原作:市川信夫
監督:近藤明男
脚本:篠原高志
音楽:沢田完
出演:鈴木理子、高橋惠子、藤谷美紀、高橋長英、中村敦夫、水野久美、高松あい、あおい輝彦、遠藤憲一、遠野凪子、平田満、尾崎千瑛(他)
<物語前半の粗筋>
昭和10年の新潟県頚城郡。幼くして盲目になってしまったふみ子は、8歳の時に高田盲学校の教師・高野りんと出会い、点字の存在を知る。しかし貧しいふみ子には、盲学校へ通うだけの余裕は無い。本家の大旦那・善吉に必要な金額を用立ててくれるよう頼んでみるが、逆に働いてはどうかと持ちかけられる。新潟県高田の按摩屋が、ふみ子を弟子にしてくれるというのだ。ふみ子の母・チヨは、ふみ子を盲学校に通わせようと奮起するが、その矢先、病に倒れてしまう。 ふみ子は母を助けたい一心で、雪の中を一人、善吉を訪ねるのだった。
行商の古川に手を引かれ、ふみ子が弟子入りしたのは高田の按摩・笹山タカ。 来る日も来る日も厳しい按摩の修行。真っ赤に腫れあがる、ふみ子の小さな手。 辛い修行の中、心の支えになったのは、あの日海で拾った小さな巻貝。耳に当てれば、潮騒が響き、大好きな海を感じる事が出来る。たくさんの温かい人々に巡り会い、ふみ子は一人前の按摩へと成長してゆく。
そんなある日、ふみ子はかつて点字の存在を教えてくれた高野りんと運命的に再会。タカに内緒で盲学校に通い、点字を習い始めるふみ子。 「字が読める、目が見えなくとも教科書が読める!」 その喜びは、一旦消えかかっていたふみ子の向学心に火をつけた。皆が寝静まったあと、暗闇でヘレン・ケラー自伝に小さな指を這わせ、未来への大きな道標を得る。
しかし、運命はそんなふみ子に、思いがけない試練を与えるのだった…。
現在公開中の映画 “ ふみ子の海 ” 。原作は市川信夫の同名小説で、彼は小学校教員、盲学校・養護学校の教師として人間の原点を学び、また、児童文学に志して坪田譲治に師事したとの事。
注)ネタバレの感想なので、これから鑑賞したいと思っている方は、この先を読まないで下さい。
殊更この映画は、ふみ子を演じた鈴木理子のひたむきさと逞しさが光っている。撮影当時10歳であった彼女の、役柄に素直に心を注いでいる様子は鑑賞する者の心を掴み、その献身さが本作を一等秀でさせていると言っても過言ではないだろう。健気でもあり凛々しくもあるふみ子の姿を見事に演じていて、非常に好感が持てる。例を挙げれば「海の音を持って歩く」という台詞が前者を、「舌で花見するんだ」という台詞が後者を如実に物語っていて、特に後者では陸軍少尉相手に発するその言葉と共に表情が気高く、ふみ子の意志の強さを決定付けている。
また、按摩の師匠・笹山タカを演じた高橋惠子も名演。ふみ子に厳しく接しながらも、完全な冷徹人間ではなく温かみを持った人物だという事が登場序盤から伝わってくる。物語が進むにつれて優しさを帯びてくる加減が実に上手い。
母の元を離れて本当は心細いはずであろうふみ子と、自身もまた盲目で苦労してきたタカの遣り取りは、まるでもう1組の親子のように映る。「目の見えない者同士が騙し合ったら何を信じるんだい!」というタカの台詞が、それを端的に表しているのだ。こうした師匠と弟子の関係は、今では失われつつあるのかもしれない。
ふみ子の姉弟子・サダは、劇中同じ台詞を2回言う。「オラ、何でして生まれてきたんだろう」、と。特に2度目の、病院の床でそれを口にした直後に「お母ちゃん」と発して息絶えてしまう姿はあまりに痛い。
滝壺薬師の住職である慈光は、本堂に群がって読経する盲目の者の前で「自分の無力さを突き付けられている」と、無念さを口にする。昭和初期、貧しさ故に満足に母乳が出ず、結果、子供の栄養失調が盲目に至ってしまったというケースがこれ程までに多くあったという事を、恥ずかしながら今回初めて知った。サダは失踪してしまったふみ子を捜そうとして命を落としてしまう訳だが、仮にそういう運命に至らなかったとしても、貧しさ(=盲目)という出発点が彼等彼女等の前に厳然として立っているのだから理不尽極まりない。
