産経新聞より
【福島第1原発事故 5年目の真実(1)】
米、誤情報で80キロ退避勧告 米軍制服組トップ「自衛隊は何しているんだ」
東日本大震災から間もなく5年。
それに伴って発生した福島第1原発事故はいまなお日本に暗い影を落としている。
あのとき何が起きていたのか、
そして今は-。
福島第1原発をめぐる“真実”を追う。
米軍制服組トップ「自衛隊は何しているんだ」
「自衛隊は何をしているんだ」。
米軍制服組トップのマイケル・マレン統合参謀本部議長は、
東京電力福島第1原発事故から数日後、
自衛隊トップの折木良一統合幕僚長に電話でこう迫った。
自衛隊関係者によると、
日本政府が東京電力任せとも取れる対応に終始していたことに業を煮やしたためだという。
原子力空母や原子力潜水艦を世界で運用している米軍には放射線の専門家がおり、
原発を早期に冷却しなければ放射線が大量に放出されかねないと危機感を強めていた。
マレン氏の電話によってさまざまな事故対応が動き出し、
原発事故から7日目の平成23年3月17日、
日本政府は陸上自衛隊のヘリコプターによる冷却水投下に踏み切った。
× × ×
この出来事に象徴されるように、米政府は日本政府の対応に不信感を募らせていた。
米東部時間の3月16日朝、
ホワイトハウスのシチュエーションルーム(緊急対応室)。
「米国で50マイル(約80キロ)退避になる事態なら、
日本に住む米国民にも同じ勧告をしよう」
原発事故への対応を話し合う会議は、日本在住の米国民に対する避難勧告の規模をめぐって意見が割れた。
最後に決断を下したのが、オバマ大統領だった。
原発の半径80キロ圏内からの退避勧告。
オバマ氏の決断の根拠になったのが、
米原子力規制委員会(NRC)の判断だ。
米国で同じ事故が起きた場合には
「80キロ圏内からの退避」を実施すべきだと進言していた。
日本政府が当時示していたのは
「半径20キロ圏内からの退避」。
それより格段に広い範囲が対象となる
「80キロ退避勧告」は3月16日午後(日本時間17日未明)に出された。
日本政府の判断に公然と疑問を呈する勧告であり、
会議では「日米同盟に悪影響を及ぼすのでは」との懸念も出たという。
だが米政府は、在日米国人17万人の安全確保を優先した。
米国務省は「80キロ退避」の決定を受け、
日本側に
「必要があれば在日米軍の避難もありえる」との通告を突きつけた。
ホワイトハウスでは、
原発から200キロ以上離れた東京に住む9万人の米国人の避難が必要になる可能性も検討された。
ある高官は
「現実となれば東京にパニックを引き起こしかねない事態だった」と振り返る。
米国の対日不信がにじむ勧告にはしかし、
重大な欠陥があった。
× × ×
NRC内部の危機感を急速に高めたのが、
3月16日朝、事
故対応のため日本に送り込んでいた支援チームから寄せられた
「4号機の爆発で使用済み核燃料のプールが崩壊した」
との情報だった。
プールの水がためられなくなれば使用済み核燃料が冷却できなくなり、
大量の放射線が漏れ出すリスクが高まる。
これは後に誤情報であることが明らかになったが、
情報が入ったのはホワイトハウスで会議が開かれる数時間前。
NRCの動揺がそのまま会議の流れを決める形となった。
では、
なぜ退避の規模が半径80キロに決まったのか。
決め手となったのは米エネルギー省の航空機を使った観測で、
原発の北西側40キロの地点で高い放射線量が測定されていたという事実だ。
当時、来日してNRCの支援チームを率いたチャールズ・カストー氏は産経新聞に驚くべき証言をした。
「緊急事態に対応しなくてはならなかった。
80キロ退避は高い放射線が見つかった地点の40キロという数字を、
念のために2倍してはじき出したのだ」
◇
