1月22日に 「園内のモニュメント」 のタイトルで投稿したが、文中の 『「木村・徳田両中尉殉職記念碑」 の写真説明碑が読み取れない』 とのご指摘をメールで戴いた。
近くなら所沢航空記念公園に行き確認したいとのことだが、遠方なのでそれも無理だから、とのコメントも付いていた。ご丁寧な連絡で感謝したが、このように私のブログを見てくださる方が遠方に居ることも励みになりました。
そこでその説明碑 (三枚目の写真) の内容を読み取ってここにご紹介しますのでよろしくご理解下さい。
● 説明碑の内容
我が国最初の航空犠牲者
木村・徳田両中尉像
大正二年 (一九一三年) 三月二十八日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する 「ブレリオ機」 は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議員の観覧及び説明の後、午前十一時三十六分帰航の途につきました。
ところが、所沢飛行場北東約一五〇〇メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され、両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
当時の 「やまと新聞」 は義捐金を募り、墜落地点に記念碑を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六ヶ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和四年三月西武線所沢駅前に移設しました。
その後西武園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和五十五年三月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
所沢市
以上が説明碑の内容でした。
上記の説明では 「突風に左の翼を破壊され」 とあるが 「たわみ翼を操作する張線の断裂による空中分解」 が起きたことが墜落の原因のようです。飛行機にとっては風は友達のように必要だが、時にはその風も悪友のように飛行機を苦しめたに違いない。
反戦詩 「君死にたまふことなかれ」 で知られる歌人・与謝野晶子は、両中尉の殉死を悼み、短歌十五首を寄せているが、私なりにその二句を選んでみました。
うら若き二羽の隼血に染みて 鳴く音絶えたる二羽のはやぶさ
新しき世の犠牲かなし御空行き 危きを行きむなしくなりぬ
所沢は 「航空発祥の地」 でもあるが、 「我が国最初の航空犠牲者」 の場所にもなってしまいましたが、当時は木村・徳田両中尉への殉職に対して多くの人たちから哀悼の気持が高まったそうです。
なお慰霊碑は所沢航空記念公園にありますが、当時の墜落地点には記念碑があることが判りましたので、私もいずれ訪れてみるつもりです。
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★ 写真の上でクリックすると拡大されます ★
「木村・徳田両中尉殉職記念碑」
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木村・徳田中尉像
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慰霊碑の説明
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木村・徳田両中尉の乗機だった 「ブレリオ12型単葉機」
日本ではこの機体をフランスから購入したが
当時の値段で一機が一万五六00円あまりとのことです
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写真説明: 木村・徳田両中尉殉職記念碑
撮影場所: 所沢航空記念公園にて (20200116)
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