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全能神は真理です

全能神―主イエスの再臨

神の働きは人間が想像するほど簡単か

2020-01-02 17:08:37 | 全能神の発表

  あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。それだからわたしは、神の栄光はけがれた地とそこに住む者たちから得られると言うのだ。これが神の旨である。これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各時代にどこで働こうが、肉としての働きをどこで行おうが、神はそこで栄光を受け、自らが得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

  数千年に渡る神の計画において、肉による働きは二つの部分から成っている。そのひとつは十字架に付けられることであり、これによって神は栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と人を完全にする働きであり、それによっても神は栄光を受ける。これが神の経営である。したがって、神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは皆、すべてを超越した、神の永遠で重みのある栄光の継承者であり、それは神が特別そう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたがそれを相続する。これは神によって引き上げられることであり、はるか昔に予め定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。また、神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだろう。それはイエスによる働きの段階が前例となっているからだ。だから、神は自らが栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でも達成し得ないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光が「留まる」ところがないのだ。そしてこれこそが、この地におけるこの段階の働きが持つ極めて重要な意義である。あなたがたの中には、法の保護を受けているものはひとりもおらず、むしろあなたがたは法によって罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。それが親戚であれ、両親であれ、友人や同僚であれ、誰もあなたがたを理解しないのだ。神があなたがたを「捨てる」なら、あなたがたが地上で生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これこそ神が人々を征服することの意義であり、また神の栄光であるのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちすべてのそれに優るものであり、モーセやペテロにさえ優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない。それは多くの犠牲を通して獲得されねばならない。つまり、精錬された愛や、大きな信仰、そして神があなたがたに到達することを求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義に面と向かい、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わることなく尽きない愛を抱いていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。あなたがたの堕落を改め、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にいたるまで従順でなければならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の働きの最終目的であり、この一群の人々に神が求めることである。神はあなたがたに施すと同時に、あなたがたが神に報いてその要求を満たすことを求める。つまり、神のすべての働きには理由があり、このことから、なぜ神が何度も高い基準の働きを為し、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神への信仰で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神はすべての働きをあなたがたのために行ったのだ。これは神自身の栄光のためというより、あなたがたの救いのため、そしてけがれた地でひどく苦しめられているこの一群の人々を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。だからこそわたしは見識や理知のない多くの愚かな人々にこう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならない。神は人が経験したことのないようなすべての苦しみを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたには他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の旨以上に大切なものが何かあるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。このけがれた地において神がその働きを実行するにはすでに倍の困難を伴うが、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長引かざるを得ないだろう。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において神が成就できなければ、神の日は永遠に来ることがなく、神の手を選民たちから離すこともできず、神の栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないであろう。あなたがたは神の旨を理解し、神の働きは、天地万物の創造のように簡単なものでないことを理解すべきである。なぜなら、今日の働きとは、堕落した者たちや極度に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに働きかけられてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる種類の植物や動物を創造したりすることでもない。神の働きは、今やサタンによって堕落させられたものを清めて取り戻し、神のものとし、神の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪って底なしの穴へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるためのものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることである。これがこの段階の神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どんな通常の働きとも異なっている。そのすばらしさは人間の頭では測り知ることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。この段階の働きの最中、神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神はすべての創造物を変え、サタンによってけがされたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始めるであろう。そして、これこそが神による働きの意義の全てである。これらの言葉から、あなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。


神は終わりの日に裁きの働きをするためになぜ人を使わないのか。なぜ神自らが受肉し裁きの働きを行わなければならないのか

2019-12-15 17:44:27 | 全能神の発表

  「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。…」(ヨハネによる福音書 5:22)

  「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。」(ヨハネによる福音書 5:27)

受肉

 

  関連する神の言葉

  裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行なわなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。

                『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

  終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。

                『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理を以てもって裁きの働きを行う」より

  現在のあなたに対するわたしの裁きは、あなたの不浄に起因し、わたしの刑罰はあなたの堕落と反逆性に起因する。あなたがたの間でわたしが権力や威信を表すためでも、故意にあなたがたを虐めるためでもなく、不浄の地に生きるあなたがたは、度を過ぎた不浄に汚れているからである。あなたがたは、誠実さと人間性をすっかり失い、最も不浄な所で生活する豚同然だからである。あなたがたが裁かれ、神の怒りがあなたがたに降りかかるのは、これらのためである。神が義なる神であり、聖なる神であることをあなたがたが理解することができたのは、こうした裁きのおかげである。神があなたがたを裁き、あなたがたに怒りを下したのは、神の聖さと義のためである。神が人間の反逆性を見た時にその義なる性質を現すことができ、人間の汚れを見た時に神の聖さを現すことができるのであるから、これだけで神が聖く汚れがなく、しかし同時に不浄の地で生まれたことを十分に示している。仮に、神が人間であり、他の者と同様に自らを汚し、聖さや義なる性質の要素が皆無だったとしたら、神は人間の不義を裁く資格も、人間を裁く者となる資格もないであろう。人間が人間を裁くとしたら、それは自分の顔を自分で叩くようなものではなかろうか。ある者が自分と同様に汚れている人間を裁く権利を持つことが、どうして可能であろうか。汚れた人間すべてを裁くことができるのは、聖なる神自身のみである。それならば人間がどうして人間の罪を裁けるだろうか。人間が人間の罪を見ることが、どうしてできようか。また人間が人間を咎める資格を得る事がどうしてできようか。仮に人間の罪を裁く権利が神になかったとしたら、神はどうして義なる神であることができるであろうか。人々の堕落した性質が現された時、神は発言し人間を裁き、そうして初めて人々は神が聖いことを知ることができる。

                『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの第二段階はどのように実を結ぶか」より

  肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。…だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

          『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

  神が肉の姿をとってサタンと戦い、自ら人を牧さなければならないのは、正確に言えば、サタンが人の肉体を堕落させたからであり、人間こそが神の救おうとするものだからである。神の働きに有益なのはこれのみである。神の二度の受肉はサタンを打ち負かすために存在し、また、より効果的に人を救うために存在した。なぜなら、サタンと戦いを交える方は、それが神の霊であれ、神の受肉であれ、神をおいては他にいないからである。要するに、サタンと戦いを交える者は天使のはずはなく、ましてやサタンに堕落させられた人間であるはずもない。天使にそのような力はなく、人間はもっと無力である。そのように、もし神が人のいのちに働くことと、人に働くために自ら地上に来ることを望むなら、神は自ら肉となり、つまり、自ら肉の姿をとり、神の本来の身分と神がしなければならない働きをもって、人を救うために人々の間に来なければならない。もしそうでなく、この働きをしたのが神の霊か、人間であったなら、この戦いは永遠にその効果を達成することはなく、決して終わることもないだろう。神が肉となり、人々の間で自らサタンに戦いを挑むとき初めて、人に救いの機会があるのだ。さらに、その時初めてサタンは辱められ、利用する機会も、企てる計画もまったくないままの状態になるだろう。受肉の神によってなされる働きを、神の霊によって成し遂げることは不可能であり、神の代わりに肉なる人間によって成し遂げることはなおさら不可能である。というのは、神がなす働きは人のいのちのためであり、人の堕落した性質を変えるためであるからだ。人がこの戦いに加わるとしたら、惨めにも混乱してただ逃げるだけで、彼らには人間の堕落した性質を変えることはまったくできないであろう。人には十字架から人間を救ったり、反抗的な人類すべてを征服したりすることは不可能であり、原則に従って古い働きを少しするか、サタンの敗北とは関係のない他の働きをすることしかできないだろう。それならなぜ思い煩う必要があるのか。人間を獲得することも、ましてサタンを打ち負かすこともできない働きに何の意味があるのか。したがって、サタンとの戦いは神自らによってのみ遂行されるのであって、人にはまったく不可能である。人の本分は服従して従うことである。というのは、人は新しい時代を切り開く働きも、サタンと戦う働きを遂行することもできないからである。人はただ神自らの指導の下で、造り主を満足させることができだけで、サタンは、それを通して打ち負かされるのである。これは人ができる唯一のことである。それゆえ、新しい戦いが始まるたびに、すなわち、新しい時代の働きが始まるたびに、この働きは神自らによってなされ、それを通して、神はその時代全体を導き、全人類のために新しい道を切り開く。

        『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より

  神の経営(救いの)計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営(救いの)計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉の神が十字架に釘付けされた事である。受肉の神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉の神が人のいのちに直接働き始めるときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きである。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉の神でなければならなかった。なぜなら、受肉の神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営(救い)において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より


主イエス自らが神が働きを行なうために終わりの日に受肉し、人の子として現れると預言した

2019-12-11 18:06:42 | 全能神の発表

   参考聖書箇所

  「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音 12:40)

  「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」(マタイによる福音書 24:37)

  「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。」(マタイによる福音書 24:27)

  「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書 17:24-25)

  「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。」(マタイによる福音書 25:6)

  「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録 3:20)

  「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録 1:12-16)

  関連する神の言葉

  イエスは自分が去ったのと同じように来ると言ったが、これらの言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。本当にイエスはあなたに伝えられたであろうか。あなたが知っているのは、イエスは雲に乗って去って行ったようにやって来るということだけである。しかし、神自身がその働きをいかに行なうのかをあなたは正確に知っているのか。あなたが本当に見ることができるとすれば、ではイエスの言葉はいかに説明されるべきであろうか。「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての民も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」とイエスは言った。あなたが知り、見ることができるのであれば、これらは空虚な言葉ということにならないであろうか。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見たのであれば、これらの言葉はみだりに語られたことにならないであろうか。そして、そのときイエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。…だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのか、人の子は知らないであろう。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、それはごく普通で平凡な人である。イエス自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。

                         『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

  「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」。あなたがたには今聖霊の言葉が聞こえたか。神の言葉があなたがたに届いた。それが聞こえるか。神は終わりの日に言葉による働きを行うが、そのような言葉は聖霊の言葉である。神は聖霊であり、また肉になることもできるからである。したがって、過去に語られた聖霊の言葉は今日肉となった神の言葉である。聖霊の言葉は天から降りてきて人の耳に届くはずだと信じている多くの愚かな人がいる。このように考える人は誰も神の働きを知らない。実際、聖霊が語る言葉は肉となった神が語る言葉なのである。聖霊は人に直接語りかけることはできないし、ヤーウェは律法の時代でさえ人々に直接語りかけることはなかった。ましてや、今日、この時代に神が直接語りかけるなどとはまず考えられないのではないか。神が言葉を発して働きを実行するためには、肉とならなければならない。そうでなければ神の働きは目的を達成させることはできない。

   『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を定義する人がどうして神の啓示を受けることができるのか」より

  数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。

               『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

  真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12~16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)

                                   『言葉は肉において現れる』の「序文」より

  わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることをあなたは知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。

   『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より


神の宿る肉の本質

2019-12-10 16:32:02 | 全能神の発表

  最初に受肉した神は地上で三十三年半間生きたが、職分を果たしたのは、そのうちのたった三年半であった。働きをしていた時も、働きを始める前も、イエスは普通の人間性をもっていた。普通の人間性を三十三年半間宿したのである。最後の三年半の間に、イエスは自分が受肉した神であることを明らかにした。職分を果たし始める前は、普通の正常な人間性を示し、その神性の兆候は何も示さなかった。公に職分を果たし始めた後になってはじめて、神性が示された。最初の二十九年間の生活と働きは、イエスが本物の人間、人の子、肉体をもつ人であることを証明していた。イエスの職分は二十九歳以降に本格的に始まったからである。受肉というのは、神が肉の体で現れることで、神が自分の創った人間のもとで働くために人間の姿で来るのである。さて、神が受肉するというのは、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するということは、神が肉体において生き働くということ、その本質において肉となり、ひとりの人になるということを意味する。神の受肉した生活と働きは二つの段階に分けられる。第一は職分を始める前の生活。神は普通の人間の家族として暮らし、ごく普通の人間性をもち、人間生活の通常の道徳や法に従い、普通の人間の必要(食物、衣服、住まい、睡眠)をもち、普通の人間の弱さ、普通の人間の感情をもって暮らす。つまり、この最初の段階で、神は神ではなく完全に普通の人間として、あらゆる普通の人間的な活動を行いながら生きる。第二の段階は、職分を果たし始めた後の生活である。神はまだ普通の人間の外形で通常の人間性において暮らし、表向きには超常的なしるしは何も現さない。しかし、神は純粋にその職分のために生き、この期間の普通の人間性は、ひたすら神として普通の働きのために存在する。そのころには、普通の人間性は職分を果たせるほどに成熟していたのだから。そこで、第二の段階では普通の人間性において職分を果たすこととなり、それは通常の人間性と完全な神性を兼ね合わせる生活である。前半生で神がまったく普通の人間的な生活をする理由は、まだその人間性が神性の働きの全体と同等でないから、まだ成熟していないからである。人間性が成熟して、その職分を背負えるようになってはじめて、職分を果たし始めることができるのである。肉体をもつ者として神は成長し、成熟する必要があるので、その生涯の最初の段階は普通の人間のものである。第二段階に入ると、その人間性が働きに着手し、職分を果たせるようになっているので、職分を果たす間の受肉した神の生活は、人間性と完全な神性の二つを併せもつものである。もし受肉した神が生まれた瞬間から本格的に職分を果たし、超自然のしるしや不思議を示し始めたなら、その肉体の本質は何もないであろう。だから、受肉した神の人間性は、肉体的な本質のために存在するのである。人間性なくして肉は存在しない。また、人間性のない人は人間ではない。このように、神の肉の人間性は、受肉した肉のなくてはならない性質である。「神が人間になった時、神は完全な神で、まったく人間ではない」と言うのは瀆神行為である。なぜなら、これは受肉の原理に反する、あり得ない立場だからである。神がその職分を始めた後も、その神性は働きを行う人間の外形にまだ宿っている。ただその時、神の人間性は神性が通常の肉の体で働きを行えるようにするという目的だけを果たすのである。だから、働きをする者は、人間性に宿る神性である。働いているのは神の人間性ではなく神性だが、それは人間性の中に隠れた神性である。神の働きは、つまるところ、完全な神性が行うのであって、人間性によるのではない。しかし、働きを実践するのは神の肉である。このような神は、人間でありかつ神であると言えるだろう。神は肉の体で生きる神となり、人間の姿と人間の本質をもつが、また神の本質をも備えているからである。神の本質を備えた人間だから、であるどの人間、神の働きを行うことのできるどの人間よりも上位に位置する。そこで、このような人間の姿をした者たちの中で、人間性をもつすべての者の中で、神だけが受肉した神そのものである。他はみな、被造物である人間である。受肉した神と人間の双方に人間性があるが、被造物である人間には人間性以外には何もない。ところが、受肉した神は違う。受肉した神は、その肉体において人間性だけではなく、さらに重要なことに神性をも備えている。神の人間性は肉の体の外見や毎日の生活に見られる。しかしその神性は感知しにくい。神の神性は人間性があってはじめて現れるのだから、また、人々が想像するほど超自然なものではないから、人々がそれを見るのは極めて難しい。今日でも受肉した神の本質を理解するのは極めて難しい。実際、わたしがこれほど長い間話してきても、あなたがたの大半にとってはいまだに謎であることであろう。これはとても単純なことなのである。神が人間になると、その本質は人間性と神性の合わさったものである。この組み合わせが神そのものと呼ばれる、地上における神そのものなのである。

