公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

無私の日本人 磯田道史 教育の総和は学校教育と非学校教育の和

2019-10-12 07:25:11 | 日本人
先日 、そのことに思い至り 、はっとしたのである 。長年 、住んできた吉岡は 、表通りのいたるところに 、潰れ家ができ 、空地にはぺんぺん草が生え 、櫛の歯が欠けたようになってしまっている 。いわゆる町場の 「草臥れ 」である 。このまま 、くたびれていってしまえば 、地獄のような困苦がしのびより 、この町を覆いつくすのではないか 。生来の空想家であった父は 、いちはやく 、そのことに気づき 、もがいていた 。父の浅野屋は宿場でもとびぬけた富豪であるし 、自分の穀田屋もそれなりの身代である 。自分の家族が生きのびる 。ただ 、それだけのことを考えるならば 、なんの心配も要らないはずである 。しかし 、この吉岡で 、貧しい者から順番に餓死の波にのまれていく悲惨な光景のとなりで生きていくのは 、理屈ではなく恐ろしい 。これほどまでに 、そら恐ろしいと感じるのは 、なぜだかわからない 。ともかく 、これからの行く末を考えると 、全身の毛穴に粟粒が生じるような不安が胸にせまってくるのである 。



父のことで 、よく覚えているのは 、晩年 、思いつめたように 、 「永代のうるおい 」ということを 、繰り返しいっていたことだ 。はじめは 、なんのことをいっているのか 、よくわからなかった 。 「宿中が立ちゆくようにせねばならぬ 。この宿の永代のうるおいになるようなことをして死にたい 」






日本史探偵帳で磯田氏は『本来 、歴史は面白いもので 、人生の役にも立つ 。ところが 、学校教育の教科書の歴史には 、味がなく 、人生に役に立ちそうにない 。暗記物になってしまっているからである 。人間とは不思議なもので 、三十代 、四十代以上になると 、仕事も経験も積むから 、道理のわかる 、賢い人であれば 、 「歴史が参考になる 」と気付く 。そして 、自分で歴史の本を読み始め 「なぜそうなったか 」を考えはじめる 。すると 、人間社会によくみられるパターンがみえてくるらしい 。こういう言動はした方が良いとか 、それはしない方が良いとか 、無意識に歴史から学びはじめる 。実は 、このタイプの学びが 、決定的に 、大切なのである 。』と前書きに書いている。日本人の学校教育と非学校教育の総和が日本人の教育である。穀田屋甚内のように往来を見つめ 「永代のうるおい 」を考える日本人はどのくらいいるだろうか?税金を集めた先の誰かがやってくれると思ってないか?人間社会によくみられるパターンは自分の稼ぎでないものに胡座をかいて穀潰しの子孫を残してしまう。児ども孫に美田を遺さず、買わずという『南洲翁遺訓』の引用は多いが文脈が違う。西郷南洲の言いたいことは守りに入るなという今生きている自分のための戒め。昭和94年の今、殆どの日本人が穀潰しである。前半分昭和47年までの蓄えをその後の47年で失っている。

残した金銭のことを言っているのではない。教育の総和の縮小を言っている。まず昭和前半の歴史的仮名遣いの印刷物が読めない。漢字が読めない。意味がわからない。現在の官庁ホームページさえ数年前の内容が捨てられている。磯田道史氏がこのように教えを書き残せるのも、継承された古文書を読む技能があるからである。現代日本人には読めない資料が山のようにある。戦後学校教育で蘇ることを封印したもの。候文。擬古文。國の神話。戦前の書籍。
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