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ネコリンヘンプ

安定剤(ソラナックス0.4㎎1~2T/dayを頓服で反復服用20年近く)断薬の記録つきヘンプブログ

1年6ヶ月を経過して振り返る断薬

2011年05月14日 12時12分16秒 | 断薬
2011.5.14
断薬1年半年の経過を振り返ってみたいと思う。
ズラズラ書いているのを読むと不快になる人も居ると思う。真っ最中の人は読まないほうがいいのかも。

ソラナックス(=コンスタン、ザナックス)を15年近く断続的に飲み続けた結果2009.9に急激な体調不良を起こす。
15年前当初はデパス、ハルシオンも同時服用していた。それ以前は安定剤として名前は忘れたが少しの間クスリを服用。
今まで経過が複雑なので書かなかったことがある。
長年断続的に服用し途中プチ離脱も経験し1年近くの断薬も経験している。2007年くらいから年に2回位のアルバイトをするようになってその間だけ毎日クスリを飲んでいた。
何故かといえば不眠があったからだ。そもそも不眠症ではないので長年のクスリの服用で不眠になっていたのだと思う。2009.4末でバイトが終わり2ヶ月近く飲んだクスリを止めた。多少の不調は感じたものの特に日常生活に支障はなかった。
(今から思えば精神的にかなりおかしかったが・・。)7月に入り体調も良くなっていたので月末に以前から興味のあったレイキのアチューンメントを受けることにした。
これはレイキによるヒーリングというよりは私自身がレイキヒーリングをするためのパワー伝授。もう少し言うと先生が私の体を宇宙のエネルギーが通りやすいように調整してくれるというようなこと。自分がまだ良く分かっていないのだけど、私が受けた先生は女性で元々のサイキックなので普通のレイキ・アチューンメントとは少し感じが違うのかもしれない。ほかを知らないのでめったなことは言えないが。
その後自分で自己ヒーリングを毎日やるのだけど、唱えなければいけないとされる言葉がどうしても私の性分に合わなくて・・・・そういうこと自体が好きではないので・・・・一応やって終了してみたが、その途中から微熱が出始め一気に夏から不調になり、ソラナックスを飲めばなんとかなるといつも通り薬を飲んだ途端眩暈が始まった。
レイキは自己浄化をするが、そのほかのヒーリングなどでもよく言われるけれどクスリを飲んでいる人は遠慮してくださいということらしい。私はあの時点ではクスリを飲んでいなかったので一抹の不安はあったものの決行した。
この事が離脱症状の発現と関係があるのか無いのかは神のみぞ知るでわからないけれど、症状の出方が変則的なのでずっと影響があったのではないかと思っている。良いか悪いかは別として出方の激しさはやはり急激な毒出しにレイキが一役買ったのではと思わずにいられない。
何にでも興味を持ってやってしまう私の性格だから仕方ないし、むしろ症状が激しく出ていなかったらまだ薬を飲んでいたかもしれないとおもうとまぁ良かったかと今は余裕を持てる。
2009.10断薬
苦しかった症状の中でどれが一番かと考えて思い出してみた。どれもこれも厳しかった。
夜寝ていて不眠の中で”ジェットコースターに乗って血の気が引くような”気分の悪さは本当に参った。
低血糖か低血圧かと飴をなめたり、血圧を測ってばかり。毎日一日中血圧計と首っ引き。
頭から地中のブラックホールに引きずりこまれるような貧血感。
ベッドに横になると船の中で寝ているような揺れが始まる。
眠気がまったくない中で気絶のように眠る短い睡眠。起きると10分しか経っていない。5分眠るだけでも命は繋がるからと整体院で励まされ生きていた。まだ睡眠は改善されないが”まぁいいか、仕方ない”とは思える。
夜中居ても立ってもいいられずユタンポをお腹に仕込んで寒空に飛び出したのも1回や2回ではない。
昼間ウオーキングをはじめたのは断薬2ヶ月以上経ってから。
信号待ちが辛くてたまらない。歩き始めは特にぐらつきと体中の緊張感で死にそうになる。苦しくて苦しくて涙が出てくる。
足はなんともいえない経験の無い不快な感覚で歩きたくない気持ち100%。一歩歩くたびにぞわ~というような気持ちの悪い感覚でこれも耐え難い。
3ヶ月が経つ頃には私の気持ちではもう終わると思っていた。だから毎日あせるわけだけれど今から思えばとんでもない甘い考えだった。
体を自由に動かせないというのは何と説明すればいいのか。イスから立ち上がるのにも頭の中で一回シュミレーションをしてから酷く気合を入れて立つ。お風呂に入るのもそう。お風呂から出るのもそうだし着替えをするのもよくシュミレーションをしてからやっていた。
もっと細かく言えばイスの背もたれに体を預けようかどうしようかと考えてから体勢を変える。変えるときは意識集中して変える。普通の状態の人からするとこれは驚愕の生活ではないか。
こんな生活は精神を追い込んでとても並みの神経では生きていけない・・・しかし死ねないので泣きながら生活する・・あるいは無表情で人との関わりが出来ない中で生きて行く。ぎりぎりの命。
自死した人もかなりの数でいるのではないかと思う。
生活が出来れば良いというものではない。これら全ての生活に、いや生きていることそのものに耐えられないような苦痛が伴う。息を吸うのも吐くのも苦しみ、歩くのも座るのも、何をするのも苦しい。一時でも安らぐ瞬間が無い。
歩くときの体の不快感、神経の異常感は綺麗に無くなってはいない。日によって厳しいと感じる日もある。
あの頃の、明日もまたこの苦しみが続くのかという絶望感と半年経っても新たな症状が出たりする予期不安、そして有効なてだてが無い無力感は本当に出口が無かった。
長い時間、言葉にしようとトライしてきたがまだまだ難しい。この例えようも無いもの。痛いの痒いのと症状を書くとそのほうに注意がいくがこの離脱の本性は本当はそこではない。
神経系統が狂ってしまうと人間の体はどんな苦痛を味わうのか?これからも言葉に出来るようもう少し頑張ってみるつもり。