  イエスが地上で生きた生活は、肉体をもつ人間の通常の生活であった。イエスはその肉体の正常な人間性において生きた。イエスの権威──彼の働きをし、彼の言葉を話し、病者を癒やし、悪霊を祓うといった、驚くべきことを行うためのもの──は、大方、職分を果たし始めるまでは示されなかった。二十九歳までの生活、教えを説く前は、イエスがただ普通の肉体をもった人間であったことの十分な証拠であった。そのため、そして、イエスがまだ職分を果たし始めていなかったため、人々はイエスに何の神性も見出さなかった。普通の人間、平凡な人間しか見なかった――ちょうど当時の人々がイエスはヨセフの息子だと信じていたように。人々は、イエスは普通の人間の息子だと思い、神の受肉したものであるとは知りようもなかった。職分を果たしながら、多くの奇跡を行ったときでさえも、たいていの人々はあれはヨセフの息子だと言った。イエスは普通の人間の外形をしたキリストだったからである。イエスの普通の人間性とその働きは、神が完全に受肉し、全く普通の人間になるという、最初の受肉の意味を満たすために存在した。働きを始める前のイエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが普通の肉体をもつ人間であった証拠である。そして、その後、イエスが働きをしたことも、通常の人間であることを示していた。イエスは普通の人間性をもつ肉体において、しるしや不思議を行い、病む者を癒やし、悪霊を祓ったのだから。イエスが奇跡を行うことができたのは、その肉に神の権威を帯びており、神の霊が人間の姿をしていたものだからである。イエスにこの権威があったのは、神の霊のためであり、イエスが人間ではなかったということではない。病む者を癒やし、悪霊を祓うことは、イエスがその職分において行う必要のある働きであり、人間性に隠された神性の表明であった。どのようなしるしを示そうと、どのようにその権威を示そうと、イエスはやはり普通の人間性において生き、普通の肉体をもつ人間であった。十字架上で死んで蘇るまで、イエスは普通の肉の中に宿っていた。恵みを与え、病人を癒し、悪霊を祓うことは、その働きの一部であり、すべて普通の人間の体で行われた働きである。イエスは十字架に行く前には、何をしているときであっても、けっして普通の人間の体を離れなかった。イエスは神そのものであり、神の働きをしたが、受肉した神であったため、食物を食べ、衣服を着、普通の人間と同じものを必要とし、普通の人間の理性と普通の人間の心をもっていた。これはみな、イエスが普通の人間であったことの証拠であり、受肉した神の体は普通の人間性をもつ肉体であって、超自然のものではないということを示している。イエスの務めは神の最初の受肉の働きを完了すること、最初の受肉の職分を果たすことであった。受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──そのような人は普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、そのような肉は人間の肉とは呼ばれなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。キリストが普通の人間性をもっていたことは、キリストが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。キリストが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、キリストが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、キリストの働きは、キリストが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが「言葉は肉となる」、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。人々はイエスの全生涯は不思議に満ちていたと思っているであろう。地上での働きの終わりまで、普通の人間性を示さず、普通の人間のような必要や弱さ、人間的な感情もなく、また、人間生活の基本的な必要もなく、普通の人間のような考えもなかった、と思っているであろう。そういう人々は、イエスが超人的な頭脳、超越的な人格だけをもつと想像している。人々は、イエスは神なのだから、普通の人間のするように考え、生きることはないはずだ、普通の人、本物の人間だけが、普通の人間のように考え、普通の人間のように生きるのだと考えている。これらはみな人間の発想、人間の考えであって、神の働きの本来の意図に反するものである。普通の人間の考えは、普通の人間の理知と普通の人間性を支える。普通の人間性は普通の肉の機能を支える。そして、普通の肉の機能は普通の人間の生活すべてを可能にする。そうした肉において働いてはじめて、神はその受肉の目的を達することができる。受肉した神が肉の外形だけはもつが、普通の人間のように思考しないとしたら、この肉は人間の理性をもたず、まして、本物の人間性ももたないであろう。そうした人間性を欠いた肉が、どうして受肉した神が果たすべき職分を成就できたであろう。普通の心は人間生活のあらゆる面を支える。普通の心がなければ、それは人間ではないであろう。つまり、普通の考え方をしない人は、精神を病んでいるのである。そして、人間性をもたず神性だけをもつキリストは、神の受肉した体であるとはいえない。それで、神の受肉した体に普通の人間性がないということがなぜあり得るのか。キリストに人間性がないというのは、冒瀆ではないのか。普通の人間が行う活動は、普通の人間の心の働きに依存している。それがなければ、人間は異常な振る舞いをする。黒と白の違い、善悪を区別することさえもできないであろう。また、人間的な倫理観や道徳律もないだろう。同様に、もし受肉した神が普通の人間のように考えないのなら、それは本物の肉、普通の人間ではない。そうした思考しない肉が神性の働きを担うことはできないであろう。それでは肉の普通の活動をすることができず、まして、地上で人間と共に生きることはできないであろう。そのため、神の受肉の意義、神が肉として顕現することの本質は失っていたであろう。受肉した神の人間性は、肉において普通の神性の働きを維持するためにある。神の普通の人間としての考え方が、その普通の人間性とあらゆる普通の身体的活動を維持する。神が普通の人間的思考をするのは、神が肉においてする働きをすべて支えるためなのだと言えるだろう。この肉が普通の人間の心をもたないのなら、神は肉における働きができず、肉においてするべきことを成就できない。受肉した神は普通の人間の心をもつが、その働きは人間の思考によって劣化しない。神は普通の心をもつ人間として働きを行うが、心をもった人間性はその前提条件であり、通常の人間の考えを行使することによりその働きを行うのではない。神の肉の体がどれほど崇高な考えをもとうと、神の働きは論理や思考の産物ではない。つまり、神の働きは肉の体から生まれるのではなく、人間性の内における神性の働きの直接的な現れなのである。その働きはみな、成就するべき職分であり、そのどれも人間の頭脳の産物ではない。たとえば、病人の癒し、悪霊祓い、磔刑はイエスの人間としての心の産物ではなく、人間の心をもった人間がなし得ることはなかったであろう。同様に、今日の征服の働きも受肉した神が行うべき務めであるが、人間の意図による働きではない。これは、キリストの神性が行うべき働きであって、肉の体をもつ人間に可能な働きではない。だから、受肉した神は普通の人間の心をもたなければいけない。普通の人間性をもたなければいけない。なぜなら、普通の心をもった人間性の内にあって働かなければいけないからである。これが受肉した神の働きの本質、受肉した神の本質そのものである。

  イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間の肉の形になっていたことと、恵みの時代は受肉した神の働きの時代であり、霊の働きの時代ではないことの証拠であった。これは、神の霊が完全に肉において現れたこと、神が受肉した時代には、肉の体が霊の働きをすべて行うことの証拠であった。普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間的思考をもっている。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を祓うことが必要だったのは、神の働きが、贖うことだったからである。全人類を贖うためには、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架につけられる前にした働きは、病者を癒やし、悪霊を祓うことだったが、これは、人間を罪と穢れから救うことを予め告げるものであった。これは恵みの時代だったため、イエスが病者を癒やし、しるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものであった。恵みの時代が、人々のイエスへの信仰の象徴である平和と喜び、物質的幸いに象徴される恵みを施すことを中心としていたためである。これはつまり、病者を癒し、悪霊を祓い、恵みを与えることが、恵みの時代のイエスの肉に生まれながらに備わった能力だったということで、それが肉において霊が実現した働きであったのだ。しかし、イエスはそうした働きをしている間、肉の体で生きており、肉を超越してはいなかった。どのような癒やしのわざを行っても、イエスは普通の人間性を備え、まだ普通の人間として生きた。神の受肉した時代、肉が霊の働きのすべてを行ったとわたしが言うのは、イエスがどのような働きをしようと、それは肉の内で行ったということである。しかし、その働きのため、人々はイエスの人間の体が完全に肉体的な本質をもつとは考えなかった。それは、この肉の体は奇跡を行うことができ、特別な場合には、肉を超越することができたからである。もちろん、こうしたこと、例えば四十日間試されたことや、山上の聖変容はみな、イエスがその職分を始めた後に起こったことだ。だから、イエスにおいては神の受肉の意義は完了しておらず、部分的に成就されただけであった。働きを始める前、イエスが肉において送った生活は、どの点から見ても、まったく普通のものであった。働きを始めた後、イエスは人間の外形だけを保った。イエスの働きは神性の現れだったので、通常の肉の機能を超えていた。結局のところ、神の受肉した肉は生身の人間とは違ったのである。もちろん、日々の生活では、他のみなと同じように食物や衣服、睡眠、住まいを必要とし、あらゆる普通の必需品を必要とし、普通の人間のように思考し、判断した。人々はそれでも、イエスの行った働きが超自然的であったということ以外では、イエスを普通の人間と見た。実際、イエスは何をしていても、普通の正常な人間性において生きており、働きをするときもその理知はごく正常なもので、その思考は他の通常の人間以上に明瞭であった。受肉した神は、このように考え判断する必要があった。きわめて通常の理性を備え、思考が明瞭な人が神の働きを表す必要があったからである。そうしてはじめて、神の肉は神性の働きを表すことができたのである。この世に生きた三十三年半の期間を通じて、イエスは普通の人間性を保っていたが、三年半の職分の間に行った働きのせいで、人々はイエスがきわめて超越的で、それ以前よりはるかに超常的であったと思った。実際は、イエスの人間性は働きを始める前も後も変わらなかった。イエスの人間性はずっと同じであった。しかし、働きを始めた前と後の相違のために、イエスの肉について二つの異なった見方が生じた。人々が何を考えようと、受肉した神はずっと元々の普通の人間性を保っていた。神は受肉して以来、肉において生きたが、その肉は普通の人間性をもっていたのだから。イエスがその働きをしようとしまいと、その肉の人間性は除くことができなかった。人間性は肉の基本的な本質だからである。イエスが職分を果たし始める前、イエスの肉は完全に普通のままで、あらゆる普通の人間的活動をした。イエスは少しも超常的な様子を示さず、奇跡的なしるしを何も見せなかった。当時、イエスはただ神を崇めるごく普通の人間であった。その信仰は他の誰よりも正直で、真摯なものであったが。イエスのまったく普通の人間性はこのように現れていた。イエスは職分を果たし始める前はまったく働きをしなかったから、誰一人、イエスの身分に気付かなかった。誰もイエスの肉が他の人々のそれと違うとはわからなかった。イエスは、たった一つの奇跡も起こさず、神自身の働きを少しもしなかったからである。しかしながら、職分を果たし始めたとき、イエスは普通の人間の外形を保ち、まだ、普通の人間の理知をもって生活していた。しかし、神自身の働きを始め、キリストとしての務めを果たし、死すべき存在である生身の人間にはできない働きをしたため、人々はイエスには普通の人間性がなく、体は完全に普通の人間のものではなく、不完全な肉体なのだと思い込んだのである。イエスの行った働きのため、人々はイエスが人間の体をもつ神であり、普通の人間性はもたないのだと言った。これは誤った考えだ。人々は神の受肉の意味を理解していなかったのだから。この誤解は、神が受肉して行った働きが、普通の人間性をもつ肉の体において表された神性の働きだったからである。神は肉をまとい、肉の内に生きた。その神の人間性の中での働きが、その普通の人間性を曖昧にした。そのため、人々は神には人間性がなかったのだと信じたのである。

  最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神の働きはごく普通の体、まったく超自然的でない体において表される。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。彼は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、その理由は、受肉した神の今回の働きは病人を癒し、悪霊を祓うためではなく、話すことによって人間を征服するためであり、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。あなたが今日見る受肉した神は完全な肉の体であって、超自然的な要素は何もない。神は完全に肉の体なのだから、他の人々同様、病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。今回、受肉した神が超自然のしるしや不思議を見せたなら、病者を癒し、悪霊を祓ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えるであろうか。どうして異邦人の国々で働きを広められるであろうか。病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日には、神は普通の正常な肉体で征服の働きを実現する。神は病人を癒やさず、人間のために十字架につけられることもなく、ただ肉の体で言葉を話し、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉された体である。こうした肉の体だけが、神の肉における働きを完了できる。

  この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して来るのは、働きのため以外では普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに自分が肉体になっていること、正常な普通の人間であることを示し、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人間を贖い、人間を征服できることを示すのである。サタンの働きの目的は人間を堕落させることだが、神の目的は人間を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神は創造の主であるからである。この働きはみな、神の二度の受肉で達成される。神の肉は本質的に人間性と神性の一体化したもので、普通の人間性を備えている。だから、神の受肉した肉なしでは人間を救う際にこれらの成果を達成することはできず、肉の普通の人間性なしでは肉における神の働きは成果を挙げることができない。神の受肉の本質は、神が普通の人間性をもたなければいけないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになる。

  なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。


受肉した神の職分と人間の本分の違い

2019-12-09 20:48:10 | 全能神の発表

  あなたたちは神の働きのビジョンを知り、神の働きの一般的方向を把握しなければいけない。これが前向きにいのちに入ることである。ひとたびビジョンの真理を正確に理解したなら、あなたの入りは確かである。神の働きがどのように変化しようと、あなたの心は堅固で、ビジョンについて明確であり、入りと追求の目標を持つことになる。そのようにして、あなたの内の経験と認識のすべてがより深くなり、さらに練られる。ひとたびこの全体像を完全に把握すれば、あなたは、いのちにおいて何も失わず、途方に暮れることがない。こうした働きの歩みを知らないでいれば、あなたはその一つひとつにおいて損失を被る。あなたはほんの数日だけで方向転換することはできない。たとえ数週間経っても正しい軌道に乗ることはできない。それは遅れを生じさせないか。あなたたちが身につけるべき、肯定的な入りやそのような実践はたくさんある。だから、神の働きのビジョンについて次のような幾つかの点を把握していなければならない。即ち、神の征服の働きの意義、将来完全にされるための道、試練や患難を経験することによって達成されるべきこと、裁きと刑罰の意義、聖霊の働きの原則、完全になることと征服の原則などである。こうしたことはみな、ビジョンの真理である。その他のことは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代の働きの三段階であり、将来の証しである。これらもまた、ビジョンに関する真理であり、最も基本的であるとともに、最も大事なことである。現在のところ、あなたたちが入るべきことと実践すべきことはあまりに多い。そしてそれらは今さらに重層的で詳細になっている。もしこれらの真理について何の認識ももっていなければ、それは、あなたがまだ入っていない証拠である。たいていの場合、人間の真理についての認識はあまりに浅く、ある基本的な真理を実践することができず、ほんの些細なことでさえどう対処すればよいのか分からない。人間が真理を実践できないのは、その反抗的な性質のためであり、また、今日の働きについての認識があまりに表面的で一面的だからである。これでは人間が完全にされるのは、容易なことではない。あなたの反抗心は強すぎて、古い自己をあまりにも多くもち続けている。あなたは真理の側に立つことができず、最も明らかな真理でさえ実践できない。このような人間は救われることはできず、まだ征服されていない人々である。もしあなたの入りに詳細も目標も欠けているなら、成長があなたに訪れるのは遅々とするだろう。もしあなたの入りにほんのわずかの現実性もなければ、あなたの追求は虚しく終わるだろう。もしあなたに真理の本質が分かっていないのなら、何も変わらないままだろう。人間のいのちの成長と人間の性質の変化はみな、現実に入ることにより、さらに、詳細な経験に入ることを通して達成される。もしあなたが入りの過程に多くの詳細な経験をし、実際の認識と入りを豊かにもつなら、あなたの性質は速やかに変化する。たとえあなたが、今のところ実践においてそれほど目が啓かれていなくとも、少なくとも、働きのビジョンについて明察を得ていなければならない。もしそうでなければ、あなたは入ることができず、まず初めに真理についての認識がなければ、入ることはできない。聖霊があなたの経験の中で導き示してはじめて、あなたは真理についてより深い理解を得て、より深く入れることができる。あなたたちは神の働きを知らなければならない。

  はじめに人類が創られた後、働きの土台となったのはイスラエル人で、全イスラエルが地上におけるヤーウェの働きの基盤であった。ヤーウェの働きは、人間が地上で正しい生活をし、ヤーウェを正しく礼拝できるように、律法を定めることを通して人間を直接導き牧養することであった。律法の時代の神は人間が目で見ることも触れることもできない方であった。神はただ最初にサタンが堕落させた人間を導いたのだが、神は人間を教え牧養するためにそこにいた。だから神の話した言葉は人間として生きるための掟や規則、常識に関するものだけであり、人間にいのちを与える真理ではなかった。ヤーウェの導いたイスラエル人は、サタンが深く堕落させた者たちではなかった。神の律法の働きは、救いの働きの最初の段階、救いの働きの出発点であり、人間のいのちの性質を変えることとは実際には何の関わりもなかった。だから、救いの働きの始めにおいて、イスラエルでの働きのために神が肉の姿をとる必要はなかった。神が仲介者、つまり、人間と接触するための器を必要としたのはそのためである。そこで、被造物の中からヤーウェに代わって語り働く者たちが現れた。こうして人の子らや預言者たちが人間たちの間で働くようになった。人の子らはヤーウェに代わって人間たちの間で働いた。神にそのように呼ばれるのは、このような人々がヤーウェに代わって律法を制定し、彼らはまたイスラエルの人々の間で祭司でもあったことを意味する。そうした人々は祭司としてヤーウェに見守られ、ヤーウェの保護を受け、ヤーウェの霊による働きを受けた。彼らは人々の指導者であり、直接ヤーウェに仕えていた。一方、預言者たちはヤーウェに代わってあらゆる地域とあらゆる部族に話すことを専門とした。彼らはまた、ヤーウェの働きを預言した。人の子たちであれ預言者たちであれ、彼らは皆ヤーウェ自身の霊によって起こされ、内にヤーウェの働きをもっていた。人々の間にあって彼らは、直接ヤーウェの代理をした。彼らはヤーウェに起こされたからこそ働いたのであって、聖霊自身の受肉した肉だったからではない。だから、彼らは同じように神に代わって語り、働いたが、律法の時代のこれらの人の子らと預言者たちは、受肉した神の肉ではなかった。これは恵みの時代や最後の段階とは正反対であった。人間の救いと裁きの働きはいずれも受肉した神自身が行なったので、神の代わりに働く預言者たちや人の子らを起こす必要がない。人間の目には、彼らの働きの本質と手段の間にさほど大きな違いがあるようには見えない。また、このため、人間はいつも受肉の神の働きを預言者たちや人の子らの働きと混同する。受肉した神の外見は基本的に預言者たちや人の子らの外観と同じであった。また、受肉した神は預言者たちよりずっと平凡で現実的であった。それ故、人間はまったく両者を区別できない。人間は外見ばかりに着目するので、両者は同じように働き、語るが、そこに実質的な違いがあることにはまったく気付かない。人間の識別力はあまりに低いため、人間には基本的な問題も見極めることができないが、これほど複雑なこととなるとなおさらである。預言者たちや、聖霊に用いられる者たちの言葉と働きはみな、人間としての本分を尽くしていたのであり、被造物として自分の役割を果たし、人間がやるべきことを為していたのであった。しかしながら、受肉の神の言葉と働きとは、神の職分を実行することであった。受肉の神の外形は被造物と同じだが、その働きは、その役割を果たすことではなく、神の職分を遂行することであった。「本分」とは、被造物に関して用いられ、一方「職分」とは受肉の神の「肉」に関して用いられる。両者には本質的な違いがあり、この二つを置き換えることはできない。人間の働きはその本分を尽くすことだけであるが、神の働きとは、経営する(救い)ことと、神の職分を行うことである。だから、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物としての本分を尽くすことであった。彼らの預言は受肉した神の語ったいのちの道よりも偉大であったかもしれないが、また、彼らの人間性は受肉した神よりも非凡なものであったが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を果たしたのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかしながら、受肉した神に行われる職分は、神の経営に関連しており、これは人間には達成できない。語ることであれ、働きを為すことであれ、ふしぎを現すことであれ、受肉の神はその経営の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の経営の働きのある段階において被造物としてただその本分を尽くすことである。神の経営なしに、つまり、受肉の神の職分が失われるならば、被造物の本分もまたそうなるであろう。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を経営する(救い)ことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、職分を果たしているとはいわれることは決してない。神の元来の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとはその経営のことであるが、創られたものと同じ外形をまとう受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どのような働きを受肉の神が行なおうと、それは自分の職分を果たすことであり、人間にできるのは、神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。

