■まとめと考察
この評価は1つの評価基準ではなく、2つの基準の総合評価による。
1 《①聖徳太子がめざし、今でも生きている伝統的な日本の姿が描かれている》 + 《②対等な外交をめざした姿勢が描かれている》 ⇒ ○ 育鵬社 自由社
2 《①が描かれていない→△》 + 《②》 ⇒ △ 帝国書院 日本文教
3 《①が描かれていない→△》 + 《②が片手落ち(※本文に記述無し、または、国書の内容無し)》 ⇒ △ 教育出版 清水書院
4 《①が描かれていない→△》 + 《②がまったく描かれていない→×》 ⇒ × 東京書籍
5 《①が描かれていない→△》 + 《隋の皇帝の立場で描いている→×》 ⇒ × 学び舎
◆一七条の憲法
育鵬社・自由社以外の6社は、聖徳太子の業績をできるだけ認めたくないという姿勢が見える。
一七条の憲法の全項目を読むと、確かに「(当時の)役人の心構え」なのだが・・・後世の江戸時代の「武士道(=軍人であるとともに役人でもあった武士の心構え。佐賀鍋島藩の「葉隠」に両面描いてある)の精神が、明治維新後の《すぐれた日本人の心構え》として広がったのと同じように、
十七条の憲法の精神がその後の《すぐれた日本人の心構え・伝統》として広がっていったことはまちがいないようだ。
したがって、その精神がまだ生きている現代の歴史教科書にそのことを書くのは、《「我が国と郷土を愛する(=教育基本法第2条:教育の目的の第2項」)日本人としては当たり前のことだ》と思えるが、あなたはどう思いますか?
◆日中外交
おそらく縄文時代から、中国亜大陸(※朝鮮半島を含める)との交流があったようだ。
(※ここ数十年の各種新技術による研究結果をみると、一方的受容ではなく、その時々の強弱はあっても、縄文の頃から双方向的流れだった可能性が高いようだ。)
当然ながら《海外の大陸で生成消滅する国家群とどのような関係・外交を結ぶか》ということは、どの時代の日本(人)にとっても、きわめて重要なこと。
特に為政者・政治家にとっては国家の死活問題という認識がなされてきたはず。
(※中国亜大陸については、最近ではほんの短い間だけ、《「清国」滅亡から1964年に共産党独裁の中華人民共和国=中共が核兵器をもつまでの50年ほど》は脅威ではなかった。ただし、そのころは、日本周辺で《欧米とロシア→ソ連という侵略的国家群》が牙をむき続けていた。)
7世紀の飛鳥時代の為政者にとっては、すでに最低でも、大和朝廷成立後の300年ほど(※最長予測では縄文後期の水田稲作開始期後の6000年ほど)の、《渡来人や渡来物がもたらした中国亜大陸に関する知識》が蓄えられていたにちがいない。
したがって、飛鳥時代の《隋との対等外交を始める決断》は、決して唐突なものではない。
そして、この《中国亜大陸の覇権国家との対等外交方針》は、その後も続けられ、約1400年後の現代も生きている日本の国策だ。
このような、日本国にとってきわめて重大な外交方針が決定した歴史的事象を、義務教育の教科書で軽視することは決して許されることではない。
~次回から、明治天皇の描き方~
<全リンク⇒1へ> 天皇<55・①索引など56・②仁徳天皇陵57・58・59・③系図60・61・62 ④聖徳太子63・64・65・66・67・>
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