沼隈文化財研究所

「温故知新」
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「お水取り」-奈良東大寺 二月堂(修二会)-

2006年04月27日 | 福山歴史研究(文化財と歴史)

      奈良東大寺 二月堂

       二月堂 閼伽井屋


東大寺二月堂修二会
(お水取り)


  東大寺の東側の丘陵上にある二月堂あたりを「上院」地区と呼ば
  れ、東大寺大仏や大仏殿よりも古い歴史をもっている。


  「上院」地区には、東大寺の前身である金鐘寺(こんしゅじ)が
早くから存在していた。


  金鐘寺は、神亀五年(728)に生後僅か一年で亡くなった
聖武天皇の皇子(某王<母は、光明皇后>)の
冥福を祈って造られた山房が発達した寺院で、
やがて大和の国分寺に昇格し、金光明寺と呼ばれるよ
  うになる。

  金鐘寺の指導的立場に居たのが、
良弁(689~773)で
その中の弟子に実忠(じっちゅう)がいた。


  奈良に春を呼ぶ祭りとして知られている「お水取り」は、
  旧暦の二月一日から十四日までおこなわれ、
  現在では三月一日から十四日までおこなわれているものであり、
  十一面観音に悔過(けか)をする行法で「修二会」と称され、
  その行法の中で十一面観音に閼伽井屋(あかいや)
から汲み上げた香水を供える修法が
通称「お水取り」と呼ばれるようになった。


  この始まりは、天平勝宝四年(752)に
実忠和尚(じっちゅうかしょう)
  が創始したと伝えられ、
  それ以来、千二百五十年以上「不退の行法」として、
  一度も休むことなく現在まで続けられているもので、
  『十一面神呪経』という密教経典の所説に基づいて
行なわれる悔過(けか)の行法である。


  二月堂の修二会は、心身の穢れを払った練行衆と呼ばれる
僧侶達が二月堂に籠り、
  十一面観音の前で観音の宝号を唱え、
五体投地などの荒行をおこなっ
  て罪科を懺悔(さんげ)し、あわせて
天下安穏・五穀豊楽を祈願する行法である。


   旧暦二月におこなわれることから、「修二会」、
井戸(若狭井)から水を汲んで本尊に供えることから「お水取り」、
  大きな松明(たいまつ)が二月堂の欄干で振られることから
  「おたいまつ」とも呼ばれ、
奈良に春を呼ぶ行事として広く知られている。


  「修二会」に参籠する僧侶は練行衆と呼ばれ、
  現在は東大寺と末寺から十一名((ししき)・和上(わじょう)   大導師(だいどうし)咒師(しゅし)堂司と平衆七人)が選ばれて、
開山忌の十二月十六日にその名が発表される。


  三月一日から始まる本行の前に「別火」という前行がある。
  別火とは、火打石で新たに切り出した俗界とは
別の火を用いる精進潔斎の生活のことである。

  現在は、二月二十日から二十八日(閏年は二十九日)まで、
戒壇院の庫裏(別火坊)に合宿しておこなう。


   別火のうち、二月二十日から二十五日(閏年は二十六日)までを
   「試別火(こころみべっか)」、
二十六日(閏年は二十七日)から月末までを
「惣別火(そうべっか)」という。


   二月末日に、練行衆は別火坊から二月堂の参籠宿所へ移動し、
三月一日からの本行が始まる。


   本行の前半の七日間を上七日(じょうなのか)、
後半の七日間を下七日(げなのか)といい、
  「修二会」の本尊は、上七日は大観音、
  下七日には小観音でそれぞれ交代する。

  上七日の間は、小観音は大観音の背後に安置されていて、
途中で本尊が交代する。


  「修二会」の間は、練行衆達が様々な行法を
  満行下堂(三月十五日)までおこなう。

  それが終わると奈良にやっと春がやって来る。


                         


  以下、御松明の炎の舞をどうぞ!

        炎の舞


          炎の舞


   二月堂に登った松明

   二月堂に登った松明


     炎の舞


       炎の舞


            炎の舞


            炎の舞

「参考資料 『お水取り』 奈良国立博物館 平成十八年二月十四日」
 による。
                        [NEWS備後風土記掲載]



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