ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

道 し る べ ! ~3 つ~  

2023-11-11 11:12:08 | 思い
 当地で購読されている新聞の第1位は、
「北海道新聞」に違いない。
 次は、「室蘭民報」ではないだろうか。
我が家のように、「朝日新聞」を購読している家庭は、
ごく少数な気がする。
 
 2年ほど前になる。
「朝日新聞」の取扱店が変わった。
 なので、新しい店の方が挨拶に来た。
全く商売っ気がない方のようで真っ先にこう言った。

 「来月から取扱店が変わります。
この機会に、購読をやめても構いませんよ。
 今まで何か義理があって断れなかったのと違いますか。
私の方、全然大丈夫です。
 どうしますか。やめますか?
それとも続けて配達しますか?」。

 あたかも購読を望んでないかの言いっぷりに、
不人気ぶりを実感した。

 その上、今年の夏のことだが、
二男が孫と一緒に数日、我が家に滞在した。
 朝日新聞を購読していることに気づき、
「朝日は、公平さに欠けているよ。
 別の新聞を読んだ方がいいと思うよ」。

 現職の頃、電車の中吊り広告で、
朝日新聞の酷評を目にしたことがある。
 同様の声を息子から聞き、驚いた。

 私が朝日新聞の購読を続けているのは、
そんな不人気や酷評とは無縁である。
 毎日1面に掲載される『折々のことば』と
『天声人語』を読みたいからである。

 朝一番に、この2つのコラムを読み、
共感したり、気づかされたり、反省したり・・・。
 今や、私の日々には無くてはならない、
道しるべのようなものだ。

 さて、11月6日7日8日の3日連続だったが、
その日その日の『折々のことば』に強く打たれた。
 
 このコラムを執筆している哲学者の鷲田清一さんは、
『哲学の発想を社会が抱えている諸問題につなげることによって、
哲学が社会に対してできることを探求している』と、
ウィキペディアが紹介している。

 だからか、彼がコラムで取り上げる「ことば」も、
その解説もやや難解で、投げ出すこともある。
 しかし、3日間の内容は、
私の今を導くヒントに十分だった。


  ① 11月6日号

 感情が波立っているうちに言い返しては
 いけません。……母はよく「つばを3回
 飲み込みなさい」と言うとりました。
               石井哲代
   言い返したその時はすっきりするか
  もしれないが、後でかならず後悔する
  からと、元小学校教員は言う。要はち
  ょっとした間をつくって、心を落ち着
  かせること。「同じ一生なら機嫌よう
  生きていかんと損じゃ」と自分に言い
  聞かせてもいる。心は自分で育てるほ
  かないからと。石井と中国新聞社の共
  著『102歳、一人暮らし。』から。

 ~ 感情が波立ったまま言い返し、
後悔した過去を生々しく思い出した。
 あんなこともこんなこともあった。

 恥ずかしいことに、
「機嫌よう生きていかんと損」なんて、
自分に言い聞かせたことは一度もなかった。

 私の軽薄さに気持ちが沈みかけた。
でも、心は自分で育てるほかないと、
励まされた。 ~


  ② 11月7日号
  
 一人が一度に背負う悲しみには限界があ
 ります。だから仲間が一緒に引き受け
 て、一人の深い憂いに寄り添うの。
              石井哲代 
   人は死んだら終わりではない。同じ
  時間を過ごした仲間が覚えていてくれ
  るなら、その人はまだ居る。年に一度
  開く「偲ぶ会」も、だから各自が背負
  う悲しみを共に乗り越えてゆく集いな
  のだと、元小学校教員は言う。そうし
  て欠けた三日月のような自分を満月に
  してゆくのだと。石井と中国新聞社の
  共著『102歳、一人暮らし。』から。

 ~ ここ数年、大切な人が何人も逝ってしまった。
寂しさがずっと尾を引いている。

 それに限らない。
「まだまだ頑張れる!」。
 そんな気力に曲がりなりにも体力がついていった。
時には旅先でのランニングも楽しんだ。

 しかし、次第にハードルが下がり、
今では、「まだまだ」が「ここまで頑張れた」になった。
 押し寄せる変化に、切なくなったり・・・。

 先日、都内で研究会仲間6人で食事会があった。
遠慮などいらない。
 気心の知れた打ち解けた時間が流れた。
 
 『各自が背負う悲しみを共に乗り越えてゆく集い』には、
まだほど遠い。
 でも、『欠けた三日月のような自分を満月に
して』くれた余韻が残った。
 「そんな仲間と時間が大事なんだ!」と・・・。~
 

  ③ 11月8日号

 草花を愛して、人間を愛さなくなってい
 る自分を発見して、おどろくこともある
                長新太
   人間はこんなことさえできるのか。
  そしてその可能性がまぎれもなく自身
  にもあることに気づき、人間であると
  いうことに絶望することがある。草花
  を愛でるのは、草花そのものを愛する
  というより、人間ではないというただ
  その一点でそれを愛しているだけなの
  かもしれない。だから絵本画家・イラ
  ストレーターはこのあと『情無い』と
  続けた。『絵本画家の日記2』から。

 ~ 同じように私も
『人間であることに絶望することがある』。
 故に長新太氏は、
『草花を愛して、人間を愛さなくなっている自分』
に驚き、
『人間ではないというただその一点で
それを愛しているだけなのかも』
と言う。

 ふと、相田みつを書の1枚が思い浮かんだ。
   花には人間のような
   かけひきがないからいい
    ただ咲いて
    ただ散って
    ゆくからいい
   ただになれない
   人間のわたし

 2人にある「逃避と弱音」に共感する私。
でも、相田氏の書は、淡々とした筆跡を残し「かけひき」がない。
長新太氏は『情無い』と綴る。
 「音を上げるのはまだまだ先!」と、
2人から声が聞こえた気がした。 ~




   花壇じまい そして 初雪の朝

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