沼隈文化財研究所

「温故知新」
文化財を通して歴史を振り返ってみよう。
文化財です。歴史です。

沼隈での平家-伝説と史実を探る-

2007年03月18日 | 福山歴史研究(文化財と歴史)

沼隈郷土文化研究友の会」による、
平家にまつわる伝説と史実についての会員の研修会がありました。


<日時>平成19<2007>年3月18日(日) 9:00~12:00
<講師> 上田靖士 沼隈郷土文化研究友の会事務局長
        門田武士 沼隈郷土文化研究友の会会員
<研修コース>
 (横倉)    赤旗神社⇒通盛神社⇒古宮跡⇒平家の井戸
 (千年藤)  敷名千年藤の歌碑
 (能登原)  源平古戦場跡の眺望⇒弓掛の松、能登原神社の鳥居

(横倉)
 ・赤旗神社では、地元から門田武士さんから地域に伝わる伝説を
  含めて、様々なお話を伺う。
  ・以前赤旗神社の旗を見たときには、黒っぽい色と感じた。
  ・赤旗神社は、以前上にあった林の宮と言っていた。
  ・隣にある神社は、5年程前に移築した荒神社であり、注連飾りが白色と
   なっている。
  ・杉の木は、町内でも最も大きな木である。
  などなど
 ・通盛神社では、明治32年~33年にかけて、再建したもの。
  ・玉垣が無いのは、個人からの寄付を受けないため。
  ・鳥居がないのは、平家が鳥によって、散々な目にあっているため。
  などなど


  (通盛神社での参加者)

   (通盛神社の案内板)


      (通盛神社本殿)


   (通盛神社拝殿の文様)


     (伝通盛従者の墓)

(千年藤の歌碑)
 ・上田靖士さんからは、千年藤の歌碑は、3ケ村が合併する際に、
  村名を決めるときに、当時の知識人が『平家物語』から、
  千年を付けたとの言われ、また、高倉上皇が厳島参りの帰途、
  この沖合いで松にまつわり付いている藤の花を、従者に取り寄せられて、
  歌を詠めと命じられて、従者が詠んだ歌を歌碑として
  残している。とのこと
  などなど


   (千年藤の歌碑)
「千とせへん君がよはひに藤なみの松のえだにもかかりぬるかな」

 (能登原)
 ・上田靖士さんからは、源平古戦場跡と伝える、小高い丘の上からの眺望しなが  
  ら、古戦場の解説を伺う。
 ・弓掛の松は、平教経が弓を掛けたとのいわれから、名付けられたとのこと。
 ・能登原原八幡宮の鳥居は、この瀬戸内地域では、珍しい造り方で独特との
  ことで、福山市の文化財として指定されている。
 ・また、『平家物語』から、平通盛、小宰相局夫婦の哀話や平教経の戦振り
  などなどの話を伺った。


  (伝能登原古戦場 西方面)

  (伝能登原古戦場 矢の島)

(伝能登原古戦場 南東方面:左の岬の突端が阿伏兎観音)


  (弓掛松の残根)


    (弓掛松の案内板)


    (在りし日の弓掛松)


  (能登原八幡宮の鳥居)


 (能登原八幡宮の鳥居の案内板)

                 概略以上



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7 コメント

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いっしょ♪ (スージー)
2007-11-03 10:00:20
私ゎ福岡県の、中学2年生です!!
実は・・・・・能登原っていうんです!!
いっしょぢゃん♪
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いらっしゃい!! (椿庵)
2007-11-03 22:45:59
能登原の苗字って大変珍しいですネ!!
是非現地の地名の土地を訪ねて見てください。
何か得るものがありますヨ!!

返信する
能登守 (檀上・宮崎県)
2008-04-21 21:04:57
旧千年村奥江生まれ74歳。
この項、懐かしく読みました。
小学1年生で転校したので生地のことをあまり覚えておりませんが、うろ覚えの千年小学校の校歌を懐かしんでおります「ソノカミミカドノギョイヲエシチトセノフジヲナニオエル・・・」ここまでしか知りませんが、帝とは何帝なのか、千年を経た藤は何処にあったのか?能登原の地名は平家の「能登守」に関わりはないのか?
こんな疑問や、お伽噺のような空想したこともあります。
 
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いらっしゃいませ!! (椿庵)
2008-04-23 15:28:11
壇上 さま
いらっしゃいませ!!
宮崎県には、流水さまの学友の方がおられ、
流水さまと奈良で学ばれています。

旧千年村の出身と伺い、大先輩になられます。
「ミカド」「チトセノフジニ」などの文字から
考えられますことは、『平家物語』巻四「環御」の段に出てくる物語と考えられます。
とすれば、「ミカド」は「高倉上皇」なのではないかと考えられます。
また、「能登守」につきましては、沼隈町横倉地区が、地元では通称「平家谷」と呼ばれています。
平家の落人伝説が数多く残っています。
しかも、その谷の奥まったところに鎮座する神社が、地元で通称「平家さん」と呼ばれていて、
「平通盛」をお祭りしています。
「平通盛」は「能登守」または、「能登殿」と
呼ばれて、
それらに関わる、平家にまつわる多数の話が伝承されています。

是非一度、地元であった歴史を探る旅も
一興かと思います。
故郷を訪ねて見られては如何でしょうか?
その節には、お待ちしています。
        (椿庵遍照 庵主記)
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椿庵様、有り難うございました (檀上老生)
2008-04-29 13:01:19
 有り難うございました。積年のつかえが解消した心地です。
4年前(’04年)、老姉弟3人で、今生のふる里訪問を致しました。幼い頃の遊び場であった、高泉寺や八幡さんにも参詣し、かつての生家や墓所も訊ねました。
阿武兎観音にも登り、鞆の浦を散策し、60数年ぶりの感慨にふけりました。
もう一訪れることが出来るようでしたら、ふる里の歴史、伝説などご指導お願いしたいものです。
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是非、お訪ね下さい。 (椿庵)
2008-04-29 22:05:49
壇上 さま

是非、もう一度お訪ね下さい。

お待ちしております。

その際には、ご案内させて頂きます。

故郷は、遠くにある人が心を寄せる場所です。

近くの者は、あるのが当然ですので、

見落とし勝ちです。

故郷、再発見を是非どうぞ!!
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コメントの一部訂正です (流水)
2015-08-30 13:41:24
壇上 さま
椿庵さまと同じ郷土史に取り組んでいる、流水と申します。
一点、コメントの訂正をさせて頂きます。
「能登殿」「能登守」につきましては、通盛とコメントしていますが、
「能登殿」「能登守」は、通盛の弟の教経(のりつね)に当ります。訂正してお詫び申し上げます。
この教経は、平家一門の中に於いて、一番勇猛な武将で、
壇の浦に於いて、義経を追い回し、八艘飛びをさせた武将
である事は、余り知られていませんが、『平家物語絵巻』
では、その教経の勇猛振りが描かれています。
参考までに
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