地震酔い

2011年03月23日 21時19分23秒 | 断薬
しつこく角杉結びで
2011.3.23
断薬1年と5ヶ月  今日は1年5ヶ月記念日

今日あたりからTVでも地震酔いと言う言葉を使い始めた。離脱仲間のブログで初めて知ってから気分的に楽になった。離脱症状の中でもメマイで非常に困っている身としては地震後の酔い感は辛いものがあった。今でもまだ離脱症状のメマイ感とうっすら違う酔い感はあるものの吐き気や冷や汗で参るのは少なくなってきている。
何百回という余震があるのだから自覚しない揺れも含めて車酔い状態になるのも仕方ない。
ふと飲んだ経験のない酔いどめ薬を飲むことが頭をかすめる。・・・・効くのかな・・。
で、夕べはしつこい絶不眠で朝まで起きていた。
たんぱく質の不足はセロトニン分泌量に影響するらしい。なるべくたんぱく質を摂ったほうが睡眠には良い。
眠気が起きないことが多く、眠気だけでも睡眠に結びつかなかったりするのでしばらくはたんぱく質の摂取を心がける。
1年5ヶ月まともな睡眠はとれていない状況で体力もついてはいかないしストレスも限界に来ている。
そろそろ内臓も悲鳴をあげるだろう。
私のヘンプマスター、しょうさんは地震以後一日一つと決めて作品を編んでいる。祈りをこめて。
見習いたい。



災害メッセンジャー

酵素玄米

2011年02月28日 19時57分11秒 | 断薬
ちょっと珍しい角杉結びで細いブレスを。ヘンプはチャムランさん単色太。  ラスタにしてみました!

