。あなたがどんな弱くても、あなたが神の名を捨てない限り、あなたが神またはこの道を離れない限り、あなたにはいつも性質における変化を成し遂げる機会があるでしょう。わたしたちに性質における変化を成し遂げる機会があれば、わたしたちには継続的な生存の望みがあります。わたしたちに継続的な生存の望みがあれば、わたしたちには神によって救われる望みがあります。」(『キリストの言葉の記録』より)また、聖霊に使われた人が、次のように言うのも聞きました。「神は人、特に罪深い人を救うためにあらゆることをしています。人は、自分が救うことができない存在と考えますが、神は彼らを諦めようとせず、それでも助けたいと考えています。深刻な罪を犯した人もいます。神は、これらの人に『あなたは、かつての献身に戻り、私を求めさえすれば良いのです。私は今でもあなたを助けたいと思っています。』と言っています。あなたの罪が何であろうと、あなたに神から離れないという意思と救いを求める気持ちがある限り、神が諦めることはありません」(『いのちに入ることに関する交流と教えその2』内、「キリストが真理、道、命であることを知る方法」より)これらの言葉は甘い露のようで、乾ききっていた私の心を潤してくれました。目からどっと涙が溢れ出し、私は泣き出してしまいました。何度、「不可能」が予期せず良い方向に向かったか、分かりません。神は、私の状態に関わらず、私が求めるのを諦めず、悔い改めようとし、神から離れたり、神を諦めたりしない限り、私を救いたいと言ってくれました。私は神の前にひれ伏さずにはいられませんでした。「あぁ、神よ!私は極めて邪悪な人間でした。自らの行ないにより、殺されたり、呪われたりしてもしょうがない人間です。私は生きる機会など与えられるべきではない存在ですが、神は罪に対して私を懲罰しないばかりか、その無限で計り知れない愛で私を許してくださいました。私を受け入れ、私が悔い改め、救われるためにもう一度機会を与えてくださいました。神様!神の愛は、神に対して私が持っていた誤解と疑念を振り払ってくださいました。これにより、私の死に損ないの心が回復し、ネガティブな気持ち、痛み、絶望の深淵から脱することができました。これが、私に生きて、救いを求めたいという気持ちに再び火を点けました。神様!神の私への愛はとても深く、とても大きいものです!神の私への愛により、神はすべての私の罪を許し、私のこれまでの反発や抵抗を許してくださいました。神はその偉大なる忍耐により、私を救うための働きを実行してくださいました。神様!神はとても偉大で、とても善良です!神の愛の前で、私は言葉を失ってしまい、恥ずかしくて顔を見せることができません。私は、神がいるところでは、生きているのが恥ずかしいと思うほど、琴線に触れました。現時点では、私の心の底からの感謝と、賛美を神に送ることしかできません。私の心の歌を神に捧げることしかできません。「神の愛により、私はそれ以外の何も選ぶことができません。私は、神に私を心配させるようなことは二度としません。腐敗した人は神の愛をとても嬉しく感じます。神は私の心の中にある唯一の愛、唯一私が愛するもの、尊敬するもの、そして頼るものです。神の愛なしでは、痛みだけを感じ、生きていくことはできません。人生を通して神を知っていくとは、何と喜ばしいことでしょう。私の状況に関わらず、私は神の足跡に従い、神の側にいて、神を安心させます。また、ひどい苦難の最中に、私は証を立て、神を満足させたいと思います。苦しみと精錬により、私の心はさらに神に近づきました。私は心の中で神と永遠に幸せです」(『小羊に従い新しい歌を歌おう)』内の、「心の中で神と永遠に幸せ」』より)