  人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、人間の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも影響することもない。奉仕の中にあるかもしれない欠点を恐れて、奉仕をやめたり妥協したり退いたりする者たちは、すべての人々の中で最も臆病である。もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのである。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物という呼び名に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。もし人間が人間として本来達成可能なことを失うなら、その人はもはや人間とはみなされない。その人は被造物として存在し、神の前に来て神に仕える資格はない。さらに、そんな者は神の恵みを受け、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格はない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした人々は、自分たちの悪行を恥ないどころか、ずうずうしくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定さえする。どうしてそのような反抗的な人間が神の恵みを享受する特権をもてようか。自分の本分を果たすことのできなかった人間は、神に対して極めて反抗的で、多くを神に負っている。それにもかかわらず、彼らは反対に、神が間違っていると激しく非難する。そうした人間がどうして完全にされるに値するのか。これは、神に取り除かれ、罰される先触れではないのか。神の前で自らの本分を果たさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪に対しては、死さえも充分な罰ではない。しかし、人間はずうずうしくも神に反論し、自らを神に比べる。そんな人間を完全にする値打ちがどこにあるだろうか。もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきである。自らの弱さ、無用さ、反抗心、堕落、を恥じ、神のために自らのいのちと血を犠牲にするべきである。そうしてはじめて、人間は真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格がある。では、あなたたちの大多数はどうであろうか。あなたたちの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしてきたのか。あなたたちは、するように命じられたすべてのことを、命がけでさえ為し遂げたことがあるのか。あなたたちは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたたちは区別ができるのか。あなたたちは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたたちは、どのようにわたしに仕えてきたのか。また、わたしがあなたたちに授け、あなたたちのためにしたあらゆることは、どうなのか。あなたたちは、その大きさを測ったことがあるのか。それを、あなたたちは皆、ささやかながら内にもつ良心のすべてに照らして判断したのか。あなたたちの言動はいったい誰に相応しいのか。そんなにもちっぽけなあなたたちの犠牲が、わたしがあなたたちに授けたものすべてにふさわしいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたたちに献身してきたが、あなたたちはわたしについて邪悪な疑念をもち、いい加減な気持ちでいる。あなたたちの本分はこの程度で、それがあなたたちの唯一の役割である。そうではないのか。あなたたちは自分が被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたたちが被造物とみなされることができるのか。あなたたちは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのかが、はっきりわかっていないのか。あなたたちは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得えることを求めている。このような恵みはあなたたちのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたたちのような人々、これほどに凡庸な取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたたちの生涯につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたたちの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに対して自分の行為を説明できないのなら、あなたたちの分け前は罰だけである。どんな恵みも祝福も、神の国でのすばらしい生活も、あなたたちには無縁である。これがあなたたちに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果である。そうした愚かで傲慢な人々は最善を尽くしもせず、自分の本分を果たしもせず、そのかわりにただ恵みを求めて手を差し出し、それはまるで、自分たちにはそれを求める資格があるかのようである。そして、もし求めるものが得られなければ、さらに不信仰になる。どうしてこんな者たちが理性的だとみなされようか。あなたたちは能力に乏しく、理知に欠け、経営(救い)の働きの間に成し遂げるべき本分を果たすことがまったくできない。あなたたちの価値はすでに大幅に降下している。わたしの示したあれだけの好意への返礼をあなたたちが欠いていることは、すでに極度の反抗の行為であり、あなたたちを罪に定め、あなたたちの臆病さ、無能さ、卑しさ、無価値さを実証するに充分である。どうしてあなたたちに、まだ手を差し出し続ける資格があるのか。あなたたちはわたしの働きのほんの僅かな助けにもならず、自分の信仰に献身することも、わたしのために証しすることもできない。これらは既にあなたたちの悪行と欠点であるが、あなたたちは、かえってわたしを攻撃し、わたしについて偽りを語り、わたしが不義だと不平を言う。これが、あなたたちの忠実というものか。これが、あなたたちの愛というものか。これ以外に、どんな働きができるのか。すでに行われたすべての働きに、あなたたちはいかに貢献したのか。どれほどの労力を費やしたのか。わたしはあなたたちを非難しないことで、すでに大きな寛容を示した。しかしあなたたちは依然として、人のいないところで恥知らずにもわたしに言い訳している。あなたたちにはほんのわずかな人間性もないのか。人間の本分は人間の頭脳とその観念に汚染されているが、あなたたちは本分を尽くして忠誠を示さなければならない。人間の働きの中にある不純物は、その人間の能力の問題だが、もし人間が本分を尽くさないと、反抗心を現す。人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の相互関係もない。本分は人間が全うすべきことで、それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえる。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということである。もし人間が本分を尽くせないのなら、それは人間の反抗心の現れである。人間が徐々に変えられるのは、いつも人が自分の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自らの忠実を実証する。だから、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け、あなたの表現はもっと実際的なものになる。ただ形の上だけで本分を尽くしているふりをして、真理を求めない者は、最後には淘汰される。何故ならそのような者たちは真理の実践において自分の本分を果たさず、その本分を果たすことにおいて真理を実行しないからである。そうした人は変わらない人で、呪われる。彼らの表すものは不純であるだけでなく、邪悪なものばかりである。

  恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの働きを為した。イエスはイザヤとはどう違っていたか。イエスはダニエルとどう違っていたのか。イエスは預言者だったのか?何故彼はキリストだと言われるのか。彼らの間の違いとは何であろうか。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約聖書の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の深さ浅さを考察すべきではない。イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果をいつも第一に考えなければいけない。当時預言者たちによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、イザヤやダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。それはただの人間には不可能である。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからである。第二に、イエスは人間の逸脱を正常に戻すことができた。第三に、イエスの働きはヤーウェの働きをひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。第五に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのである。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点だけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェの代わりに行った働きの一面でしかなかったことが十分に証明される。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけである。イザヤは律法の時代を超えて働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエスは受肉した神として働き、全人類を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行った。それが新たな時代を招き入れたということである。もう一つの点は、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の経営(救い)のうちにあり、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人に働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのかということに関しては、こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことである。これらの真理が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間に触知できる神の言葉と働きにおいてのみ、区別できるのである。これだけが現実的である。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないからである。[a]その働きによって確かめられるだけである。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開くことができたことがわかる。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエスが神そのものであることを証拠立てるにはこれで充分である。少なくとも、イエスの行う働きは神の霊を完全に表すことができ、そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかる。受肉した神の行った働きは、おもに新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな領域を切り開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエスが神そのものであることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。イザヤ、ダニエル、そして他の預言者はみな、高度な教育を受けた教養ある部類の人間で、彼らはヤーウェの導きの下にあった非凡な人々であった。受肉した神の肉もまた、豊かな見識をもち、理知に欠けることもなかったが、イエスの人間性はきわだって普通であった。彼は普通の人間で、人間の目には特殊な人間性は見当たらず、その人間性に他人と異なる点は何もなかった。まったく超越的でも特異でもなく、また、高度な教養や知識、理論は備えていなかった。イエスの語ったいのちと、イエスの導いた道は理論や知識、人生経験、あるいは家庭内の教育を通して獲得されたものではなかった。そうではなく、それらは霊による直接の働きであり、それは受肉した肉体の働きである。それは、人間は神についていろいろな観念を持っているからであり、とりわけ、そうした観念はあまりに多くの漠然とした、超自然的な要素を含んでおり、人の目には、人間の弱さをもち、しるしや不思議を行うことのできない普通の神というのは、とうてい神とは思えないからである。これらは人間の誤った考えではないのか。もし受肉した神の肉体が普通の人間のものでなければ、どうして肉になったと言えるだろうか。肉の体をもつということは、普通の正常な人間であるということである。もしそれが超越的な存在であったなら、それは肉による存在ではなかったであろう。自分が肉による存在であることを証明するために、受肉した神は普通の人間の体をもつ必要があった。これは単に受肉の意義を完全なものにするためであった。しかしながら、これは預言者や人の子では違っていた。彼らは賜物を与えられ、聖霊に用いられた人々であった。人の目には、彼らの人間性はとりわけ偉大で、彼らは普通の人間性を超えたことを多く行った。そのために、人は彼らを神とみなした。さて、あなたたちはみな、この点をはっきり理解しなければならない。と言うのは、この問題は過去の時代のすべての人々によって、たやすく誤解されてきたことだからである。さらに言えば、受肉は最も神秘的な奥義であり、受肉した神は人間にとって最も受け入れ難いものである。わたしの述べていることは、あなたたちが自分の役割を果たし、受肉の奥義を理解する助けとなる。これはみな、神の経営、ビジョンに関連している。あなたたちがこれを理解することは、ビジョン、つまり経営(救い)の働きについての認識を得るためにいっそう役に立つだろう。このようにして、あなたたちはまた、さまざまな人々が果たすべき本分についての大いなる理解を得る。これらの言葉は、あなたたちに直接道を示さないが、それでもあなたたちの入りの大きな助けとなる。というのは、あなたたちの現在の生活にはビジョンがひどく欠けており、これがあなたたちがいのちへ入ることへの大きな妨げとなるからである。もしあなたたちがこれらの事がらを理解できないままであれば、いのちへ入ることを促す動機は何もない。また、そうした追求がどうしてあなたたちが本分を果たすことを可能にすることができるだろうか。


二度の受肉が受肉の意義を完成させる

2019-12-07 12:00:00 | 全能神の発表

  神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。これまで、神は男性にだけなりえ、女性は神と呼ばれることはないとすべての人が信じていた。すべての人は男は女に対して権威を持つものとみなしていたからである。権威を持てるのは男だけで、女は誰も持つことはできないと人々は信じており、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に語られた時、それは蛇にだまされたアダムとエバに関して言われたことであって、初めにヤーウェによって造られた男と女に関してではなかった。男が家族を養えるようにならなければならないのと同様、女は夫に従い、愛さなければならないのはもちろんのことである。これらはヤーウェが示した律法と命令であり、人類は地上の生活において順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。こう言ったのは、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らすことができ、人類の生活が構造を持ち、秩序を失わないようにするためにだけである。従って、ヤーウェは男と女がどう行動するべきかに関する適切な規則を作ったが、この規則は地上に住むすべての創造物にのみ言及するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の創造物と同じであり得ようか。神の言葉は創造物である人類にのみ向けられた。それらは人類が正常に暮らせるようにと男と女に対して示された規則であった。最初、ヤーウェが人類を創造したとき、男と女の両方を造った。従って、受肉した神の肉体にも男女の区別があった。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決定したのではなかった。神が受肉した二回は、完全に神が人類を最初に造った時の考えに沿って決定された。すなわち、神はまだ堕落していなかった男性と女性に基づいて二回の神の受肉の働きを完成させた。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が神の受肉の働きに適用したら、イエスも果たすべきこととして妻を愛さなければならなかったのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造った時も大きな間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉することが間違いだと人がまだ信じているなら、結婚をせず、したがって妻を愛することができなかったイエスの受肉も現在の受肉と同じように誤りではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日の神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するのに、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これら二つは同じではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのならば、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。そのような判断を下すならば、あなたは理性に欠けていることは明らかだ。ヤーウェが二度受肉した時、肉体の性は蛇にだまされなかった男と女に関連していた。神は蛇にだまされなかったそのような男と女に従って二度受肉した。イエスの雄性は蛇にだまされたアダムの雄性と同じだと考えてはいけない。イエスはアダムとはまったく関係がなく、彼らは本質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが雄性を持っているからといって、イエスがすべての女だけのかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女だけのかしらでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスの雄性が女のかしらであることの象徴だと決めることができようか。これは神への冒涜ではないだろうか。イエスは堕落しなかった男性である。イエスは神であり、キリストである。イエスは主である。どうしてイエスが堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの雄性を持つ神であるなどと言えようか。それではこれまでの神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェはだまされたアダムの雄性をイエスの中に組みこむことができたのだろうか。現在の受肉は、性はイエスと異なっていても、本質は同様な受肉した神の別の働きなのではないか。それでもまだ受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不潔で、人類の堕落の発端なのだから、神が女性として受肉することなど到底ないとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、決して神を明らかにしたり、直接象徴したりしてはならない」とまだあえて言うのか。あなたは過去に理解しなかった。今でもなお神の働き、とりわけ受肉した神を冒涜できるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分の労働や苦労と引き換えにそれらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

  イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために権力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。

  現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。神は人のための律法を示し、戒律を発令することができ、また古代のイスラエル人が地上で暮らせるように導き、神殿や祭壇を建造して、イスラエル人すべてを統治するよう指導することができた。その権威のため、神は地上で二千年イスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒律を守った。この働きはすべて神の権威と全能性によって行われた。恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階でそうはならないのは、霊は一つであったにもかかわらず、イエスとヤーウェの働きが異なっていたのと同様のことであった。ヤーウェの働きは時代を終わらせることではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導することであった。しかし今の働きは、異邦人の諸国のひどく堕落した人々を征服し、中国の家族だけでなく全宇宙を導くことである。今、この働きが中国で行われているのをあなたは知っているが、実はすでに海外に広がり始めている。なぜ外国人は何度も真理の道を探し求めるのだろう。それは霊がすでに働きを開始しており、言葉は今や全宇宙の人々に向けられているからである。これはすでに働きの半分にあたる。神の霊は世界が創造されて以来極めて偉大な働きをなしてきた。神は異なる時代にわたって、異なる国々で異なる働きを行ってきた。各時代の人々は、神の異なる性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然に明らかにされる。それは神であり、慈愛と憐れみに満ちている。神は人の罪の生け贄であり、人の羊飼いであるが、人を裁き、刑罰を与え、のろいをかけることもある。神は人が二千年地上で生活するよう導くことができ、堕落した人類を罪から救い出すこともできる。そして今日、神は神のことを知らない人類を征服し、彼らを神の支配下に置き、すべての人が完全に神に服従するようにすることもできる。最後には、神は全宇宙の人々の中の不潔なもの、不義なものをすべて焼き払い、彼らに神が慈愛、憐れみ、英知、不思議、高潔の神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。全人類の中にある悪い者に対して、神は激しい炎、裁き、懲罰そのものである。完全にされるべき人々に対して、神は試練、精錬、苦難であり、同時に慰め、滋養、言葉の供給、取り扱い、刈り込みである。取り除かれる人々にとって、神は懲罰であり、報いである。教えてくれ。神は全能ではないのか。神はあなたが想像した磔刑だけではなく、すべての働きができる。あなたは神のことをあまりに低く考えている。磔刑による全人類の贖罪後、すべては終ると信じているのか。しかも、その後、神に従って天に行き、いのちの木から果実を食べ、いのちの川から水を飲むのか。そんなに単純なことであろうか。教えてくれ。あなたは何を成し遂げたのか。あなたはイエスのいのちを持っているのか。あなたは確かにイエスによって罪から救われたが、磔刑はイエス自身の働きであった。人としてあなたはどのような義務を果たしたのか。あなたは表面的に神を敬っているだけで、神の道を理解していない。それが神を明らかにするあなたの方法なのか。神のいのちを受け取っていなければ、あるいは神の義なる性質のすべてを見ていなければ、いのちを持っている者であると主張することはできず、天の国の門を通過するに値しない。

