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勤め先がどこかと聞かれて、得意げに会社の名を言う人もいる。逆に「ごく普通のサラリーマンです」などと口の中でぼそぼそ語る人もいる。世間に名が知れた有名企業なら、相手は「なるほど」と納得した表情になり、聞いたことがない社名だと顔に疑問符が浮かぶ。
明治初期に富岡製糸場で働く工員たちは、どうだったか。工場を案内するボランティア男性によれば「全国の若い女性のあこがれの職場だった」という。フランス人教官から洗練された習慣やマナーを学び、官営らしく待遇もよかったそうだ。ここで技能とハクをつけ、他の会社に指導役として転出する工員もいたという。
ワインを飲む外国人の姿が「生き血を吸われる」と恐れられた時代である。それでも日本中から四百人以上が集まった。見知らぬ土地に飛び込んだ本人も、娘を送り出した家族も勇気が要ったに違いない。いま風にいえば「ブラック企業」の風評がもし広がれば、国運を賭けた官営事業は失敗に終わっていたかもしれない。
その「富岡」が世界文化遺産に登録される見通しとなった。海外に名が知られ、来訪者も増えるだろう。たしかにレンガ造りの工場は立派だが、建物や機械など「モノ」だけを見学するのなら物足りない。工業化への道の裏側には、悩みながら改革に挑んだ地域社会と人がいる。変革期の物語を伝える名所になってほしい。