2011.2.28
断薬1年と4ヶ月  ただ今ぶり返し中

先日ある講習会に出かけた。娘のたっての希望で私は孫娘のニュナのお守りで一緒に。
娘は小さい時からアトピーや鼻炎、喘息で悩んできた。ニュナもお手てのところにしつこい湿疹が出ている。
娘が我が家に長く滞在する理由の一つに手の湿疹がある。あまり酷いと炊事もままならないので。
酵素玄米
聞きなれない言葉。
簡単に説明をすると・・・。
長岡式酵素玄米といって特製の圧力釜で炊いた玄米を保温ジャーに入れて毎日1回天地を返して保存すると酵素たっぷりの美味しい玄米ご飯になるというお話。色素成分として小豆も一緒に炊くのです。すぐに食べても構わないのだけれどこれを3~4日置いてから食べる。10日置いても腐らない。
私はこれを穂高の養生園で初めて食べてその美味しさにビックリした。
玄米というのは肉食と合わないので自然に菜食に近くなる。特にこの酵素玄米は柔らかく美味しいので子供でも老人でも食べられる。玄米自体が完全食と言われるしこの酵素玄米はとぎ方、炊き方、保存の方法が普通の玄米食のやり方と全く違う。すごく精神的な話になっていくので伝えるのが難しいのだけれど・・・。まるで儀式のようにコメをとぎ炊き丁寧に意識を持って扱うことが大切だということ。物質中心の栄養素を食べればいい、美味しければいいというところから自分の命に立ち返る意識を持つというようなお話がされる。”酵素玄米は玄米を食べるのではなく玄米の命をたべるのです。”という言葉が出てきた。
私個人は集まりとか講習会とかが好きではなくこういうものに参加することはあまり無かったのだが、先行してこの玄米を食べていたのでとても興味を持った。この圧力釜etcの購入は講習会参加が必須条件なのでなんだかややこしい話なのかと不安もあったのだけれど行ってみたら特に購入を勧めるわけでなく非常に好感が持てた。
講習会もお世話係のボランティアで地域のお寺で行われ請求されたのはショバ代の500円のみ。
美味しい試食もあって楽しかった。もちろん普通の状態ではないので苦しい中でも楽しかったと思えたという意味。
で私はこれをやってみようと思った次第。
で離脱症状の緩和に有効であることを期待している。




富と宇宙と心の法則
ディーパック・チョプラ
サンマーク出版

離脱症状 ベース

2011年02月24日 22時32分23秒 | 断薬
チャムランさんで買ったヒマラヤン細で平結び。片側を膨らますように芯を太くしてアミアミしてます。真ん中は大きなウッド。若々しい手は息子のですわ。

2011.2.24
断薬1年と4ヶ月  ただ今ぶり返し中


2010年末からベースが少し楽になってこのまま逃げ切るかもと期待したが少しの好調は1ヶ月続いてぶり返した。
日記を見ると毎日好調というわけではなく入眠時の気分の悪さや入眠困難など色々あったのだけれど、昼間”大丈夫かな・・・。気分がわるいなぁ・・。”ということがかなりの割合で減っていた。
今ぶり返し状態で痺れや、ふらつきや背中の痛みや、息苦しさなどあるのだけれど一番嫌なのはやはりベースの気分の悪さ。
痺れるから辛いと言うより、離脱前の自分・・・・私の場合服薬中からの退薬症状は1ヶ月半くらいで短かったのでそれ以前の状態のこと・・・はクスリの影響でうつうつしたり不眠だったり自殺衝動があったりしても今の状態とは全く違った。自殺衝動も消え、訳の分からない食欲不振も腸の不調も少なくなってどこかしら健康になっている気がするけれど人間としての基本的な部分が壊れてしまって機能していない感じがする。心地よさを感じて身体がバランス良く動く・・・普段人があまり意識しないで行っていることが苦しくて自然にできない。
要するに自律神経系がおかしくなっているのだけれど、これらが自然にできないということは”今日はどう過ごそう”とか来週いっぱい、来月一杯の計画などなどとても考えが及ばない。
次の動作にどれだけの神経を遣い苦痛を感じるか知れないのにとてもとてもそのことを抜きにして物事を想定し計画したりできない。
今ここにしか存在しない現実を生きるということでは究極の修行の場になる。
しかも最大級の苦痛を伴った修行・・・こんな修行はしたくない。
逃げ切りはありえるのだろうか・・・・。




幸せの芽がどんどん育つ魔法のガーデニング レーネンおじさんのスピリチュアル・ティーチング (超★スピ 12)
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寒いけどヘンプ正月セールで注文してウキウキ気分

