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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

別れ方 さまざま

2022-05-21 12:03:22 | あの頃
 ▼ 義母の一周忌のため、
旭川まで長距離ドライブをした。

 高速道路からの景観は、
どこも新緑に覆われ、
冬期は、透けて見えていた山々の稜線も、
すっかり様相を変えていた。

 北の大地は、躍動の時季を迎えていた。
そんな素敵な季節に義母は逝ったのだ。

 1年前は、全く気づかずに同じ道を急いでいた。
ようやく今、義母からの最後のエールだと感じた。
 これから先、私はどこへ向かうのか、不透明ではあるが、
でも、頑張ってみようと思った。

 法要を終えた帰路は、日帰り温泉が併設されている
由仁町の『ユンニの湯』に宿泊した。

 事前予約で、『どうみん割』があると知った。
これ幸いとお願いした。

 対象のプランは、2食付きで1万円だ。
その内5千円が『どうみん割』である。
 しかも、2千円のクーポン券までがついてきた。
結局は、1人3千円で、
温泉に入浴し、朝夕食付きの1泊である。

 「安い!安い!」と控え目に言いつつ、
今が旬の時知らず鮭の塩焼きやシャコの天ぷらを肴に、
久しぶりの生ビールに、ついつい話は弾んだ。
 義母を偲ぶ好機になった。
 
 振り返ると、1年前の葬儀は緊急事態宣言下であった。
そのため、4人兄弟の夫婦、8人だけで執り行った。
 精一杯心を込めたが、
義母の変わり果てた姿への悲しみとは別に、
少人数の寂しさが浸みた。
 でも、「別れ方はさまざま、どんな別れ方も致し方ないこと」
と、私を納得させた。

 さて、年齢が進むにつれ、いくつもの別れを体験してきた。
特に、私より年若い保護者の逝去は、深く心に刻まれている。
 
 ▼ 教頭として勤務していた小学校に、
2年生と4年生2人姉妹のお父さんが、
急死したと知らせがあった。

 保護者が亡くなった場合、
学校からは校長と担任がお通夜に行くのが通例であった。

 通夜の夜、校長らが戻るのを待った。
担任2人は、目を真っ赤にして職員室の自席に座った。
 その後ろから、口数が少なく穏やかな校長までもが、
赤い目をして校長室へ入っていった。

 気になったので、お茶を入れて校長室をノックした。
「2人の姉妹が、背中を丸めて寄り添っている姿が、かわいそうで」。
 お茶を少し飲みながら、校長はハンカチで涙を拭いた。

 通夜の席の情報では、
2日前、お父さんはオートバイによる交通事故で亡くなった。
 予期しない、まさに突然の死だった。

 「2人には、あまりにもショックが大きいようだから、
教頭さん、明日の告別式に行ってあげてくれないか!」。

 翌日、校長から言われるまま、私は告別式に出席した。
出棺まで見送るつもりで時間をあけ、参列した。

 弔辞は、お父さんの勤務先の社長さんが述べた。
社長さんは何度も何度も声をつまらせながら死を惜しんだ。
 その様子から、優秀な社員だったことが伝わった。

 お父さんの唯一の趣味はバイクのツーリングで、
その日も大好きなツーリングの途中で事故にあった。
 お母さんとはツーリングが縁で結ばれたとのこと・・。

 告別式が終わり、出棺のため最後の別れの時となった。
親族が次々と棺に花を入れた。
 お母さんも2人の姉妹も、沢山の花を入れていた。
私は、ホールの片隅でその様子を見ていた。

