練金術勝手連

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※ 練金術(ねりきんじゅつ)とは『週刊金曜日』練馬読者会的やり方という意味です。

   ★★ 包摂と排除 ★ みんな立派なプレカリアート系 ★★

2008年07月23日 | みんなの日記
 昨年来、心ある人々の関心を集めた赤城智弘さんの「希望は戦争」論と、つい先ごろ起きた“アキバ無差別殺傷事件”実行犯・加藤智大の心象風景に、ある種共通する胸騒ぎを感じます。
 イラクやアフガンを見れば分かるとおり、“戦争”は無差別に市民を殺傷します。一方、アキバ事件以後も無差別殺傷事件はあとを引いています。これら事件の実行犯達の行動は“無差別巻き込み自殺”と見ることも可能です。(いずれにせよ巻き込まれた方にとっては、あまりに理不尽!)

 少し立ち止まって考えてみる必要がありそうです。

 ここへきて、誰の目にも露わとなったのは“現代日本の貧困と格差”です。規制緩和という“小泉ネオリベ(新自由主義)改革”の結果が出た、と声を大にしていうべきなのでしょう。今やネオリベ改革を押し進めた自民・公明の与党や国(厚労省)までも、タクシー業界の参入規制強化から派遣業態の見直しまで口にせざるを得なくなっているのですから。(TAXIについては参入規制では解決しない。ドライバーの働かせ方の問題!)

 さて、個人の尊厳や自由を価値とする戦後民主主義教育の下で育ったはずはずの私たち。気がつけば、その私たちが現実に形づくり、組み込まれ、支えているのが、じつは“日本型グローバル市場経済”なのです。単純にものやサービスの売り買いを“市場経済”と考えると間違います(金融支配)。企業を売り買いし(M&Aなど)、カネ儲けとそのリスクを売り買いし(証券化)、人間労働を買いたたく(雇用破壊)…。
 では、日本型グローバル市場経済とはなにか。それはいま、老人や若者に対して露骨に社会的排除の論理を適用しようとしています。人間を対象とした《使い捨ての自由》と《切り捨ての制度化》を現実化してきました。規制緩和というのは、経済原則に何とか組み込もうと努力してきた「人間の論理」を捨てて、野獣の論理で行こうというルール変更だったわけです。
 
 振り返れば、私たち《ふつうの市民や労働者(組合)》は生きてゆくあらゆる場面で、インセンティブ(利益誘導)型行動パターン、メディアによる方向付け(洗脳?)、そして強力な同調圧力に絶え間なく晒され続けていることが分かります。その結果“市場原理順応型”の生き方・イデオロギーに取り込まれてしまっていることに気づくべきでしょう。ネオリベ的生活社会へ包摂されていることに…、そろそろ気づくべき時季にきているのではないでしょうか。

 「個人」が“孤人”として蠢かざるを得ない閉塞状況におかれることで、格差の痛撃が、人びとへの共感や連帯感でなく、苛立ちや復讐心をはぐくんでしまったようです。希望や未来を語り合うべき若者に、排除の論理を適用する事によって希望ではなく絶望しか与えられない社会を作りあげてしまったのです。

 しかし、包摂組も排除組もともに当事者。
どうしてこうなってしまったのでしょうか?

 最近週刊金曜日編集委員となった雨宮処凛さんと週金編集委員で発行人の佐高信さんによる“現代日本の貧困と格差”をめぐる対談本(『貧困と愛国』)を読みました。現在進行形の若者論としても興味深いものがあります。
そのなかで、様々な若者を間近に取材・観察してきた雨宮さんは、若者を“メンヘル系”(メンタルヘルス系)、“スピリチュアル系”(お告げにすがる系)、そして“プレカリアート系”に分類できると語っています。親切にも、よくいる説教おやじ?にも“ホッピー系”という位置をあたえてくれているのを、笑えません。

 財界が“柔軟”と呼ぶなかみは規制緩和です。これを政府は“改革”と呼び、マスゴミも“改革は必要”と言ってきました。こうして作られた“不安定化された世間”に生きる私たち正規・非正規、老若男女。ひとり一人が自身の存在位置を相対的に考えることで、見えてくることも多いと思います。さすればそれはもう、みんな立派なプレカリアート系だ…、とは言えないでしょうか。

補記:ネオリベ生活や包摂と排除の論理についてはいずれ詳しく吟味したいと思います。たとえば“ネオリベ現代生活”、『格差社会の処方箋』…。
(イトヤン)