盲学校の教師・高野りんが、ヘレン・ケラーに会いたいというふみ子の気持ちをタカの前で代弁し、どうか1日だけ按摩を休ませて欲しいと懇願する場面がある。「サダだって生きてりゃヘレン・ケラーに会いたかったろうよ」と言うタカ。しかしそう口にしながらも彼女たちの願いを聞き入れ、「はぁ、煩わしい」と言いながら座敷を立ち去ったタカと、その直後に号泣するもう1人の姉弟子・キクの姿にはどうしたって泣けてくる。ふみ子が涙を見せていないのに、私たち観客が、だ。何故ならそこに至るまでに、ふみ子がどれだけの困難にぶつかり、どれだけの人に助けてもらったかを、本編の流れを受けながら私たちも投影的に縷々と経験しているからだ。
しかし欲を言えば、ふみ子が按摩の修行へ出ると決心した際の、母・チヨの葛藤を描いて欲しかった。本当ならば盲学校へ行かせてやりたかったのに貧困さが娘の学業を絶たせずにはいなかったからで、その辺の親としての辛さ・無念さが描かれていれば尚、それを乗り越えよう(母を助けよう)とするふみ子の逞しさが光って映っただろう。
更に言えば、題名が “ ふみ子の海 ” なのだから、主人公と海にまつわるエピソードをもっと挿入して欲しかったとも思う。そうすれば、ふみ子が持ち歩いていた貝殻も、小道具として更に活きただろう。
演出も音楽も声高に叫ぶ事なく、かといって終始淡々としている訳でもない。ふみ子にいつも寄り添うかのように流れるテーマ音楽は壮大で、しかし大袈裟ではなくしみじみと響く。まるで、ふみ子が携えていた貝殻から聴こえる潮騒のように。
音楽を担当した沢田完は、山本直純のもとでアレンジャー・オーケストレーターを務めたとの事。
点字も按摩も、どちらも指先の細かな神経を使う行為。ふみ子にとってのその2つの関係性が掘り下げられて描かれているのかどうか、原作が読みたくなった。
世知辛く悲惨な事件が後を絶たない現代にあって、映画に限らずこうした作品はもっと多く生み出されるべきだろう。
実話が基になっているからでもなく、登場人物がハンデを負っているからでもなく、ましてや御涙頂戴的な演出があるからでもなく、切々と訴えかけてくるものが真摯に息衝いているからこそ、心の底まで感銘できるのだ。
労りとは何であろうかと考えさせてくれる映画でもあり、子供時代の麗姿を海面に揺らぐ光のように甦らせてくれる映画でもある。
監督:近藤明男
脚本:篠原高志
音楽:沢田完
出演:鈴木理子、高橋惠子、藤谷美紀、高橋長英、中村敦夫、水野久美、高松あい、あおい輝彦、遠藤憲一、遠野凪子、平田満、尾崎千瑛(他)
<物語前半の粗筋>
昭和10年の新潟県頚城郡。幼くして盲目になってしまったふみ子は、8歳の時に高田盲学校の教師・高野りんと出会い、点字の存在を知る。しかし貧しいふみ子には、盲学校へ通うだけの余裕は無い。本家の大旦那・善吉に必要な金額を用立ててくれるよう頼んでみるが、逆に働いてはどうかと持ちかけられる。新潟県高田の按摩屋が、ふみ子を弟子にしてくれるというのだ。ふみ子の母・チヨは、ふみ子を盲学校に通わせようと奮起するが、その矢先、病に倒れてしまう。 ふみ子は母を助けたい一心で、雪の中を一人、善吉を訪ねるのだった。
行商の古川に手を引かれ、ふみ子が弟子入りしたのは高田の按摩・笹山タカ。 来る日も来る日も厳しい按摩の修行。真っ赤に腫れあがる、ふみ子の小さな手。 辛い修行の中、心の支えになったのは、あの日海で拾った小さな巻貝。耳に当てれば、潮騒が響き、大好きな海を感じる事が出来る。たくさんの温かい人々に巡り会い、ふみ子は一人前の按摩へと成長してゆく。
そんなある日、ふみ子はかつて点字の存在を教えてくれた高野りんと運命的に再会。タカに内緒で盲学校に通い、点字を習い始めるふみ子。 「字が読める、目が見えなくとも教科書が読める!」 その喜びは、一旦消えかかっていたふみ子の向学心に火をつけた。皆が寝静まったあと、暗闇でヘレン・ケラー自伝に小さな指を這わせ、未来への大きな道標を得る。
しかし、運命はそんなふみ子に、思いがけない試練を与えるのだった…。
現在公開中の映画 “ ふみ子の海 ” 。原作は市川信夫の同名小説で、彼は小学校教員、盲学校・養護学校の教師として人間の原点を学び、また、児童文学に志して坪田譲治に師事したとの事。
注)ネタバレの感想なので、これから鑑賞したいと思っている方は、この先を読まないで下さい。