神に対する私の誤解がなくなると、私は落ち着きを取り戻し、過去の私の行為について改めて考え始めました。私の働きの中で、神を頼ったり、神に関心を向けたりしたことはありませんでした。神の心を求めず、働きの定めや教会からの要求事項に基づき働いていませんでした。私は自分の心、内的資質、そして経験に完全に頼り、自分のやりたいように物事を行なっていました。私は神の言葉に従い物事を見たり、取り扱ったりしたことは一度もなく、私の働きの原則を求めませんでした。私の感情と観念に頼り、推測し、判断していました。私は他者に相談したことはなく、自分のやり方で物事を行なうことがよくありました。他者に相談した時は、そうすれば謙虚に見えると言うためだけにそうしていました。実際には、私の心では既に計画ができ上がっており、このため、他人の考えを組み入れることは稀でした。上からの働きの定めが私の意見と食い違った場合は、これらを正しく実践していませんでした。また、誰かが私を取り扱おうとしたり、私を刈り入れたりしようとした場合は、さらに受け入れるのを拒否していました。私は、何であろうと、他者より優れ、傑出した存在になりたいと特に思っていました。私は誰よりも優秀であり、教会で私にできない働きはなく、私がするすべては優れていると信じていました。…大天使の傲慢な本性にコントロールされていた私は、私の中にいたサタンの本性に頼り、長年、私の働きの中で手に負えなくなっていました。私は基本的に真理を求めておらず、自分自身を知るために注力することもありませんでした。私のすべての関心は高い地位に就くことで、偉大なリーダーになりたいと思っていました。その結果、私は神の性質も、神の本質も全く理解していませんでした。私は神に対する畏敬の念も畏れもこれっぽっちも抱いていませんでした。神の前で向こう見ずに振る舞い、何事にも立ち止まることはありませんでした。私は、生意気に物を語り、行動していました。私が偽物の羊飼いであることに気が付いていませんでした。私はキリストの敵の役割を演じていました。私は、神に抵抗しながら、神に仕える道を進んでいたのです。兄弟姉妹は何度も私に忠告しましたが、私は彼らの善意の助けを受け入れませんでした。私はあまりにも傲慢で、我が道をそのまま進みました。何度も神に抵抗し、神に逆らったため、神の怒りに触れ、最終的には、奉仕の仕事から外されてしまい、それにより自省することになりました。

これらをすべて思い返すと、私は自分の酩酊状態から徐々に目が覚めてきました。この間中ずっと、神は、私を助けるために、私に起こるすべてに多くの考えを投じてきました。私は再び神の前にひれ伏さずにはいられませんでした。全能なる神よ、ありがとうございます!今回、除免されたことにより死ぬような気持ちを味わい、痛みは他に比較できるものがないほどでしたが、神の偉大なる愛と私の救済を経験する機会となりました。今回除免されていなければ、私は未だに自分自身の観念と想像の中で生きており、誤った方法で物事を行ない続けていたでしょう。未だに、教会で働くために家族と仕事を諦めたことが神に誠実に尽くすことだと信じていたことでしょう。自分自身の行ないを省みることはなく、私の奉仕の仕事は神に抵抗する、悪の行ないであったことに気が付かずにいたでしょう。この状態で続いていれば、私はますます傲慢で思い上がった人間になっていたでしょう。最終的に、私はキリストの敵として神に反抗していたでしょう。そして、私は「完全なる終わり」を迎え、追放されていたでしょう。今日、神の素晴らしいタイミングでの刑罰と裁きにより、私は悪の道を進むのを止めることができました。神は私が反抗者であることや、悪の行ないをし続けることを止めるようにしました。神よ、私への神の愛はとても偉大で、とてもリアルです!今日の除免は、神が私を本当に救ってくださるのを示すものでした。神の愛ある罰は、私の心を射止めました。私を救い、守ってくださり、心から感謝します。それ以上に、神の義なる性質は違反を許さないことを明確に示すことにより、私に身をもって経験させてくださりありがとうございます。人間の心無い痛烈な非難や辛い試練の中で、神の深い父なる愛を私に分からせてくださりありがとうございます。同時に、神は、私自身の腐敗した本質を認識させ、サタンにより私が深淵まで腐敗させられていたことを分からせてくださったことにも感謝しています。大天使の傲慢な本性は私の中に深くはびこっており、私から悪を浄化し、私を救うために、神の刑罰、裁き、試練、精錬、そして懲罰と除免でさえ、私はとても必要としていました。この働きを通してのみ、畏敬の念を持って神の前に顔を出し、守られ、悪を浄化することができます。神よ、今日から、私は熱心に真理を求め、神の働きに心から服従します。神の裁きと刑罰を受け入れます。神がどのように私を取り扱おうと、私は神に完全に服従し、神の采配に従います。誤解したり、文句を言ったりはしません。私は本物の人間となり、正しい価値観と目的を持って生きていきます。


