↑育鵬社本より ~5世紀ごろの東アジア~
<ウィキペデア「日朝関係史」>より
「稲作は長らく朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来し、さらに日本から朝鮮に伝わったという学説が、考古学的には主流となりつつある。」
「現在の佐賀県から産出した黒曜石が朝鮮半島(プサン 東三洞 貝塚)からも出土しており、かなりの縄文・弥生人が暮らしていたと考えられる。黒曜石は土地によって成分が変わるため、成分の同じものは出土場所が同じである。日韓の間で、成分の同じ黒曜石が発見されるのは、先史時代の日韓交流を示す証拠であるとされる。」
「古墳時代には、鉄や紙の生産技術、仏教、医学などの大陸文化(ユーラシア大陸の文化)は、中国大陸や朝鮮半島を通じて、もしくは中国大陸から直接東シナ海を経て日本に伝わったとされる。
やがて日本の国力が増大すると、逆に日本の文物が朝鮮にも影響を与え始めた。前方後円墳などが、朝鮮から発見されている。互いに隣国である日本と朝鮮半島との間には伝承を含めて歴史的な関係が深く、戦争や相互の侵略の経験も多い。」
「高句麗、百済(346年 - 660年)、新羅(356年[9] - 935年)が分立していた三国時代は、7世紀頃まで続いており、倭国は百済との外交関係を7世紀頃まで続けていた。」
「この時期の中国の歴史書隋書倭国伝には「新羅百濟皆以倭為大國多珍物並敬仰之恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。)とある。」
「369年から562年にかけて任那日本府が朝鮮半島南部に設置された。この話は『日本書紀』に出ているが、任那日本府は安羅日本府とも書かれており、安羅国、つまり韓国でいう阿羅伽倻に任那日本府があったことになるので、伽耶全体が任那日本府であったとはいえない。
さらに任那日本府は大和王朝の指示に従っていない。すなわち任那日本府は日本の植民地などではなかったことが『日本書紀』の記述からでも言える。
372年に百済の王子 近仇首より倭王に七支刀が贈られる。
391年に倭国が百済とともに加羅・新羅を破り服属させた。倭国による併合以前は、女真族系の百済、新羅は同じ女真族系の高句麗の属民で朝貢していた(好太王碑文参照)。
好太王の碑文で倭国に関する部分は碑文自体が読めなくなっているため、推測による解釈がほとんどである。そのため百済と新羅が日本に朝貢したという解釈は日本だけの解釈である。(好太王碑)」
「南宋が日本の王に安東大将軍の称号を与えて朝鮮半島の国々に対する支配権を承認したという記録だが、この記録は実効性がない。
なぜなら安東大将軍の支配権が及ぶという国々は、新羅を除いて、皆当時はすでに滅んだ国々か、実在しない国々であった。実在の国は新羅だけであり、百済の名は除かれていた。
すなわち南宋の王は、友好関係にあった百済を除いて、当時、敵対関係にあった新羅の名をあげ、後は存在しない国々の名をあげて安東大将軍の支配下とした。これらは実際の話ではなく、南宋が日本に新羅を打ってほしいという希望的な要請であった可能性が高い。」
(「日朝関係史」からの引用終)
ここまでの「任那」と「日朝関係史」を読みこんでみると、≪各社が以下のことをどう書いているか≫が焦点となりそうだ。
① 日本人(倭人)の朝鮮半島南部への進出を、歴史的事実として書いているか?
② 広開土王碑に書かれていることを、歴史的事実として書いているか?
③ 南宋からの「安東大将軍の称号」をどう解釈し、それをどう表現しているか?
~さらに慎重に、次回は<ウィキペデア「任那日本府」>を読んでみる~
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