  神は霊であるだけでなく、肉体になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたたちは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、すなわち、当時のユダヤ人に目撃された。彼は最初肉体であったが、はりつけにされた後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。彼はヤーウェ、イエス、メシアになれる。最後には全能の神になることができる。それは義であり、裁き、刑罰であり、のろい、怒りであるが、慈愛と憐れみでもある。神の働きはすべてが神を表すことができる。神とはどのようなものだと言うのか。あなたはまったく説明することができないで、「神とはどのようなお方なのか私には説明することはできない」と言えるだけである。ある段階で神が贖いの働きをしたと言うだけで、神は永久に慈愛と憐れみの神であると結論づけてはいけない。あなたは、神はそのようなだけの神であると確信できるのか。もし神が慈悲深く、愛情あふれる神ならば、なぜ終わりの日に時代を終わらせるのだろうか。なぜ神はこれほどたくさんの災難を送り出すのだろうか。あなたが考えるように神が最後まで、最後の時代まで、人に対して慈悲深く、愛情があるならば、なぜ神は災難を天から地上に落とすのだろうか。神が自身のように、また神のひとり子のように人を愛するならば、なぜ疫病やあられを天から地上に落とすのだろうか。なぜ神は人が飢饉や疫病に苦しむのを許すのか。なぜ神は人がこれらの災難に苦しむのを許すのか。あなたたちのだれも神がどのようなものであるのかあえて言わないし、誰も説明できない。神は霊であると確信できるか。神はイエスの肉体だとあえて言うのか。そして、神は人のために永久に磔刑にされる神であるとあえて言うのか。


受肉の奥義(4)

2019-12-06 12:00:00 | 全能神の発表

  あなたがたは聖書の内情と形成について知らなくてはならない。神の新しい働きをまだ受け容れていない人々は、この知識をもっていない。彼らは知らないのである。あなたはこれらの本質的な事柄について、そういう人々にわかりやすく話したなら、彼らは聖書についてあれこれと細かいことをあなたに言うことはもはやないであろう。彼らは、このことは成就したか、あのことは成就したかと、預言されたことをしきりに念入りに調べている。彼らが福音を受け容れたのは、聖書に従ってのことである。福音を説くのも、聖書に従っている。聖書の言葉をよりどころに神を信じているのである。聖書なしには、彼らは神を信じることはないであろう。このように、聖書を精密に調べるのが彼らの生き様である。彼らが再び聖書を細かく調べ、説明を要求してきたら、次のように言えばよい。まず最初に、聖句をひとつひとつ検証するのはやめよう。代わりに、聖霊がいかに働くのかを見よう。わたしたちが歩む道を取り上げ、それを真理と比較し、この道が聖霊の働きと一致しているかどうかを見極め、聖霊の働きをもって、その道が正しいかどうかを確かめよう。聖書に書いてあることのあれやこれが成就したかどうかについては、わたしたち人間は介入するべきではない。わたしたちにはそれよりは、聖霊の働きや、現在神が行なっている最新の働きについて話す方がよい。聖書は、預言者が伝えた神の言葉と、神が当時用いた人々が書いた言葉で成り立っている。神のみが、これらの言葉の説明ができる。聖霊のみが、これらの言葉の意味を明らかにすることができる。そして、神のみが七つの封印を解き、巻物を開くことができる。あなたは神ではないし、わたしも違う。では、誰があつかましくも神の言葉を軽々しく説明しようというのか。あなたはあつかましくもこれらの言葉を説明しようというのか。エレミア、ヨハネ、エリヤといった預言者たちが来たとしても、彼らは「子羊」ではないのだから、聖書の言葉を説明するような大胆なことはしないであろう。「子羊」のみが七つの封印を解き、巻物を開けることができるのであり、ほかに誰も神の言葉を説明できるものはいない。わたしは神の御名をみだりに唱えるようなことはあえてしないし、ましてや神の言葉を説明することもない。わたしにできるのは、ただ神に従う者でいることだ。あなたは神なのか。神の被造物の何者も、巻物を開けたり、それらの言葉を説明したり到底しないものだ。だからわたしもあえて説明しない。あなたも説明しようなどと試みない方がよい。誰も説明しようとするべきではない。聖霊の働きについて話し合おう。これは人間ができることだ。わたしはヤーウェとイエスの働きについて少々知っているが、それを直接経験したわけではないので、限られた範囲で語れるにすぎない。イザヤやイエスが当時語った言葉の意味については、わたしは一切の説明をしないつもりだ。わたしは聖書を勉強しない。それよりは、わたしは神の現在の働きを従っている。あなたは実際に聖書を小さな巻物とみなしているが、それは「子羊」だけが開けられるものではないのか。「子羊」以外に、ほかの誰にそれができるのか。あなたは「子羊」ではないし、わたしも自分を神であると宣言するような大それたことはしない。だから、聖書を分析したり精密に調べたりするのはやめよう。それよりは聖霊による働き、つまり神自身による現在の働きについて話し合う方がはるかによい。神の働きの原則と本質が何であるかを調べ、それらに照らし合わせて今日わたしたちが歩んでいる道が正しく真実であるかを確かめよう。このようにして、正しい道であることを確実にしよう。あなたがたは福音を説きたいのならば、特に宗教界の人々に対して説くのであれば、聖書を理解し、その内情を完璧に把握しなければならない。そうしなければ福音を説くことはできないであろう。あなたはひとたび全体的な方向を把握し、聖書の死んだ言葉を細かく詮索するのを止め、神の働きといのちの真理だけを語るならば、真実の心で探求している人々を得ることができるであろう。

  ヤーウェが行った働き、彼が制定した律法、人間の生活を導く基盤となった原則、律法の時代に彼が行なった働きの内容、彼が律法を制定した意義、彼の働きの恵みの時代にとっての意義、そしてこの最終段階において彼が行なう働き──これらがあなたがたが理解しなければならない事柄である。第一段階は律法の時代の働きであり、第二段階は恵みの時代の働きであり、第三段階は終わりの日の働きである。あなたがたは、神の働きのこれらの段階を理解しなければならない。初めから終わりまで、あわせて三段階ある。働きの各段階の本質は何であるか。六千年の経営(救いの)計画の働きにおいて何段階が遂行されるのか。各段階はいかにして、そしてなぜそれぞれの方法で遂行されるのか。これらはすべて極めて重要な問題である。各時代の働きは象徴的である。どのような働きをヤーウェは行なったのか。彼はなぜその特定の方法で行なったのか。なぜ彼はヤーウェと呼ばれたのか。また、どのような働きをイエスは恵みの時代に行なったのか。彼はいかに行なったのか。神の性質のどの側面が、働きの各段階と各時代に象徴的に現れているか。神の性質のどの側面が律法の時代に明らかになったのか。恵みの時代においてはどうか。さらに最終段階ではどうか。これらの本質的な問題を、あなたがたは理解しなければならない。神の性質のすべては六千年の経営(救いの)計画を通して表わされた。それは恵みの時代もしくは律法の時代だけに現れたのではなく、もちろん終わりの日のこの時期だけに現れるのでもない。終わりの日になされる働きは、裁き、怒り、刑罰を表す。終りの日になされる働きは、律法の時代の働きや、恵みの時代の働きに取って代わることはできない。しかし、三段階は互いに繋がって一つの実体となり、それはひとつの神の働きのすべてである。当然、この働きの遂行は別々の時代に分けられている。終わりの日になされる働きはすべてに終わりをもたらし、律法の時代になされた働きは始まりであり、恵みの時代になされた働きは贖いである。この六千年の経営(救いの)計画全体の働きのビジョンに関しては、誰も識見を得ることも、理解することもできない。そのようなビジョンは神秘的なままである。終わりの日に、言葉の働きだけが、神の国の時代へと導くためになされるが、それはすべての時代を現してはいない。終わりの日は終わりの日以上のものではなく、神の国の時代以上のものでもなく、恵みの時代や、律法の時代を現してはいない。ただ、終わりの日には六千年の経営(救いの)計画のすべての働きがあなたがたに現されるのである。これは奥義の覆いを取り除くことである。このような奥義の覆いは、人が取り除くことはできない。人が聖書についてどんなに深く理解していても、人は聖書の本質を理解していないので、理解は言葉以上の何物でもない。人が聖書を読むとき、何らかの真理を理解したり、言葉の幾つかを説明したり、有名な聖句や章を綿密に調べ上げたりするかもしれないが、それらの言葉に含まれている意味を取り出すことはできないだろう。というのは、人が見ているのは死んだ言葉であり、ヤーウェやイエスの働きの場面ではなく、人はそのような働きの奥義を解明することはできないからである。よって、六千年の経営(救いの)計画の奥義はもっとも大きな奥義であり、最も深遠に隠されていて、人には全く理解できないものである。神自身が説明し、明かすのでないなら、誰も神の心を直接理解することはできない。そしてそれらは永遠に人間には謎のままで、封印をされた奥義のままであり続けるであろう。宗教関係者たちのことは言うまでもなく、もし今日あなたがたに伝えなかったなら、あなたがたも理解することはできなかったであろう。この六千年の働きは、預言者たちの預言のすべてよりも神秘に満ちている。これは天地創造から現在までの最大の奥義であり、これまでのどの時代の預言者の誰も深く理解できていない。この奥義は終わりの時代においてのみ解明され、それまでに明らかにされたことがないからである。あなたがたがこの奥義を理解し、完全に受け取ることができるならば、宗教的な人々も皆この奥義により征服されるであろう。この奥義のみが最も大きなビジョンであり、これは人間は理解したいと強く渇望するが、人間にとっては極めて不確かなものである。恵みの時代においては、あなたがたはイエスの行なった働きや、ヤーウェの行なった働きが何のことなのかは知らなかった。人々は、なぜヤーウェは律法を制定したのか、なぜ人々に律法を守るように命じたのか、なぜ神殿を建てなければならなかったのかなどについて何も理解しなかったし、ましてや、なぜイスラエルの人々がエジプトから荒れ野に連れ出され、その後カナンへと導かれたのかも理解しなかった。今日のこの日まで、これらのことが明らかにされることはなかった。

  終わりの日の働きは三段階のうち最後の段階である。それは新しい時代の働きで、経営(救い)の働きの全体を表していない。六千年の経営(救いの)計画は働きの上で三段階に分けられている。どの段階も一つだけで三つの時代の働きを表すことはできず、全体の一部だけを表すことができる。ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神はただ人間に律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことを言うのは誤りであろう。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。よって、もし神が律法の時代だけの働きをしたのなら、人は神のことを「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣を着て、神殿に入らなければならない」と定義して、そこに閉じ込めてしまうだろう。もし恵みの時代の働きが決して実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神は憐み深く愛する神でもあることを人間は知らなかっただろう。もし律法の時代の働きがなされず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことができることしか人間は知らなかっただろう。神は聖なる汚れのない存在であり、神は自身を人間のために犠牲にし十字架にかけられることが出来ることしか知らなかっただろう。人はこのことしか知らず、他のことは何も理解しなかっただろう。だから、それぞれの時代は神の性質の一部だけを現すのである。神の性質のどの側面が律法の時代に、また恵みの時代に、また今の時代に表わされているかに関しては、これら三時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表すことができる。人がこれら三段階すべてを知って初めて、それを完全に理解することができる。この三段階の一つも排除することはできない。あなたはこれら三段階の働きを知って初めて、神の性質をその全体性において見ることができる。律法の時代における神の働きの完成は、神がただ律法の下の神であることを証明するのではなく、神の贖いの働きの完成は、神が永遠に人類を贖うことを示しているのでもない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代は終わったが、神は十字架にしか属さず、十字架だけが神の救いを象徴すると言うことはできない。もしそうするならば、神を定義していることになる。現在の段階では、神はおもに言葉の働きをしているが、神は人に対して憐れみ深くあったことなどなく、神がもたらしたものは刑罰と裁きでしかないなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを表し、人類の中で救いの全ての働きを完結するためになされる。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてに終結をもたらす。人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされなければならない。人が奥義をその深みまで知り尽くし、心の中で完全にはっきりと理解できるようにである。その時初めて人はそれぞれの種類によって区分される。六千年の経営(救いの)計画が完成して初めて、人は神の性質の全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営(救い)はその時に終わっているからである。終わりの時代の神の働きをあなたがたは今や経験したのだが、神の性質とは何であろうか。神は言葉を話すだけの神である、などと言うであろうか。こんな結論に達することは到底ないであろう。奥義を解くのが神であるとか、神は「子羊」であり、七つの封印を解くものが神であると言う人々がいる。誰もこのような結論をあえて導こうとはするまい。また、神は肉となったその体そのものだという人もいる。これもまだ正しくない。肉となった神はただ言葉を話し、しるしや不思議は行なわないという人々がいる。まさか、あなたはこのようには言わないであろう。イエスは肉となったため、しるしや不思議を行なった。だから、あなたは軽々しく神を定義するような出過ぎた真似はするまい。六千年の経営(救いの)計画を通して行われたすべての働きは、今になってやっと終わりを迎える。これら全ての働きが人に明らかにされ、人のただ中で実行されて初めて、人は神の性質、神の所有しているもの、神であるもののすべてを知るだろう。この段階の働きが完全に終わると、人に理解されていなかったすべての奥義は明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理がはっきりし、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそこの段階でなされるべきすべての働きである。今日人間が歩く道は十字架の道であり、苦しみの道でもあるが、今日の人間が実践し、食べ飲みし、楽しむことは、律法の下で、また恵みの時代において人間に起きたこととは大きく異なる。今日人に求められるのは、過去に求められたものとは異なり、律法の時代に人に求められたものとはさらに異なる。さて、神が働きをイスラエルで行なっていたとき、律法の下で人に求められたものは何だったろうか。それは彼らが安息日とヤーウェの律法を守ること以上には何もなかった。安息日には誰も働くことは許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日に人は働き、集まり、いつものように祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けねばならなかった。それだけではなく、断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭に被り物をかぶり、他人の足を洗うことを求められていた。今や、そのような規律は廃止され、人はもっと大きなことを要求されている。というのは、神の働きは深まり続け、人のいのちへの入りはさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、全てのことが伝えられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで結果を出すことができる。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、癒すためであった。当時はそのようにして聖霊が働いたが、今はそうではない。現在、聖霊は働きにおいて言葉を使い結果を出す。神の言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の心で、神が行なうことを欲する働きである。言葉を通して、神の心と神があなたに達成して欲しいものを理解できる。あなたは按手を受ける必要もなくただ神の言葉を直接実行に移すだけである。「わたしの上に手を置いてください。神様の祝福を受け取り、神様を共有できるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるであろう。しかし時代は変わり、これらは現在はすたれた時代遅れの過去の慣習である。聖霊は時代と共に働くのであり、ただ思いのままや、一定の規律に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに新しい働きをもたらさねばならない。これは働きのどの段階においても言えることで、だから神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりといった働きを多く行なった。しかし、現在ではそのようなことをするのは無意味であろう。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人が享受するのに十分の恵みがあった。人はいかなる代価を支払うことを要求されることもなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるように働きを行なわなければならなかった。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉による打ち砕かれ、そして言葉による懲戒と暴露を通して、人の中の不義を明らかにするためであり、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が楽しむのに十分であった。すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、精錬されて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。それぞれの段階の働きは人類全体の進歩と時代に一致してなされる。すべての働きは意味があり、最終的な救いのためになされる。人類が将来良い終着点にたどり着くためであり、そして人類が最終的に種類に応じて区分されるためである。

