ゆのひらんおばちゃん Part3

創業70年の土産屋を 2023年3月末で閉めました。『夫婦で余生を どう生きるか』を模索していきます。

夏は来ぬ

2024-05-27 | 
きのう ブログを2個書いたのに 今朝見たら消えてました😱

基本 スマホから投稿しているので この指が、私のこの指が消したのは明らかなわけで…

きのうは 男子バレーやドジャースを見ながら しかも負けたので 思わず消してしまったのかも…

気を取り直して 書き直そうとして、あれなんだっけ?何を書いたっけ?一晩で記憶を無くしてしまう アラセブンティ。

仕方がありません。撮った写真を見て思い出しましょう。


『ウノハナ(ウツギ)』の白い花が護岸から顔を覗かせています。



毎年書きますが『ウノハナ』は別名『ウツギ』とも言われます。唱歌『夏は来ぬ』の歌詞が有名です。

🎵ウノハナの匂う垣根に 
ホトトギス 早も来鳴きて 
忍び音もらす 夏は来ぬ” 🎵

意味は
初夏に白い花を咲かせるウノハナの花の香りが漂う垣根にホトトギスが早くも来て 今年の初鳴き(忍び音)の声が聴こえている 
あぁ夏が来たんだなぁ”


立夏が過ぎたから 今は初夏になるのですが、当地のウグイスは4月あたりから啼いています。

その花を手折り持ち帰りました。山野草も美しいことを 庭が流されて、手に入る花がなくなってから ようやく気付きました。


『ウノハナ』は『卯の花』と書くと おからを思い出します。


義母が作っていた おからの酢の物を甘く炊いた油揚げに詰めたものが好きでした。自分で作ろうと思いながら なかなか実行できません。















サトウのさとちゃん(笑)

2024-05-25 | 
我が家のクローバー畑の形が

『太った九州』に見える?

『見えない❗️』





それよりか

『サトウ製薬のマスコットのサトちゃん』に似てはいないか?



目と眉を入れてみようか

昔は こんなこと考えなかったけど…暇な人間です。

バカバカしい お話ですみません。



目に青葉の季節です

2024-05-24 | 
暑かったり寒かったり お天気が定まりません。

少し前から喉にいた『エヘン虫』が『ゴホン虫』に なり、今は『ゼーゼー虫』になり 熱まで出てきました。少し前に 夜暑くて寝相が悪かったせいかもしれません。

置き薬は契約をやめたので 期限切れの薬ばかりで、夫が隣街まで薬を買いに行ってくれました。


少し前に下書きをしていたので 今回はそれを載せます。

アジサイが小さなつぼみを付けています。姉からもらった苗です。







河岸のアジサイにも つぼみが見えます。


石垣にはたくさんなシダが生えています。夫はシダは取るなと言うけど 私は取りました。だってすぐ生えますから。


緑がきれいといえば きれいです。


二種のブルーベリーの花の後に実が見えてきました。植えたのが去年の10月10日あたりです。いつ頃食べられるでしょうか。ブルーベリー摘みは初めてです。




新しい雑草は『トウバナ』というようです。なるほど 塔のように咲いています。



クローバーも どんどん広がりました。雑草が見えなくてうれしい。





ここは4年前の水害で流される前は こんな光景でした。いろんな花が咲いて お仏壇の花も買わずにすんでいました。今は飾る花がありません😢












誕生日と母の命日

2024-05-23 | イベント
奇しくも 私の誕生日と実家の母の命日が一緒です。七年前の今日です。去年は姉夫婦とささやかな法事をしました。

予定では 夫と阿蘇の納骨堂に参り、道の駅巡りか 又はどこかでランチしようと話していましたが 天気が悪いのと、私の喉にエヘン虫が発生したので延期となりました。咳が止まりません。

よって 夕食は手作りの『豆腐ハンバーグ』と『ローソンの冷凍ヒレカツ』のワンプレートと これで乾杯しました。可愛いもんです。


お仏壇には バナナとバウムクーヘンと、庭から むりくり 葉や花を採ってきて 洋風な お荘厳です。気は心です。




アラセブンティになり、歳をとったせいでしょうか、昔のことを懐古してしまいます。特に亡き母のことです。

昭和三十年前後に姉と私が産まれました。当時は社宅に住んでいました。

七輪で『塩サバ』や『とうじんぼし』をよく焼いてくれました。『サンマ』を食べた後、残った骨をカリカリに焼いて食べさせてくれました。おかげで今でも骨は丈夫なようです。