神の御救いを受けていなければ、私は今日ここにはいないでしょう

2019-05-24 12:00:00 | 全能神の裁きを経験する証し

私は足が不自由な年配の姉妹です。外の天気が良い時ですら、歩くのは困難です。しかし、洪水に飲み込まれそうになった時は、神が奇跡的に私を危険から逃れさせて下さりました。

あれは2012年7月21日に起きました。あの日は集中豪雨が降り、私はちょうど、偶然にも外で自分の本分を尽くしていました。豪雨は夕方の4時を過ぎても止みませんでした。私は雨をものともせずにバスに乗って家に向かいました。バスに乗っている間、雨は増々強くなり、バスが私の降りるバス停の1つ前のバス停に着いた時、運転手が「このバスはこれ以上先には行けません。先の道路が崩れてしまいました」と私達乗客に言ったのです。どうすることも出来なかったので、私は余儀なくバスを降りて残りの道を歩くしかありませんでした。神から離れることを畏れた私は心の中で祈り続けました。道路は大洪水の勢いで完全に水に飲み込まれていました。私は道路に沿って立っているセメントの柱にしがみつきながら、1歩ずつ先に進もうとしました。しかし、その時でした、「前に進んではいけません!早く戻って!そこは通れませんよ。水が深くなってるし、水流も早過ぎます。押し流されたら助けてあげられませんよ!」と誰かが私に叫んだのです。しかし、その時、水は既に私の胸の高さまできていたので、私は前に進むことも、後ろに下がることも出来なくなっていたのです。わたしはあえて先に進もうとはしませんでした。私は神に祈りを捧げ、私の逃げ道を御開き下さるよう請うしかありませんでした。「神様!あなたはこの状況が私に降りかかることを意図とされ、今私が死ぬか生きるかはあなた次第です。水位が15センチほど下がれば私は前に歩いて行くことが出来ます。神様、どうかあなたの御計画通りになさって下さい。私は自分のいのちをあなたに委ねます!」この祈りを捧げた後、私はとても気が落ち着きました。そして私はこの神の御言葉の1つを思い出しました。「天と地、そして万物は私の言葉によって確立され、完全なものとなり、私の手によれば何であろうとも成し遂げる事が可能です。」(「キリストが最初に発した言葉と証し」より)私はこの神の御言葉に信念と勇気をいただきました。天地と万物は全てが神の手中にあるため、私は大洪水がどれだけ容赦ないものであれ、それが神の御計画から逃れることはできないと分かっていました。人はもう誰に頼ることも出来なくなっていました。私の息子、娘…誰もお互いの面倒を見る事は出来なかったのです。私は神を頼りにしてさえいれば、乗り越えられない困難はないと信じていました。丁度その時、奇跡が起こったのです。水流の勢いがどんどん弱くなり、少し前まであった激しさを失ったため、セメントの柱が徐々に見え始めたのです。私が祈った通りに水位が私の胸から15センチほど低くなっていったのです。そうして、私は、神の御導きの下、そこから1歩ずつ歩いて抜け出すことが出来たのです。神の御慈善と御加護がなければ、私はどこで洪水に飲み込まれていたか分かりません。私は心の奥底から神に感謝の意と称賛を表して、全能の神が私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったことに感謝しました。

