精神世界と心理学・読書の旅

精神世界と心理学を中心とした読書ノート

光を放つ子どもたち(トーマス・アームストロング)

2010-04-11 09:30:09 | 精神世界全般
◆『光を放つ子どもたち―トランスパーソナル発達心理学入門』(日本教文社)

子どもはただ「肉体から上昇して」育つという方向からのみ理解されるべきではない。同時に「スピリットから下降して」この世界にやってきたのだ。そうした一面を無視すれば、子どもについての大切な真実が完全に見落とされてしまう。この本は、従来振り見られなかった、子どものトランスパーソナルな次元に初めて光を当てたという意味では重要な本である。  

子どもの成長は、基本的に生物学的・生理学的な概念を用いて記述することができる。こうした方向は、現代の発達心理学によって詳しく研究され、実証もされてきた。著者は、この方向を「肉体から上昇する」発達と呼ぶ。  

これに対し、子どもの発達には第二の方向がある。それは第一の成長過程とならんで存在し、それに影響をおよぼし、究極的にはそれを支えてさえいる。この隠れた過程を著者は、「スピリットから下降する」と呼ぶ。それは、広く深く包括的な高次の非物質的レベルから、狭く限定された物質的・肉体的レベルへと下降するプロセスである。  

これら二つの発達の方向は、どちらも不可欠である。「肉体から上昇する」部分を欠くなら、子どもはもはや「子ども」とは呼べない。一方、「スピリットから下降する」部分がなければ、子どもから心の深遠な次元が抜け落ちてしまう。人生に方向性と一貫性をもたらすのは、この次元である。それによって子どもは、人生の目的、使命、方向感覚などを得る。

「スピリットから下降する」方向をこのような比較によって明確に語られると、あらためていろいろと気づかされる。私自身、この物質的次元、肉体的な次元だけでは、生きるということの不思議を何も説明できないと強く感じる。それは、まさに「スピリットから下降する」方向の存在を信じるということだ。「スピリット」は、仏性と言い換えてもよい。もちろん、子どものなかにもそれは隠されている。 だからこそ時に子どもは、光輝く高次の神秘体験をすることがある。この本にはそのような体験の事例がいくつも収集されている。  

ところでケン・ウィルバーは、こうした理解を「前/超の虚偽」として批判するであろう。「前/超の虚偽」とは、大人の真に超個的(トランスパーソナル)な体験を誤って幼児的起源へ引き降ろしたり、あるいは逆に幼児的な前個(プレパーソナル)レベルの合一体験を超個的地位へ格上げすることである。たとえば、宗教感情のすべてを幼児的退行状態へと還元するフロイトは、前者の間違いを犯した。後者の間違 いは、ワーズワース、ユング、ベルグソンなどに見られるという。  

著者は、人間の発達のなかに含まれる「前」レベルと「超」レベルを正しく区別 する必要を認める。しかしウィルバーは、スピリチュアルな世界が子どもの意識のなかへ下降してくる可能性をあまり深く考慮していないと批判する。母親との一体感のような原始的で前意識的な体験がスピリチュアルな意識と混同されるべきでは なく、また大人の真の神秘体験が前個的な位置に還元されるべきではない。しかし同様に重要なのは、幼児や子どもの体験する真に神秘的な体験を、何か低い次元に還元してはならないということだ。  

私は、基本的に著者の主張に賛成である。子どもの臨死体験や子ども時代の至高体験の報告に数多く接すれば、「スピリットから下降する」方向が厳然と存在することを認めざるを得ない。たとえば、サイト「臨死体験・気功・瞑想」の「覚醒・ 至高体験の事例集」に収めた

デイビッド・シュパングラーの事例

を参照してほしい。 わずか七歳のときの「覚醒の体験」である。

「スピリットから下降する」方向をも無視しない理論はまた、子どもたちが生まれる以前の魂の記憶を時に保持していたり、甦らせたりする可能性も説明しうる考え方である。アカデミックな立場の人々は、容易に認めないだろうが、子どもに秘められた高次の精神性を正しく捉えるためには是非ともこうした前提に立たざるを得 ない。こうした側面を視野に含まない発達心理学も、またトランスパーソナル心理学も、真理の反面を見失うだろう。


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