当時、肉は高価でした。我が家の肉といえば 安い『ホルモン』でした。七輪に炭をおこし、ジンギスカン鍋のようなドーム型の鍋で焼いていました。

私は幼くて ホルモンが気持ち悪かったのですが、大人になって姉から『一番安いホルモンを固まりで買って お母さんが 一生懸命処理をして食べさせてくれたんだよ。高い肉は買えなかったんだよ』と聞きました。幼い私は そんなこととはつゆ知らず『気持ち悪い』などと…ごめんなさい。

『たれ』も母の手作りでした。リンゴや玉ねぎを すりおろしていた記憶があります。

母は高齢になってもホルモンが好きでした。車椅子で焼肉屋さんに連れて行ったものです。


食べるものも豊富ではなかった社宅時代は 畑を借りて野菜を作っていました。人様方のお茶摘みを手伝う代わりに、茶の葉を少しわけてもらい、鍋で炒った茶葉を 手を真っ赤にして揉んでいた姿を思い出します。熱かっただろうね。

山や野に行き わらび、ぜんまい、うど、タラの芽を探し、田んぼで芹を取り、野いちごでジャムも作ってくれました。

たくあんや白菜漬けや高菜漬けも自分で作り 古い高菜漬けを塩抜きし 油で炒めた母の味は忘れられません。

大豆を一晩水につけて ふやかし、茹でて 半分は豆乳、半分は味噌汁に入れて『ご汁』を作ってくれました。

小豆を茹でて 布で濾して こし餡を作り、おはぎも手作りでした。昔の親は既製品ではなく ほとんどが手作りでした。

にんにくと卵の黄身を練り合わせ小さく丸め乾燥させる『にんにく玉』は 栄養を考えてくれたのでしょう。

手作りのキャラメルは一個一個 赤や黄色のパラフィン紙で包み可愛く仕上げてくれました。母の性格や所作は姉に引き継がれました。

梅や クコの実をザラメと一緒に焼酎に漬け込み これは大人用ですが、3歳くらいの私が甘い梅酒を 原液で飲んで大変なことになったのも思い出です。

洗濯機が無い時代は 山から湧き出る清流の川で洗濯をする母のそばで水遊びする私。冷たくて すぐあがります。あんな冷たい水で洗濯していた母。

昔は姉と私の洋服は ほとんど手作りでした。足踏み式のミシン たぶん捨てたと思われますが、残しておきたかったな…今は 裁縫箱が手元に残っています。


子供に手がかからなくなると 近くの病院の厨房で働きはじめ、早出をしながら 弁当を作り、高校生の娘二人を 朝一番の列車に送り出してくれました。送り迎えは たいていは父でしたが、母のこともありました。おかげで 高校は皆勤賞でした。

家を建て社宅から卒業し、父の退職後、また家を建て引っ越しました。 その後は両親とも病気の連続で入退院が続きました。看取るまでの生活が姉と私の親孝行でした。

今思うと 私の子ども時代の母は、苦労の生活でしたが、子供にそれを感じさせませんでした。幼い私は それが普通の生活だと思っていました。

母の日や誕生日に プレゼントする母親は 私も夫もいません。寂しいですね。

誕生日は母を偲び、母に感謝する日です。

長々となりました。歳をとった証拠です。















孫の草取り

2024-05-23 | 
孫が来た時 クローバーの冠を作っていると、孫女が『ばぁば 草をとってあげるね~』と、どこからかスコップ(正しくは 泥すくい)を持ってきて
『よいしょ よいしょ』と ほじくり始めた。



『草取り』というより『砂遊び』のよう。

次の日 残った草を ばぁばは取りましたよ。


草取りは大変だけど、結果がすぐ出るから嫌いじゃない。でも草取りは いたちごっこ。


心の中の雑草も抜けたら良いのに 根が深くて なかなか抜けないのですわ。