 悲しみをこらえながら、
棺のそばに立つ親子の姿が涙を誘った。 

 次の瞬間だった。
「いかないで!」。
 静かな葬儀場に、女性の声が響いた。

 目をこらした先には、棺に顔を埋め、
お父さんに両手を添え、頬ずりをするお母さんがいた。
 そのお母さんに姉妹がピッタリとしがみついた。

 親族も、周りの弔問者も何もできなかった。
「あなた、こんなのいやー!」。
 しぼりだすようなお母さんの声がした。
3人に誰も近寄れない時が続いた。

 しばらくして、白髪の女性が近寄り、
泣きながら、棺の中のお母さんの手を握り、
お父さんから引き離した。
  
 呆然と火葬場へ向かう車に乗ったお母さんと、
そのそばを決して離れようとしない姉妹が、
目に焼き付いたままになった。
 
 ▼ 2年生の担任が妙な表情で、校長室に来た。
「僕のお母さん、死んだんだよ。
明日、海に骨をまくんだって言うんです」。

 その男の子は、嘘を言っているように思えないので、
何度も訊き返した。
 でも、それ以上のことがわからない。

 腑に落ちない相談だったが、
思い切って担任から、自宅に電話してみることにした。
 電話には、お父さんがでた。
男の子の言うことに間違いはなかった。

 母親は病死し、葬儀は終了していた。
明日、海に散骨すると言う。
 子どもは、つれていかないので、
いつも通り登校させるとの返答だった。

 担任から報告を受け、何か訳があると直感した。
自宅を訪ね、焼香したいと、私が電話し願い出た。
 お父さんからは、息子がいない明日の夕方にきてほしいと返事をもらった。

 翌日、香典を包み、担任と一緒に自宅マンションを訪ねた。
その高級マンションは、廊下前に一軒一軒門扉があった。
 玄関ドアを開け、出てきたお父さんは、
PTA行事などでいつもすごいカメラをもって参加する方だった。

 何度か、懇親会の席でご一緒したこともあった。
その席で、プロのカメラマンだと聞いていた。
 
 面識があることで、少しハードルが低くなった。
それでも、気を配りながらの会話になった。

 居間に通された。
用意した香典を渡し、お悔やみを述べ、
遺影に手を合わせたいと伝えた。

 お父さんは、私たちにソファを勧めた。
そして、言葉を選びながら話してくださった。

 お母さんは半年ほど前に末期がんが見つかった。
入院と自宅療養を何度も繰り返した。
 その半年の間に、お母さんは自分の全てを消すことを決心した。

 自宅にいる時間を使って、お母さんは、自分の私物の全てを処分した。
思い出として残るものを、何一つとして残さなかった。
 だから、お母さんが映っている写真でさえ一枚もないと言う。

 「なぜ、そこまで」と問う私に、お父さんは、
「あなたの人生は、まだまだあるでしょう。
息子だって、まだまだ助けが必要です。
 私を忘れてください。
それが一番いいことです。
 いつまでも私をひきずらないで、
次へ進んでください。
 お願いします。
だから、骨も海に蒔いて下さい。
 その後は、手を合わせることもしないでね。
それが、彼女の遺言でした」。
  
 お母さんのもので最期まで残ったのは、
病室にあったお箸と湯飲みだけ。

 私と担任は、それにそっと合掌して、
自宅を後にした。

 お母さんの想いの深さは、
私の想像を超えていた。
 同世代の担任とは言葉のないまま、
学校まで戻った。
 そして、いつも通り自分の机に向かった。
それが、一番の供養だと信じた。

 その男の子は3年生を終える日に、
「今月で転校します」と、父子で校長室に来た。
 2人とも、明るい表情だった。

 何も言おうとしなかったが、
お父さんのメッセージは私に伝わった。
 私は、深く頭を下げ、廊下で2人を見送った。  

  

   
  イベリス(別名・トキワナズナ)~マイガーデン~ 
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花 を 贈 る !

2022-04-30 12:34:45 | あの頃
 ▼ 朝食の食パンを口にしながら、
花屋さんを舞台にしたドキュメンタリーを、
ぼーと見ていた。

 お祝い事、感謝の意、激励、そして供養にと、
花を求める方の動機は様々。
 でも、綺麗な花がそうさせるのか、
花束を抱えた表情は、みんな晴れやか。

 初老の女性が、花の苗を買い求め、
小さな鉢を手のひらにのせながら、
インタビューに応えた。
 「次第に大きくなり、やがて花を咲かせるのを見て、
毎年、励まされているんです」。

 共感しながら、つい引き込まれて見ていたら、
昔々の花にまつわるエピソードを、いくつか思い出した。


 ▼ 学生時代に知った歌だが、
作詞・作曲が誰なのか知らない。

     花をおくろう     

  吹雪の夜を歩いて来た
  めかるみをとび越えて来た
  日照りにたたかれて来た
  嵐の夜を走って来た
  手をとりあってあるいて来た
  ふしくれだった荒れた手に
  ふるさとをつくるなかまの手から
  花をおくろう オレンジの 

