優越感も劣等感も排し、静かに暮らす小国でいいではないか
井上澄夫
「日本は世界の一等国であるかないか」という問題意識は、日清戦争前後に浮上したものではないだろうか。幕末の日本は「列強に伍する(同等の位置に身を置く)」どころではなく、迫り来る列強の侵略から身を守ることに汲々とし、ぎりぎりの段階で攘夷を開国に転換してなんとか危機を乗り切ったものの、その後長期にわたって「不平等条約の改正」で頭を悩ますことになった。
日清戦争で眠れる獅子・清国に勝ったことが「列強に伍する」という国民意識を涵養する上で決定的な契機になったことはほぼ異論のないところだろうが、そういう意識が芽生えたことについては、何より天皇制国家の戦意高揚政策と新聞などの好戦的な戦争報道に責任がある。しかし民衆のレベルで言えば、自由民権運動の変質も大きな責任を負っている。自由民権運動は、国会開設を要求して高揚したが、1881(明治14)年10月、国会開設の詔勅を勝ち取ると、運動目標を見失い後退する。
1889(明治22)年2月11日の大日本帝国憲法発布と1890(明治23)年11月29日の第1回帝国議会開会は、自由民権運動を政党政治に収斂(しゅうれん)させる(縮める)ことになり、自由民権運動は私擬憲法案の輩出時にみられたような民衆の下からのエネルギーに依拠して運動を進める姿勢を失わせていった。そうした趨勢の下で、自由民権運動はその思想が初めから根底に宿していた国権主義に出口を求めるようになった。軍備拡張のために膨張を続ける政府財政のムダを削減し、重税に苦しむ民衆の負担を軽減して民衆生活の向上をめざす「民力休養」論は影を潜(ひそ)め、民権を確立するためには何より「国権の伸張」が不可欠と声高に主張し始めたのである。それは政府の富国強兵政策に同調し、朝鮮を足がかりにする大陸侵略を自ら進んで求めることだった。第1回帝国議会開会の4年後(1894〔明治27〕年)に始まった日清戦争は朝鮮の支配権をめぐる戦争だったのである。
しかし「世界の一等国」になりたいという幼稚な心性は、15年戦争の無惨な敗北によって潰(つい)えたのではない。それどころか、その心性はアジア・太平洋戦争後、たちまち復活した。骨身にしみ込んだ帝国主義的根性は敗戦直後数年はしばし息を潜めたものの、消滅するどころか、かえって民衆の心に深く沈潜して復活の機会を狙っていたのだ。
しかし、なぜたちまち復活したのか。一口にいえば、植民地支配と侵略戦争を一度も真摯に反省することなく、最高の戦争責任者、天皇ヒロヒトを民衆自身が裁かず、戦後補償の責任に目を向けることさえなかったからである。再び「世界の一等国」や「アジアの盟主」をめざすのではなく、過去の反省を踏まえ二度と近隣諸国に害を及ぼさないことを国是とする思想は、日本国憲法の文言にこそ顕現したとはいえ、民衆という土壌に深く根を下ろし揺るがぬ地下茎として広がることはなかった。
それにまつわり鮮明な記憶がある。私の子ども時代には日韓間に国交がなかった(日韓基本条約の締結は1965年)。朝鮮戦争(1950・6・25~53・7・27)が続いていた1952年1月18日、韓国の李承晩(イスンマン)大統領が「海洋主権宣言」を発して朝鮮半島周辺の公海上に「李ライン」を設定し、それを侵犯したとして日本漁船を次々に拿捕したときの大人たちの反応を私は覚えている。むき出しの怒りが噴出し共有されていた。「チョーセンジンが、こっちが負けたからと言ってバカにしやがって」という感情である。
また朝鮮戦争当時、朝鮮民主主義人民共和国は「北鮮」と呼ばれたが、その語を発するときの大人たちの敵意と侮蔑を交えた表情を私は今もありありと思い出すことができる。「リショウバン」と「北鮮」への憎悪は、敗戦国・日本の民衆が鬱屈した感情を外に向ける戦後初めての経験だったのではあるまいか。
