ゆのひらんおばちゃん Part3

創業70年の土産屋を 2023年3月末で閉めました。『夫婦で余生を どう生きるか』を模索していきます。

引っ越しから一年経ちました

2024-06-26 | 思い出
昨年3月末で70年続いた店を閉めました。



そして 昨年6月26日に そばにある 両親が建てた家に引っ越して丸一年経ちました。あっという間の一年でした。

祝 引っ越し一周年。 無事に過ごせました。


大きな家具や家電8個以外は 二人でぼつぼつ運びました。よく頑張りました…夫が。





食器棚が一番大変でした。二人で上下に分解して運び出し




どうにか搬入しました。


自宅のガレージの中は 荷物だらけでしたが


いまだに これだけ片付いていません。レコードとか、本とか、リカちゃん人形とか、リカちゃんハウスとか…



必要なくても捨てられないものが たくさんあるのです。まだまだ断捨離の道半ばです。

『道の駅回り』をしている場合か?








昭和の遺物⑤扇子

2024-04-05 | 思い出
倉庫の中から出てくるわ 出てくるわ 古い扇子。



おじさんが多い中、おばさんが一人いて そのおばさんが若い頃から縫い物や華道や日舞をやっていたとか。

祖父母は女の子がうれしくて『蝶よ花よ』と育てたのかもしれない。早くに亡くなったので 私は会ったことがありません。

家紋(剣方喰=けんかたばみ)入りの扇子や




エジプトの古代絵のような柄の扇子の端っこには 電話番号が記されているが、北九州時代の古い電話番号だろう。湯平の番号ではない。




この2本だけ残し あとは捨てました。昔に思いをはせながら 捨てる作業が続いています。

義父さん 義母さんがするべき断捨離を息子夫婦が今やっています。

あの世から『それは捨てるな』と言っているかもしれない。








昭和の遺物④

2024-03-31 | 思い出
画像がアップできなくなって しばらくなります。

いろんな方、お会いしたこともない方からも ご心配いただき ありがとうございます。

パソコンから書けば大丈夫でしょう。店を閉めて丸一年 パソコンを離れているので 大丈夫でしょうか?

日記がわりのブログですが、写真が無いと書いても楽しくありません。

五つの文よりも 一枚の写真の方が表現力があります。文だけで面白いなら 小説家になれますけど、そんな力はありません。

以前 下書きしたものをアップします。昭和の『しょうけ』です。


楕円形と丸形の『しょうけ』

片方に穴が空いた『かたくち』



両親は若い頃 一時 隣町の庄内町の上淵(かんぶち)で農業もしていたということでしたから その名残りでしょうか。

夫と 夫の兄も幼少時には歩いて上淵に付いて行き、久大線を走る蒸気機関車を見るのが楽しみだったとか。

両親は戦争を経験し 移住、農業、商売と苦労しながら 私たちにバトンを渡してくれたのです。



マロニエ物語

2024-03-09 | 思い出
昔 たしか三十年くらい前の話です。

夫の兄が美大を出て留学先のパリから『マロニエの実』を持ち帰りました。兄は帰国後 奈良に住んで 庭にマロニエの種を植えました。

1メートルくらいに育てた苗を『母校に植えて欲しい』と我が家に送ってきました。

当時の校長先生は 故 上田千代吉先生でした。入学式で手品をして子供たちを喜ばしてくれた校長先生です。

私が若い頃 由布院中学校に教育実習に行った時 担当したクラスの担任が上田先生でした。

そんな関わりがあったので マロニエの苗と兄の手紙を持って校長先生にお願いしに行きました。

良い時代でした。校長先生は すぐ玄関前に 自ら お手植え下さいました。

マロニエはパリの街路樹としても有名です。成長も早く 数年後には枝を伸ばし、葉を繁らせ 玄関前に日陰を作りました。職員室の日射しを和らげていました。

夏は青々として、秋には落葉して 実をつけるのを楽しみにしていました。成長した様子を退職された 上田先生に写真を添えてお便りしたら お返事が来て 今も残してあります。達筆です。



実がなったら自分の庭にも植えたいと思っていましたが・・・

ある日 突然伐られていました。

植えた時の いきさつを知らない人にとっては邪魔な木になっていたのでしょう。

ここに植えていました。



先日 久しぶりに小学校に行き、そんなことを思い出しながら シャッターを押しました。

時代が流れ 良い時代が終わり、マロニエも無くなり、上田千代吉先生も兄も亡くなり、小学校も閉校となり、プールも壊され グラウンドも 近いうちに半分になります。

昭和 平成 令和と時代は流れ いろんなものが無くなってしまいました。

卒業生がパリのマロニエを植えたことも、それが成長したことも、切り倒されたことも 覚えている人は 夫と私だけになりました。

『マロニエの跡形もなき その場所に

立ちて思うは 過去の良き日々』

旧 湯平小学校

2024-03-07 | 思い出
日曜日は工事が お休みなので 旧湯平小学校へ行ってみました。先週に引き続き二回目です。

メタセコイヤの向こうにあった地区公民館は完全に撤去されました。





創立100周年の式典をしたのは何年前だったかな?『湯平小学校跡地』の石碑があります。


校長室の前にあった池の水は無く『意智の会』が作って寄付した水車の跡形も無く…古くなった板に『○○○会』の文字だけが残っています。




現在 校舎は『地区公民館』として使われ、公民館活動が行われています。




グラウンドを望むとトラックや機材が 並んでいます。


もう グラウンドに降りる機会もないかもしれません。校舎側からグラウンドに降りてみました。


校門側から校舎を望みました。左手のメタセコイヤから校舎は右端の体育館まで 一直線に ほぼ同じ高さで並び かっこいい。
右端は体育館です。



振り返ると、校門の外の川向こうの山肌が崩れています。このあたりの崩壊の前に道路をグラウンドへ移動しなくてはなりません。



再び校舎側を見ると こんな張り紙が。す、す、すみませ~ん。すぐ戻りましょう。



モクレンのつぼみがたくさん見えます。









お約束も 錆びてよく読めません。




私の出身小学校ではないけれど、親として9年間 関わったので やはり 懐かしく 名残り惜しいものがあります。

時代が流れ、歴史が移り変わり、水害があり、その風景が次々と無くなくなっていくのは淋しいものです。