  終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

  神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。よって、三段階の働きの中で、神は二度のみ人の間で働きを実行するために肉となった。それは働きの三段階のうち一段階だけが、人を生活において導く働きであり、他の二段階は救いの働きだからである。神が肉となる場合のみ、神は人と共に生き、世の中の苦しみを経験し、普通の肉体で生きることができるのである。このようにしてのみ、神はその被造物である人に必要な実践的言葉を与えることができる。人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が捧げる祈りへの回答として天から直接に受けるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神の霊に近づくことなどできないからである。人が接触することができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はこの手段を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。第二の受肉は人の罪を取り除き、人を清めるには十分である。よって、第二の受肉は肉体での神の働きのすべてに終止符を打ち、神の受肉の意義を完成する。その後は、神の肉体での働きは完全に終わりとなる。第二の受肉の後、神はその働きのために三度目に肉となることはない。神の経営(救い)全体が終わっているからである。終わりの日に、神の受肉は神の選ばれた民を全て自身のものとし、終わりの日の人たちはすべて、それぞれの種類に応じて区分されている。神はもはや救いの働きをすることも、どのような働きを行なうためにも肉に戻ることはない。終わりの日の働きにおいては、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心のすべての堕落した性質を現す。あなたは自分でそれらを認識することはできない。それらが言葉を通して明らかにされるとき、あなたは当然それを認識し、否定することはできず、完全に確信するであろう。これは言葉の権威ではないであろうか。これは言葉の現在の働きによって得られる成果である。だから、病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。実際、この段階は第二段階の救いの働きであるとともに征服の段階である。人は言葉による裁きと刑罰を通して、神のものとされる。精錬し、裁き、明らかにする言葉をもちいることで、人の心にあるすべての汚れたもの、観念、動機、そして個人的な願望などが完全に明らかにされる。人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。たとえば、自分たちがモアブの血統であることを知った人々は、愚痴をこぼすと、いのちを探求することをやめ、すっかり消極的になってしまった。これは、人々がいまだに神の支配に完全に服従できないでいることを示していないだろうか。これこそが、まさに堕落した悪魔的な性質ではないだろうか。刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも、イエスすら超えて、高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神の親密なものとなりたまえ。サタンに服従するなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。赤い大きな竜が完全に権力から落ちるようにしたまえ。神によりわたしたちを完全にしたまえ」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰のときが訪れ、再び人々の堕落した性質が明らかになった。人々の叫びは途絶え、彼らは決意を失ってしまった。これが人間の堕落である。それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。人間は自らの元来の堕落した性質を理解していなかったので、過去にこのように叫んだ。これが人間の中にある不純なものである。これほどの長い裁きと刑罰の期間中ずっと、人間は緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉をとおして成されたのではなかったのか。効力者の試練の前には、あなたも大声で叫んだのではなかったのか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者は皆、神の国に入るであろう。皆、神とともにあるであろう」。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもう叫ばなかった。初めに、皆が「神よ。いかなる場所に私をお置きになろうとも、わたしはあなたの導きに服します」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読むと、「わたしがなります」と人間は言った。次には「ヨブの信仰についてはどうであろうか」という言葉を読んだので、人間は「ヨブの信仰をもちます。神よ、どうかわたしを試みてください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人間はただちに崩れ落ち、ほとんど立ち上がることができなかった。この後、人間の心の中の不純なものは徐々に減少した。これは言葉をとおして成されたのではなかったのか。だから、あなたがたが現在経験したことは、言葉により達成された結果であり、イエスのしるしや不思議の業をとおして達成されたものよりもさらに大きなのである。あなたに見える神自身の栄光と権威は、十字架上の死や病の癒し、悪霊を追い払うことだけをとおして見えるのではなく、言葉による神の裁きをとおしてさらにはっきりと見えるのである。これはつまり、しるしや病の癒しや悪霊を追い払う業だけが神の権威と力なのではなく、言葉による裁きが神の権威をよりよく象徴的に表し、神の全能を明らかにできることを示している。

  人が今まで成し遂げてきたこと、つまり今日の人の身丈、認識、愛、忠誠、従順、識見は言葉による裁きによって得られた結果である。忠誠心を持ち今日まで立ち続けていられることは言葉を通して得られたものである。受肉した神の働きが途方もなく素晴らしいことを人は今では理解でき、そこには人には達成できないことがたくさんある。それらは奥義と不思議である。だから、多くの人たちは服従して来た。誕生してから一度も誰にも従ったことのない人たちも、今日、神の言葉に触れると、彼らはそうと気付かないまま完全に従うのである。彼らはあえて綿密に調べることも、何か他のことを言うこともない。人類は言葉の下に倒れ、言葉による裁きの下に平伏している。もし神の霊が直接人に話しかけたら、人はみなその声に服従し、啓示の言葉がなくても倒れ、ちょうどパウロがダマスコへの途上で光の中で地にひれ伏したようになる。もし神がこのように働き続けたなら、人は言葉による裁きを通して自分の堕落を知り、救いを得ることもできないであろう。肉になることによって初めて、神は言葉を直接すべての人の耳元に届け、その結果聞く耳のある人はすべて言葉を聞き、言葉による裁きの働きを受けることができる。これだけが神の言葉による成果であり、霊が出現して人を脅かし、服従させるというようなものではない。このような実践的でしかも並はずれた働きを通してのみ、長い間奥深く潜んだ人の古い性質を完全に明らかにし、人がそれを認め、性質を変えることができる。これらはすべて受肉した神の実践的働きである。この働きにおいては、神は実践的に語り裁くことで、言葉によって人に裁きの結果を達成する。これは受肉した神の権威であり、神の受肉の意義である。それは受肉の神の権威を知らせ、言葉の働きが達成した結果を知らせ、霊が肉となったことを知らせるためになされ、また言葉による人間への裁きを通して神の権威を実証するためになされる。神の肉体は平凡で普通の人間の外形であるが、神が権威に満ちており、その「人」が神自身であり、その言葉は神自身の表現であることを人に示すのは言葉が成し遂げる結果である。これはすべての人間にこの「人」は神であり、肉となった神自身であり、誰も犯すことはできないことを示している。誰も言葉による神の裁きを超えることはできず、暗闇のどんな勢力も神の権威に打ち勝つことはできない。人間は彼に完全に服従するのは、彼の言(ことば)が肉となった故、彼の権威の故、言葉による彼の裁きの故である。肉となったこの人がもたらす働きは、彼のもつ権威である。肉となったのは、肉は権威を持つこともでき、人に見え実体のある実践的な方法で、人の間で働きをなすことができるからである。そのような働きは、すべての権威を所有する神の霊によって直接なされる働きよりも現実的で、その結果も明らかである。これは受肉した神の肉体は実践的な方法で語り、働くことができるからである。肉体の外形は権威を持たず、人が近づくことができる。一方、彼の本質は権威を伴うが、その権威は誰にも見えない。彼が話し働くとき、人は彼の権威の存在を感じることはできない。これは彼の実際の働きにとっても好都合である。そして、そのような実際の働きはすべて成果を上げることができる。たとえ誰も彼の権威を持つことに気付かず、誰にも犯されることがないことや神の怒りを知らなくても、彼の覆われた権威と隠れた怒り、そして公に語られた言葉を通して、彼はその言葉により意図した成果を達成する。すなわち、口調や断固とした話し方、そして言葉の知恵のすべてを通して、人は完全に確信する。この様にして、人は一見何の権威も持っていないような受肉した神の言葉に服従し、それによって人の救いという神の目的を達成するのである。これは受肉のもう一つの意義である。つまり、より現実的に語り、彼の言葉の現実性が人に働き、その結果、人は神の言葉の力の証人となる。だから、もし受肉によらないなら、この働きは少しも成果を得られず、完全に罪人たちを救うことはできないであろう。もし神が肉とならないなら、神は人の目に見えず、触れることの出来ない霊のままである。人は肉の被造物で、人と神は二つの違った世界に属し、性質も異なっている。神の霊は肉からなる人とは相いれず、それらの間には何の関係も作ることはできない。さらに、人は霊になることはできない。それだから、神の霊は被造物の一つになって、神の本来の働きをしなければならない。神は最高の場所に昇ることもできれば、へりくだって、被造物である人になって人々のもとで働き、生きることもできる。しかし人は高みに昇り、霊になることもできなければ、ましてや最も低い場所に降りることなどできない。よって、神はその働きを実行するために人とならなければならない。最初の受肉のときのように、受肉した神の肉体のみが十字架にかけられることによって人を贖うことができたが、神の霊が人のために罪のためのいけにえとして十字架にかけられることはできなかったであろう。神は人のための罪のためのいけにえとして直接人となることができたが、人は神が人のために用意した罪のためのいけにえを受け取るために直接天に昇ることはできなかった。そういうわけで、この救いを受け取るために人を天に昇らせるのではなく、神に天と地のあいだを数回行ったり来たりすることをたのむことだけが可能なことなのである。というのは、人は堕落したので天に上ることはできず、ましてや罪のためのいけにえを手にすることはできないからである。よって、イエスは人のもとに来て、人がどうしても達成することができない働きを自ら行なう必要があった。神が肉となるときは必ず、どうしてもそうする必要があるからである。もしいずれかの段階が神の霊が直接行なうことができたなら、神は受肉という屈辱に耐えることはなかったであろう。

  この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。言葉を通して、人は多くの奥義や過去の世代にわたる神の働きを理解するようになる。言葉を通して、人は聖霊の啓きを受け、言葉を通して、人はかつての世代に決して解明されなかった奥義や、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則などを理解するようになる。言葉によって、人は神の性質を知るようになると同時に、人の不従順さや反抗心を理解し、自分の本質を知るようになる。このような働きの段階と、語られた全ての言葉を通して、人は霊の働き、受肉した神の働きを知り、さらに彼の性質の全体を知るようになる。神の六千年以上にわたる経営(救いの)に働きについてのあなたの認識も言葉によって得られた。あなたが以前もっていた観念を知ったのも、それをわきに置くことができたことも、言葉を通して成されたのではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議を行なったが、この段階ではしるしや不思議は行われない。なぜ神がしるしや不思議をしないのかという理解も言葉を通して得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえもこのような成果を上げることはできなかった。預言者たちは将来何が起こるかという預言を語っただけで、当時神がしようとする働きについては語っていない。彼らは人を生活において導くためや、人に真理をもたらすためや、奥義を顕すために語ったのではなく、ましてやいのちを与えるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるが、それらはおもに人にいのちを授けるためである。現在の言葉は預言者たちの預言とは異なる。これは預言を語るためではなく、人のいのちのための、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階は人が地上で神を崇拝するように道を整えるためのヤーウェの働きであった。それは地上での働きの源となる場所を見つけるための始まりの働きであった。当時、ヤーウェはイスラエルの人たちに安息日を守り、両親を敬い、他の人々と平和に暮らすよう教えた。当時の人たちは人間とは何であるかも、地上でどのように生きていくべきかも理解していなかったので、最初の働きの段階で、神は彼らの生活を導かなければならなかった。ヤーウェが彼らに語ったことはすべて、人類はそれ以前は知らず、所有していなかった。当時多くの預言者たちが起こされて預言を語ったが、すべてがヤーウェの指導の下になされた。これは単に働きの一部であった。最初の段階では神は肉となることはなく、よって神は預言者たちを通してあらゆる部族や国々を諭した。イエスがその働きを行なったとき、イエスは今日のように多くは語られなかった。終わりの日のこの言葉の働きの段階はかつての時代や世代には行なわれたことがない。イザヤやダニエル、ヨハネは多くの預言を語ったが、そのような預言は今語られている言葉とは全く違った。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉はそうではない。もしわたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解することができるだろうか。わたしが将来のことについて、わたしが行ってしまってからのことを語ったならば、あなたはそれをどうやって理解できるであろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にもなされなかった。おそらく「ヤーウェもその働きの時代に言葉を語りませんでしたか。イエスも病気を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議をするのに加えて、当時言葉を語りませんでしたか」と言う人がいるかもしれない。言葉がどのように語られるかには違いがある。ヤーウェによって語られた言葉の本質は何であったであろうか。ヤーウェは地上での人々の生活を導いていただけで、それはいのちの霊的なこととは関係がなかった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々を諭すためであったと言われているのはなぜであろうか。「諭す」という言葉は、明白に語り直接的に指示することを意味する。彼は人にいのちを与えたのではない。むしろ、人の手を取って、どのように彼を崇拝するかを教えたのである。たとえ話はあまりなかった。イスラエルでのヤーウェの働きは、人を取り扱ったり、鍛練したりすることでも、裁きや刑罰を与えることでもなかった。それは導くことであった。ヤーウェはモーセに神の民に荒野でマナを集めるように命じた。毎朝日の出の前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保管することはできなかった。翌日にはカビが生えたからである。ヤーウェは人を説教したり、人間の本性について暴露せず、人の考えや観念を暴露することもしなかった。ヤーウェは人を変えることはなく、生活において人を導いた。当時、人は子どものようで何も理解せず、基本的な機械的な動きしかできなかった。よって、ヤーウェは人々を導くため律法を制定した。

  もし真の心で求める全ての人たちが現在なされている働きの認識を得て、完全に確信することができるように福音を広めることを願うなら、あなたはそれぞれの段階における働きの内情、本質、意義をはっきりと理解しなければならない。あなたの話を聞くことで、人々がヤーウェの働きとイエスの働きを理解することができ、さらに今日なされているすべての働きや三段階の働きの関係や違いなども理解できるようにしなさい。人々が話しを聞いた後、三段階のどれも他の段階を妨害しないが、それら全ては同じ霊による働きであり、彼らは異なる時代に働きがなされ、その内容も異なり、語られる言葉も異なるが、働きの原則はひとつで同じものであることを理解できるようにしなさい。これらは人が理解すべき最も大きなビジョンである。


受肉の奥義(3)

2019-12-05 12:00:00 | 全能神の発表

  神がその働きを行なうとき、何らかの構築や運動にとりかかるためにやって来るのではない。神はその職分を全うするためにやって来るのである。神が肉となるのは、働きのひとつの段階を遂行し、新しい時代を開くためだけである。今や神の国の時代が到来し、神の国への訓練が始まった。この段階の働きは、人間の働きでも人間をある程度まで完全にするための働きでもない。それは神の働きの一部を完了するためのものである。神の働きは人間の働きではなく、また地上を去る前に人間をある程度まで完全にするためのものでもない。それは神の職分を完全に全うし、神が行なうべき働きを終えることである。すなわち、地上における神の働きのための適切な手はずを整え、それゆえ神が栄光を得ることである。受肉した神の働きは、聖霊によって用いられる者の働きとは異なる。神が地上で働くとき、神はその職分を全うすることしか関心がない。神の職分に関連していない他のあらゆることに関しては、見て見ぬふりをするほど何の関与もしない。神はただ行なうべき働きを実行し、人がするべき働きには全く関心を持たない。まるで他のあらゆることは全く神の責任ではないかのように、神の行なう働きは自身が存在する時代と全うしなければならない職分に関連していることだけである。神は人として生きる上でのもっと基本的な知識を自身に備えることはせず、社交術を学んだり、人が理解できる他のことを習得しない。神は人が持ち合わせていなければならないあらゆることには全く関心を示さず、ただその本分である働きをするだけである。そして、人が見ると、受肉した神はあまりにも欠陥があり、人が持つべき多くのものも無視するほどで、これらのことは理解していないように思われる。人生の一般的知識のような事柄や、行動の原則や他人との付き合いなどは神にとってなんら重要性はないようである。しかし、あなたは受肉した神から異常な行動などは少しも感ずることはできないであろう。すなわち、神の人間性は、普通の人としての生活とその頭脳による普通の論理的思考を維持するだけであり、善と悪を見分けることを可能にする。しかし、神には他の何も備わってはおらず、それらはすべて人(被造物)だけが持つべきものである。神が肉となるのはその職分を全うするためだけである。神の働きは時代全体に向けられており、特定の人あるいは場所に向けられているのではなく、全宇宙に向けられているのである。これが神の働きの方向性であり、神が働く原則である。これは誰によっても変えることはできず、人はそれに一切関与することはできない。神は肉となるたびに、その時代の働きとともに来るのであって、人間が神をよく理解し、神についての洞察を得られるように20年、30年、40年、さらには70年、80年のあいだ人間のそばで暮らそうという意図を持って来るのではない。そんな必要はない。そのようなことをしても、神の本来の性質について人間が持っている認識を深めることにはまったくならない。かえって人間の観念が増えるだけで、人間の観念や思想を旧弊にしてしまう。だから、あなたがたは皆、受肉した神の働きとは何であるのかを正確に理解しなければならない。あなたがたは「わたしは普通の人の生活を経験するために来るのではない」というわたしがあなたがたに語った言葉を理解していないのではないか。あなたがたは「神が地上に来るのは、普通の人として生きるためではない」という言葉を忘れてしまったのか。あなたがたは神が肉となることの目的を理解せず、また「被造物の生活を経験する目的で神が地上に来ることなど、どうしてあり得ようか」の意味を知らないのではないか。神はその働きを完成させるために地上に来るのであり、地上での彼の働きは束の間である。彼は神の霊がその肉体を教会の並はずれた指導者に養育することを目的として地上に来るのではない。神が地上に来るとき、それはことばが肉となることである。しかし、人は神の働きを知らないので、さまざまなことを神に押し付ける。しかし、あなたがたはみな、神は「肉となったことば」であり、神の代役を一時的に果たすために霊により養われた肉ではないことを認識しなければならない。神自身は養われたものではなく、肉となったことばであり、今日、神はあなたがたのあいだでその働きを正式に行なう。あなたがたは皆、神の受肉が事実であることを知っており認めているが、実は自分で使える能力を超える理解をあたかも得たかのように振舞っているのである。あなたがたは、受肉した神の働きから神が肉となることの意義と本質まで、まったく認識しておらず、ただ記憶した言葉を軽々しく暗唱して他人に従っているだけである。受肉した神はあなたが思い描くとおりであると信じているのか。