後ほど、私はこの豪雨に関する息子の体験を聞きました。あの日、息子は本分を尽くした後、まずトイレに行きました。トイレから出てきて自分の部屋に戻ったとたんに、息子は外で何かが潰れる大きな音を耳にしたのです。外の様子を見に行くと、トイレの建物全体が水の中で完全に倒壊していたのです。神の御加護がなければ、息子は命を落としていたでしょう。それは正に神がこの御言葉の中で仰る通りだったのです。「ありとあらゆるものが、生けるものも死せるものも、神の考えに従い、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである…」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)私が感じた大きな興奮は言葉では本当に表現のしようがありません。

この2つの出来事を通して、私の神への信仰はさらに断固たるものとなりました。あの日、神は、私が神の証言を出来るようにするために私が災難から生き残れるようにして下さったのです。私は自分の良心を無視することは出来ません。私は、以前自分の本分を尽くしながら、自分がいつもどれだけ利己的で、意地悪で、独善的であったかということを振り返ると、自分は神の切迫した御心境を感じることも、神の思し召しを分かち合うことも出来ていなかったのだと気が付きました。今後、私は自分を悔い改めて変わって行きたいと思います。私は自分の実体験を語ってより多くの人々を神の前へと導き、福音の伝導作業に貢献して行きたいと思います。

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聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(2)神の働きや言葉は全て聖書の中に書かれているのでしょうか|日本語

2019-05-23 12:00:00 | 真実の解明動画シリーズ

聖書に関する映画「私の主は誰か」抜粋シーン(2)神の働きや言葉は全て聖書の中に書かれているのでしょうか|日本語
宗教界では、神様の働きや言葉はすべて聖書の中に書かれていると信じられています。つまり聖書の外には、神様が語られた言葉や働きは存在しないという考えです。つまり、聖書を信仰している限り、天国へ行けるということが保証されいるということなのです。このような思想は、神様の働きの事実に沿っているのでしょうか?聖書の外に神様の言葉は存在するのでしょうか?一体何が人間を天国へ導いてくれるのでしょう?それはあくまで聖書に忠実にあることすることでしょうか、それとも子羊の足跡をたどることでしょうか?この短編はその答えを全て明らかにしてくれます。

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


キリスト教会賛美合唱「全能神は栄光の座に座っている」

2019-05-22 22:26:41 | 全能神教会合唱団シリーズ

キリスト教会賛美合唱「全能神は栄光の座に座っている」
王なる神は勝利を得て、栄光の座に座った
人々を罪から贖い、彼らを神の栄光の中に導き入れる
すべてのものは堅くその手の内にあり
聖なる知恵と力をもって
シオンを建てて強固にした シオンを建てて強固にした
神の威厳をもって、邪悪な世を裁き
すべての国と民、地と海、すべての生きもの
そして放縦の酒に酔った者たちをも裁いた
神は必ず彼らを裁くだろう  必ず、神は彼らを裁くだろう

神はその激しい怒りを彼らに示し、神の威厳を現すだろう
彼らを一瞬のうちに裁くだろう
彼らを一瞬のうちに裁くだろう
神の大いなる怒の凄まじい炎が
彼らの滅びの罪を焼き尽くすだろう
滅びの罪を焼き尽くすだろう
患難はいつでもやってくる
彼らには逃れる道はなく、隠れる所も見いだせない
彼らは泣きわめき、歯ぎしりして
自らの罪のゆえに滅ぼされるだろう
彼らには逃れる道はなく、隠れる所も見いだせない
彼らは泣きわめき、歯ぎしりして
自らの罪のゆえに滅ぼされるだろう
勝利した、神に愛された子たちは、シオンに留まるだろう
永遠にそこに留まるだろう 永遠にそこに留まるだろう

唯一の真実なる神が現れた!(神が現れた)
世界の終わり(世界の終わり)がわれらの前に現わされた
終わりの日の裁きはすでに始まった
すべての人々が神の声を聞き
その働きに目を留める
神を賛美する声は決して止むことがないだろう
決して止むことがないだろう
すべての人々が神の声を聞き
その働きに目を留める
神を賛美する声は決して止むことがないだろう
決して止むことがないだろう
神を賛美する声は決して止むことがないだろう、決して止むことがないだろう
『言葉は肉において現れる』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。