 オレンジ色の花がどんなものなのか、
その形状などのイメージは、今もできない。
 勝手に、野の花だと思っている。

 オレンジに開花した野草を摘み取り、
片手いっぱいに握りしめて、差し出す。
 この歌には、そんな花をおくるシーンが思い浮かぶ。

 きっと、数々の山河を一緒に進んできた人へ、
その花をおくるのだろう。

 小学校を卒業する子供らが、
この歌に込められた想いを、
どれだけ受け止められたかは未知数だ。

 それでも、6年生を担任するたびに、
卒業式の朝には、黒板いっぱいに、
この歌を書き、子ども達を見送った。

 本当は、お別れにと歌ってあげたかったが、
最後まで歌い終える自信がなかったので、
板書だけにした。

 子ども達が去った教室で、
小声で歌いながら、歌詞の1字1字を消した。
 矢っ張り、いつも最後まで歌えなかった。
 

 ▼ 教頭になった年の連休明けだった。
前年度までの勤務校で、離任式があった。
 式では、代表の子どもがお別れの作文を読み、
もう一人の子が花束を渡すのが慣例だ。

 ところが、渡されたのは花束ではなく、
あじさいの花の鉢植えだった。
 
 「教頭先生になると、切り花を飾る場所もないでしょう。
鉢植えなら職員室のどこかに置けるでしょうから」と、
購入担当の先生が、配慮してくれたのだ。
 これが幸いした。

 実は、翌日に、着任した小学校で大きなイベントがあった。
戦時中の疎開が縁で、
新潟県U村立の4つの小学校と姉妹校になっていた。
 その村の6年生約50人が、修学旅行の一環として、来校するのだ。

 10時頃から、全校で歓迎会を開き、
その後、数名ずつ各学級に別れで交流授業をする。
 最後に、給食をともにし、全てが終わることになっていた。

 校長と教頭は、引率してきた村の役員や先生方10数人と、
会議室で給食を共にしながら、交流を深める計画だった。

 なので、その朝、ふと思いつき、殺風景な会議室のテーブルの中央に、
昨日の離任式でもらった鉢植えを置いた。

 給食を食べ始める前に、改めて校長が挨拶し、
続いて村の課長さんが返礼に立った。

 「・・・U村の花は、アジサイです。
その花まで用意して頂き、こんな嬉しいことはありません」
と、話の最後を結んだ。
 
 言うまでもない。
アジサイが村の花だなんて、知らなかった。
 でも、校長は胸を張った。
「この花は、教頭先生が準備しました!」。
 「それは、それは・・」。
いっきに、私の株が上がった。

 弁解できないまま、 
私は、ややうつむいて黙って給食を食べた。


 ▼ 校長選考試験を突破してから、
昇任までに2年がかかった。

 その間、知人友人、先輩同僚、親戚などから、
校長になった時のお祝いをたびたび尋ねられた。
 
 ただ恐縮して、
曖昧な返事をくりかえしてばかりはいられなかった。
 だから、
「校長室をお祝いの花でいっぱいにできたら、なんて・・・」
と、冗談まじりに応じていた。

 もう20年以上も前になるが、
その日の校長室の光景は、ずうっと色あせない。

 4月1日、辞令伝達式と、
区長や教育長への着任挨拶を終え、
校長として初めて学校へ行った。

 校長室の扉を開くと、窓辺の棚だけでなかった。
部屋の周囲の床にまで、鉢植えの胡蝶蘭が並び、
色鮮やかな花束がテーブル上にいくつも重なっていた。

 大小の鉢には、贈り主の名前があり、
花束にはメッセージが添えられていた。
 遠くは、北海道からの兄や姉のものも・・・。

 ついに花瓶が足りなくなくなった。
傘立てやバケツまで動員した。
 そこに、『百万本のバラの花』の歌ような、
真っ赤なバラの大きな花束や、
真白なカラーとかすみ草だけの花束を入れた。
 校長室はお祝いの花であふれた。

 その後、2年ほど、
私は職員との不協和音に辛い日を過ごした。
 どれだけ、あの花いっぱいの校長室が私を支えたか、
はかり知れない。
 

 ▼ それほど年齢差はなかったが、
大きな影響を受けた先輩教員が4人いた。
 その方々が、1年ごとに次々と定年退職を迎えることになった。

 長年の教職人生への労いとともに、
私を導き、励ましてくれたことへのお礼がしたかった。

 年度末が近づき、その方法に迷いながら、
出退勤をしていた。
 その通勤途中に、店構えの小さな花屋さんがあった。
夜は遅くまで店を開け、
ライトに浮かぶ花がいつも目にとまった。

