がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと4

2011年04月20日 | エッセー
 山浦先生は敬虔なクリスチャンであり、医師であられること自体がその具現であるに違いない。クリスチャンにとって最も大切なものは聖書である。その聖書も山浦先生にかかると、「自分の言葉で書かれていない」となる。本当にものごとにまっすぐに立ち向かい、自分に正直な人である。分からないものは分かろうとする。それが大切なものであればあるほど、分からないままにすることはできない。
 山浦先生は聖書の最初の言葉から壁にぶつかる。「初めに言葉ありき」。これがわからない。それに続く「言葉は神とともにあった」「言葉は神であった」はますますわからない。だが、日本のクリスチャンは聖書とはむずかしいもので、自分たちにはわからないが、信じることが大事なのだというようなことをいって、いわば自分をごまかしてきた。
 山浦先生は違った。調べてみたら「言葉」とはギリシャ語でロゴスといい、それを辞書で調べてみたら、17もの意味があることがわかったという。ロゴスとは英語でいえばlogicであり、論理ということである。山浦先生はこの17をすべて置き換えてみたが、みな納得できなかった。最後の17番目の意味は「思考」ということで、これを山浦先生は「思い」として当てはめてみたらぴったりとした。「はじめにあったのは神様の思いだった」「思いこそ神そのものだった」。こうして山浦先生は聖書の言葉を自分のものとし、それをケセン語にも訳した。
 実は私はその聖書を読んだことはない。ケセン語入門の中にある例を知っているだけであるが、それがいかばかりすばらしいものであるかは想像できる。

 大船渡の奥にある五葉山という山で私は十数年の調査をし、100回以上の調査行を実施した。そして多くのことを学んだ。その体験は私の血肉となっていまも生きている。山浦先生は私の心の先生であり、雲の上のような人なのでお会いしたことはない。ただ一度だけお便りを差し上げたことがある。そうしたら自分たちの山でシカのことを調べてもらってうれしいという意味のお返事をいただいた。
 今回の津波で大船渡は壊滅的な被害を受けたので、山浦先生のことも心配だったが、仙台の知人に電話して、お元気であることを知って快哉を叫んだ。そして新聞でケセン語聖書が話題になっているときき、本当にうれしかった。「がんばれナラの木」のことをお伝えしたいと思う。

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