この頃はまだ御朱印あつめに燃えていたので
暇があれば神社とかに。
やってきたのは三輪神社。車で。
大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ってます。
大和国三輪山に鎮座する大神(おおみわ)神社から勧請したとされ
もとは普門寺の鎮守社とも、富田村の産土神(うぶすながみ)とも
いわれています。
寛永16年(1639)に普門寺の龍渓禅師により再興され
寛延2年(1749)に社殿が修復されたことが記録に残ってます。
神社がある富田は、江戸時代の初めに酒造りがさかんだったそうです。
灘の隆盛もありいまはもう当時とは比べようもないですが
今でも地元の寿酒造さんが國乃長なんていうお酒を。
そういうことで三輪神社は酒の神様を祀る神社として人々の信仰を
集めていたみたいです。
社殿や、灯籠、狛犬などは江戸時代のものだそうです。
住所は高槻市富田町4丁目14番14号。
110枚目。
ご訪問ありがとうございました。
友人のタカと大阪府高槻市内の御朱印集めに。
去年の話ですが...。
野見神社へ最後にやってきました。
野見神社は高槻市北大手町旧高槻城内にあり
祭神は須佐之男命、野見宿禰命を祀ってます。
創建の年代は社記に拠れば
人皇第五十九代宇多天皇の御宇(9世紀後半)
当地方に悪病が流行して多くの死者がでた時
「社殿を造り、牛頭天王をお祀りすれば
悪病が治まる」というご神託があったとかで
この神様は、災厄、疫病を追い払うと
言われていたことから早速お祀りしたところ
悪病はたちまちのうちに終息した。
国人たちはおおいに喜びここに社殿を造り
牛頭天王社としてお祀った
そうで、これが当社の起源となるんだとか。
享禄、天文 間には高槻城主駿入江駿河守
和田伊賀守などの崇敬を集め
社領の寄進などがあった。
後にキリシタン大名高山右近が神殿を破壊し
社領を没収。
時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させる。
しかし元和五年、城主となった松平紀伊守は
城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造すると
ともに社領を寄進したそうです。
永井神社は、野見神社の摂社で
本社本殿の東側に社殿があります。
寛政5年(1793)、永井直進
(なおのぶ:永井家第9代・高槻城主)によって
初代直清の霊神を祭神に勧請し、創建されました。
その後、嘉永元年(1848)に永井家第11代城主
永井直輝が直清の高槻城入城二百年を記念して
社殿を修復し、新たに唐門と拝所を造立しました。
特に、社殿の構成やその技法に江戸時代の
藩政期の特色が見られます。
また、唐門の彫刻は拝殿の拝所彫刻とあわせて、
建築における彫刻装飾の優品ということができます。
ってことです。
境内はこんなかんじ。
109枚目。
住所は大阪府高槻市野見町6-6。
ご訪問ありがとうございました。
友人のタカと高槻の御朱印あつめに。
で、やってきたのは上宮天満宮です。
一般には「うえのみやてんまんぐう」と呼ばれるほか
「北山の天神さん」とも。
「太宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」と称され
「上宮」の名も、創建が京都の北野天満宮より以前であることから
冠せられたといわれるそうです。
上宮天満宮は「天神山(てんじんやま)」
(「日神山〈ひるがみやま〉」)と
呼ばれる丘陵上に鎮座し、社伝によれば太古に武日照命が当地に
降臨して鎮座したという。
のち正暦4年(993年)、勅使・菅原為理が太宰府に下向して道真の
墓に参拝し贈左大臣正一位の詔を伝え、菅公の御霊代と菅公自筆の
自画像を奉じての帰途、この地に達した時に急に牛車が動かなくなった。
為理は、「この地の山上には菅公の祖先である野見宿禰の祖廟がある。
牛車が動かないのも理由があることだ。
山上に自画像を奉安して祀るのが良い」として道真を祀ったのが
上宮天満宮の始まりとするんだとか。
今は摂社ですが明治のころは天満宮じゃなく
野見神社って言っていたみたいです。
境内はけっこう広いです。
宝暦9年(1759年)11月寄進、芥川・石大工・西田新九郎正義の作。
浪花狛犬のうち社名から「上宮型」と称されるんだそうです。
拝殿は明暦2年に高槻城主の永井直清が寄進造営したもの。
平成8年(1996年)11月、放火により、天正18年に豊臣秀吉が
建立した本殿が焼失。平成14年(2002年)12月、日本初の竹製の
本殿として再建されました。
屋根は半割竹材、側壁や丸柱は竹の集層材と可能な限り竹材が
使用されているそうです。
108枚目。
ご訪問ありがとうございました。
去年のことですが友人のタカと自転車で大阪府高槻市の寺社めぐりを。
でやってきたのは安岡寺。あんこうじです。
やすおかでらではありません。
山手にあるので坂を自転車で登りきれませんでした。
車ではスイスイいけます。
寺伝によれば、桓武天皇の兄で、光仁天皇の子にあたる開成皇子が
この地に霊験を感じ、自ら観音像を彫り堂宇を建て
宝亀6年(775年)2月18日に創建したと伝えられているそうです。
南山と号し、根本山・神峯山寺、北山・本山寺とともに
北摂三山寺として天台宗に属してます。
文安年間(1444~1449年)に天災により堂宇を焼失するが
永正年間(1504~1521年)に僧高誓が再建したそうです。
天正年間(1573~1592年)には、三好氏やキリシタン大名としても有名な
高山右近の兵火により堂宇が焼失したが、寛文年間(1661~1673年)に
復興された。江戸時代には将軍家の拝領を受け、大日院、藤本坊、阿弥陀院
泉蔵坊の4塔頭をもつ巨刹となったが、明治時代の廃仏毀釈により
荒廃し現在の規模となったんだとか。
安岡寺は、天台宗系の寺院で如意輪観音を本尊とします。
木造千手観音坐像は、もと真上にあった安正寺の本尊と伝えられ
安岡寺の客仏として現在に至っています。10世紀後半の作とみられ
この時期の三島地方の代表的仏像彫刻として
国の重要文化財に指定されています。
住所は大阪府高槻市浦堂本町41-1。
106枚目。
御訪問ありがとうございました。