僕はゲイ(で非性愛者)という、性的マイノリティです。
でも、世の中には、性的マイノリティ以外にも様々なマイノリティがいます。
以前、《 啓蒙 》 するということ ― ゲイという少数者の1人として という記事(このブログで真面目な内容を発信している動機みたいなものを書いた)でも、抽象的になってしまうのを覚悟の上で、《 多数者 》と《 少数者 》という言葉を使って書いています。これは性的マイノリティ以外のマイノリティのことも念頭に置いたからです。読者の方にそこが伝わったのかどうかはわからないのですが。
身体に障がいをお持ちの方,精神的な障がいをお持ちの方,発達障がいの方,色覚が他の人と違う方(一般に「色覚異常」と言われたりしますが僕はこの言葉が大嫌いです),ベジタリアンの方…etc.
左利きもマイノリティにあたるのかな。とにかくたくさんのマイノリティがあります。
それは当然のことです。人間は多様で、もって生まれてくる特性は人によって違うんだけど、そこにはバラツキがあって、《 多くの人が持っている特性 》と、《 少数の人しか持っていない特性 》があるからです。
その、《 少数の人しか持っていない特性 》 を持っている人のことを、《 少数者 》 とか 《 マイノリティ 》 とか称しているのだと考えるとわかりやすいのかな。
同性愛の場合、異性を性愛の対象にするのが《 多くの人が持っている特性 》なんだけど、僕みたいに同性を性愛の対象にする人間も生まれてくる。この同性を性愛の対象にするというのは《 少数の人しか持っていない特性 》なんだよね。だから、同性愛者はマイノリティなんだね。
僕は、男性を性愛の対象にするように生まれてきたんだけど、世の中の男性の多くは女性を性愛の対象にするように生まれてくるわけで。
なんだか、まわりくどくて小難しくてごめんなさい。
そう言う意味では、どのマイノリティの問題も根幹部分は同じなんですよね。
つまり、《 多くの人が持っている特性 》を持たず、《 少数の人しか持っていない特性 》を持っているがために、いろいろと苦しんでいる わけですから。もちろん具体的な苦しみの内容は違うのだけれど、その点では同じだから。
だから、僕は、セクシャルマイノリティという枠に囚われず、もっと広く、いろいろなマイノリティのことを考えていたいなあと、常々思っているわけです。
《 啓蒙 》 するということ ― ゲイという少数者の1人として にも、その辺の思いを含めたつもりでいます。伝わったのかどうかはわからないのですが。
昨晩(日付上は10月4日)、Twitter で、次のようなツイートが公式RTされてきました。どうやら、同性愛の当事者の方のものとのことです。
少し引用させてもらいましょう。
「セクマイ」であることはとても辛いことだけど、身体に障害があることや、学習障害があることは、同じように辛いことだということに、もっと「セクマイ」の人たちが気づいてあげられたらいいのに。「上」ばっか見てんじゃなくてさ。
「セクマイ」に対する偏見と、その他のマイノリティに対する偏見が同じ根っここら生じているということに無自覚な「セクマイ」の主張に、どれだけの価値があるだろうか。
( @tomoyukix さん )
ここに書かれていることは、僕が予てから思っていたことと一致する部分がかなりあるように思って、共感を覚えました。
これを見て、この記事を書いてみようかなあと思うに至ったわけです。
狭い枠に囚われず、広い目で見ていくように、これからも意識していきたいなあと思います。
自分自身が、ゲイであるだけでなく、《 適応障がい 》 の当事者でもあるし、身近に《 発達障がい 》の当事者も多く居られるので、余計にそういう部分を意識せざるを得ません。
ところで、社会がさまざまなマイノリティに寛容になっていけばすばらしいしそれは大切なことです。ただ、そんなに早急には変化していかないでしょう。じわじわとゆっくり変わっていくのが社会のように僕には思えます。
当事者は、今この瞬間も生きています。だから、少しでもラクに生きていくことが必要なのかなあと思うわけです。
それで、これも昨日の夜の Twitter でのことなんですが、あるフォロワさんがこういうツイをされたのです。
いつもあたしは他の人たちの言うことに全面的にうなずけない、薄っぺらな感情しかない、血も涙もない全くの欠陥人間
自分の悲しみ以外で涙を流したことがない欠陥人間です
これに対して、僕は下のようにリプライを送ったのですよね。