 ふと思い立ち、店に踏み入った。
人のよさそうなご夫婦と娘さんが、
手を休めて話を聞いてくれた。

 3月で、定年退職する先生がいる。
その先生に何か贈りたい。
 花束もいいと思うが、つき並みなので迷っている。
でも、人生の大きな節目に、
抱えきらないほど大きな花束なら、どうかなと思って・・。
 それを31日にその先生の学校まで届けてもらうとしたら、
いくらかかるだろうか。

 一気に、私らしく熱く語ってみた。
主人は、私の予算内の金額を言い、
「抱えきれないほどの花束をうまく作れるかどうか。
でも、お客さんの期待を裏切らないようにします」と笑顔を作った。
 奥さんも娘さんも、ニコニコとうなづいてくれた。

 翌年、同じ時期に、再びその花屋さんを訪ねた。
私の顔を覚えていてくれた。
 同じように、抱えきれないほどの大きな花束を、
31日届けてほしいと頼んだ。
 うれしそうに3人は、私の注文を受けてくれた。

 そして、次の年もまた次の年も、
3月にその花屋さんを訪ねた。
 「そろそろ今年もおいでになる頃と、
噂してました。
 どういう訳が、同じ料金なのに、
年々花束が大きくなるんですよ。
いいですよね」。
 うれしそうに、そう言いながら領収のレシートを渡してくれた。
年1回だが、行くたびに3人との距離が近くなった。

 4年目に、「来年からは、もう贈る人がいません」と伝えた。
すると、事前に用意していたらしく、娘さんが、
「帰りの電車の邪魔になるかもしれませんが」と、
手提げの紙袋に素敵な花束を入れ、持たせてくれた。




    新緑の柳に 春風 
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12月25日の 子猫

2022-01-15 14:09:20 | あの頃
 愛猫・ネアルコが逝ってから、もう6年半になる。
「あんな悲しい想いをするのは、もう懲り懲り!」。
 だから、どんな猫にも目を止めようとしなかった。

 だが、月日はそんな感情も徐々に薄めさせる。
最近は、テレビに映る愛らしい仕草や表情の子猫を見ると、
気持ちがなごみ、つい笑顔にもなる。

 とうとう先日、家内に言ってみた。
「・・・、猫、飼わない?」。
 即答だった。
「いらない!」。
 めげずに二の矢を発するほど強い意志も信念もなかった。

 それ以上に、今から猫を飼うことに、いつもためらいがある。
ネアルコと同じなら、20年先までを考えなければならない。
 その頃には、2人とも自分の身の回りのことで、
精いっぱいになっているのではなかろうか。
 90歳の年寄りに、飼い猫などは「大変なことになる」に違いない。

 今は、「高齢者でも猫と一緒の暮らしができるように!」と、
支援するNPO法人による仕組みがあるらしい。
 しかし、そこまで踏み込む気持ちにはなれない。
やはり、猫を飼うにはそれなりのタイミングや、
きっかけが必要なのではなかろうか。

 もう25年も前になるが、その年の12月25日に、
生まれたばかりの子猫を飼うことになった校長先生がいた。

 その日は、2学期の終業式だった。
登校してくる子供の声が、
いつになく校門のあたりでやけに賑やかだった。
 教頭の私は、職員室を飛び出し、校門へ急いだ。

 門扉のそばで、20人程の子が何かを囲んでいた。
私はその輪をかき分けた。
 そこに、段ボールの小箱があった。

 箱の中にはバスタオルが敷いてあり、
その上に生まれて間もない子猫がかがんでいた。
 そばには、少しの子猫用キャットフードと、
「この子を助けてください」と、記された紙片があった。

 私が、箱を抱え上げると、子猫はか細い声で鳴いた。
 「先生、どうするのこの猫?」。
「誰か、飼ってくれる人がいるの?」。
 「これから、飼ってくれる人を探すんだよね?」。
「この猫、学校のペットにするの?」。
 子供たちは箱を抱えて職員室へむかう私を囲み、
質問攻めにした。

