27 日露関係Ⅲ(1945.10~現在) -8-
ⅰ 1945.10~1956(日ソ国交回復)-8-
■まとめと考察 2/2の2 ~まとめ表再掲~
1 「国際関係」の描き方
●米国が日本を《西側陣営の一員》に入れたことを明確に書いていない。 → △ 帝国書院。
※戦後史の基本知識なのに…? 同時代を生きてきた大人には常識でも、中学生の多くにとっては”未知”の領域だろう。
●米国の占領政策の大転換そのものについて書いていない。 → × 学び舎。
2 「内政」の描き方・・・後日、「日米関係」の項で比べる予定。
3 「日ソ共同宣言・国交回復」の描き方
●「北方領土問題」には全社が言及しているが、おそらく「検定基準の変更」に規制されるようになったからだろう。
●「日ソ共同宣言・国交回復」と「日本の国際連合加盟」の関係の描き方 全社とも〇の範囲と思うが、いくらかちがいがある。
・自由社「ソ連の反対がなくなり」・・・前後の経過について中学生がいくらかでもわかるのはこの表現だけだろう。
・育鵬社「ソ連の賛同も得て」・・・微妙な表現だと思う。「賛同を」とは書いてないのでかろうじて〇。なぜなら、もともとはソ連の反対(拒否権)によって日本の加盟が妨害されていたのだから。しかし、「も」という表現によって、《常任理事国:米・英・仏の賛同に加えて》という”書かれていない事情”が示されている。 ※ただし中学生には「も」の意味は読み取れないだろう。
・東京書籍「ソ連の支持も受けて」・・・「共同宣言」の内容どおりの表現だが、これも微妙な表現。以下、上に同じ。
・帝国書院「この結果、」/清水書院「これにより」・・・「共同宣言」と「日本の国連加盟」の因果関係を表現している。※ただし、中学生には、「ソ連の変化」も、「因果関係の意味」も分からないだろう。
・その他の社・・・《「共同宣言」と「日本の国連加盟」の因果関係》を、直接的には表現していない。
<参考>
・「日本の国際社会復帰を完成させる国際連合加盟には、日本の加盟案に対して国際連合安全保障理事会で拒否権を発動するソ連との関係正常化が不可欠であった。」<ウィキペディア「日ソ共同宣言・国交回復」より>
・「1956年、かねて日ソ関係正常化を政策目標に掲げていた鳩山一郎首相は局面を打開すべく自ら訪ソしようと考えた。領土問題を棚上げにして戦争状態の終了と、いわゆるシベリア抑留未帰還者問題を解決する国交回復方式(アデナウアー方式)に倣うものとし、この場合、国交回復後も領土問題に関する交渉を継続する旨の約束をソ連から取り付けることが重要だった。」<ウィキペディア「北方領土問題」より>
<著者(ブログ主)の推理>
当時の日本政府が、《「北方領土問題を棚上げにして」、「ソ連との関係正常化」を実現した》のは史実。「棚上げ」とは、「日本固有の領土(4島)」の領有権を確定しないでおく、ということ。
しかし、それは日本側からみた理屈。ソ連にとっては、「平和条約」うんぬんなどの条件を取り決めたにしても、その時点ではソ連が実効支配しているのだから、実際は領有権を認めさせたのと同じこと。※実効支配を続けるつもりだし、日本国憲法の9条2項があるかぎり武力で奪い返される心配がなかったのだから。
そのことについて、日本政府もわかっていたのだと思う。しかし、国際復帰=国際連合加盟実現のために、条件付きで「北方領土4島のソ連領有」を認めるしかなかったのだろう。
※将来・・・ロシアがよほどの国難状態になったり、日本がよほどの利益を献上したりしないかぎり、4島一括の平和的返還は難しいと思われる。歯舞・色丹の2島だけでさえ、ロシアがただで戻すとは思えない。ロシアからみれば、70年ほど前に ”兵士の血と命を犠牲にして手に入れた領土” なのだし、ロシア人が棲んで生活しているのだから。2-3世代にわたる70年間は重い…
~次回から、ⅱ 1957ー1991(ソ連崩壊)~ ※「核兵器」の描き方は、日露関係Ⅲの次の独立項で調べる予定。
<全リンク⇒1へ> <27 日露関係Ⅲ(1945.10-現在) 390・391・392・393・394・395・396・397・>
《著者:松永正紀 教育評論家 /h22年度 唐津市・玄海町:小中学校校長会長》
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