殊更この映画は、ふみ子を演じた鈴木理子のひたむきさと逞しさが光っている。撮影当時10歳であった彼女の、役柄に素直に心を注いでいる様子は鑑賞する者の心を掴み、その献身さが本作を一等秀でさせていると言っても過言ではないだろう。健気でもあり凛々しくもあるふみ子の姿を見事に演じていて、非常に好感が持てる。例を挙げれば「海の音を持って歩く」という台詞が前者を、「舌で花見するんだ」という台詞が後者を如実に物語っていて、特に後者では陸軍少尉相手に発するその言葉と共に表情が気高く、ふみ子の意志の強さを決定付けている。
また、按摩の師匠・笹山タカを演じた高橋惠子も名演。ふみ子に厳しく接しながらも、完全な冷徹人間ではなく温かみを持った人物だという事が登場序盤から伝わってくる。物語が進むにつれて優しさを帯びてくる加減が実に上手い。
母の元を離れて本当は心細いはずであろうふみ子と、自身もまた盲目で苦労してきたタカの遣り取りは、まるでもう1組の親子のように映る。「目の見えない者同士が騙し合ったら何を信じるんだい!」というタカの台詞が、それを端的に表しているのだ。こうした師匠と弟子の関係は、今では失われつつあるのかもしれない。
ふみ子の姉弟子・サダは、劇中同じ台詞を2回言う。「オラ、何でして生まれてきたんだろう」、と。特に2度目の、病院の床でそれを口にした直後に「お母ちゃん」と発して息絶えてしまう姿はあまりに痛い。
滝壺薬師の住職である慈光は、本堂に群がって読経する盲目の者の前で「自分の無力さを突き付けられている」と、無念さを口にする。昭和初期、貧しさ故に満足に母乳が出ず、結果、子供の栄養失調が盲目に至ってしまったというケースがこれ程までに多くあったという事を、恥ずかしながら今回初めて知った。サダは失踪してしまったふみ子を捜そうとして命を落としてしまう訳だが、仮にそういう運命に至らなかったとしても、貧しさ(=盲目)という出発点が彼等彼女等の前に厳然として立っているのだから理不尽極まりない。
盲学校の教師・高野りんが、ヘレン・ケラーに会いたいというふみ子の気持ちをタカの前で代弁し、どうか1日だけ按摩を休ませて欲しいと懇願する場面がある。「サダだって生きてりゃヘレン・ケラーに会いたかったろうよ」と言うタカ。しかしそう口にしながらも彼女たちの願いを聞き入れ、「はぁ、煩わしい」と言いながら座敷を立ち去ったタカと、その直後に号泣するもう1人の姉弟子・キクの姿にはどうしたって泣けてくる。ふみ子が涙を見せていないのに、私たち観客が、だ。何故ならそこに至るまでに、ふみ子がどれだけの困難にぶつかり、どれだけの人に助けてもらったかを、本編の流れを受けながら私たちも投影的に縷々と経験しているからだ。
しかし欲を言えば、ふみ子が按摩の修行へ出ると決心した際の、母・チヨの葛藤を描いて欲しかった。本当ならば盲学校へ行かせてやりたかったのに貧困さが娘の学業を絶たせずにはいなかったからで、その辺の親としての辛さ・無念さが描かれていれば尚、それを乗り越えよう(母を助けよう)とするふみ子の逞しさが光って映っただろう。
更に言えば、題名が “ ふみ子の海 ” なのだから、主人公と海にまつわるエピソードをもっと挿入して欲しかったとも思う。そうすれば、ふみ子が持ち歩いていた貝殻も、小道具として更に活きただろう。
演出も音楽も声高に叫ぶ事なく、かといって終始淡々としている訳でもない。ふみ子にいつも寄り添うかのように流れるテーマ音楽は壮大で、しかし大袈裟ではなくしみじみと響く。まるで、ふみ子が携えていた貝殻から聴こえる潮騒のように。
音楽を担当した沢田完は、山本直純のもとでアレンジャー・オーケストレーターを務めたとの事。
点字も按摩も、どちらも指先の細かな神経を使う行為。ふみ子にとってのその2つの関係性が掘り下げられて描かれているのかどうか、原作が読みたくなった。
世知辛く悲惨な事件が後を絶たない現代にあって、映画に限らずこうした作品はもっと多く生み出されるべきだろう。
実話が基になっているからでもなく、登場人物がハンデを負っているからでもなく、ましてや御涙頂戴的な演出があるからでもなく、切々と訴えかけてくるものが真摯に息衝いているからこそ、心の底まで感銘できるのだ。
労りとは何であろうかと考えさせてくれる映画でもあり、子供時代の麗姿を海面に揺らぐ光のように甦らせてくれる映画でもある。