2011年01月04日 12時50分11秒 | 断薬
2011-1-4(火曜日)断薬1年と2ヶ月 回復は一進一退

正月気分は全くない正月も色褪せて夫々に持ち場に戻った今日。静かにゆったり過ごそうと思ったが息子がいる・・・。
ム・・・手強いなぁ。
ウサギ年の息子は食べ物に超うるさい。呆れて自分で作る事もしばしば。天才と呼ばれるこの私の料理をけなして日々を送る。2006年の秋、その息子の留学先のフィレンツェへ行った。丁度ドイツのハイデルヴェルグで仕事をしていた娘のところを経由しての一人旅。
2005年に頻脈発作を起こして入院しているわけだから今から思うとかなり大胆な気がする。
イチかバチかが多い人生だわ。
リムジンバスで成田に着いて手続きを済ませて・・・このあたりの諸々が楽しくてウキウキする。信じられないくらいの重力を身体に受けて空を飛んで13時間。梅酒のロックなんかを飲んじゃって気分良くフランクフルト到着。大きな飛行場で分かり辛いこと。もう夜も10時を過ぎてハイデルへ向かう乗り合いタクシーを探す。仕事でハイデルへ行くという若いお姉さんによろしくお願いして乗り込んだ。ハイデルは古くから学生の自治の町として有名。ハイデルヴェルグ城から延びた道すがら店が栄えている。小さな町。街の広場は元の処刑場。
ハイデルヴェルグ城へはケーブルで上がっていく。一人で行った。3回も。最初に行った時ケーブルを降りて土産物屋の前に来た時、急な風のうなりと共にストームが起きた。深まった秋の気配の中経験のない小さな嵐にびっくりして土産物屋に避難した。おばさんがストームストーム!!と叫んで、こんなの経験ないわと言った。ドイツ語で。私はドイツ語がわからない。意味を理解したのが何故かも分からない。でもその尋常でないストームの不思議さはハイデルベルグ城に入って分かった気がした。
ここを知っている。・・・・そんな感覚に包まれたからだ。このお城が私が来たことを歓迎して懐かしがってくれている。
ウサギ息子の話の続きはまた・・。
疲れていないつもりの正月三が日明けの今日。凄く疲れている。不眠が舞い戻りぐらつきも出ている。久しぶりに急な覚醒が起きた。例の”さぁ~~”って感じで脳がクッキリしてしまうやつ。以前は酷い恐怖と共に起きていたが少々の不安感になっている。
このところストレスを感じることが多く身体に響く。以前は全く感じなかったストレスと体調の関係をリアルに感じるようになった。離脱のおかげ。





去年の今頃。

2010年12月25日 11時21分15秒 | 断薬
ソラナックス断薬14ヶ月経過した。晴れ晴れした日々はまだ来ない。

土曜日
寒波襲来。布団を干してみたけど日差しも冷たく感じる。しかし去年の断薬直後からの異常な冷え感よりはまったく楽。
何度も言う様だけど去年の今頃は1年後もこんな状態だとは想像もしなかった。
よくよく考えてみれば去年の今頃は酷い状況が続いていた。断薬2ヶ月が過ぎた頃。
どんなだったか日記を見直してみよう。
丁度断薬2ヶ月を過ぎて気持ちではもう終わるだろうと思っていた。2007年のプチ離脱の時は2ヶ月くらいで終息していたので
2007年のメモを見ながらきっと遅くても3ヶ月位経てば何とか元に戻るだろうとたかをくくっていた。
しかし症状の軽重自体が2007年とではまったく違うのを見落としていた。

2ヶ月経過時点、去年の今頃。
☆ベースの不快感。
☆頭がゾワーゾワーとする。
☆寝ていてもめまい感。
☆身体の芯が冷え切る感じ。
☆強い不整脈  明け方突然の不整脈でビックリして目が覚める。
☆胸のあたりの緊張、詰まり。
☆肝臓のこわばり。
☆不安、焦燥感、まったくほっとしない。
☆目の見え方が不安定。
☆左足のしびれ
☆強い打ち方の動悸。
☆貧血のような気分の悪さ(突然起こる)
☆めまい感(ふらつきめまい)
☆食欲ナシ
☆酩酊感(これは飲みなれないお酒を飲んだときと同じ感じ)
☆耳鳴り(音が響く・・歩いていても騒音が響いてクラクラする)
☆不眠・・・・辛い症状の筆頭だったかも
☆下肢のゾワゾワ(寝るときに我慢できない)
☆ワナワナ感
☆光に敏感。
みぞおちからのど元にかけて強烈な恐怖が突き抜けて正気でいられないと記入がある。
このころはまだしびれ感が酷くは出ていない。これから痺れが痛みやピリピリに変わり痺れの場所も身体全体になり特に頭の左側は顔面まで強いピリピリと痺れで痛くなったり痒くなったりを繰り返して現在の我慢できる範囲に至る。
この頃やっていたこと。
★半身浴
★ホメオパシー(アコナイト)
★足湯
★整体
★こんにゃく湿布
★ハーブティー
★ウォーキング(1万歩を目標にして)
★靴下の重ね履き健康法
★漢方薬(カミキヒトウ)