 「心配しないでいいよ。
助けてあげられるよう、何とかするから・・。
 大丈夫だよ。さあ、教室へ行きましょう」。

 私は、興味津々の子供たちを教室へ行かせ、
職員室へと向かった。
 子猫はか細く何度も何度も鳴いていた。
愛らしさが、切なかった。

 職員室の前で、
校長先生が心配そうに私を待っていた。
 箱の中をのぞくと、
子猫はタイミングよく「にゃー」と鳴いた。
 「なにこれ! かわいい!」
校長先生の第一声だった。

 そして、私に訊いた。
「教頭さん、どうするの? この猫」。
 小声で冷静に言った。
「捨て猫ですから、
保健所に連絡して引き取ってもらいます」。

 「引き取られた後は、どうなるの?」
子供のような校長先生の質問に呆れて、
「飼手がいなければ、処分するすることになるんでしょうね」。
 
 終業式が終わり、保健所との連絡がつくまでの間、
子猫のいる段ボール箱は校長室で預かることになった。

 では、保健所に電話しようとした矢先だった。
校長室に呼ばれた。

 「教頭さんの家には猫がいたね。」
私の返事を待たずに、次から次と質問が飛んできた。
 餌はどうするのか。
飼うのに必要な道具は何か。
 餌や道具は、どこで買うのか。
どんなことに注意して飼えばいいのか。
 トイレはすぐできるようになるのか。
校長先生の問いには、熱がこもっていた。

 思い切って、私は訊いた。
「猫の飼い方を知って、どうなさるんですか?」。
 校長先生は、顔中を笑顔にして、
「かわいいんだよ、この猫。
飼おうかと思ってさ」。

 「ここでですか?」。
私は、驚きの声になっていた。
 「違う違う。我が家でだよ」。

 私は急に手のひらを返した。
子猫を保健所に引き渡すためらいから解かれた。
 嬉しかった。
「それはいいですね。
この子猫を置いていった方も喜びます」。

 そして、勤務時間を終えてすぐ、
校長先生からお金を預かり、
近所のペットショップへ走った。
 猫の飼育に必要な物を一式買いそろえた。

 そして、急ぎ一度自宅に帰り、
マイカーで学校にまい戻った。
 校長先生と子猫、飼育道具を乗せ、
校長先生宅へ送った。

 その日から、子猫は校長先生の猫になった。
クリスマスの日にやってきたので、
『サンタ』と名付けられた。

 丁度、奥様は、友達と旅行中だった。
それは、子猫にも校長先生にも幸いしたらしい。
 反対するかも知れない人が留守の間に、
子猫は住人になってしまったのだ。

 数日して、校長先生が出勤している間に、
奥様は旅行から帰宅した。
 自宅に、子猫がいることに驚いた。
同時に、そのかわいらしさについ表情がゆるんだ。

 校長先生が戻ると、
奥様は、
「猫のトイレは、居間に置かないでくださいね!」
とだけ言ったそうだ。




   洞爺湖畔の冬に
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もう一度行けたら ~日 光

2021-12-18 15:42:15 | あの頃
 「今を逃したら、またしばらく行けなくなるかも・・。
だから、思い切って2年ぶりに、
東京へ孫の顔を見に行くことにしたの」。
 正月の予定を明るく話す方がいた。

 私は、まだその勇気がない。
しばらくは、オミクロン株の推移と、
3回目のワクチン接種の状況を見て・・・。
 「それまでは、東京は控えよう!」。

 それにしても、テレビでは様々な旅番組が流れる。
行ったことない海外は論外だが、
国内でも、何度か足を運んだ名所には、
ついつい『あの時のあのこと』を思い出し、
「叶うなら、もう一度行けたらいいなぁ」と・・・。
 
 再放送だったが、先日放送された『日光』には縁があった。
数々の場面が浮かんだ。

 ①
 中学1年の正月、父母と一緒に叔母が暮らす宇都宮を訪ねた。
その時、初めて日光を訪ねた。

 最初に東照宮へ行った。
陽明門の前で、ガイドの旗をもった方の説明を聞いた。
 1日中見ていても飽きないくらいの装飾を自慢するガイドさんが、
すごく偉い人のように見えた。
 そして、有名な『眠り猫』を、
なかなか探せない母に、父が指を差して教えていた。