朝鮮戦争が勃発したとき、日本の民衆はほんの5年前に自らが無条件降伏の憂き目にあいながら、朝鮮戦争を戦争とは呼ばず「朝鮮動乱」と呼んで、対岸の火事程度にしか思わなかった。戦火に苦しむ朝鮮民衆への共感は生まれなかったのだ。いや、それどころではない。私の叔父は九州の片田舎で小さな鉄工所を営み、なべ釜を作っていたが、その鉄工所は朝鮮特需による米軍需品の受注によってあっという間に大きな工場に成長した。成金(なりきん)としての叔父の羽振りの良さはまったくあきれるほどで、私の子ども心に強烈に刻印されたが、彼は「カミカゼ(神風)が吹いた」と吹聴して回り、その言い草はさして進歩的ではなかった私の父でさえ憤慨させたものである。
さて当今、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(1979年、エズラ・ヴォーゲル〔米国の社会学者〕)とまでヨイショされた「この国」が、GDP(国内総生産)比較で中国に抜かれつつあることが悔しくてたまらない人びとが大勢いるようだ。政治家の発言にもいわゆる識者のコメントにもその悔しさがにじんでいる。
米国に次いで世界第2の「経済大国」であるニッポンが、〈こともあろうに〉中国に抜かれ「第3位」に転落することがひたすら口惜しいのだろう。このままでは、国際政治におけるニッポンの影響力は衰退するばかり、軍事的にも中国の後塵(こうじん)を拝することになると焦り、苛立っているのである。筆者の記憶に間違いがなければ、首相としてニッポンの影響力の低下を憂慮する発言を最初に残したのは福田康夫である。彼は2007年12月9日、首相と有識者による「外交政策勉強会」の初会合で「国際社会で日本の比重が低下している中、どう努力していけばいいか意見をうかがいたい」とのべた(07年12月10日付『毎日』)。
戦後日本のめざましい経済復興が奇跡と評され、一時期、多くの国から羨望のまなざしを向けられたことは事実である。しかしそれによって世界政治において日本が強い影響力をもち政治的イニシアティブを発揮することができたなどというもう想もまた、かつてと変わらぬ「一等国」志向が生み出した思い上がり、夜郎自大の自己満足に他ならない。国連の常任理事国にならんがため、多数の「小国」に援助を持ちかけて支持獲得に努める日本政府の醜態には道義的優越性などカケラもない。
それにしても、最近の日中間の政治的緊張が極度に排外的な日本ナショナリズムを急速かつ激烈に煽り立てている背景には、上記の焦りや屈辱感が大きく作用している。「尖閣諸島(中国名・釣魚島)」がニッポン固有の領土であるという主張はすでに挙国一致のもので、今やそれを認めない者は「非国民」である。しかしこの異様な〈国民的連帯〉の盛り上がりは、ニッポンが「世界第2の経済大国」の地位からずり落ちつつあるという悔しさをバネとしている。不毛なだけの負の高揚の先にいったい何を展望しようというのだろうか。
こういう支配的風潮はすでにのべたように、戦前の植民地支配と侵略戦争への無反省あるいは開き直りを土壌としているのだが、私にはそれだけではなく、「あれだけ好き放題やったのだから、いずれやり返される」という抜きがたい恐怖心が根底に張りついているように感じる。それは帝国主義的心性の抜きがたい一面で、「尖閣諸島に自衛隊を常駐させよ」とか海上自衛隊の艦隊を「尖閣諸島周辺に派遣せよ」などという、まるで戦前の軍部のようなカラ元気の主張にはそういう恐怖心が潜んでいるのではあるまいか。前科ある身の臆病である。
話頭を転ずる。日本はもともと「ニホン」と音読する。三省堂の『新明解国語辞典』は「ニホン」を「〈ひのもと〉を音読した語で、わが国の称」としている。ちなみに同辞典によれば「ニッポン」は「〈にほん〉の漢語的表現」である。日本国憲法は本来「にほんこくけんぽう」と読む。