ほんの少しずつ回復してはぶり返しここまでよく生きてきたものだと思う。一つ一つの症状を列記してもなかなか表現しきれないところがあってそれをベースの不快感と呼ぶ。何回か書いてきたけれどこれからも繰り返しこれらのことについて書いていくつもり。
ベースは例えていうなら”つわり”に似ていなくもない。でも男性には分からないし妊娠経験がないとわからないから違う言葉をさがしてみる。難しい。


●CCHRについて(HPからのコピー)
市民の人権擁護の会(CCHR)は、1969年に設立され、メンタルヘルスの分野における人権侵害を調査・摘発する世界規模の監視団体です。ロサンゼルスの国際本部から世界各地にある支部の活動を調整しています。




14ヶ月記念日。

2010年12月24日 00時28分19秒 | 断薬
ソラナックス断薬14ヶ月経過した。晴れ晴れした日々はまだ来ない。

木曜日
のつもりだけど本当はもう金曜日。不調なのに忙しくて結局こんな時間。
睡眠の変化からおき抜けの気分の悪さは急に始まった。
精神的な気分の落ち込みでなく身体的な症状。平衡失調感とふわふわ感とベースの気分の悪さ。
また身体を自由に動かせない感じになって体中が背中を中心にバリバリ。
落ちたときはヘンプをアミアミするに限る。でもデザインを考え糸を選び本を見たりの始めるまでの作業に食いつけない。
疲れてしまう。
最高級だといわれるヘンプ糸、エコリュ-ションをまだ使ったことがないので一度手にしてアミアミしてみたい。
とりあえずUPして寝ます。


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ソラナックス服用の状況と依存への道 2

2010年12月20日 20時56分44秒 | 断薬
ソラナックス断薬14ヶ月経過した。晴れ晴れした日々はまだ来ない。

月曜日
ソラナックスとの相性はとても良かったと思う。それは効くという意味で。何に効くかというときっかけのめまいが治るというのではない。回転性はもちろんソラで治るものではないし浮動性でも治りはしない。けれどめまい(浮動性が断続的に、回転性は過去酷いものが2回)がすると自律神経は過敏状態で首筋はカチコチになり音や光にも敏感になる。離脱症状と同じような状態。・・・・このめまい自体も今ではストレスと科学薬品のせいだと思っているが・・。
その自律神経症状とめまいの中で子供を育て親の看護をし、ほかにも大きなライフイベントをこなすのにはクスリの助けなしではとても無理だと判断した。今はあの時にほかの選択が無かったかといえばそうは思わないがそのときにはクスリを頼った。
で、私が味わったのは身体のコリコリがクスリで解けて行く開放感。くたびれ果てていても家事をこなせるウソの力強さ。
立てないほど疲れていてもクスリを飲むと暫くして働き出す。
限界が来ても神経が総立ちになっても大丈夫。クスリを飲めば柔らかな世界で休める。
めまいの治療の一環として出されたソラは私の人生の混乱期に生活に少しづつ入り込んできた。
そしてめまいがしなくても疲れすぎた身体を横たえるやわらかいベッドのように・・そう麻薬として私の生活の一部になった。
元々信用していない病院とクスリのワナに落ちていった。
クスリへの疑いは消えていなかったので続けては飲まなかった。だから離脱も長いこと経験しなかった。
しかしいま思えば数年前からの恐怖心と希死念慮の発現はソラの副作用だったのだ。
眠りにかかるとサァ~と意味不明の恐怖心で目が覚めることが多くなっていった。人生の混乱期にいた私は全ての負担がこんな状態を生んでいるのだろうと思った。自殺衝動もかなり前から経験していたがそれも自分の精神のトラブルかと精神分析本を読み漁って自己分析を続けた。めまいカウンセリングを受けたのはその数年前から3年半。耳鼻科の中に併設されているクスリを処方できない心理療法士のDr.の個室でのカウンセリング。精神科や心療内科でなかったのがせめてもの救い。
去年の断薬まで、そして断薬後もこの恐怖心とは付き合う羽目になる。
希死念慮は2006年に整体に通い始めて暫くして消えた。それは自分自身をどうしても抹殺したいという現実と呼応しない感情。
これも発現から消滅まで数年を経ていた。
クスリの副作用という意味では身体の症状としてまだまだ書いておくべきことがあると思うのでいつかまた記しておきたい。
しかしこの自殺衝動と恐怖心は私の人生をことさら酷いものにした。そういう意味でも特筆するクスリの副作用だと思う。

