伯父の戦記の17話め、「激戦地としての兆候現る」です。
カビエンでの軍務に就いた伯父は、最初の半年は敵を警戒しながらも大きな戦闘は無く、敵を警戒しながらも穏やかな日々が続いていた様でした。しかし昭和18年の夏頃にはカビエン周辺は激戦地となった模様で、その影響がじわじわと及んできた時期のお話です。
画像は本文とは関係ありません。神奈川県・鎌倉の円覚寺内の石仏です。
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しかしこうした平穏な楽しい日は何時迄も続く筈がない。(昭和)18年7月頃となると、敵機P38が頻繁にこのカビエン上空に飛来し、日本軍の動向(飛行機、並びに飛行場周辺の対空陣地=我が中隊、物資集積所等)を偵察し始めた。
この不気味な敵機の行動は、カビエン駐屯部隊に大きな不安を与え始めていた。最近の情報によれば、敵はソロモン群島の島々を飛び石伝いに進撃しつつあり、又ニューギニアでは、東部のラエ、サラモア(我が中隊が最初に予定された上陸地点)等が敵の手中となり基地となっていった。残すはニュー・ブリテン島のラバウル、ニュー・アイルランド島のカビエン等が敵側の大きな攻略目標とされていた。正に予断を許さぬ戦況を迎えつつあった。
既に輸送も途絶えたこのカビエンも、ラバウルと共に最後の拠点として防備を強化し、自力で自給自足の長期持久戦に備えるべく昼夜を問わぬ多忙な日々を迎えるのであった。
そして数ヶ月後には、昨日も今日も、又明日もと、周辺の島々から着の身着のままの兵隊がカヌー或いは即席の筏を利用し、暗夜カビエンの海岸に三々五々撤退して来た。
その兵隊達の姿は、申し訳ないが兵隊と呼べる姿ではなく浮浪者であった。衣服はボロボロ、顔は埃と垢で真っ黒となり、痩せ細り、髪や髭は伸び放題、体中は皮膚病に冒され、その上熱帯特有の病魔マラリヤ、デング熱、腸チフス、潰瘍等で苦しみ、正に死力を尽くしての撤退であった。中には上陸して間もなく、力尽き戦友に抱かれ息を引き取る兵隊もいた。
私はこうした哀れな兵隊を見る度に人事として見過ごす事は出来なかった。食糧も無く薬も無い。これから先の自分達の運命は?どうなるのか。木の根、草の根をかじり、又あらゆる生物を手当たり次第食した処で限界がある。所詮遅かれ早かれ同じような死が近づきつつある事を自分なりに察知し、覚悟するのであった。 (完)
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