 その後、中禅寺湖まで行くことなった。
かなり前に廃線となったが、
「馬返し」と言う所から、初めてケーブルカーに乗った。
 最前列に座り、急な線路をドンドン進んだ。
途中で、降りてくる車両とすれ違うのだが・・。
 そこだけ線路が単線から複線になっていた。
すごい仕掛けに、思わず声を張り上げそうになった。

 中禅寺湖の湖畔は、「馬返し」までとは違い一面の雪だった。
雪には慣れていた。
 母の履く雪草履が、歩くたびにキュッキュッとなった。
一緒だった叔母が、不思議そうに訊いた。
 「さっきから、雪の中で何が鳴いているの?」。
「この音ですか、寒い日に雪の上を歩くとなるんですよ」。
 その時だけ、母は得意気な顔をした。

 ② 
 教職1年目から、日光へは宿泊学習で子ども達と一緒に行った。
1年に3度の時も・・・。

 子ども達連れの日光では、その都度、数々のドラマがあった。
このブログでも、その幾つかを書いてきたが、
景勝地をハイキングしたエピソードを2つ。

 ▼ 5年生との宿泊学習の2日目は、
奥日光のハイキングだった。
 その年はやや距離が長くハードコースを選んだ。

 夏山の涼しい風を受けながら、どの子も軽快に歩いた。
中間点で、昼食を済ませ、
後半がスタートした矢先だった。

 どうしたのか、太い木が横倒しになり、道を塞いでいた。
子どもが一またぎするには、大きすぎた。
 どの子も一度木の上に立ってから、
飛び降りて、その障害を越えた。
 1人1人に手を添えて、先生たちが手助けをした。

 ところが、飛び降り方が悪く、足をくじいた男の子がいた。
しばらくは、痛みを堪えて歩いたが、
次第に列から遅れ始めた。 

 その日の私は、列の最後尾を担当していた。
ハイキングの終着点まで1時間を切ったあたりで、
足を引きずっている隣の学級のその子と出会った。

 傷めた足を見ると、
くるぶしのあたりが膨らみ熱をもっていた。
 持参した湿布薬を張り、一緒にゆっくりと歩いた。
しかし、次第次第に立ち止まる回数が増え、
辛そうな顔になった。
 子ども達の列からは、大きく離れてしまった。

 私は決めた。
リックを胸にし、その子を背中におんぶした。

 立ち上げって、歩き出してから初めて分かった。
予想していた以上に太っていた。
 重いのだ。
その上、両腿の開きが小さく、
背中にぴったりと背負えないのだ。

 「おぶりにくい!」。
次第に、重さが辛くなり、
「少しでも楽におぶりたい!」。
 ついにその子に訊いてみた。
「ねえ、もう少し股のところ開かないかな」。
 その子は、すまなそうに小さな声で、
「無理です」。 
 
 私は、おんぶする両腕がパンパンになりながらも、
予定した最後の休憩地点を目指して、みんなを追った。

 気づくと、背中でその子は何度も鼻をすすっていた。
「足、痛いんだね。もう少しだから、我慢して!」
 私も山道での思わぬハプニングに精一杯だった。

 「痛いのより・・、先生、ありがとう!」。
その子の涙声に、
私は、首を振って応えることしかできなかった。

 ▼ この年も、2日目は奥日光のハイキングだった。
宿舎からバスで『いろは坂』を上り、湯の湖まで行って下車する。
 そこから湯の湖畔を回り、
戦場ヶ原の木道をハイキングする計画だった。

 目覚めると、薄曇りながら穏やかな朝だった。
ところが、天気予報は不安定な空模様を告げていた。
 念のため、宿舎の管理人さんに尋ねてみた。
「奥日光の天気はこことは違うことがあります。
雨具の用意をして、出かけてはどうでしょう。」
との、返事だった。

 なので、私は、子ども達全員を集めての朝会で、
「もしかすると、途中で雨になることもあるので」と、
ハイキングのリュックに、雨具を追加するよう指示した。
 
 そして、いよいよ湯の湖からのハイキングがスタートした。
空を見上げても一向に変わりなかったのに、
歩き始めて20分位がたっただろうか。
 雷鳴と共に、雨が落ちてきた。
みるみる間に、雨脚が強くなった。

