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※ 練金術(ねりきんじゅつ)とは『週刊金曜日』練馬読者会的やり方という意味です。

国家がないと生きていけないと誰が言うのか。

2013年04月28日 | 練馬の里から
【非武装・不戦エッセイ】 その2
    「コク」がつく言葉のこと      井上澄夫
 「コク」(国)がつく言葉にはろくなものがない。
 まず、国旗、国歌── 国歌の斉唱に加わらないと教師がクビになる、口パクも監視されるなんぞ正気の沙汰ではないが、そういう抑圧を司法が認めるのは三権分立に基づく立憲政治の根太が腐っているのだ。
 「日本の日の丸、なだて赤い。帰らぬ息子の血で赤い」とある母が詠んだが、その悲憤こそ忘れられてはなるまい。
 そもそも旗を掲げて国家への忠誠の証(あかし)とするのは、その国家の上げ底性を自ら告白するようなものだ。もっとも上げ底でない国家があるとは思えないが。

 国土── このエッセイの初回は「『固有の領土』はないということ」だったが、左右を問わず、国土なるものには異常な執着があるらしい。子どもの遊びに椅子取りゲームがあるが、あれに似たことを国家同士がやっているのはなんともコッケイである。自分の目で見たことも触ったこともない絶海の孤島の領有に血が騒ぐという心理は実に不可思議である。

 国境── 四囲が海だから、アメリカ・カナダ間のように地面に敷かれた国境線はこの国にはない。かつて「南樺太」(南サハリン)が日本領だったときは陸上の国境線(北緯50度線)はあったが。
 70年代にタイとビルマ(現ミャンマー)の国境の町を訪れたら、それはさして川幅が広くない川だった。立派な橋がかかっていて両側から人びとが歩いて渡っているから、入国管理官氏に「ちょっと向こう側に渡りたいが」と言ったら「ダメ」という。「だけどみんな行ったり来たりしてるじゃないか」と言ったら、入国管理官氏はやおら橋の方向に向かって大声で叫んだものだ。
 「ああ、こりゃこりゃ、勝手に渡ってはいかんぞ、いかん! いかん!」
 そしてこちらにウインクして、にやっと笑った。
 言うまでなく、野菜を天秤棒でかついている人や鶏を何羽も束ねてぶら下げて行き交う男女の群には何の変化も起きなかった。

 国民── ある辞書によれば「その国の国籍を持つ人民」である。したがって在日外国人は国民ではないことになり、まちがいなく古くからの住民であっても国民でない人には日本国憲法が明記する基本的人権は保障されないことになる。むろん国民であっても人権が保障されるとは限らないことは、次々に冤罪が明らかにされ、いまだに死刑制度が維持されている現実が実証している。
 問題は、国民であるのは、それ自体、排外的存在であるということだ。それは意図しようとしまいと在日外国人との関係において否応なくそうなのだ。この地球上に住む誰もがまぎれもなく何十億かの人類の一員であるにもかかわらず、そういう排外的存在としての国民であり続けることに安住していいのだろうか。

 国威── これまたある辞書によれば「その国の持つ対外的な威力」である。日本国憲法の前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、それなら必要不可欠なのは本当に信用されることであり、〈相手を恐れさせる強い力〉たる国威など持つのは信用を損なうことにほかならない。世界の多極化の中で大国が国威を失いつつあることは平和の構築にとってとてもいいことだ。「ニッポンの国際的地位の低下」を憂うる政治家よ、つまらぬことで気をもむな。

 国益── これは「コク」のつく言葉群の中でも断トツの妖怪だ。国益の実体は「時の行政権力(政権)にとっての利益」にすぎないのだが、政治家も官僚も正直にそう言わないで、いかにも〈国民みんなの利益〉のように思わせたがる。
 つまり、愛国心もそうだが、国益も悪党の隠れ家である。明らかに理不尽な主張でも、声高に国益と言いさえすれば道理が引っ込むていの便利な「魔法の言葉」である。
 よって、国益を掲げられたらまず民衆の利益を害することを疑うべきである。国益は最も警戒すべき政治用語の典型である。

 「コク」は国家のこと。「コク」がつく言葉を信じてはならない。「国敗れて山河在り」(杜甫)と詠まれているが、山河があれば民(たみ)は生きられる。「コク」、国家がないと生きていけないと誰が言うのか。国を信じれば民は滅ぶ。
 

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