●CCHRについて(HPからのコピー)
市民の人権擁護の会(CCHR)は、1969年に設立され、メンタルヘルスの分野における人権侵害を調査・摘発する世界規模の監視団体です。ロサンゼルスの国際本部から世界各地にある支部の活動を調整しています。



ソラナックス服用の状況と依存への道

2010年12月19日 17時07分11秒 | 断薬
ソラナックス断薬14ヶ月経過した。晴れ晴れした日々はまだ来ない。

日曜日
もうそろそろ断薬15ヶ月を迎える。去年の今頃は年明けには元気になってると思っていた。
2009年の2月終わりから4月の末まで2ヶ月半くらい毎日ソラナックスを基本的には0.4㎎1T/dayを飲み続けた。
足りない日は2錠を飲んだ。
それまでも長くて2ヶ月半、短くて数日を反復服用して15年近く、もっときめ細かく言うと20年以上の服薬経験がある。
すべてきっかけはめまい。
途中授乳の時期があり長い期間のブランクがあったので13年~15年くらいとみての話。
特にこの数年の服用量が多くなったのとそれ以前は明確な離脱は経験していないので記憶が曖昧な部分がある。
20代で左耳の手術をしているのでどうしてもめまいというと内耳性のめまいの不安が先走り精神的なストレスが原因ではという頭が無かった。
しかし耳鼻科の医者はとうにストレスだと思っていたらしく30歳のめまい初発で精神薬が出ていたと記憶する。
その当時長崎在住で体調が非常に悪く、耳の病気が再発したらまた子供を置いて長期の入院になるという恐怖に近いものがあった。
今のようにネットで何でも調べられる時代ではなかったし本もクスリの本など無かったので自律神経のクスリですと言われて”あ~そうですか”というような気力しかない生活を送っていた。しかし元々クスリ嫌いだったので精神薬は飲まずに捨てた。
しかし抗生物質は耳が悪くなると困ると思い飲んでいた。
そのおかげで酷い体調になっているという自覚もなしに・・・。
めまいの原因は一体なんだったのかと今更考えてみたことがある。当時みかん山の麓に住んでいて東京から転勤した私には全てがカルチャーショックだった。
ここも東京の田舎と呼ばれる郊外だが私自身は商業地区に育ち畑とはまったく縁がなかった。
みかん山に農薬が散布されそれがどの程度有害かなどという知識も無く、農家は農家で散布予告もせずに自由気ままに農薬をまいていた。
音が聞こえると慌てて洗濯物を取り入れるのだが耳の遠い私は気が付くのが遅い。家族は会社や学校に行ってしまうので実際に農薬の影響は私が一番濃かったと思う。
手術や病気を繰り返して身体ももう一杯一杯だったのだろう。その頃から普通でない体調になっていった。その前も病弱だったのだけど何かが違っていた。
まずパニックの初発もあった。それは酷い症状で少しは軽快するも数年間は大変な思いをした。丁度”豊田商事事件”の最中に起きたパニックでそれ以後”豊田”の二文字を見るとパニックを起こすようになって、帰京しても豊田駅のある中央線は止めて京王線で帰っていた。とにかく帰京は必須事項だったので1年に一回は帰っていたが実家でも症状を隠すのに必死だった。
気分の悪い日々が続いた長崎時代は農薬のせいだと思っている。
それ以前に全身麻酔や局部麻酔、強い抗生剤なとあらゆる化学物質が身体の中に放り込まれ農薬まで受け入れる体力がなかったのだろう。
そんな事とも露知らずまだその後も起こるめまいを耳のせいだと思い込み耳鼻科に通い続けとうとうめまいカウンセリングまで受ける羽目になった。それはそれで興味深い経験ではあったのだけどめまいの再発は防げなかった。
そのころから断続的に起こるめまいの際にデパスが処方された。それもまじめには飲まなかったし次に出されたソラナックスも四つに割って恐る恐る飲んだ。でも段々半分になり1錠になっていきソラとの相性が良かったのが今日の状態に繋がっているのだ。
もちろん一日3回0.4㎎を守ったことは無いのでせいぜいどうしてもめまいが厳しい時だけ2錠飲んだ。いまだ一日に3錠を飲んだことは無いと記憶している。しかも続けて長期間飲むことも無く副作用も離脱も経験しないでいた。
しかし自分に合うとは怖いもので、神経も身体もソラで楽になることを覚え特に支障も無い生活は段々ソラ依存の日々になって行くのを知る由もなかった。