長谷川如是閑はニホンがニッポンと言い慣わされるようになったことについて、こうのべている。
〈日本は、明治の中頃までは「にほん」で、「にっぽん」とはいわなかった。私自身のいた新聞の『日本』も、「にほん」で「にっぽん」ではない。日本を「にっぽん」というようになったのは、明治の半ば頃に、軍人が「にほん」では発音がやさしすぎて、勇ましく聞えないというので「にっぽん」と呼んで、それを官憲や教育者に強制して、爾後「にっぽん」と呼ぶことになった。〉(『日本さまざま』、62年大法輪閣刊)
如是閑翁の記憶は正確だ。およそ明治の中頃、1894〔明治27〕年から95〔明治28〕年にかけて日清戦争が起きている。中国人に対して、豚にちなむ蔑称の「チャン」呼ばわりを使用するのも日清戦争の時期からだが(海野福寿『日清・日露戦争』、集英社刊)、戦勝がもたらした尊大な思い上がりが中国人に対する差別意識を産み蔓延させていったのである。
スポーツの国際試合で子どもが赤い丸を描いた白地の扇子を頭に縛りつけて「ニッポン、ニッポン」と叫んでいる様子をテレビで見かけたが、あれは国威発揚意識の原初形態だろう。あの子どもたちが「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」るとはとうてい思えないが、「教育勅語」は少々形を変えて生き残っている。
先日テレビで米国内の世論調査では米国人は圧倒的多数が「米国は世界一の国である」と考えているというニュースを聞いたが、「アメリカ帝国」の落日ぶりはすでに世界周知のことであり、現在の米国人はおのれの姿を映す鏡を持たないのである。自らの醜い姿を見つめ、自省する機会をもたないなら、凋落はとめどなく加速する。「亡国に至るを知らざれば是(これ)すなわち亡国」(田中正造)である。その「世界一」に尾を振るポチ=ニッポンが多極化する世界で羅針盤を失ってさまよい始めていることも、すでにまぎれもない事実である。ロシアのメドベージェフ大統領が「北方領土」を訪問したことが、たちまち米軍は果たして「北方領土」を守ってくれるのかという発想を生むのも、この国が自力航海不能であることを自ら実証している。本稿執筆中、米国務省は「北方領土」は日本の領土と認める一方で、日米安保条約は「適用されない」と表明した。これでまた日本政府は笑うべき周章狼狽の猿芝居を演じるのだろうか。
中国の軍拡は「大漢帝国」(漢は漢民族の意)の愚挙としてただちに中止されるべきである。チベットやウイグルなど国内少数民族の自決権要求を軍隊を動員して無慈悲に押しつぶしたり、独裁に反対して民主化を求める人びとを強権をふるって弾圧する所業に世界の非難が集中するのは当然のことである。
だが、「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがある。日本もまた、おのれの姿をしかと鏡に映してみる必要があるのではないだろうか。
この国はアイヌの人びとをどう遇してきたか。在日の人びとに人間としての権利を保障してきたか。非武装・不戦を明記した憲法の前文と9条を弊履(へいり)のごとく踏みにじり、再軍備に踏み切って軍拡に狂奔し、世界有数の軍隊を常備するに至ったのはどこの国か。韓国の軍事独裁政権を支持し、日米韓軍事同盟による「チームスピリット」演習などの北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国のこと)敵視・恫喝政策が同国の「先軍政治」国家化を促進してきたことも省みられるべきことではないのか。日本はいまだに北朝鮮と国交を持たない。日本の支配層は朝鮮半島の統一をすぐ隣に強力な国家が誕生することととらえ、心底からおびえているのだ。ここにもまた「かつてあれだけのことをやったのだから、向こうが強くなれば必ずやり返される」という恐怖心がかいま見える。
