今日は妻といつもは通らない裏道を歩いて買い物に行った
するとある民家で高齢の男性が自宅前の生け垣を刈り込んでいた。このような作業をこの辺りでは 「くねを刈る」 と表現するが 「くね」 とは竹垣や生け垣を意味する方言のようなものだ
それにしてもこのような作業を見るのは珍しいことだ。かつてはどこの家でも生け垣に囲まれていて、この時期になるとあちらこちらでくね刈りをする人を見かけたものだった
しかし、都市化の波に押されてどこの家でも面倒な生け垣を敬遠してブロック塀に替えてしまったので、生き垣は珍しい存在となった
その 「くね刈り」 姿を見ているとかつて旧宅でのことが想い出された。旧宅では南側と西側が生け垣だったので、5月連休になるとくねを刈った。だが結構な大仕事だったので長男夫婦や娘夫婦の力を借りての一日作業だった
妻と立ち止まって少しそのくね刈りを見ていたが、その人は今流行りの電動バリカンではなくて、鋏による作業だから終わるのは時間がかかるかもしれない
そんな姿を見ているとやはり昔が懐かしくなった。昭和30年代頃まではまだまだ自然豊かだったが、いつの間にか土の部分が亡くなってコンクリートに固められた街並みになってしまった
それと若い人が庭木を剪定している姿を見なくなった。昔は父親のやる事を見ながら、教えて貰わなくても見よう見まねで自然に覚えて庭木を刈り込んだものだった
今では多くの家で庭木が伸び放題になって暴れた木姿になっている。何となく寂しくなった世の中になった? と、私は思っているのだが、それは私だけの妄想であろうか?
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いって私もいつもやってます、我が家はみねぞの木なので、割りとやりやすくて
楽です、なので先手鋏で刈っています。
プロのようにまっすぐに綺麗に出来ませんが
下にシートを引いて、後の掃除が楽なように
してやってます。昔はどこもそうでした・・
が最近の田舎はそれは大変です。
よく私も朝の散歩で歩道まで飛び出している
木々を市役所に通報して処分してもらって
いますが、アッチコッチ困っています。
かつては時代の継承は極く自然に移っていたようですが
最近は私にも判らない方向に進んでいるようです
若者は庭の樹木なんて何の興味も
示さなくなりました。寂しいことです
この辺りの家はどの家も敷地内に樹木があります
それはそれなりに必要性のある樹木でした
でも今はその樹木も邪魔者扱いです
そんな樹木を見ていると時の流れに驚いてしまいます
明日は雨模様とか?
だいぶ気温も上がって
暖房器具も使わなくなりました
もう空堀川沿いではアジサイが咲いてきました
いつもコメントを有難うございます