  神が肉となるのは、時代を導き新しい働きを始めるためだけである。あなたがたはこの点を理解しなければならない。これは人の役割とは大きく異なり、このふたつを同じ次元で話すことはできない。人が働きを行なうために用いられるようになるまでには、長期にわたる教育と完全にされることが必要で、それには特別に高位の人間性が必要とされている。人間は普通の人間としての理知を維持できなければならないだけでなく、他人との関係における行動をつかさどる原則や規則を多く理解し、その上、人の知恵や道徳についてさらに多くを学ばなければならない。これが人が備えていなければならないものである。しかし、受肉した神に関してはそうではない。というのは、神の働きは人を表すのでもなければ、人の働きでもないからだ。むしろ、それは神自身の直接的表現であり、神が行なわなければならない働きの直接的遂行である。(当然、神の働きは行なわれるべき時に行なわれ、気軽に無作為に行なわれるのではない。むしろ、神の働きはその職分を全うするべき時に始まる)。神は人の生活や人の働きに関与しない。つまり、神の人間性はこれらのどれも備えていない(しかし、これは神の働きに影響しない)。神はその職分を全うするべき時に、するだけである。神の地位が何であっても、神はすべき働きをただ進めるだけである。人が神について何を知っていようと、あるいは神についての意見が何であろうと、神の働きは影響されない。これはちょうどイエスがその働きをしたときのようである。誰もイエスが誰であるかはっきり知らなかったが、イエスはただ自身の働きを進めた。だがそれはイエスがしなければならない働きを行なう上で、何の影響も与えなかった。よって、イエスは最初自身の身分を告白することも、宣言することもなく、ただ人を従わせた。当然、これは神のへりくだりだけではなかった。それは神が肉体で働く方法であった。神はこの方法でのみ働くことができた。というのは、人は裸眼で神を認識できなかったからである。たとえ認識していたとしても、人は神の働きを助けることはできなかったであろう。さらに、神は人が神の肉体を知るために肉となったのではなかった。それは働きを行ない、職分を全うするためであった。この理由で、神は自身の身分を公けに知らせることに重点を置かなかった。神がしなければならないすべての働きを完成させたとき、神の身分と地位はすべて自然に人に明らかになった。受肉した神はただ沈黙を守り、決して何も宣言しない。神は人のことや、人が神に従うことにどのように対処しているかなどに気を留めないが、ただ職分の成就とすべき働きを進めていくだけである。誰も神の働きに立ちはだかることはできない。神の働きを終える時が来ると、それは必ず終結され、終わらせられる。だれもそれに反する指示を出すことはできない。神の働きが完成し、神が人から離れてはじめて、まだ完全には明確ではないにしても、神が行なう働きを人は理解するのである。そして、神が最初に働きを行なったときの神の意図を人が完全に理解するには長い間がかかるであろう。すなわち、神が肉となる時代の働きは二部に分かれる。一部は肉となった神自身が行なう働きと肉となった神自身が語る言葉から成る。ひとたび神の肉体の職分が完全に成就されると、働きの別の部分は聖霊によって用いられる人によって実行される。それが人が自分の役目を果たす時である。というのは、神はすでに道を開いており、今こそ人がそこを歩まなければならないからである。すなわち、肉となった神は働きの一部を行ない、聖霊や聖霊によって用いられる人たちがその働きを引き継ぐのである。それゆえ、この働きの段階で受肉した神によってなされる主要な働きを人は知らねばならない。また、人に求められていることに合わせて神に要求しようとしないで、神が肉となる意義や神がなすべき働きを人は正確に理解しなければならない。ここに人の過ち、観念、それ以上に不従順があるのである。

  神は人に神の肉体を知らしめたり、人に受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉するのではない。神は人の識別能力を鍛えるために受肉するのでもない。ましてや受肉した神を人が礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受ける意図を持って受肉するのでもない。これらのどれも神が肉となる本来の意図ではない。また、神は人を咎めるためや、意図的に人をさらけ出すために、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。これらのうちどれも神の本来の意図ではない。神が肉となるときはいつも、それは不可避の働きなのである。それは神が行なうさらに偉大な働きと、さらに偉大な経営(救い)のために神がそのように行動するのであり、人が想像するような理由のためではない。神はその働きに必要なときだけ地上に来るのであり、必ず必要なときである。神はさまようことを意図に地上に来るのではなく、神がすべき働きを実行するために来る。そうでなければどうして神がこの働きを行なうというそのような重荷を背負い、大きな危険を冒すのだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に特別な意義をもって肉となる。もしそれが人に神を見させ、彼らの視野を広げるためだけであったなら、神は絶対にそのように軽々しく人の間には来ないであろう。神が地上に来るのは、その経営と偉大な働きのためであり、神がもっと人を得るためである。神は時代を代表し、サタンを打ち負かすために来るのであり、サタンを敗北させるために肉となる。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらのことはすべて神の経営に関係することで、全宇宙の働きに関することである。もし神が人に神の肉体を知らしめ、目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神はすべての国々を旅しないのであろうか。そんなことはいともたやすいことではないであろうか。しかし神はそうしなかった。その代り、住みつき神のすべき働きを開始するのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。神はひとつの時代全体を代表し、ひとつの時代全体の働きを行なう。前の時代を終わらせ、新しい時代に導く。これらの事すべては、神の経営に関する重要な事柄で、地上に来た神によって実行される働きの一段階の意義である。地上に来たとき、イエスはいくつかの言葉を語り、いくらかの働きを行なっただけだった。イエスは人のいのちを懸念せず、その働きを完了させた後は去って行った。今日わたしが話しを終え、わたしの言葉をあなたがたに伝え、そしてあなたがたもすべて理解した後には、あなたがたのいのちがどのようになろうとも、働きのこの段階は終了したことになる。それから先は、この段階を継続し、これらの言葉にしたがって地上で働く者がいなくてはならない。そのとき、人間の働きと構築が始まるであろう。しかし現在は、ただ神の働きが神の職分を全うし、働きの一段階を完成させる。神は人間とは違った働き方をする。人間は集会や討論会を好み、儀式を重んじる。神は人間の集会や会合をとても嫌う。神は人間とは形式ばらずに話し、語る。これが神の働きであり、これは極めて解放されたものであり、あなたがたをも自由にする。しかし、わたしが何よりも嫌うのはあなたがたと集まることであり、あなたがたのように厳しく管理された生活に慣れることはできない。わたしは規則を激しく嫌悪する。規則が人間をがんじがらめにするあまり、人間は動いたり、話したり、歌ったりすることまで恐れ、その目はじっとあなたを睨みつけている。わたしはあなたがたの集まり方や大きな集会をとても嫌悪する。このような方法であなたがたと集うのはとにかく拒否する。なぜなら、このような生き方では人は拘束されたように感じるからである。あなたがたは儀式も規則も過剰に守っている。あなたがたに主導権をもたせると、全員を規則の領域へと導いてしまうであろう。あなたがたの指導のもとでは、人間は規則を捨て去る方法をもたないであろう。その代わり、宗教的熱心はますます激しいものとなり、人間の実践行為の数はさらに増えていくであろう。集まると疲れることなくひたすら説教したり話し続ける者や、十数日間も休まず説教し続けることができる者がいる。これらは皆、大きな集会であり人間の会合である。これらは飲食や楽しみ、霊が自由にされた生活とは無関係である。これらは皆、会合である。あなたがたの同僚会合や、大小の集会、これらすべてにわたしは大いに嫌悪感を覚え、一切関心を持ったことがない。わたしの働き方の原則は次のようなものである。すなわち、集会で説教するつもりはないし、大規模な公的集まりで何かを宣言したくもないし、ましてやあなたがた全員を数日間の特別会議に呼び集めたいとも思わない。あなたがた全員が行儀良く座って集まっているのを好ましいとは思わない。あなたがたが儀式の枠組みの中で生きているのを見るのがわたしは嫌いである。さらに、わたしはあなたがたのそのような儀式に参加するつもりはない。あなたがたが儀式を行なえば行なうほど、わたしはそれを忌み嫌う。あなたがたの儀式や規則にわたしは少しの関心もない。あなたがたがどれほど巧みに行なおうとも、わたしにとってはどれもおぞましいだけである。これは、あなたがたの計画が不適切であるとか、あなたがたが下劣過ぎるというのではない。あなたがたの生き方が嫌いなのである。さらに、わたしにはそれに慣れることができないのである。あなたがたはわたしが行なおうとする働きをまったく理解していない。当時ある場所でイエスがその働きを行なったとき、説教を終えると、弟子たちを連れてその町を去って行った。イエスは弟子たちを先導しながら、弟子たちと話し合い、大衆から離れていた。イエスはしばしばこのような働き方をした。イエスは人々から離れ、愛する弟子を何人か連れて、彼らが理解すべき道について語りながら山に登っていった。イエスが大勢の人々のあいだで行なった働きは、数も少なく稀であった。あなたがたの神への願いによると、肉となった神は普通の人の生活を過ごすべきではないのである。座っていようと、立っていようと、歩いていようと、神はその働きを行なわなくてはならず、語らなければならない。神は常に働かなければならず、決して「作動」をやめることはできない。さもなければ、神はその本分を尽くしていないことになる。このような人間の要求は人間の理知に一致しているだろうか。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたは要求しすぎではないのか。わたしの働きはあなたに調べられるべきであろうか。わたしが職分を全うするところをあなたに監督される必要があるであろうか。わたしはどのような働きを行なうべきか、またいつ行なうべきか、よく分かっている。他者からの介入は不要である。わたしは大した行ないをしなかったようにあなたには見えるかもしれないが、あのときはその時点でのわたしの働きは終わったのである。たとえば、四福音書の中のイエスの言葉を考えてみたまえ。これらの言葉も限られていたのではないか。イエスがシナゴーグに入り説教をしたとき、長くても数分後にはこれを終えていた。話し終えると、イエスは弟子たちを連れて舟に乗り、何の説明もせずに出発した。シナゴーグにいた人々は互いに議論し続けたであろうが、それはイエスとはもう関係のない事となってしまった。神は必要な働きだけをし、それ以上何も追加しなかった。現代では、多くの人がわたしにもっと話すように、一日に数時間語るようにと要求する。あなたがたによると、語らないと神は神でなくなり、語るものだけが神である。あなたがたは皆、目が見えていない。皆、野蛮人だ。理知など持ち合わせない無知ども。あなたがたは観念を持ちすぎている。あなたがたの要求は行き過ぎである。あなたがたは冷酷である。あなたがたは神が何であるかまったく理解していない。あなたがたは、語る者、演説する者ならば誰でも神と、言葉を与えてくれる者であれば誰でも「父」と信じている。教えてほしい。顔立ちの整った非凡な外観をしたあなたがたは皆、少しでも理知というものを持っているのか。あなたがたは天の掟を知っているのか。あなたがたは、ひとりひとりが堕落した強欲な役人のようである。そんなあなたがたが、いかにして分別がつくのか。正誤の区別ができるのか。わたしはあなたがたに豊かに与えてきたが、あなたがたの中の何名がそれに価値を見出したのか。誰がそれを完全に自分のものにしているのか。あなたがたは自分たちが今日歩んでいる道を誰が切り開いたのかを知らない。だからわたしに対して要求を、このような馬鹿げた不合理な要求を続ける。あなたがたは、恥ずかしさのあまり赤面していないのか。わたしは十分話したのではないのか。十分行なったのではないのか。あなたがたの中で誰がわたしの言葉を宝として真に大切にできるのか。わたしのいるところでは、あなたがたはわたしをほめそやすが、背後では嘘をつき騙す。あなたがたの行動はあまりに卑しく不快である。あなたがたはわたしに語ることを要求し、働くことを要求するが、それはあなたがたの生活を変革させるためではなく、せいぜい自分の目を楽しませたり視野を広げたりするためである。あなたがたに向けて、わたしはすでにどれほど語りかけたであろうか。あなたがたの生活はとうの昔に変革しているはずである。それなのに今なぜ、以前の状況に逆戻りを続けるのか。もしや、わたしの言葉が奪われて、あなたがたには届いていなかったのであろうか。実のところ、あなたがたのような堕落者にはこれ以上何も言いたくない。それは無駄になるであろう。こんなむなしい働きはしたくない。あなたがたはいのちを欲しているのではなく、自分の目を楽しませたり視野を広げたりすることだけを望んでいる。あなたがたは皆、自分を欺いているのである。わたしがこれまであなたがたと向かい合って話したことのうち、どれくらいを実践したのか教えてもらいたい。あなたがたは詐欺を行なって他人を騙しているだけである。あなたがたのうち、傍観者として見学を楽しんでいる人たちをわたしは忌み嫌う。あなたがたの好奇心は非常におぞましい。真理の道をさがし求めているか真理を渇望するがゆえにここにいるのではないなら、わたしはそんなあなたがたを嫌悪する。あなたがたがわたしの言葉に耳を傾けるのは、好奇心を満たすためや欲望を満たすためだけであることをわたしは知っている。真理の存在を探し求め、いのちに入るための正しい軌道を探ろうという考えがあなたがたにはない。このような要求はあなたがたのあいだに全然存在していない。あなたがたは神のことを、研究し賞賛するための玩具とみなしているに過ぎない。いのちを求めるあなたがたの情熱は小さ過ぎるが、好奇心に満ちた欲望はそうではない。このような人々にいのちの道について話すのは、空気に向かって話すのと同じである。話さない方がましであろう。言わせていただこう。あなたがたが自分たちの心の中の空隙を満たしたいとだけ思っているのならば、わたしのもとへ来ない方がよい。それよりは、自分たちの命に集中するべきである。自分自身を弄ぶのはやめなさい。好奇心をいのちの探求の基盤にしたり、あなたがたに語りかけるようにわたしに頼んだりするための言い訳にするべきではない。これらはすべて詐欺であり、あなたがたは熟練した詐欺師である。もう一度、あなたに尋ねる。わたしがあなたに入っていくように求めることのうち、どれくらいを実際に行なったのか。わたしがこれまであなたに話したことをすべて理解したのか。わたしが話したことをすべて実践することができたのか。

  あらゆる時代の働きは神自身によって開始されるが、神の働き方が何であれ、神は運動を起こしたり、あなたがたのために特別な会議を催したり、ある種の組織を設立するために来るのではないことを知るべきである。神は神がすべき働きを行なうためにだけ来るのである。神の働きは誰によっても制限されることはない。神は望むとおりにその働きを行ない、人が何を思っても、どんなことを知っていても、神はその働きを実行することだけに関心がある。世界の創造から現在まで、すでに三段階の働きがあった。ヤーウェからイエスまで、律法の時代から恵みの時代まで、神は決して人のために特別会議を召集したり、全人類を一堂に招集して特別な世界的な作業会議を開催し、それにより神の働きの領域を拡張しようとしたことはない。神は適切な時に適切な場所で、ひとつの時代全体の最初の働きを行なうだけで、それを通して時代を切り開き、人間を生活において導く。特別会議は人の集会である。休日を祝うために人々を召集することは人の働きである。神は休日を祝うことはなく、それ以上に、休日を嫌う。神は特別会議を召集しないし、それ以上に特別会議を忌み嫌う。肉となった神の働きは何であるか今や正確に理解すべきである。


受肉の奥義(2)

2019-12-04 12:00:00 | 全能神の発表

  イエスはユダヤで働いたとき、公然と働いたが、今、わたしはあなたがたのあいだで秘かに働き語る。不信者たちはこれに全く気付いていない。あなたがたのあいだでのわたしの働きは部外者には閉ざされている。これらの言葉、刑罰や裁きはあなたがただけに知らされており、他は誰も知らない。この働きはすべてあなたがたのあいだで実行され、あなたがたにしか明かされていない。不信者の誰もこれを知らない。まだ時が来ていないからである。ここにいるこの人たちは刑罰に耐えた後、完全にされつつあるが、部外者はこのことを何も知らない。この働きはあまりにも隠されている。彼らには受肉した神は隠されているが、この流れにある人たちには、神は明らかにされたと言うことができる。神においてはすべてが公然とし、すべてが明らかで、すべてが解放されているが、これは神を信じている人たちにとってだけそうなのであり、その他の者、不信者には何も知らされていない。今ここで行なわれている働きは彼らが知ることがないよう厳しく隔離されている。もし気付いたならば、彼らはそれを非難と迫害だけをするのみであろう。彼らは信じないであろう。最も進歩の遅れた場所である赤い大きな竜の国で働くのは簡単なことではない。もしこの働きが知られたら、続けるのは不可能だろう。この段階の働きはこの場所で進めることはどうしてもできない。もしこの働きが公然と行なわれたなら、彼らがどうして許すことができるだろうか。それはこの働きをもっと大きな危険にさらすことにならないだろうか。もしこの働きが隠されず、イエスが見事に病人を癒し悪霊を追い出したときのように行なわれたなら、とうの昔に悪魔に「捕まえられ」ていたのではないだろうか。悪魔は神の存在に我慢することができるだろうか。もし今わたしが人に説教をし、教えるために会堂に入って行こうとしたなら、とっくに粉々に砕かれていたのではないだろうか。それではどうやってわたしの働きを続けることができるのだろうか。しるしや不思議が公然と行われない理由は、隠すためである。だから、わたしの働きは不信者によって見られることも、知られることも、発見されることもない。もしこの段階の働きが恵みの時代のイエスの働きのように行なわれたなら、それは今のように安定したものではなかったであろう。だから、働きがこのように隠されているのは、あなたがたにとっても、働き全体にとっても有益である。地上での神の働きが終わると、すなわち、秘密にされているこの働きが終わると、この段階の働きは広く公にされる。すべての人たちは中国に勝利者のグループがいることを知るだろう。肉となった神が中国にいて、神の働きが終わったことを知るだろう。その時初めて、人は理解し始めるのである。なぜ中国はまだ衰退や崩壊を見せていないのか。神が中国でその働きを自ら実行し、あるグループの人々を完全にして勝利者としたということが分かるのである。