非科学的、冷静さ欠く決定 米規制委員長「事故当日に信頼崩れていた」
「東京電力福島第1原発4号機の使用済み核燃料プールが崩壊」との情報は、
2号機の原子炉の状況を最重要視していた米原子力規制委員会(NRC)にとって想定外の事態だった。
「水が入れられないなら、
何でもいいから入れろ。
泥でも砂でもプールに入るものなら何でもだ」。
NRC本部から日本の支援チームにげきが飛んだ。
だが、日本政府は4号機の「プール崩壊」情報をこの後に否定。
枝野幸男官房長官は米国による「80キロ退避勧告」の発出から約10時間後の日本時間平成23年3月17日正午ごろ、
「情報伝達に時間的な差があった」と述べ、米国に誤った情報が伝わっていたことを認めた。
4号機のプールはその後、
徐々に安定的な冷却状態へと向かう。
NRCのグレゴリー・ヤツコ委員長は勧告を出した翌日の17日の記者会見で、
「いくつもの相反する情報があるが、
プール内の使用済み燃料の冷却が難題であることは明らかだ」と弁明し、
情報の軌道修正に追われた。
米国内の規制では原発周辺の避難計画は16キロ圏内までしか想定していない。
にもかかわらず、
「80キロ退避」を打ち出したことには米国内でも強い批判が出た。
原発事故から2カ月後、
マサチューセッツ工科大学の専門家チームは
「20マイル(32キロ)を超えるような退避勧告は出すべきでない」
とNRCの決定を批判する報告書を発表した。
行き過ぎた範囲の住民の退避に力を注げば、
災害で重大なダメージを受けた住民や地域への対応能力を削(そ)ぐ可能性があるからだ。
× × ×
状況把握と対策に頭を悩ますNRCに、追い打ちをかけたのが米軍だった。
「ひとつの原子炉を失えば、
すべての原子炉を失うことも大いにあり得る。
われわれは事態を過小評価しているのではないか」
ある海軍関係者は3月16日朝の電話会議で、
それまで日本の20キロ退避勧告に異を唱えていなかったNRCに決断を迫った。
福島から270キロ離れた横須賀の米軍基地や福島沖160キロの艦船で高い放射線を検知しており、
安全確保への強い危機感があった。
日本政府は避難指示区域を3キロ、10キロ、20キロと段階的に拡大し、
状況は悪化の一途をたどるかにみえた。
駐日米国大使だったジョン・ルース氏は5年前の心境について、
「日本政府の判断を疑ったわけではない。
ただ、米国として日本と異なる勧告を出すことは大きな問題ではなかった」
と明かす。
これに対し、
米国務省で対日支援の調整役を務めたケビン・メア氏は、
米軍撤退の可能性まで口にした米政府内の反応は行き過ぎだったと振り返る。
「米国には日本政府が正確な情報を伝えているのかといういらだちがあった」
× × ×
「80キロ退避」決定の当事者だったヤツコ氏は今回の取材で、
「米国の勧告が日本政府への信頼を損ねたといわれるが、
信頼は原発事故が起きたその日のうちに崩れていた」として、
日本政府を厳しく批判した。
また、英国やドイツが原発から200キロ以上離れた東京からの退避を呼びかけていたことと比べれば、
「米国の決定は比較的穏当なものだった」と強調した。
しかし、原子力に深い知見を有する米国の影響力は大きい。
原発から40キロの地点で高い放射線量が測定され、
それを「念のために2倍」したのが80キロ退避の最大の根拠だったのなら、
あまりに非科学的で冷静さを欠いた判断だったというほかない。
原発事故から約1年間にわたって何度も福島第1原発に足を運び、
吉田昌郎所長らとともに原発事故の現場で対応に当たったNRCのカストー氏が言う。
「当時の米国としては妥当な判断だったが、誤情報に基づいていたことも確かだ。
後から考えてみれば、80キロ退避勧告を出すことはなかった」 (肩書は当時)
【福島第1原発事故 5年目の真実(1)】
