縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

学芸員さんは得意顔?・・・十日町市博物館企画展「縄文とヒスイ展」

2023年09月06日 07時32分58秒 | ヒスイ
十日町市立博物館の企画展「縄文とヒスイ展」で、担当された学芸員さんの着眼点に敬服。面白かった。
 
ヒスイ探偵のわたしとしては、加工途中の未成品に興味津々。
信濃川中流域の遺跡から出土した、穿孔途中のヒスイ大珠の未成品の二点が展示されており、管錐(カンスイ・パイプ状の錐)で穿孔した時にできる凸(ヘソ)がなく、お椀状の窪みから中実の棒を回転穿孔したことが看て取れるではないか!
長岡市の岩野原遺跡の大珠未成品・・・孔の底にヘソがなくお椀状の窪みになっている
 
しかも長岡の西野原遺跡の大珠は、断面が三角形という特殊な形状ゆえなのか、最初の段階から両側穿孔していることにも刮目。
縄文時代の穿孔具は管錐!、両側穿孔は片方を半分以上あけてから反対側から貫通させる!は固定観念だった。
 
上記二点は火焔型土器文化圏の中心地域からの出土品。
 
対して糸魚川の遺跡からは管錐穿孔の痕跡のある未成品が出土していて片側穿孔なので、はやくも中期には新潟県内の加工法に地域差があり、必ずしも糸魚川の技術が伝播したとはいえない証拠になるのではないか?
 
勾玉にも面白いのがあった。
三条市の経塚山遺跡の勾玉の背部に縦方向の孔があけられた緒締型だ。冠などに差して飾ったとの説もあるが、新潟県内からも出土していたとは思わなんだ。
 
他にも中央部がエンタシス状に膨らんだ、ヒスイ製の管玉というか細長いナツメ玉もあった。管玉といえば敲打やチッピングで成形できるメノウ系か、柔らかい石材とばかり思っていたが、はじめてヒスイ製をみた。
 
おそらく原石を割った時にできた破片を根気よく研磨してつくったのではないだろうか。ド根性管玉!
 
数あるヒスイ出土品の中から、企画展のたびに紹介される有名な出土品に目もくれず、マニアックな興味をそそる出土品を集めた担当学芸員さんの得意顔が見えるようだ。友達になりたいw
 
 
 

90歳のおばあちゃんが遺言として戦争を語る・・稲毛幸子著「1945わたしの満州脱出記」

2023年09月02日 07時25分33秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

満州の「生き地獄」から辛くも帰国できた稲毛幸子さんが、遺言のつもりで91歳の時に出版した「1945わたしの満州脱出記」は、小さなお子さんのいるお母さんがたに読んで欲しい本。

稲毛さんはウクライナで同じことが繰り返されていることに心を痛め、戦争を知らない世代に悲惨さを語り継ぎたいと願っておられるようだ。
 
1945年9月2日はポツダム宣言受諾の調印式の日で、欧米の認識ではこの日が太平洋戦争の終戦である。しかし「戦争」は続いていた。
 
8月9日、不可侵条約を破棄したソ連が満州に侵攻、官僚や高級軍人は子弟だけを極秘裏に逃がした。また8月16日に武装解除の大命が下り、ソ連軍にも武士の情けはあり居留民に手を出さないであろうと、甘い見通しで降伏したため、数十万の居留民はソ連軍から乱暴狼藉を受けることになった。
 
・ロシア兵に拉致された娘たちは二度と戻ってこなかった。
・お隣りでは泣き叫ぶ幼児が射殺され、奥さんが凌辱されて自殺した。
・まいにち、どこかで女の悲鳴がきこえ、餓死者がでた。
・暇つぶしなのか、意味もなくロシア兵が隣家の子供を狙撃した。
 
当時20歳そこそこの稲毛さんも、なんどもロシア兵から強姦されそうになっている。しかし窮余のあまり、顔に味噌をぬって難を逃れた。異様な面相に情けなく、かゆくて仕方なかったそうだが、見た目以上にロシア兵は味噌の匂いが苦手だったようだ。
 
そんな暮らしを1年もつづけるうちに、稲毛さんの二人の乳飲み子も相次いで餓死したし、ご自身も片目を失明した。邦人の遺体は広場に放置され野犬のエサになっていたので、稲毛さんのご主人はロシア兵に隠れて真夜中に埋葬した。
 
幸か不幸か、二人目の子供が餓死した帰国直前に埋葬した遺体を掘り返して一緒に火葬できたので、遺骨をリュックに入れて一緒に帰国できた。リュックを背負うと遺骨がカタカタと音をたて、二人の子供が帰国を喜んでいるように感じたそうだ。
 
戦争とは戦闘のみに非ず。
生き残った者も、生涯その傷を負うことになる。
政治決着の終戦はあっても、「戦争」は終わらないのだ。