  肉となった神は、その働きを自ら遂行しつつ、従ってくる人たちだけに自身を現すのであり、すべての創造物に現すのではない。神は人に彼の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。神はこれから来る働きの邪魔にならないように、人間のあいだでは長い間留まっていることはできない。神が大勢の人たちに現すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、神が二度肉となったときの姿ではない。というのは神の姿は神の性質を通してのみ示すことができ、神の肉となった姿に取り替えられることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、神が肉の中で働くときに従って行く人たちだけに示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。それはイエスが働きを行なっていたときにユダヤ人にだけ自分自身を示し、決して公然と他の国々には示さなかったのと同じである。したがって、ひとたびイエスが働きを完成すると、人々からすばやく離れ、留まらなかった。それ以降、人間に自らを現したのはイエス、その人としての姿ではなく、働きを直接遂行した聖霊であった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じ働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿を見ることはほとんどできない。彼は自身を人に全く見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きのための時間は限られており、それは特定の時代、時、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。そのような働きは神が肉となった期間中の働きだけを表しており、その時代に特定されたものであり、ある特定の時代の神の霊の働きを表しており、神の働きの全体を代表しているわけではない。よって、肉となった神の姿はすべての人々には見せられないであろう。大勢の人たちに見せられるのは、神が二度肉となったときの姿というよりは、神の義と神の性質の全体である。人に見せられるのは唯一の姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神がすべき働きが完成すると、肉となった神は絶対に地上から離れなければならない。というのは、肉となった神はしなければならない働きのためだけに来るのであり、姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、かつて神を一度も見たことのない国の人々には神は公に自身の姿を見せることはない。イエスが自分自身を義の太陽としてユダヤ人に再び示すことは決してない。再びオリーブ山に登ることも、すべての民族に現れることも決してない。ユダヤ人が見たのは、ユダヤの地にいた時代のイエスの絵図だけである。肉となったイエスの働きは二千年前に終わったからである。イエスが以前の姿でユダヤの地に戻ることはないし、ましてや当時の自分の姿を異邦人の諸国において示すことはない。なぜならば、肉となったイエスの姿はひとりのユダヤ人の姿でしかなく、ヨハネが見た人の子の姿ではないからである。イエスは自身に従ってきた者たちに再来を約束したが、単にひとりのユダヤ人の姿で異邦人に自分自身を示すことはない。肉となった神の働きは、時代を開くことであることをあなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神の霊のすべての働きを達成することはできない。これはユダヤ人としてのイエスの姿が、ユダヤで働いたときの神の姿だけを現しており、そのときの神は十字架の働きだけをすることができたのと同じである。イエスが肉体をもっていた間、イエスは時代を終わらせ、人類を破滅させる働きはできなかった。よって、イエスが十字架にかけられ働きを終えると、イエスは高く昇り、自身を人間から永遠に隠した。それ以降、異邦人の国々の忠実な信者たちは主イエスの出現ではなく、壁に貼られたイエスの絵しか見ることかできなかった。この絵は人によって描かれたものでしかなく、神自身が人に見せた姿ではない。神は二度肉となったときの姿を大勢の人たちに公には見せることはない。人類のあいだでなされる神の働きは、神の性質を人々に理解させることである。これは様々な時代の働きを通して人に見せられる。イエスの出現を通してというよりは、神が知らせた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉の姿を通して人に知らされるのではなく、むしろ、姿や形をもつ肉となった神によって行なわれる働きを通して知らされ、彼(彼女)の働きを通して、神の姿が示され、神の性質が知らされる。これこそ神が肉体で達成しようとする働きの意義である。

  神が二度肉となったときの働きがひとたび終わると、異邦人の国々に神はその義である性質を現し始め、大勢の人たちがその姿を見ることを許される。神は自身の性質を現し、これを通して、あらゆる種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉体における神の働きは広範囲に及ぶものではない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしはあなたがたのあいだだけで働いている)。なぜなら、肉体における神の働きには範囲があり限界があるからである。神は受肉した肉体を通して永遠の働きをしたり、異邦人の国々のすべての人たちに現れる働きをするのではなく、ただ平凡な普通の肉の姿で短い期間の働きをするだけである。肉での働きは範囲においてのみ限られたものになることがあり(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)、その後この限界内でなされた働きを通して拡張されることができる。もちろん、拡張の働きは聖霊によって直接行われ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉体の働きには限界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからである。それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行う。だから、肉でなされた働きは一つの限界内で行なわれる始まりの働きなのである。神の霊はその後この働きを、さらに拡張された範囲で続ける。

  神は時代を先導する働きをし、新時代を開き、古い時代を終わらせるためだけに地上に来る。神は地上での人間の生涯を過ごし、人間のように実際に人生の喜びや悲しみを体験し、自身の手で誰かを完全にし、成熟するのを見守るために来たのではない。それは神の働きではない。神の働きとはただ新時代を開き、古い時代を終わらせることである。つまり、神が自らある時代を開き、もう一つの時代を終わらせ、自身の働きを直接することでサタンを打ち負かすのである。神が直接働きをする時はいつも、戦場に足を踏み入れるようなものである。肉において神はまず世界を打ち負かし、そしてサタンに勝利する。地上のあらゆる人々が歩くべき正しい道と平和な生涯と生きる喜びを得られるように、神はすべての栄光を獲得し、二千年の働き全体の幕をあげる。しかし、神は地上で長い間人間と住むことはできない。なぜなら、神は神で、結局人間とは違うからである。神は普通の人の一生を生きることはできない。すなわち、神は全く普通の人として地上に住むことはできない。というのは、神はそのような人生を営むための平凡な人の普通の人間性の最小限の部分しか持っていないからである。つまり、神がどのようにして地上で家族をもち、職業を得て、子どもを育てられるというのか。これは神にとって不名誉なことではないだろうか。神は普通の方法で働きをするという目的のためだけに、普通の人間性をもつのであって、普通の人のように家族や職業を持つためではない。神の普通の理知、普通の知性、普通の食事や肉体の衣服は、神が普通の人間性をもっていることを証明するのに十分である。神が普通の人間性を備えていることを証明するために家族や職業を持つ必要はない。全く不必要である。神が地上に来ること、それは言葉が肉となるということである。神はただ人が神の言葉を理解し、言葉を知ること、すなわち、肉においてなされる働きを人が見ることを可能にしているだけである。神が意図していることは人々が神の肉体を何らかの方法で取り扱うことではなく、人が最後まで忠実であること、すなわち、神の口から出る全ての言葉に従い、神が行うすべての働きに服従することだけである。神は肉体においてただ働いているだけで、神の肉体が偉大で聖であることを人が褒めたたえるよう意図的に求めているのではない。神は単に人に神の働きの知恵と神の及ぼす権威を示しているにすぎない。よって、神は並はずれた人間性を持っていながらも、あえて布告をすることもなく自身がするべき働きに集中しているのである。あなたがたは、なぜ神が肉となりながらも神の普通の人間性を公表したり証したりせず、その代わりにただ行ないたい働きをただ実行しているのか知らなければならない。あなたがたが肉となった神において見ることができるのは、ただ神の神性が何であるかということだけである。それは神の人間性を人が見習うようにと神がその人間性を主張することはないからである。人が人を導く場合にのみ、人はその人間性を語る。そうすることで、他の人たちを感銘させたり服従させたりして、指導力を発揮することができる。これとは対照的に、神はその働きだけで(すなわち人には達成不可能な働きで)人を征服する。神は人を感銘させたり、人に神を崇拝させたりはしないが、ただ神への畏敬の念を人に植え付けたり、神の人間には図りがたい深遠さを人に気づかせたりするだけである。神は人を感銘させる必要はない。神に必要なことは、人がひとたび神の性質に触れたならば、神を畏れるようになることだけである。神の行う働きは神だけのものである。人間が神に代わって行なえるものではなく、また人間が達成できるものでもない。ただ神のみがその働きを行ない、新しい時代を招き入れ、人間を新しい生活へと導くことができる。神の働きは、人間が新しい生活を受け取り、新しい時代に入れるようにすることである。それ以外のすべての働きは、正常な人間性をもち、他者から賞賛される人々にゆだねられる。すなわち、恵みの時代には、神は肉となった三十三年のうちのわずか三年半で二千年分の働きを完了したのである。神がその働きを行うため地上に降りるとき、神は必ず二千年分、あるいはひとつの時代全体の働きをわずか数年間で完了する。神は時間を無駄にせず、遅れることもない。神は何年分もの働きを簡単に濃縮すると、わずか数年で完了できるようにする。これは、神が自ら行う働きは、ただ新しい道を開き、新しい時代を導くことだからである。


受肉の奥義(1)

2019-12-03 21:03:41 | 全能神の発表

  恵みの時代に、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネは神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけであった。ヨハネは主の先駆者であったが、神を表すことはできなかった。彼はただ聖霊に用いられた人間であった。イエスのバプテスマに続いて、「聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り」、それからイエスは自分の働きを開始した。すなわち、キリストとしての職分を始めたのである。それがイエスが神の身分を取った理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようであったとしても──おそらく時には弱く、時には強かったのであろうが──それはすべてイエスが職分を始める前の普通の人の生活であった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、直ちに神の力と栄光が備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行い、力と権威をそなえていた。神の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは神の代わりに霊の働きをし、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身であった。これは争う余地がない。ヨハネは聖霊に用いられた。彼は神を表すことはできず、神を表すことは彼にとって不可能であった。もしヨハネが神を表すことを望んだとしても、聖霊はそれを許さなかったであろう。というのは、神自身が成就するはずの働きをヨハネがすることはできなかったからである。おそらく、彼には多くの人間としての意思、あるいは何か逸脱したものがあったであろう。どんな状況下においてもヨハネは神を直接表すことはできなかった。彼の過ちや間違いは自分自身を表していたが、働きは聖霊の象徴であった。それでも尚、彼のすべてが神を代表していたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表していたであろうか。人を表すことにおいて間違いがあるのは普通のことであるが、神を表しながら逸脱しているなら、それは神に対して不名誉なことにならないであろうか。それは聖霊に対する冒涜ではないであろうか。たとえ人が他人に称賛されても、人が神の代わりをすることを聖霊は軽々しく許可しない。人が神でないなら、最後まで立ち続けることはないであろう。聖霊は人が気の向くままに神を表すことを許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しし、彼がイエスの道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きはよく釣り合いのとれたものであった。ヨハネに求められたことはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけであった。すなわち、聖霊は道を整えるというヨハネの働きだけを支え、彼にそのような働きをすることだけを許した。ヨハネは他のことをすることを許されなかった。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表していた。これにおいて聖霊はヨハネを支えた。働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えた。しかし、もしヨハネが自分自身が神であり贖いの働きを完成するために来たのだと主張していたなら、聖霊は彼を戒めなければならなかったであろう。ヨハネの働きがどれほど偉大であったにせよ、また聖霊に支えられていたとしても、その働きには境界がなかったわけではない。ヨハネの働きが聖霊に支えられていたことは確かに真実だが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。ヨハネはその他の働きは全くできなかった。というのは、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネにすぎなかったからである。よって、聖霊による証が鍵であるが、人が聖霊により行なうことを許された働きは、それよりはるかに重要である。ヨハネも当時は確固とした証しを立てられていたのではないのか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。ヨハネの働きはイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間にすぎず、直接神を現わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネの成した働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、彼の証しを支える者はなく、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

  悪霊に取りつかれ「私が神だ!」としつこく叫んでいる人たちがいる。しかし、最後まで彼らは立ち続けていることはできない。というのは、彼らは自分が何を表しているかに関して誤っているからである。彼らはサタンを表し、聖霊は彼らに何の注意も払わない。自分をどれほど高く褒めたてても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、わたしは神の愛するひとり子である」と叫ぶことはない。しかし、わたしがする働きは神の働きである。わたしは叫ぶ必要があるだろうか。褒めたてる必要はない。神はその働きを自分で行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表すのに十分である。バプテスマの前、イエスは神そのものではなかったのか。イエスは受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証をされて初めて神のひとり子となったのだ、などと言うことは到底できない。イエスという名の人がイエスが働きを開始する前には存在しなかったのだろうか。あなたは新しい道を作ることも、霊を表すこともできない。霊の働きや、霊が話す言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを遂行することもできない。神の知恵、不思議、計り難さを表現することも、神が人を罰する性質の全てを表現することもできない。だから、あなたが神であると主張しようとするのは意味がない。あなたは名前があるだけで、実体が全く伴なっていない。神自身が来たが、誰もその人を神と認識しない。しかし神はその働きを続け、霊を表すことで働く。あなたがその人を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、あるいは主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかしその人がする働きは霊の働きで、神自身の働きを表している。その人は人々がどのような名前で呼ぶかには関心を持っていない。名前が神の働きを決定することができるだろうか。あなたがその人をどのような名で呼んでも、神に関する限り、その人は神の霊の受肉した肉体である。この人は霊を表し、霊によって承認されている。新しい時代のために道をつけることができない、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをすることはできないのであれば、あなたは神と呼ばれることはできない。

  聖霊に用いられる人でさえ神を表すことはできない。そして、その人は神を表すことができないだけではなく、その働きも直接神を表すことはできない。すなわち、人の体験は神の経営(救い)の内部に直接置くことはできないし、神の経営(救い)を表すこともできない。神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

  ヨハネは、アブラハムにイサクが生まれたように、約束によって生まれた。ヨハネはイエスのために道を整え、多くの働きを成したが、神ではなかった。むしろ、ヨハネは預言者であった。イエスのために道を整えたからである。ヨハネの働きも偉大であり、ヨハネが道を整えた後初めて、イエスは公に自分の働きを始めた。実質的には、ヨハネは単にイエスのために働いただけであり、ヨハネの働きはイエスの働きのためであった。ヨハネが道を整えた後、イエスは自分の働きを始めた。それはより新しく、より具体的で、より細かい働きだった。ヨハネが行なったのは、最初の働きだけだった。それより多くの新たな働きは、イエスによって成された。ヨハネも新たな働きを成したが、新たな時代へと案内した者ではなかった。ヨハネは約束の下に生まれ、その名前は天使が与えた。当時、彼の父ザカリヤの名をつけたかった人たちもいたが、ヨハネの母は「この子をその名前で呼ぶことはできません。ヨハネという名にしなければなりません」と主張した。これはすべて聖霊によって命じられたのである。それでは、ヨハネはなぜ神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの名もまた聖霊に命じられた。そして、イエスは聖霊から、聖霊の約束によって生まれた。イエスは神であり、キリストであり、人の子であった。ヨハネの働きも偉大であったが、なぜ彼は神と呼ばれなかったのだろうか。イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。人の観念では、約束によって生まれた者、霊から生まれた者、聖霊によって支えられている者、新たな道を開く者は神であると言う。このような論法によれば、ヨハネも神であり、モーセもアブラハムもダビデも神である、ということになる。これは、よくできた冗談ではないのか。