米、誤情報で80キロ退避勧告 米軍制服組トップ「自衛隊は何しているんだ」
東日本大震災から間もなく5年。
それに伴って発生した福島第1原発事故はいまなお日本に暗い影を落としている。
あのとき何が起きていたのか、
そして今は-。
福島第1原発をめぐる“真実”を追う。
米軍制服組トップ「自衛隊は何しているんだ」
「自衛隊は何をしているんだ」。
米軍制服組トップのマイケル・マレン統合参謀本部議長は、
東京電力福島第1原発事故から数日後、
自衛隊トップの折木良一統合幕僚長に電話でこう迫った。
自衛隊関係者によると、
日本政府が東京電力任せとも取れる対応に終始していたことに業を煮やしたためだという。
原子力空母や原子力潜水艦を世界で運用している米軍には放射線の専門家がおり、
原発を早期に冷却しなければ放射線が大量に放出されかねないと危機感を強めていた。
マレン氏の電話によってさまざまな事故対応が動き出し、
原発事故から7日目の平成23年3月17日、
日本政府は陸上自衛隊のヘリコプターによる冷却水投下に踏み切った。
× × ×
この出来事に象徴されるように、米政府は日本政府の対応に不信感を募らせていた。
米東部時間の3月16日朝、
ホワイトハウスのシチュエーションルーム(緊急対応室)。
「米国で50マイル(約80キロ)退避になる事態なら、
日本に住む米国民にも同じ勧告をしよう」
原発事故への対応を話し合う会議は、日本在住の米国民に対する避難勧告の規模をめぐって意見が割れた。
最後に決断を下したのが、オバマ大統領だった。
原発の半径80キロ圏内からの退避勧告。
オバマ氏の決断の根拠になったのが、
米原子力規制委員会(NRC)の判断だ。
米国で同じ事故が起きた場合には
「80キロ圏内からの退避」を実施すべきだと進言していた。
日本政府が当時示していたのは
「半径20キロ圏内からの退避」。
それより格段に広い範囲が対象となる
「80キロ退避勧告」は3月16日午後(日本時間17日未明)に出された。
日本政府の判断に公然と疑問を呈する勧告であり、
会議では「日米同盟に悪影響を及ぼすのでは」との懸念も出たという。
だが米政府は、在日米国人17万人の安全確保を優先した。
米国務省は「80キロ退避」の決定を受け、
日本側に
「必要があれば在日米軍の避難もありえる」との通告を突きつけた。
ホワイトハウスでは、
原発から200キロ以上離れた東京に住む9万人の米国人の避難が必要になる可能性も検討された。
ある高官は
「現実となれば東京にパニックを引き起こしかねない事態だった」と振り返る。
米国の対日不信がにじむ勧告にはしかし、
重大な欠陥があった。
× × ×
NRC内部の危機感を急速に高めたのが、
3月16日朝、事
故対応のため日本に送り込んでいた支援チームから寄せられた
「4号機の爆発で使用済み核燃料のプールが崩壊した」
との情報だった。
プールの水がためられなくなれば使用済み核燃料が冷却できなくなり、
大量の放射線が漏れ出すリスクが高まる。
これは後に誤情報であることが明らかになったが、
情報が入ったのはホワイトハウスで会議が開かれる数時間前。
NRCの動揺がそのまま会議の流れを決める形となった。
では、
なぜ退避の規模が半径80キロに決まったのか。
決め手となったのは米エネルギー省の航空機を使った観測で、
原発の北西側40キロの地点で高い放射線量が測定されていたという事実だ。
当時、来日してNRCの支援チームを率いたチャールズ・カストー氏は産経新聞に驚くべき証言をした。
「緊急事態に対応しなくてはならなかった。
80キロ退避は高い放射線が見つかった地点の40キロという数字を、
念のために2倍してはじき出したのだ」
◇
非科学的、冷静さ欠く決定 米規制委員長「事故当日に信頼崩れていた」