あ、あのですね、《 他の人たちの言うことに全面的にうなずけない 》 のなんて当たり前だと思いますよ。もし 《 全面的にうなずいている 》 人が実在するなら紹介して欲しいです。考え方とか人それぞれで多様で当たり前です。貴女は貴女の考え方でいいと思いますよ
そんなのは欠陥とは言わない。それは、****さんの生まれ持った特性なのかもしれないけど、でも欠陥なんかじゃない。ご自身の中でその特性を受容できるかどうかはわからないけど。 私の場合のゲイと同じかな。同性を好きになるのは特性であって欠陥ではないってのと同じ
で、その後、いろいろ考えて、以下のようなツイートをしました。
人は多様な特性もって生まれてくるけど、その特性が少数派に属すものだったり、誤解されやすいものだったりすると、苦しむんだよねえ。過剰に意識し過ぎちゃったり。そういう自分を自分が受け入れられなかったり。わしの場合はそれが同性愛なんだけど。誰しも程度の差こそあれ何かそういうのを持ってる
まずはね、そういう自分を許してあげるっていうのかなあ。 わしの同性愛だったら、「多数派の人は異性を好きになるみたいだけど、僕は同性を好きになる。でもそれでいいんだ。悪いことじゃないし、1つの個性なんだ」って。で、できればそういう自分を好きになって愛せるとこまで行けば、完璧かもね
僕が同性愛者なので、同性愛が例になっていますが、他のマイノリティの方はそれぞれ読み替えてもらえばいいのかなあと思います。
《 多くの人が持っている特性 》を 持っていない という部分に目を向けるのではなく、《 少数の人しか持っていない特性 》を 持っている という部分に目を向けてみるというのは効果的かもしれませんね。
まずは自分を受け入れ,許し,愛して,好きになる。これができるだけでかなりラクになると思うのです。自分の経験もふまえると。
そういうことができていると、感じる《 痛み 》が軽くなっていくような気がします。
社会の変化を望むのももちろん必要だし、そのために個々に出来ることがあればしていかないといけないけれど、自分自身の内面で、辛さや痛みを軽減できるようなことができれば、ぜひ取り入れていきたいものだなあと、改めて思いました。
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でも、世の中には、性的マイノリティ以外にも様々なマイノリティがいます。
以前、《 啓蒙 》 するということ ― ゲイという少数者の1人として という記事(このブログで真面目な内容を発信している動機みたいなものを書いた)でも、抽象的になってしまうのを覚悟の上で、《 多数者 》と《 少数者 》という言葉を使って書いています。これは性的マイノリティ以外のマイノリティのことも念頭に置いたからです。読者の方にそこが伝わったのかどうかはわからないのですが。
身体に障がいをお持ちの方,精神的な障がいをお持ちの方,発達障がいの方,色覚が他の人と違う方(一般に「色覚異常」と言われたりしますが僕はこの言葉が大嫌いです),ベジタリアンの方…etc.
左利きもマイノリティにあたるのかな。とにかくたくさんのマイノリティがあります。
それは当然のことです。人間は多様で、もって生まれてくる特性は人によって違うんだけど、そこにはバラツキがあって、《 多くの人が持っている特性 》と、《 少数の人しか持っていない特性 》があるからです。
その、《 少数の人しか持っていない特性 》 を持っている人のことを、《 少数者 》 とか 《 マイノリティ 》 とか称しているのだと考えるとわかりやすいのかな。
同性愛の場合、異性を性愛の対象にするのが《 多くの人が持っている特性 》なんだけど、僕みたいに同性を性愛の対象にする人間も生まれてくる。この同性を性愛の対象にするというのは《 少数の人しか持っていない特性 》なんだよね。だから、同性愛者はマイノリティなんだね。
僕は、男性を性愛の対象にするように生まれてきたんだけど、世の中の男性の多くは女性を性愛の対象にするように生まれてくるわけで。
なんだか、まわりくどくて小難しくてごめんなさい。
そう言う意味では、どのマイノリティの問題も根幹部分は同じなんですよね。
つまり、《 多くの人が持っている特性 》を持たず、《 少数の人しか持っていない特性 》を持っているがために、いろいろと苦しんでいる わけですから。もちろん具体的な苦しみの内容は違うのだけれど、その点では同じだから。
だから、僕は、セクシャルマイノリティという枠に囚われず、もっと広く、いろいろなマイノリティのことを考えていたいなあと、常々思っているわけです。