 先頭を歩く私は、湖畔沿いの遊歩道で立ち止まり、
子ども達に雨合羽の着用を指示した。
 私も合羽を着て、となりの校長先生を見た。

 小さな折りたたみ傘を差していた。
「安易でした。大丈夫と思って・・」。
 合羽の私たちとは違い、
校長先生は次第にびしょ濡れになった。

 しばらくして、校長先生は立ち止まり、私に言った。
「私は、これから引き返します」。
 聞き間違いかと耳を疑った。

 驚きの表情をする私に、いつになく強い口調で校長先生は続けた。

「塚原先生は、子ども達を湯滝の駐車場まで
誘導してください。私は、急いで戻って、バスに連絡して、
湯滝へ行くように手配します。
 このまま戦場ヶ原をずっと歩き続ける訳にはいかないでしょう。」

 とんだ私の誤解だった。
このような場合、校長が、子ども達と一緒の場を離れるのは、
リスクが大きいことだった。
 しかし、引き返してもすでにバスが移動した後なら、
携帯のないあの時代は連絡が難しくなる。
 それに対応できるのは、「私しかいない」と、
校長先生は判断したのだ。

 私は重責を託された。
豪雨の中を70数名、
全員無事に湯滝の駐車場まで誘導しなければならない。

 そのころ校長先生は、小さな傘もささず、
小走りで、湯の湖で降りたバスを目指した。
 その2台のバスが、戦場ヶ原へ向かって走り出し、
大通りに出たばかりだった。
 ずぶ濡れの校長先生が、その車道の真ん中で両手を広げ、
バスを止めた。

 事情を知ったバスは、校長先生を乗せ、
子ども達が向かっている湯滝へと急いだのだ。

 あのまま降りしきる雨の中を戦場ヶ原まで歩いていたなら、
それを想像すると、今も校長先生の決断に頭が下がる。

 ③
 6歳違いの姉夫婦が、東京旅行に来た。
ぜひ日光へ行きたいとのことだったので、
マイカーで案内した。
 
 宿泊の予定がないので、慌ただしく名所巡りをして、
名物のゆば懐石を食べた。

 そして最後に、明るい義兄ならきっと大笑いするだろうと、
老舗の羊羹店へ案内した。

 車を降り、3人でその店に入った。
すると、年老いた店主が大きなガラスケースの奥に立っていた。
 私たちを見るなり、
「羊羹なら、もうない。明日だ、明日!」。

 私は何度もその店で羊羹を買っていた。
竹皮に包んだ本格的なもので、実に美味しいのだ。
 だから、店主への対応は心得ていた。

 「そうですか。でも、
わざわざこちらの羊羹をおみやげにと、
立ち寄ったんです。」
 「どこからきたんだ?」
「私は、千葉から、こっちの2人は北海道からです。」
 「そうか。何本いるんだ。」
「3本でいいです。」
 「おーい、3本用意してやれ。
今持ってくるから」。
 
 その後、店の奥から綺麗に包装された羊羹3本が運ばれてくる。
料金を払い、客が頭をさげ、退店するのだ。

 店を出て、車のドアをしめるなり、
案の定、「あんな商売ってあるのか!」と、
義兄は大声で笑い出した。
 
 


   一夜にして 雪景色
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甘 酸 っ ぱ い 秋 語 録

2021-11-20 11:56:38 | あの頃
 2週間ぶりのブログだ。
季節の移ろいは、実に早い。
 当地の紅葉は最終盤になった。
東山の裾に広がる唐松の林が橙色を残すだけに・・。

 つい先日、地元新聞の記事に、
大きく『花壇じまい』の文字があった。
 「花壇じまい・・・、何のこと?」。
私には、聴きなれない言葉だった。
 街角を飾った花壇を整地し、
雪の季節を迎える作業のことらしい。

 案の定、市内の小さな公園や道路脇の花壇、
そして各家庭の庭から草花が無くなっている。
 
 気づくと、マイガーデンも同じだ。
黄や赤に染まった葉が、枯れ葉色に変わる。
その順に、ハサミを入れ刈り取ってきた。
 今は、緑の葉をわずかに残す白蝶草と、
やや黄色みを増した西洋ススキだけが残っている。
 わが家でも「花壇じまい」をしていたのだ。

