不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

Nikkoh の 徒然日記

ゲイ(=男性同性愛者)の Nikkoh が、日々の雑感やまじめなこと、少し性的なことなどを、そこはかとなく書きつくります

《 啓蒙 》 するということ ― ゲイという少数者の1人として

2012-08-14 09:38:33 | ゲイ(同性愛)のことI (考察,一般論)
カントの『啓蒙とは何か』という論文が大好きです。
文庫本で20ページもないような、短い論文ですし、ぜひいろいろな方々に読んでもらいたい、オススメの論文だったりします。



で、内容については実際に読んでいただきたいのですが、この論文というのは、結局は 《 自分の頭で考えること 》 の大切さを説いているのです。
権威者やその他誰か自分とは別の人の言うことを、そのままなんの疑いもなく鵜呑みにしてしまうのではなく、自分の頭で考えて、ものごとを把握していくこと。まあ、その結果、誰かと同意見になると言うことは当然あるのですが、もちろんそれはまったく問題なくて。要は、自分で考えたかが問題なのですね。

ちょっと出だしの部分を引用してみると、
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことが出来ないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
となっています。

カントは、「知る勇気をもて」 というのを啓蒙の標語に掲げていますが、《 勇気 》 という言葉が出てくるということは、知ることには《 恐怖 》をともなうという側面があるのだということを示唆しているように思えます。
新しい知識や論理や視点が、既存のものを打ち砕いてしまうことは往々にしてあるので、そこに恐怖が生ずるのかなあと思うのです。
また、未知の存在(有形・無形を問わず)というのは、《 得体の知れないもの 》 で、そういうものを怖がるというのは、人間の本能的なものなのかもしれません。あるいはまた、そういう恐怖が、謂われなき嫌悪や憎悪や差別や偏見や誤解へもつながっていくのかもしれません。
だから、その《 恐怖 》を乗り越えて、《 勇気 》をもって知っていったとき、《 得体の知れないもの 》が 《 得体の知れたもの 》 になるわけで、そうなれば、恐怖が消えて、結果的に謂われなき嫌悪や憎悪や差別や偏見も消えていくかもしれない(あるいは知ってなお、嫌悪や憎悪や差別が残るかもしれませんが、それは「謂われなき」ものではありませんね)。

世の中には、多数者(マジョリティ)とよばれる人々と少数者(マイノリティ)とよばれる人々がいます。同性愛者というのは、少数者に該当しますね。他にも、さまざまな少数者がいます。発達障がいの方々はその1つの例あたるのかもしれませんね。
少数者は、多数者にとっては、まさに、《 得体の知れないもの 》 なのでしょう。異質なものなのだから当然ですね。
少数者に対して、謂われなき嫌悪や憎悪や差別や偏見や誤解は世の中にはいくらでも存在しているのですが、結局、これは上述したような理由で生まれてくるのかなあと、そんな風に思います。
だとすれば、少数者が 《 得体の知れたもの 》 になれば、問題が軽減されると言えそうです。
そのためには、少数者(当事者)の側が、実情を発信していかないといけない のです。それがある種の責務なのかもしれません。「知る勇気をもて」 といくら言ったところで、情報がなくてはどうにもなりません。教科書も参考書も何もない状態で、勉強が出来ないのと同じ事ですね。だから、正しい知識日頃感じている違和感だとか辛さだとか哀しさだとか不便だとか、そういったものを発信していくことが必要だと思うのです。それができるのは当事者だけだから。
一方、多数者(非当事者)の側は、「知る勇気をもて」 ということになるのでしょう。つまり、既存のものを打ち砕かれてしまうことを恐れず、当事者が発することを受け取って、それをもとにして、《 自分の頭で考えること 》 をする。その結果、どういう風になるのか、それはわかりません。きっといろいろな人がいるのでしょう。でもそれは自分の頭で考えた結果ですから、謂われなき嫌悪や憎悪や差別や偏見や誤解 は消滅します(“謂われある”嫌悪や憎悪や差別は残るかもしれませんけれども)。
ただ、知る勇気をもつことを強制することはできませんし、そんな権限は誰にもありません。「考えたくない」,「見たくない」という人々にはそうする自由があります。
だから、僕がしていきたいのは、あくまでも発信すること。《 自分の頭で考える 》 ための材料を社会へ流すこと。ここに尽きるのです。それをどう受け取るのかは、それは受け手が自由にして欲しいのです。
勿論、無知を払拭し、謂われなき恐怖を取り払い、謂われなき憎悪や差別や偏見や誤解や偏見を消滅させ、《 共生 》 できるようになれば、この上ない幸せなのですけども。

ただ、発信の仕方は考えなければいけません。
再びカントの言葉を引用しようと思いますが、彼は、理性には公的な利用と私的な利用があるというのです。

…理性の公的な利用だげが、人間に啓蒙をもたらすことができるのである。これにたいして理性の私的な利用はきわめて厳しく制約されることもあるが、これを制約しても啓蒙の進展がとくに妨げられるわけではない。
さて、理性の公的な利用とはどのようなものだろうか。それはある人が学者として読者であるすべての公衆の前で、みずからの理性を公使することである。そして、理性の私的な利用とは、ある人が市民としての地位または官職についている者として、理性を行使することである。…


つまり、《 理性の公的な利用 》をしなければならないということですね。
このブログであれこれ発信しているのは、これに該当するでしょう。このブログは一応、全世界に向けて発信されています。日本語で記述しているので、読んでくださる方は日本人が大半でしょうけれども。でも、誰でもが読むことの出来るものとして提供しているので、公衆の前で理性を公使しているということになると思います。少しオーバーですが、全世界に向けて、正しい知識日頃感じている違和感だとか辛さだとか哀しさだとか不便だとか を発信しているのだといえると思います。
《 理性の私的な利用 》は、僕でいえば、勤務先の塾で、社会科の授業の時間を使って、この話題を延々と話すとか。例えばそういうことでしょう。
中3の社会科には、人権の単元があって、平等権と差別の話が出てくるので、そこで少し触れるくらいは、いいのかもしれませんけれど。差別,外国人差別,性差別,障がい者差別など、教科書に挙がっている差別問題と一緒に紹介するくらいはね。
鍵付きのTwitterアカウント(鬱とゲイのことを呟くためのアカウント)でもああだこうだと発信しているけど、あれはどちらになるのでしょうね。一応、公的な利用ということにしてもいいのかな。限られたフォロワさんにしか読めない場所だから、塾の授業で話してるのと同じようにも思えて。最近、ここは葛藤があります。
でも、そもそも鬱とゲイのことを呟くと宣言しているアカウントだから、自分の呟きたいことを呟けばいいのかなとも思いつつ。何を呟こうと自由なのが Twitter だから。

たいへん力を入れて、長文に仕立て上げましたが、僕がこのブログでいろいろなことを書いて、発信していく動機みたいなものが伝われば嬉しいです。
ここまで読んで下さった方、感謝です


同性愛(ノンアダルト) ブログランキングへ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« [K中シリーズ] 図書当番 | トップ | 隠れて生きるゲイ(ホモ)の... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。