《 啓蒙 》 するということ ― ゲイという少数者の1人として にも、その辺の思いを含めたつもりでいます。伝わったのかどうかはわからないのですが。
昨晩(日付上は10月4日)、Twitter で、次のようなツイートが公式RTされてきました。どうやら、同性愛の当事者の方のものとのことです。
少し引用させてもらいましょう。
「セクマイ」であることはとても辛いことだけど、身体に障害があることや、学習障害があることは、同じように辛いことだということに、もっと「セクマイ」の人たちが気づいてあげられたらいいのに。「上」ばっか見てんじゃなくてさ。
「セクマイ」に対する偏見と、その他のマイノリティに対する偏見が同じ根っここら生じているということに無自覚な「セクマイ」の主張に、どれだけの価値があるだろうか。
( @tomoyukix さん )
ここに書かれていることは、僕が予てから思っていたことと一致する部分がかなりあるように思って、共感を覚えました。
これを見て、この記事を書いてみようかなあと思うに至ったわけです。
狭い枠に囚われず、広い目で見ていくように、これからも意識していきたいなあと思います。
自分自身が、ゲイであるだけでなく、《 適応障がい 》 の当事者でもあるし、身近に《 発達障がい 》の当事者も多く居られるので、余計にそういう部分を意識せざるを得ません。
ところで、社会がさまざまなマイノリティに寛容になっていけばすばらしいしそれは大切なことです。ただ、そんなに早急には変化していかないでしょう。じわじわとゆっくり変わっていくのが社会のように僕には思えます。
当事者は、今この瞬間も生きています。だから、少しでもラクに生きていくことが必要なのかなあと思うわけです。
それで、これも昨日の夜の Twitter でのことなんですが、あるフォロワさんがこういうツイをされたのです。
いつもあたしは他の人たちの言うことに全面的にうなずけない、薄っぺらな感情しかない、血も涙もない全くの欠陥人間
自分の悲しみ以外で涙を流したことがない欠陥人間です
これに対して、僕は下のようにリプライを送ったのですよね。
あ、あのですね、《 他の人たちの言うことに全面的にうなずけない 》 のなんて当たり前だと思いますよ。もし 《 全面的にうなずいている 》 人が実在するなら紹介して欲しいです。考え方とか人それぞれで多様で当たり前です。貴女は貴女の考え方でいいと思いますよ
そんなのは欠陥とは言わない。それは、****さんの生まれ持った特性なのかもしれないけど、でも欠陥なんかじゃない。ご自身の中でその特性を受容できるかどうかはわからないけど。 私の場合のゲイと同じかな。同性を好きになるのは特性であって欠陥ではないってのと同じ
で、その後、いろいろ考えて、以下のようなツイートをしました。
人は多様な特性もって生まれてくるけど、その特性が少数派に属すものだったり、誤解されやすいものだったりすると、苦しむんだよねえ。過剰に意識し過ぎちゃったり。そういう自分を自分が受け入れられなかったり。わしの場合はそれが同性愛なんだけど。誰しも程度の差こそあれ何かそういうのを持ってる
まずはね、そういう自分を許してあげるっていうのかなあ。 わしの同性愛だったら、「多数派の人は異性を好きになるみたいだけど、僕は同性を好きになる。でもそれでいいんだ。悪いことじゃないし、1つの個性なんだ」って。で、できればそういう自分を好きになって愛せるとこまで行けば、完璧かもね
僕が同性愛者なので、同性愛が例になっていますが、他のマイノリティの方はそれぞれ読み替えてもらえばいいのかなあと思います。
《 多くの人が持っている特性 》を 持っていない という部分に目を向けるのではなく、《 少数の人しか持っていない特性 》を 持っている という部分に目を向けてみるというのは効果的かもしれませんね。
まずは自分を受け入れ,許し,愛して,好きになる。これができるだけでかなりラクになると思うのです。自分の経験もふまえると。
そういうことができていると、感じる《 痛み 》が軽くなっていくような気がします。
社会の変化を望むのももちろん必要だし、そのために個々に出来ることがあればしていかないといけないけれど、自分自身の内面で、辛さや痛みを軽減できるようなことができれば、ぜひ取り入れていきたいものだなあと、改めて思いました。
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