ゆのひらんおばちゃん Part3

創業70年の土産屋を 2023年3月末で閉めました。『夫婦で余生を どう生きるか』を模索していきます。

通行止め

2023-10-31 | 日常
明日から11月。

ああ 今年も あと2ヶ月。時間が超特急で過ぎて行く。年賀状のことが ちらりと頭をよぎる。

今年の年賀状は親戚、知人、友人だけでよいので楽です。椎茸のお客様に37年間 出し続けたことを振り返ると ご縁のありがたさに感謝するばかりです。

お客様の中には親戚のような お付き合いも発生しました。私自身は あまり友人が多いわけではないので構っていただけて感謝です。

さて 表題の件ですが 橋本橋が明日から3日間通行止めです。夜は通れます。


作業員のお兄さんが『迷惑をかけますが、橋の上に大きい車が停まって作業をするので 昼間は通れますん』と 申し訳なさそうに話してくれました。

安全の為の 橋の修理の為の通行止めですから なんの遠慮も要りません。粛々と進めて下さい。

工事は17時まででしょうから 夜になる前に通れると ふんでいます。私の予想です。

下流の『熊橋(熊尾橋)』の掛けか替えも着々と進んでいるようです。その場所は狭くて勾配があるのでスピードを下げて通ります。





シンデレラフィット

2023-10-31 | リメイク
引っ越してすぐは 古いタンスの上にテレビを置いていました。




その古いタンスを移動させて 娘達が使っていたタンスに入れ替えると…

高さは良いけど 隙間が生じてしまいます。微妙に出来た隙間が気に入りません。





ニトリで買ったカーテンレールを入れていたプラスチック製の入れ物。何かに使えそうです。






タンスの両脇の隙間に挟んでみると スポッと はまります。これは 使えると リメイクの神様が降りて来ました。

L字型になるように切り込みを入れて曲げ 長さは縮めて ジャストフィット。これを シンデレラフィットと言うらしい。

これに英文字のリメイクシートを張りました。2本のコードを通す穴も開けました。




両脇が出来ると プラスチックボードで上面を作り それにも 同じリメイクシートを貼りました。





それから夫を呼び テレビを抱えてもらって 上面を入れ込み 完成しました。隙間が埋まり、これで ゴミもたまりません。





シールを貼るのが難しくて きれいに貼れなかったけれど細かい所は気にしない 気にしない。

最後に飾りのレースを挟みました。自己満足の世界です











ハロウィン

2023-10-30 | 日常
明日10月31日は『ハロウィン』とかいう日です。

本来の意味も よく知らず カボチャに張り物をしたりして 楽しんでいました、去年まで。店頭に飾っていました。






今 近所の お宅では このように 嬉しい 楽しい細工をしています。




子供は少ないのですが、大人まで いただきたくなります。ちゃんと『トリック オァ トリート』と言うんですよ。

某タウンで見た 緑のドラえもん。これも ハロウィン❔




違いました。サステナモードの取り組みでした。サステナ(持続可能)モードを推進する アンバサダーとしての緑のドラえもんでした。

緑のドラえもん 新鮮です。ピンク色のドラえもんも可愛いと思いますが、ドラミちゃんが 焼きもちをやくかも。





じゅうじゅう会

2023-10-29 | 日常
今日『ゆのひらんプロジェクト』で 中の湯温泉周辺の掃除を計画しました。

題して

『10月29日はじゅうじゅう会』

なんと 作業の後にステーキが提供されます😱


娘は『牛喰い清掃大会だ』と(なんなら 思いを絶叫してもらいましょうか)


朝からユニフォームを着て出掛けて行きました。





中の湯付近は周辺に雑草が茂り、水害の時にあがった泥に苔が生え 見苦しい状況でした。

参加者の皆様のおかげで すっかりきれいになりました。


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参加者には焼き肉ステーキ(アメリカンビーフ)と野菜が用意されました。周囲の山々も 次第に色付き始めました。


参加の皆様 ご協力本当にありがとうございました。

ちなみに 参加の証明はピンクのシールでした



留守番の妻に もしや、もしや お肉が余ったら持ち帰らないかと 淡い期待を持ちましたが、手ぶらでした。

じゃんじゃん。



義兄の追悼展

2023-10-29 | 芸術
二年前に亡くなった 夫の兄の遺作展が東京で開かれます。所沢にいる姪っ子から 案内のハガキが送られてきました。姪っ子も美大を出て 絵を描いています。


『金子 善明 追悼展』とあります。あれから 丸2年経ちました。






子供の頃から絵が上手で 病床の祖父から『お前は画家になれ』と言われたそうです。

両親も その実現に力を惜しまず 後押しを続けていました。美大からパリへ留学し、帰国してから亡くなるまで 製作を続けていました。

どんどん作風が変化していき、最後は絵だけでなく 造形にも力を注いでいました。


おかげで 次男が店を継ぐことになりました。もし 夫がサラリーマンのままだったら 今頃 どこで どんな生活をしているでしょうか?


私は芸術には全く疎い人ですが、好きなこと、自分の意思を一生貫いたことは それなりに幸せだったと思います。

東京の遺作展には行けませんが、命日には 手を合わせます。