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追いかけると逃げるの法則

2010年12月17日 18時57分35秒 | 断薬
ソラナックス断薬14ヶ月経過した。晴れ晴れした日々はまだ来ない。

金曜日
今日は親しくしてもらっているおばあさんがベッドに乗り損ねてどこかを打ち緊急入院した!と連絡が入った。
彼女の娘と私は高校の同級生。旦那さんの仕事の都合でずっと地方を転々としている。だからBAAさんは一人暮らしの84歳。
一人娘ももう還暦を越えて、しかし中々親元に帰れない。私のようにとっくに親がないのも寂しいけど年老いた一人暮らしの親のそばに居られないの心配だろうなぁ。
友人の車で入院先の病院まで行くと思いのほか元気そうでたぶん骨折もないとのことで一安心。このところぐずぐずしてばかりで顔を見に行かなかった。また様子を見に行くのをルーティンワークにしておこう。気持ちだけじゃ身体がついてこない離脱に負けるから頑張ろう~。
いつものサスサスヒーリングをしてあげると痛みが遠のいたと喜んだ。憎まれBAAさん世に憚ると言いながら憚って欲しいよずっと。
それで私は小さいときからマッサージや指圧を親に良くしてあげた。両親がそれぞれ最後に入院したときもサスサスよくしてあげた。その頃の私は自分の境遇に今よりも怒っていたらしくヒーリングで治るなら世話はない!位の気持ちでいたから私のヒーリングは効果を発揮しなかったな。残念だけどそれが人生。
今はこの状況に至って私の頑固な現実主義ももうそろそろ降参する兆しがある。
姉が長いこと気管支を患って最近では喀血もするようになり咳が絶えずに苦しんでいた。本当に長い間。
去年離脱が始まる前、ふとヒーリングをしてあげようという気になって姉を訪れた。その日以来咳は止みもちろん喀血もない。
治るものは治るし治らないものは治らない。そこには宇宙の深い意思がある。
人間世界の出来事の意味のすべてを私たちは知りえない。答えを得ることが出来ない。
なぜ凄惨な死が許されたのか、なぜそんな悲しみが存在したのか。その答えだけを探して生きてきた。そのうちに私がしたことは自分を軽んじること。どんなことでも耐えて見せるとがむしゃらになっていった。それがレクイエムかと。
今この苦しみの中で自分で自分をサスサスしながらごめんね・・と語りかける。一番大事にしなくちゃいけなかった自分自身を置き去りにして何を得ようとしたんだろう。離脱の苦しみは私が私へ回帰するための宇宙の意思。
それを受け入れないでどうしよう。サスサスしているとお腹から笑いがこみ上げてくる。未来の私が今の私へちょっとだけのプレゼント。意味の分からない”笑み”。
昨日と今日と明日は折り重なって一枚の絵になる。

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