公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評 「月と六ペンス」サマセット・モーム(著)金原訳

2015-01-17 17:28:00 | 今読んでる本
何年ぶりに読んだことだろう。この作品は最初に読んだのは学生の頃、それも買って読んだわけではなく。もちろん金原瑞人訳でもない(当然か、ちなみに娘は芥川賞作家の金原ひとみ)
寮生活の同居者(←このひとの2008年時点の人と柄はここ参照)の本棚から文庫本(記憶では中野好夫訳)、40年近い昔、まえにも述べた学生時代「されど我らが日々」同様に勝手に借りたものだった。その時の印象と感想は全く理解の外だった。今も好きになったとは言えないかもしれないが、手放せない本となりそうだ。たぶんブックオフに出されることはこの先もないだろう。もしかしたら、文系の英語の教材に指定されていたのかもしれない。
この変化はなぜだろう。ひとつには自分が少々年を取ったからだろうか。もうひとつの理由は人間には隠された次元があるということに自分が気づいたことだろうと思う。

サマセット・モームが人間のそれに気づいているかどうかはわからない。「悪魔にだって聖書の一行を引用することはできる。」<『ヴェニスの商人』のシャイロックの言葉の引用「悪魔だって自分の都合のいいように聖書を引用できる」>と終わるこの話に続きがありそうに示唆していながら、やはり終っている余韻にかすかに地獄を感じる。

モームは絵画の表現し得ないもの<隠された次元>を知ってしまったストリックランドの悪魔の様に無粋なエゴは生身の人間とは協調できないだろうってことを知ったからかもしれない。

その上にモームはこの作品に作家という視点も備えたので、殆どを語っているわたしは語りながら複眼で現実(6ペンス)と創作(月)とを見ている。だから作家としてストリックランドを観察しなから、鏡のように写り続ける自分自身の
一見真っ当で、俗な姿を分析せざるえない。つい読者もまたこのモームの自己分析に巻き込まれてゆく。

誰にだって、現実と理想はある。そのギャップを漸近的に狭めてゆける人が幸せというのが世俗の価値観だ。それが芸術というものに隠れた穴を通じて、それに目を奪われた者たちだけが、世俗の幸福と言う価値観が何も意味をなさない世界に引きずり込まれてゆく。そこから世界が裂けるように、人間という地獄の底に再び二番底が蓋をあける。




いつものように心に留まる断片をひろうことから。


『「過去などどうでもいい。大事なのは永遠に続く現在だけだ。」』

『自分を笑うもの達といっしょに笑うことができない。』

『わたしは笑うまいと唇をかんだ。ストリックランドの言葉は憎らしいほど的確だった。わたしのもう一つの欠点はそれだった。品性の良し悪しにかかわらず、言葉の応酬ができる人間を嫌いになれないのだ。』

『「愛などいらん。そんなものにかまける時間はない。。。。。欲望はわかる。正常で健全だ。だが、愛は病だ。」』

『「ブリューゲルはいい。この男にとって描くことは地獄だったろうな。」』





ブリューゲルは明らかに時代を突き抜けている。時々そういう芸術が生まれるが、その時代に生きる人々に理解されることは稀だ。ゴーギャンの画はなにかいつも夢を見てるようだ。現実はフィルターの向こう側という気がする。つまり描き手であるゴーギャンが自身が「われわれはどこから来たのか_われわれは何者か_われわれはどこへ行くのか」で外側に行ってしまっている。隠された次元を知ってしまった男として共感を持てるようになったのは「月と六ペンス」を再読してからだ。

<自分を笑うもの達といっしょに笑うことができない。>精神の柔軟性が、ゲームのように求められる都会的会話。相手を傷つけるまで下品な言葉を吐く文化が今もヒリヒリとフランスを苦しめている。

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