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ルアンパバーンの風景

ラオスの世界遺産『ルアンパバーン』(Luang Phabang)の静かな風景を載せていきます。
実際は暑かった。

(無題)

2006-11-16 | ヤプログ!のログ
あの世でまた会おうね
といえばあの世でもうまく会える、が、当然この世のようには会えない、しかし、そういう意識がないからこそ、崩れずに会えるのである
それを純粋自然な信仰[=交点]だという


(無題)

2006-11-09 | ヤプログ!のログ
昨日の夢は面白かったなぁ。クリスチャンの怨念を買ったのか知らないが、もののけ姫を痛烈に批判していた。Chopinの子犬のワルツに団体意識を感じるのは日本人ぐらいらしい。Tchaikovskyのくるみ割り人形がBGMに使われていて、それに団体意識を感じることを馬鹿にしていた。その表現は「滑稽さ」ではないのか?と思うのであった。


(無題)

2006-11-06 | ヤプログ!のログ
確かに殆どの人が語る神は「想定」である。でも肌のすべすべになるかの崇高な神の気については必ずスルーされている。現人神も、現人ゴッドか現人ガミかではありえなさ度はまるで違う。そもそも人が神を思考していることについては一体何が悪いのか…それこそまさに思想問題であろうが。あってはならない信じてはならないという潔癖症の境界が設けられているかのよう。
旅行スポーツふつう感動を共有する場面
それをみて馬鹿にした顔をする奴がいる。卑屈者にとってはここぞという場面なのだろうが。たまに本当に狷介な人がいる。
もちろん一概に狷介というのではないのかもしれない。サルトル的には神というから神が生まれるらしい。洗脳というから洗脳が生まれる。純物理的に。死なない作家は二流。語りえぬものを語ろうとするやつは究極には自殺となる。あの鼠色の人も恣意的な感覚排除を極めた人だったのかもしれない。(ただそこで死にきれてないから迷惑千万なのだが。二分間息を止めてみろ)。物理学者のほうが言葉ではなく自分の感覚と経験を主体にするのでその点健全で''Einstein''は「そうなったら死んだも同然です」と言いきる。
自然は死んでいない。自然に合一するにはただ言葉をなくすだけでいい。動物のほうが動き回るので面白いが、本当に無私のひとは自然が相手になる。無償とはそこにある。屋久杉が精神に与える影響は怪奇だが(恣意的)やはり霊性は高かったらしい。国津カミぐらいに威力がなければ自分にはほとんど何も感じ取れないけれど。


(無題)

2006-10-30 | ヤプログ!のログ
抽象的概念のほかに抽象的感覚というものがある。それはその奇妙さに不慣れだからというのもあるが、ウニは奇妙だ。名前、形、味、あらゆる要素で奇妙だった。
神は抽象的表象でそのまま抽象的感覚をもつ。認知の一致によりそれは綜合される。神徳を得ればそれはその形で形而上にゆきわたる。禍津日に於いても。音感に於いても、冨田勲や細野晴臣の音が「単なる機械音」としか聞こえないようでは抽象は理解できてない。行き渡る倍音も、簡素きわまる代物。形而上世界は安物で構成される。


(無題)

2006-10-29 | ヤプログ!のログ
精神の哲学は三つの区分をもつ。その考察の対象は、(1)概念の中にある精神、すなわち心理学、(2)精神の実現、(3)芸術、宗教、哲学における精神の完成である

何事も一番はよいことだと思う



(無題)

2006-10-27 | ヤプログ!のログ
神社やお寺や霊気の強いところへ行き、3日か半年間ほど、そこの霊性の影響で心情やら嗜好やら支持やら思想・美意識とやらに、変化というか慣性というか性質彩われていることに気付けるのなら、上質な肉をしているといえる。変な思想を持った宗教施設に行ったことにより、そのとおり過激な思想に彩られていることに気付けるほど形而上に客観性をもった人は少ない。そのときではなくあとからでも気がつくのなら、感覚のよいほうだろう。縁か偶然かは知らないが、名前も忘れたが、あるお寺か観光地には強欲な感じの人間が集まってくるともいう。