日本は朝鮮戦争とベトナム戦争に加担し、湾岸戦争では米国に莫大な戦費を提供した。アフガニスタン侵略戦争を世界に先駆けて全面的に支持したばかりか、アフガン空爆を続ける米海軍に日本海軍(海上自衛隊)がインド洋で燃料を供給し、イラク侵略戦争では日本陸軍(陸上自衛隊)がイラク国内に踏み込んで基地を設け、日本空軍(航空自衛隊)が武装兵士と軍需物資の輸送で米軍の作戦を直に支援した。「海賊への対処」を口実として日本海軍の艦艇がアデン湾とインド洋に居座り続け、ジブチに基地を設けた。考えてもみよ。PKO(国連平和維持活動)に始まる海外派兵は拡大の一途をたどってきたではないか。
沖縄は「本土決戦」の「捨て石」として塗炭の苦しみを味わうことを強要されたばかりか、天皇ヒロヒトの命乞いの代償として「本土」から切り離されて極東最大の米軍基地にされた。72年の「復帰」後も米国の軍事植民地であることは少しも変わらず、〈米軍基地を沖縄の人びとから守るため〉再び日本軍が送り込まれた。あまつさえ日本陸軍は最近の日中関係の緊張を追い風に「島嶼(とうしょ)防衛」と称して宮古島以西の先島諸島に部隊を展開しようとしている。その企みが実現すれば沖縄全県が中国をにらむ日米両軍の最前線の軍事要塞と化す。
15年戦争の果てに沖縄戦とヒロシマ・ナガサキを経験しながら、「軍事で事を決する」愚をいささかも悟らず、戦前と同じ発想で世界に臨むこの国のありようこそ、しかと俎上(そじょう)に乗せられるべきことではないのか。
いや、それだけではない。中国からのレアアースの輸入途絶で日本政府がおろおろしているが、この国は第三世界からの資源収奪に無関係だっただろうか。独裁政権が支配する貧しい国ぐにの資源を買い叩いて奪い取り、その国の自然を荒廃させ人びとをいよいよ貧しくしてきたのではなかったか。「互恵的な経済関係」どころではない。70年代に東南アジア諸国への日本の経済侵略批判が高まったことが改めて顧みられ、反省されるべきではないか。日本国内で操業できなくなった公害垂れ流し企業が韓国や東南アジアに進出し、同じことを繰り返した公害輸出問題はどうなるのだ。買春(かいしゅん)観光は過去のことか。はたまた日本企業が韓国や中国に持ち込んだ工場でその国の労働者たちの生存を賭けた闘いが起きているのは無視していいことなのか。中国が「死刑大国」であることはまぎれもない事実だが、日本は野蛮極まりない「国家による殺人」と無縁の死刑廃止国か。中国の方が死刑執行数が多いという理屈で開き直れるのか。3K(きつい・きたない・きけん)労働の手が足りないときは海外からどんどん労働者を入れ、いざ不況となると「不法滞在者」として容赦なく強制退去させたり、不法な長期拘留で虐待する、あるいは難民は極力受け入れない、いったん受け入れても第三国へのトランジット待遇という人権蹂躙ぶりをどう世界に釈明できるのか……。
すでにのべたように、日本の民衆が日本をニッポンと呼び始めたのは、日本が後進帝国主義として背伸びし始めた時期に照応する。その「ダイ・ニッポン・テイコク」はひたすら強欲の限りを尽くし、自ら地獄に猪突猛進して無惨に崩壊したが、「ニッポン・コク」もまた性懲りもなく餓鬼道に突き進んでいる。
あれこれの国際比較で日本がたとえ世界最下位といわれようが、近隣諸国・諸地域に迷惑をかけず、こつこつ働けば何とか食え、国籍を問わず社会的弱者への配慮が十分でありさえすれば日本(ニホン)のあり方としてはそれでいいと私は思う。国家間競争にかかわらず、大国志向や覇権主義を放棄すればそれは可能である。国威などという有害無益なもののための「国家ごっこ」はもうやめたい。ムリに背伸びして足元がふらつくような真似はまったく無用である。
小国でいいではないか。「大きいことはいいこと」であると私は思わない。ユーラシア大陸の東の端(はし)の海に囲まれた小国で静かに暮らす、それでいい、それで十分と私は思う。