「東京電力福島第1原発4号機の使用済み核燃料プールが崩壊」との情報は、
2号機の原子炉の状況を最重要視していた米原子力規制委員会(NRC)にとって想定外の事態だった。
「水が入れられないなら、
何でもいいから入れろ。
泥でも砂でもプールに入るものなら何でもだ」。
NRC本部から日本の支援チームにげきが飛んだ。
だが、日本政府は4号機の「プール崩壊」情報をこの後に否定。
枝野幸男官房長官は米国による「80キロ退避勧告」の発出から約10時間後の日本時間平成23年3月17日正午ごろ、
「情報伝達に時間的な差があった」と述べ、米国に誤った情報が伝わっていたことを認めた。
4号機のプールはその後、
徐々に安定的な冷却状態へと向かう。
NRCのグレゴリー・ヤツコ委員長は勧告を出した翌日の17日の記者会見で、
「いくつもの相反する情報があるが、
プール内の使用済み燃料の冷却が難題であることは明らかだ」と弁明し、
情報の軌道修正に追われた。
米国内の規制では原発周辺の避難計画は16キロ圏内までしか想定していない。
にもかかわらず、
「80キロ退避」を打ち出したことには米国内でも強い批判が出た。
原発事故から2カ月後、
マサチューセッツ工科大学の専門家チームは
「20マイル(32キロ)を超えるような退避勧告は出すべきでない」
とNRCの決定を批判する報告書を発表した。
行き過ぎた範囲の住民の退避に力を注げば、
災害で重大なダメージを受けた住民や地域への対応能力を削(そ)ぐ可能性があるからだ。
× × ×
状況把握と対策に頭を悩ますNRCに、追い打ちをかけたのが米軍だった。
「ひとつの原子炉を失えば、
すべての原子炉を失うことも大いにあり得る。
われわれは事態を過小評価しているのではないか」
ある海軍関係者は3月16日朝の電話会議で、
それまで日本の20キロ退避勧告に異を唱えていなかったNRCに決断を迫った。
福島から270キロ離れた横須賀の米軍基地や福島沖160キロの艦船で高い放射線を検知しており、
安全確保への強い危機感があった。
日本政府は避難指示区域を3キロ、10キロ、20キロと段階的に拡大し、
状況は悪化の一途をたどるかにみえた。
駐日米国大使だったジョン・ルース氏は5年前の心境について、
「日本政府の判断を疑ったわけではない。
ただ、米国として日本と異なる勧告を出すことは大きな問題ではなかった」
と明かす。
これに対し、
米国務省で対日支援の調整役を務めたケビン・メア氏は、
米軍撤退の可能性まで口にした米政府内の反応は行き過ぎだったと振り返る。
「米国には日本政府が正確な情報を伝えているのかといういらだちがあった」
× × ×
「80キロ退避」決定の当事者だったヤツコ氏は今回の取材で、
「米国の勧告が日本政府への信頼を損ねたといわれるが、
信頼は原発事故が起きたその日のうちに崩れていた」として、
日本政府を厳しく批判した。
また、英国やドイツが原発から200キロ以上離れた東京からの退避を呼びかけていたことと比べれば、
「米国の決定は比較的穏当なものだった」と強調した。
しかし、原子力に深い知見を有する米国の影響力は大きい。
原発から40キロの地点で高い放射線量が測定され、
それを「念のために2倍」したのが80キロ退避の最大の根拠だったのなら、
あまりに非科学的で冷静さを欠いた判断だったというほかない。
原発事故から約1年間にわたって何度も福島第1原発に足を運び、
吉田昌郎所長らとともに原発事故の現場で対応に当たったNRCのカストー氏が言う。
「当時の米国としては妥当な判断だったが、誤情報に基づいていたことも確かだ。
後から考えてみれば、80キロ退避勧告を出すことはなかった」 (肩書は当時)
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