  イエスも伝道を行う前は普通の人間に過ぎず、聖霊のすることに従って行動していただけであった。イエスが当時自分の身分を意識していたかどうかはともかく、神から示されたことにはすべて従っていた。聖霊は、イエスがその職分を開始する前には、その身分を決して明かさなかった。イエスがこのような律法や掟を廃止したのは、職分を始めた後であり、イエスが公に働きを始めた後に、彼の言葉は権威や力に満ちた。イエスの働きが始まった後初めて、新たな時代を生み出すという彼の業が始まった。それ以前の二十九年間、聖霊はイエスの中に隠れたままであり、その間イエスは人を表していただけであり、神の身分や働きは持たなかった。イエスがその働きと職分を始めた時点から、イエスは、自分がどれほど人に知られているかに関わらず、自身の内部の計画通りに働きを行ったが、そのイエスの働きは、神自身を直接表したものであった。イエスはその頃、周囲の者に「あなたがたはわたしをだれと言うか」と尋ねた。彼らは答えた。「あなたは最も偉大な預言者であり、私たちのよき医者です」、また「あなたは大祭司です」と答えた者もいた。様々な答えが出た。イエスはヨハネであるとか、エリヤであるとか言う者もいた。イエスはそれからシモン・ペテロの方を向いて「あなたはわたしをだれと言うか」と尋ねると、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。その時から、人々はイエスが神であることを知った。イエスの身分が知られたとき、その認識に最初に至ったのはペテロであり、それを口に出したのもペテロだった。そしてイエスは言った。「あなたにこの事をあらわしたのは、肉血ではなく、わたしの父である」。イエスがバプテスマを受けた後、他の者が認識していたかどうかはさておき、イエスの働きは神に代わっての働きであった。イエスが来たのは、自らの働きを行うためであって、自分の身分を明らかにするためではない。イエスの身分が公に人に知られるようになったのは、ペテロのこの言葉の後であった。イエスが神自身であることを人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは時が来ると自分の働きを始めた。そして、人間が認識していたかどうかに関わらず、イエスは自分の働きを以前のように続けた。たとえ人が拒否したとしても、イエスは自分の働きを行い、成すべき時にそれを遂行する。イエスが来たのは働き、職分を果たすためであり、人間が神の肉を知るためではなく、人間が神の働きを受けるためであった。もしあなたが今日の段階の働きは、神自身の働きであることを認識できないなら、それはあなたにはビジョンが欠けているからである。それでもこの段階の働きを否定することはできない。あなたがそれを認識できないからと言って、聖霊が働いていないとか、神の働きは間違っているとかいう証明にはならない。聖書の中のイエスの働きに照らし合わせて現在の働きを調べ、矛盾している点を用いてこの段階の働きを否定しようとする人々さえいる。これは目が見えない者のすることではないだろうか。聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。

  イエスが地上にいた時間は三十三年半だった。つまり、イエスは地上で三十三年半暮らした。そのうちイエスが自身の働きを成したのは三年半だけだった。そして、残りの年月は、普通の人間の生活をしていた。はじめのうち、イエスはシナゴーグの礼拝に出席し、そこで祭司の聖書の解説や他者の説教を聞いた。イエスは聖書について多くの知識を得た。イエスは生まれつきそのような知識を持っていたわけではなく、読んだり聞いたりすることでそのような知識を得た。イエスが十二歳のときにシナゴーグでラビに質問をしたことは、聖書にはっきり記録されている。昔の預言者の預言はどのようなものだったか。モーセの律法はどのようなものか。旧約聖書とは。そして、神殿で祭司の服を着て神に仕えることの意味は何だったのか等、イエスはたくさんの質問をした。そのような知識も理解もなかったからだ。イエスは聖霊により母胎に宿ったが、まったく普通の人として生まれた。多少の個性はあったものの、イエスは依然として普通の人だった。イエスの知恵は身長や年齢とともに続けて増し、イエスは普通の人と同じような人生の過程を通過した。人は、イエスが幼児期、青春期、中年期を経験していないと想像する。イエスは生まれるなり三十歳の人として生涯を始め、業を完了して十字架につけられたと人は思っている。おそらくイエスの人生は、普通の人の人生と同じようには流れなかっただろうと信じている。おそらく、イエスは食べもせず、人と交際もせず、人に簡単に姿を見られることもなかったのだろうと信じている。イエスは神なのだから、見るものを恐れさせるような奇人だろうと信じている。肉となった神は絶対に人間のような生活をしないと人々は信じている。彼らは、イエスは聖なる人なので、歯を磨いたり、顔を洗ったりしなくてもきれいであると信じている。これは純粋に人の観念ではないだろうか。聖書には人としてのイエスの生涯についての記録はなく、イエスの働きについてしか記録がないが、このことでイエスが普通の人間性をもっていなかったとか、三十歳になるまで普通の人間の生活をしなかったという証明にはならない。イエスは二十九歳で公に働きを始めたが、それ以前のイエスの人としての全生涯を否定することはできない。聖書はただその時期のことは記録から取り除いているだけである。それは普通の人性としてのイエスの生涯で、神性としての働きの時期ではなかったので、それを記録しておく必要はなかったのである。イエスのバプテスマ前には聖霊は直接には働かず、職分を始めるべき日までイエスを普通の人としてのその生活に留めた。イエスは受肉した神であったが、普通の人として成熟過程を経た。この過程は聖書から省かれている。というのは、人のいのちの成長に大きな助けにはならないから省かれたのである。イエスのバプテスマ以前は隠された時期で、イエスはしるしも不思議も行わなかった。イエスがバプテスマを受けて初めて、恵み、真理、愛、憐みが豊かに溢れた人類の贖いの働きのすべてを開始した。この働きの始まりはまさに恵みの時代の始まりでもあった。このため、それは書き留められ、現在に至るまで受け継がれてきた。それは恵みの時代の人々がその時代の道を歩み、十字架の道を歩むために、道を開き、すべてを完成させるためであった。そのような記録は人によって書かれたものだが、すべては事実の記述であり、ところどころに小さな誤りがあるだけである。とにかく、これらの記録を誤りとすることはできない。これらは人によって書かれたため誤りも見られるが、完全に事実である。イエスは平凡な普通の人性だったと言う者もいるかもしれないが、それならば、どうしてしるしや不思議を行なうことができたのだろうか。イエスが経験した四十日間の誘惑は、奇跡のしるしであり、普通の人には達成することができないものだ。イエスの受けた四十日間の誘惑は、聖霊の業であった。では、イエスの中に超自然的なものがまったくないとどうして言えるだろうか。イエスがしるしや不思議を行なえたことは、彼が普通の人ではなく超越的な人であることの証明ではない。それは聖霊が彼のような普通の人の中で働き、それにより、イエスは奇跡を起こして、より偉大な業を成すことができたというだけである。イエスがその職分を果たす前、あるいは聖書に記されているように聖霊がイエスに降りる前は、イエスは普通の人で、超自然的なところは少しもなかった。聖霊の降臨により、すなわち、イエスがその職分を始めた時、イエスは超自然的なもので満たされた。そのように人は、神の受肉した肉体は普通の人間性は全くなく、さらに受肉した神には人間性がないと誤って信じるようになる。確かに、神が地上にくると、神の働きと人が神に関して見る全てのことは超自然的である。目で見、耳で聞くことはすべて超自然的なことであるのは、神の働きと言葉は人には理解できず、達成不可能なことであるからである。もし天の何かが地上にもたらされるなら、超自然的以外のものであり得ようか。天の国の奥義が地上にもたらされたなら、それは人が理解したり推測したりすることのできない奥義であり、あまりにも素晴らしく知恵に満ちているが、それらはすべて超自然ではないであろうか。しかし、たとえどんなに超自然的でも、それらは神の普通の人間性において行なわれるということを知らなければならない。神の受肉した体は人間性を備えている。そうでなければ、それは神の受肉した体ではないであろう。当時、イエスは非常に多くの奇跡を行なった。当時のイスラエル人が見たものは、超自然的なものに満ちていた。彼らは天使や使者を見、ヤーウェの声を聞いた。これらはすべて超自然的なことではなかっただろうか。確かに、現在では人間を騙すために超自然的なものを通して働く邪悪な霊がいる。これは、現在は聖霊が行わない働きを通して人間を騙そうとする邪悪な霊による模倣にすぎない。多くの邪悪な霊が奇跡や病の癒しなどの働きを模倣する。これは邪悪や霊の働き以外の何物でもない。現在は聖霊はもはやこのような働きをしないからである。以降、聖霊の働きを模倣するのは、すべて邪悪な霊である。当時イスラエルで行なわれた働きはすべて、超自然的なものであった。だが今では、聖霊はそのようなやり方では働かない。これ以上のそのような働きはサタンによる業と妨害であり、悪霊から来る。しかし、超自然的なものの全てが悪霊の行為であるとは言えない。それは、神の働きのどの時代かによる。現在の受肉した神による働きを考えてみよ。そのうちどの部分が超自然的でないであろうか。神の言葉は、あなたには理解できず、到達不可能である。そして、神の働きはだれにもできない。神が理解することを人が理解することはできず、人は神の知識がどこから来るのかを知ることもできない。「私もあなたと同じように普通なのに、あなたの知っていることを私が知らないのはどういうことか。私の方が年上で経験も豊富なのに、どうして、私の知らないことをあなたが知っているのだろうか」と言う人がいる。これはすべて、人間に関する限り、人間にはできないことなのだ。また、「イスラエルで行われた働きについて本当に知っている人は誰もいないのに、どうしてあなたは知っているのですか。聖書解説者すら説明できないのに、あなたはどうして知っているのですか」と言う人もいる。これらはすべて超自然の問題ではないのだろうか。今日の受肉した神はいかなる不思議も経験しなかったが、あらゆることを知っており、神から言葉がいとも簡単に発せられる。これは超自然的なものではないのか。神の働きは、肉により達成可能な範囲を超えている。そのような働きは、肉による者の考えでは達成できず、人の知力や理屈ではまったく考えが及ばない。今日の受肉した神は聖書を読んだことがなかったが、イスラエルでの神の働きについて理解している。そして、地上で語っているにもかかわらず、第三の天の奥義について話す。人がこれらの言葉を読むと、「これは第三の天の言語ではないだろうか」という思いで圧倒される。これらはすべて、普通の人にできることを超えた事柄ではないだろうか。また、イエスが四十日間断食したことは、超自然的なことではなかっただろうか。四十日間の断食があらゆる場合において超自然的で、悪霊の行為であると言うなら、イエスを非難したことにならないだろうか。イエスがその働きを始める前は、まったく普通の人のようだった。イエスも学校で勉強した。それ以外にどうして読み書きを習得できたというのか。神が肉となったとき、霊は肉の中に隠されていた。だが、普通の人間として、イエスも成長と成熟の過程を経る必要があった。そして、イエスの認知能力が成熟し、物事の分別がつくまでは、イエスは普通の人と見なされていた。イエスの人間性が成熟した後初めて、職分を開始することができた。イエスの普通の人間性がまだ成熟しておらず、物事の道理もよく分からないときに、どうして職分を果たすことができただろうか。イエスが六歳か七歳で働きをすることなど考えられないはずである。神はなぜ、受肉してすぐに自身を明らかにしなかったのだろうか。それは、神の肉の人間性がまだ成熟していなかったからである。肉の認知過程、またその肉の普通の人間性がまだ完全に神のものになっていなかったのである。このため、イエスが肉による働きを行うには、それに相応しいだけの普通の人間性と常識を身に付けることがどうしても必要だったのである。そうして初めてイエスはその働きを開始することができたのである。イエスが働きに適していなければ、更に成長、成熟する必要があった。イエスが七歳か八歳で自分の働きを始めても、人は彼を天才児として扱わなかっただろうか。誰もがイエスを子供だと考えたのではないだろうか。イエスに説得力のあると誰が思っただろうか。その身長は演壇ほどもない七、八歳の子供に説教ができたであろうか。その人間性が成熟するまでは、イエスはその働きに適していなかった。イエスの人間性がまだ未熟だったのだから、その働きの大部分が到底成し遂げられなかった。肉体にある神の霊の働きもまたそれ自体の原理に従っている。イエスが普通の人間性を備えて初めて、父なる神の働きや義務を行なうことができたのである。そうしてはじめて、イエスはその働きを始めることができた。イエスは幼年時代には、古代に起こったことのほとんどを全く理解できず、ラビに聞いて初めて理解することができたのである。もしもイエスが言葉を話すようになってすぐ働きを始めていたなら、どうして誤りを犯さないでいられただろうか。神が間違えることなどあり得ようか。よって、イエスが働きを開始したのは、イエスにとって可能になってからであった。働きを行なうことが完全に可能になるまでその働きを実行しなかったのである。二十九歳で、イエスはすでにかなり成熟しており、その人間性はイエスが行うべき働きを遂行するには十分であった。三十年間隠されていた聖霊はその時初めて現われ、神の霊は正式にイエスの中で働き始めた。当時ヨハネはイエスのために道を用意するべく七年間働いていた。そして、この仕事を終えると、ヨハネは投獄された。それから重荷はすべてイエスにふりかかった。もしイエスが人間性にも欠けるところが多く、青年になったばかりの二十一、二十二歳で、まだ多くのことの理解に欠けるままでこの働きを遂行していたならば、イエスは取り仕切ることができなかったであろう。当時、イエスが中年になって働きを始めたとき、ヨハネは働き始めてすでにかなりの時が経っていた。その年齢では、イエスの普通の人間性はなすべき働きを遂行するには十分であった。今や受肉した神も正常な人間性を持つ。あなたがたと比べれば成熟してはいないが、その人間性はその状態で自らの働きに着手するにはすでに十分である。今日の働きを取り巻く状況はイエスの時代とは全く同じではない。イエスはなぜ十二人の弟子を選んだのであろうか。すべてはイエスの働きを支え、協力するためであった。ひとつには当時のイエスの働きの基礎作りをするためであり、同時に、その後のイエスの働きの基礎作りをするためでもあった。当時のイエスの働きに合わせて十二人の弟子を選ぶことは、イエスの考えであったが、それは同時に神自身の考えでもあったからである。イエスは十二人の弟子を選んで、あらゆる場所で説教ができるように彼らを導く必要があると信じていた。だが今日、あなたがたに同じようにする必要はない。受肉した神の働きには多くの原則があり、人間にはどうしても分からないことがたくさんある。人間は自分の観念を絶えず用いて分からないことを推し量ったり、あるいは神に過度の要求をする。そして今日にいたるまで、自分の知識が自分の観念だけで成り立っていることに全く気づいていない人たちが多数いる。神が受肉する時代や場所に関わらず、肉における神の働きの原則は変わらない。神は肉となりながら、働きにおいて肉体を超越することはできない。また神は肉となりながら、肉体の普通の人間性の中で働かないことはできない。そうでなければ、神の受肉の意義は全くなくなり、ことばが肉となったことは全く無意味になってしまう。さらに、天の父(霊)だけが神の受肉を知っており、他の誰も、肉となった神自身さえも、あるいは天の使者たちさえも知らない。そのように、神の肉における働きはもっと普通のことであり、確かにことばが肉となることを申し分なく証明することができる。なお肉とは、平凡で普通の人を意味する。

  なぜ神自身が時代の到来を告げなければならないのかと不思議に思う人がいるかもしれない。被造物が神の代わりをすることはできないのであろうか。神が新しい時代の到来を告げるために、わざわざ肉となることをあなたがたはみな知っている。そしてもちろん、神が新しい時代に案内するとき、同時に前の時代を終わらせる。神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。一つの時代が神によって導かれるたびに、人間の一部は自由にされ、それによって人間は新しい時代に向けて神の働きと共に前進する。神の勝利は神に従うすべての人たちの勝利でもある。もし被造物である人類が時代を終えることを任されたなら、人間の視点からであろうとサタンの視点からであろうと、それは神に反抗するか裏切る行為でしかなく、神に対する従順から出たものではなく、そのような人間の働きはサタンの道具にされてしまうことになる。人が神によって案内された時代において神に服従してついて行くときにのみ、サタンは完全に納得させられることができる。それが被造物の本分だからである。そして、あなたがたに必要なのは服従することだけで、それ以上にはあなたがたは何も求められていない、とわたしは言う。それこそ各自が自分の本分をわきまえ、自分の役目を果たすことの意味である。神は自身の働きを行ない、人が神の働きを神に代わってすることは必要としておらず、被造物の働きに神が関与することもない。人は自分自身の本分を果たし、神の働きに関与しない。これが本当の服従であり、サタンが敗北したという証拠である。神自身が新しい時代に案内したあとは、神はもはや人のもとで働くために到来することはない。そうして初めて、人は自分の本分を果たすために、新しい時代に正式に一歩踏み出し、被造物としての使命を果たすのである。これがだれも背くことのできない働きの原則である。このように働くことだけが賢明で道理にかなっている。神の働きは神自身が行なう。神の働きを始動させるのは神で、それを終わらせるのも神である。働きを計画し管理するのも神であり、それ以上に、働きを成就するのも神である。それは聖書に、「わたしは初めであり、終わりである。蒔く者であり、刈る者である」と書かれている通りである。神の経営(救い)の働きに関連する全てのことは神自身により行なわれる。神は六千年の経営(救いの)計画の支配者で、誰も神の代わりに働くことはできず、神の働きを終わらせることはできない。というのは、すべてを支配するのは神だからである。神は世界を創造し、神は全世界が神の光の中に生きるよう導き、全時代を終わらせ、それにより神の計画すべてを成就させるであろう。