(無題)

2006-10-26 | ヤプログ!のログ
魔境に入りやすい人は霊的に魔を求めている。力に憧れている。キリストも言っているが7つの車輪を乗っ取られる。「穢れた霊は、人から出て行くと砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからず、それで出てきた我が家に戻ろうと言う。戻ってみると家は掃除されていて整えられていた。そこで出かけていき、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなるとその人の状態は前よりも悪くなる。」(マタイによる福音書12章43節~45節)
魔性に憧れ心と体がボロボロになった(と推測される)人がいた。聖を求めつつ、それに向かうある種の度胸がないので魔の権力に憧れ魔女ぶった黒い記述法をする女の根暗なのだが、しかしそれは実物の魔女にたいしては冒涜になる。お前みたいなネスアカに虚悪されると自分が舐められる。キリスト教の誤読と同じ扱いにされる。
人の自殺、とくに陰湿なもの、同族嫌悪における女よりも、陵辱されるのは男のほうが芸術にはふさわしいらしい。射精してしまうらしい。いや違うオルガスム。なんでもない。気にしなくていい。反面単なる悦に用いる程度の魔性の宗教的神秘をわかってない奴の魔境は冒涜罪にもなるらしい。赤と黒のマーブルにしてやるわ。やがて本物の世界を見せることになるが、魅せられないで終われば実は無理してる端くれの魔道とされる。せいぜいパンピーをビビらせる程度の存在として定着する。被害妄想で当たり散らすようになったらそういう世評があちらの界隈には既に出来上がっているのかもしれないね。魅入ってしまえばいいのに。その本物という魔女も…昔すぎて消えかかっていて定かではないが、元を辿れば純粋な赤子だったはずだが。でもそれはあってはならないことなので、魔女とは虚悪を実に悪と為しうる才に長けた存在ということにもなる。
話は逸れたが聖/邪どちらにせよ、単なる体面の彩りではその界隈では二流とされる。形而上学的・芸術的理解がなければ一流にはされない。


(無題)

2006-10-25 | ヤプログ!のログ
へいわは、多くの人の我慢によって成り立っている
チキンほど吠えたがるが、その自意識過剰なプライドが単にへいわを汚しているだけであることに気付ける段階に至れば、それを恥じてやめる
恥じてやめた人が、正当化的に未だ吠えたがるやつを見ると、どう思うか
やはりへいわは多くの人の我慢によって成り立っている


(無題)

2006-10-21 | ヤプログ!のログ
多くのものごとに好感をもって生きている人は、幸せである。世の中の大半を薄汚く描いている会合に侮蔑語として形成された「ゴキブリ」も、ゴキブリのことを好ましく思っている人にたいしては、[汚さ][卑怯さ]という象徴は機能しない。象徴の意味するところは多数決では決まらない。侮蔑語というのも主観を強調させたものだから、主として悪い言葉を扱えば、相手より多く自分の世界を滅ぼすこととなり、結果、お前はゴキブリだから、ゴキブリなのだぞ!!とのめし続けることとなる。片側には届き、片側には届かなくなる。こうして洗脳論理は極まってゆく。
さてゴキブリとは… よくよく考えてみると、歩くときや寝返りを打ったとき、あるいはいきなりこっちに飛んできて口に入ってしまったときなどに、潰れる可能性がある、その潰れてしまいそうな不安が、ゴキブリの正確な速さ以上に嫌なだけで、ゴキブリ自体は愛らしいものだと思う。カブトムシやせみのほうがゴキブリよりも人気があるが、外皮の硬いカブトムシはその分動作が鈍いし、死ぬと鎧の中で蛆が湧いている可能性もある。せみの短い一生は人々に尊い教訓を与えるが、寿命の長いゴキブリに比べるとなるといまいち馬鹿で、観察には堪えない。うちのゴキブリは仏様の三方の位置を覚えていて、毎日漁りにくる。塩に研ぎ米、きれいな水と仏様の霊気、健康に恵まれたゴキブリたちは、秋になっても元気にカサコソしている。