 さあ、まもなく初雪。
その先は水墨画のような日々が来年4月まで続く。
 毎年のことだが、「冬だからこそ」の光景に心動かし、
寒さを超えたいと思う。

 さて、その前に・・・。
秋の最中、朝ランのコースで目にした花や木が、
それらに興味薄だった現職時代の甘酸っぱい想いを蘇らせた。


 ① 「あれは個体差です」

 高速道の伊達IC出入口から、
片側2車線の直線道路が海に向かって延びている。
 その両側は、1キロ以上にわたってイチョウの街路樹だ。

 市内の何カ所かには大きなイチョウの木がある。
だが、イチョウ並木はここだけだ。
 光りを浴び黄色く色づいた歩道を走るのは、
この時期だけの楽しみである。
 今年も、そこを走りながら思いだした。

 6年生を担任していた。
秋の社会科見学は、貸切バスで都内巡りだった。
 国会議事堂や最高裁判所など、都心の公共施設を見てまわった。

 バスの中では、ずっと校長先生と最前列に座った。
バスガイドさんの案内が切れた時など、小声で会話した。

 北の丸公園辺りのイチョウ並木が、色づき始めていた。
車窓からのイチョウは、隣同士の樹でも紅葉の進み具合が違っていた。
 「すぐ隣なのにどうしてあんなに違うのでしょうね。」
理科教育が専門だと聞いていた校長先生に、尋ねた。
 「隣りと言っても、やはり日当たりも違うし、生育条件が異なるんですよ。
だから、紅葉のスピードも変わるんだよ。」

 明快な回答に私は納得した。
バスの中でのイチョウのやり取りはそれで終わった。

 ところが、翌日のことだ。
授業中だった。
 教室の前方ドアが突然ノックされた。

 授業を中断し、私がそのドアを開けた。
驚いたことに校長先生が立っていた。
 何か重要な知らせのように思い、
そのまま廊下に出て、教室のドアを閉めた。

 校長先生は、やや緊張した顔をして、
私をのぞき込んで言った。

 「昨日、バスの中で話したイチョウのことだけどね、
あの違いは、日当たりなどではなくて、
あれは、個体差です。
 ほら体の大きい子もいれば、
小さい子もいるのと同じです。
 訂正しておきます」。

 そこまで言うと、私の返事を待たず、
校長先生は早足でその場を去っていった。
 唖然としたまま、私は廊下で後ろ姿を見送った。

 彼にとって、きっと重大な間違いだったのだろう。
でも、私には授業中のドアをノックするまでの重大さが、
今も、どうも・・理解できない。


 ② 「エッ! キバナコスモスも・・!」

 校長として最後に赴任した小学校には、
幼稚園が併設されていた。
 なので、私は園長を兼務した。

 校庭を挟んで、校舎と幼稚園舎があった。
日に何度か校庭を横断して、校長と園長の職を勤めた。
 時には、校長室の窓から、校庭越しに幼稚園の様子を伺った。

 赴任した最初の年、春の終わり頃だった。
園児が帰宅した午後、園舎を囲んだ花壇で、
先生と職員が何やら土いじりをしていた。
 その作業は、2,3日続いた。

 校長室からそれを見ながら、
あの花壇も幼稚園では大事な学習の場になるのだろうと、
思った。

 花壇は、次第に緑を増した。
そして、黄色い花を数多く咲かせたのは、秋になってからだった。
 園舎をぐるっと可憐な黄色が彩り、華やかだった。
春の先生たちの頑張りを賞賛したかった。

 なので、幼稚園ではリーダー格の先生に、
花壇の前で、そっと尋ねた。
 「ねえ、この黄色い花の名前、なんて言うの?」。
相手が、悪かった。
 彼女は、目を丸くして私を見た。

そして、
「えっえ~っ、園長先生って・・、
キバナコスモスも知らないんですか!」。
 「うん」。
私は、うなずくしかできなかった。

 彼女は、追い打ちをかけた。
「ホントに、知らないんですかぁ。キバナコスモス!」。
 彼女の驚きは尋常ではなかった。

 それどころか、私は恥ずかしい思いと、
屈辱を味わっていた。
 無知をストレートに批難されたように思い、
傷ついてしまった。

 だから、幼稚園の先生たちには、
キバナコスモスを賞賛しないまま、押し黙った。

 今年も、ご近所の花壇の一角に、
キバナコスモスを見つけた。
 とたんに、『・・・も知らないんですか!』が、
脳裏を走った。
 やっぱり胸が痛んだ。




    今朝 有珠山に初冠雪
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